囚心刑
隣部屋の老人が死んだらしい。
別段仲が良かったわけでもなく、御歳七十の老体であったのだから、死んだところで不思議でもない。
隣室と言うこともあり、顔を合わせる機会が無かったとは言わないが、それでも泣いて悼むような出来事でもないだろう。
それに、親死子死孫死と言う言葉がある。
多少大雑把に言うと、年功序列、歳をとった者から死ぬのは道理である、というような意味合いの言葉だ。 彼の死は自然なものであり、運命の流れに沿った結末なのかもしれない。
ただ、その言葉通りであるならば、自分はまだ当分死ぬ事はないだろう。
しかし、と。 ここでこのような接続後を入れねばならぬ身を恨めしく思いながら、この場は語らねばならない。
次に死ぬのは自分かもしれない、と。
ふと見上げた格子窓から見える外の景色は、なるほど綺麗な秋晴れに、薄い雲がよく映えるが、それとは別にあと一つ、特筆せねばならぬものが写り込んでいる。 それは曇天を無理矢理に固めて作り上げたかのような塀である。
雲と空、それに塀、ここから見える外の世界はそれだけであり、今後も変わることはない。 もっと言えば、この先自分がそれ以外の景色を見ることもないのも分かっていた。
今の私に最も似合いの言葉を送るなら、それはそのまま私の身分であろう。
即ち『囚人』と。
その単語になんの誇張もなく、またなんの間違いもない、この単語を見て誰もが想像するものが私の身分である。
だが、間違っても囚われの姫君などではない。 そのシチュエーションで言うならば、捕らえていた方が法的に裁かれた上で成る身分の方である。 と、回りくどい言い方をせずともすぐさま分かるのだろうが。
そしてここまで言えば私のいるここが何処であるのか、いや、どのような場所であるのかは説明などせずとも分かろうというもの。
しかし、敢えて付け加えさせてもらうと、ここは所謂刑務所である。 正確には刑務所ではないのだが、似た様なものだと考えてもらえればいい。
さて、ではここで話を最初に戻そう。
即ち隣室の老人が亡くなったところである。
私は隣室の老人が亡くなった事に、泣いて悼む事はない、などと言ったが、あれは幾らかの間違いを含んでいる。 泣いて悼む事はない、ではなく、『泣いて悼む余裕は無い』である。
自由時間に友人から老人の死を知らされた時、私の心を占領したのは恐れと焦り、それと後悔であった。
それは酷く混乱したもので、その時の私の表情が一体どうなっていたのか、想像し難い。 後で友人に聞けばわかるのであろうが……。 いや、やはりいい。 自ら恥をかくこともあるまい。
仮にその時の私が無表情であったにしろ、やはりそれは表面的なものであり、その実、心の整理が追いついていなかった事には変わり無いのだ。
その根本にあるのは言わずもがな、『死』であるが、外の世界で言うところの死とは多少異なる。
心肺停止、脳死、etc.etc……
死の定義と言う意味での差はないのだが、それがいつ誰に訪れるのか、それが分からない。 いや、自分たちが何時か死ぬことは分かっている。 分からないのはそれが『何時』であるかだ。
そう言うと、いやいや、塀の外であろうと何時何処で死ぬのかは分かりませんよ。 そう返されるのだろうが、では逆に問う。
貴方達はいつも死を意識しているのか、と。
断言できる。 そんなはずはない。
ふとした拍子、例えば何かしらそういう映画を見た後など、そんな感傷に浸ってしまい、自分は何時死ぬのだろうかなどと胸の内でも問うてみるのかも知れないが、少なくとも余程の変人でない限りは自分の死からは目を背け、見て見ぬ振りならぬ、見ず見た振りを貫くだろう。
それができるのがどれだけ幸せな事なのかを知らずに。
だが、ここではそれが許されない。 誰もが何時来るかも知れぬ自らの死に怯えながら、或る意味自由な暮らしを送っている。
彼等は、いや、他人事の様な言い方は許されまい。 私達は、死刑囚である。
だから、此処は塀があって鉄格子が在るが、刑務所ではなく拘置所なのである。
そんな細かいこと、などと思われるかもしれないが、これはこれで大切な事だ。
懲役などで、まだしも何時か外に出られる刑務所の人達と、死刑にまで処された私達を同列に扱うことなどまさか出来まい。
どちらも罪を犯したということに変わりは無いが、その重さには違いがある。
一緒くたに扱われる気はないし、彼方も同じように思うだろう。
公に殺されるに値するほどの罪を犯した人間などと、同列扱いされるのは誰であれ嫌なはずだ。
ともかく、私達が死刑囚である以上、いつかはその刑が実行される……のだが、それは昔の話だ。
