兎原くんと亀野さん
〈プロローグ〉
「このおはなしはうそっぱちです」
女の子が言いました。
たいそうご立腹な様子の彼女はどうやらイソップ童話の「うさぎとかめ」を読んでいたみたいです。
いったいなにがあったのでしょう?
すると、「どうして?」となりで女の子と一緒に絵本をながめていた男の子が不思議そうに聞きました。
「だって、ほんとうは……かめさんはうさぎさんがだいすきなんです。
だから、かめさんはぜったいにうさぎさんをおいっていったりしないんです」
女の子が泣きそうになっています。
男の子はあわててうんうんと頷きました。
そして男の子は言います。
「じゃあ、ほんとのおはなしきかせてよ」
* * *
兎原くんと亀野さんはいつも一緒。
二人は幼稚園のときからの幼なじみなのです。
かけっこの上手な兎原くんとおっちょこちょいな亀野さん。
まるでイソップ童話のうさぎとかめのようとみなが口をそろえて言いました。
それは、小学校からの帰り道にある公園で道草をしていたときのこと。
兎原くんがポツリと言ったのです。
「かめのさんとずっと、一緒がいいな」
亀野さんは言います。
「わたしも、うさぎはらくんとずっとずっと一緒がいいです」
二人はいつになく真剣な様子でゆびきりをかわしました。
あまりに無邪気で優しく、はかない約束でした。
二人が中学校にあがる年になる、走るのが大好きだった兎原くんは陸上部のあるとなり町の中学校へ進学しました。
会いに行けない距離ではありませんでしたが二人とも簡単には会えなくなりました。時間がたつほどに二人の距離もどんどん遠くなります。
陸上部に入った兎原くんはその天性の才能を開花させ、出場した大会では素晴らしい成績をたくさん残しました。
一方の亀野さんは兎原くんと離れてからあまり人と喋らなくなりました。仲のよい友だちも彼女と距離を置くようになっていました。
そうして亀野さんはひとりぼっちになりました。
ずっと一緒がいいなと笑ってくれた兎原くんも、もうとなりにはいません。
亀野さんは兎原くんに会いたくて会いたくてたまりませんでした。
そして今年の春。
偶然は二人をきまぐれにひきよせました。
兎原くんと亀野さんは期せずして同じ高校に進学ていたのです。
染井吉野の巨木がかこぼれ落ちそうなほどの桜の花を咲かせ、春風とたくさんの生徒を出迎えています。
淡々とした入学式が終わり長いホームルームから解放された後のことです。異常に熱の入った部活動の勧誘合戦を切り抜けた亀野さんは、二つの校舎をつなぐ渡り廊下を歩く兎原くんを見けました。
風にのって花弁が雪のように舞い込