詳しい知識は有していないが、確か六十日以内に刑を執行するのだったか。 いや、あれは目安のようなものだとも聞いたことがあるけども。 どちらにしろ、日取りを決め、正しく当を得て人を殺すのは過去の事であると、そう言いたいのである。
今はもっと簡単に、いっそ清々しいまでに簡素な流れで刑は執行される。
死刑が決まった囚人は刑が決定したその時、何とかという薬品を注射するのだが、曰くそれが人道的であるらしい。
なんでも、その薬品を注射されても、その時は別段変化は無いのだ。
薬は遅効性のもので、その上個人によって効果が現れるまでの期間や、症状が変わってくるのだ。
或る者は注射をして二日後に全身から血を流して死んだ。 また或る者は刑を執行して四年後、眠るように息を引き取った。
いつ、どのように死ぬのかは注射を打つ者にも分からないのだ。 直前まで元気に生きていた者が、突然死ぬ。 なんの脈絡もなく、何の伏線もなく、死ぬ。
この刑が制定されたのは、曰く人道的であるからだという。
その裏には或る死刑囚の話がある。
その死刑囚は殺人を犯したことを除けば、普通の人間であった。 シリアルキラーなどの類ではなく、刑を勧告された時も狂っていた様子はない。
そんな彼が遺した日記には、迫る死の恐怖が書かれていた。
自分の余命がきっかりと設定され、その時に向かって進んでいく恐ろしさが、簡素に、時には支離滅裂になりながら、記されていたのだ。 それがいかほどの恐怖であるか、想像に難くない……事もなく、霞のようにしか捉えられないが。
少なくとも、その霞のようにしか感じていないものでも、相当な恐怖であった。
確かに、その男に殺された者も、何で殺されたかまでは分からぬが、自分が死ぬであろうことを予測して、相当恐れ慄きながら死んだのだろう。
だが、それとこれとは比べるべくもない。
自分がいつ死ぬか分かりながら、それに対する覚悟が持てるなど、そんな人間がいてたまるか。
小説の主人公ならば、護りたい人の為などと言って窮地に身を踊らせるが、だからこそ主人公なのであり、それを普通の人間に求めるのは酷である。
死ぬのは怖い。
ましてや、それをはっきりと目の前に突きつけられ、その上逃げられぬのに時間を与えられるのだ。
人に殺されるのは突然の事であり、その一瞬死の恐怖を味わうだけだが、それが続くのである。
どうして、そこに覚悟がもてよう。
男が刑を執行する部屋に日記を持って行った訳はなく、最期の瞬間に何を思ったかは分からないが、男は執行室で十分間の猶予を願ったという。 その時間を彼は泣いて過ごし、この世を去った。
些か囚人に肩入れするような語り口だが、そこはそれ、同じ死刑囚であるという事で情が移るのは許して欲しい。
とにかく、その様な無駄な恐怖を与えるのは人道的に適切でない、そういう理由で今に至る。
詰まりは、自分の死期をはっきり知るからいけないのであり、何時何処でどのように死ぬかも分からないのならば、無駄な恐怖も無くなると言うもの、それならば塀の外に居る者と絶対に死ぬという以外の条件は等しく、問題は無いだろうと。
遺族はすぐさまにでも殺して欲しいと願うだろうが、法廷は遺族の願いを聞くところではないのだし、そういう意味での問題もない。
四方丸く収まる、少なくともそう見える方法であった。
ただ、言わせてもらえるならば、これはこれで怖い、死刑囚が何をと言われるかもしれないが、怖いものは怖い。
死ぬのがではなく、生きるのが、怖い。
何時切れるかもしれぬ細い糸の上を、目隠しも無しに歩いている様なものであり、それが怖い。
これが仮に塀の外ならば、そもそも自分がそんな細い糸の上を歩いているなどと露ほども知らずに生きていける。
同じ事を繰り返すようだが、それがどれほど幸せなのかなど、今になって分かるのだ。
と、まぁ、死について思考したところで、少し眠るとしよう。 丁度心地よい疲れも感じる。
残り短いとも長いとも知れぬ余生を有り難く思いながら眠れるのは、確かに死期が決まっているよりは良いのだろう。
少し眠ったら、友人と老人の話でもしてみるのもいいかもしれない。
だから、今は少しだけ……
この小説は『リ・セット』と同じく、著者の恐怖から生まれています。
前回は、進まない日々、終わりのない停滞を題材に、今回は仮に自分の死期が完全に分かっていたら、それがどんなに恐ろしいであろうという感情を。
実際自分がいつ死ぬのか分かっていたら、僕は泣き喚いて何もする余裕はないです。 きっと、それはもう哀れな程に往生際悪く駄々をこねるでしょう。
決して、死ぬ事に覚悟は持てない。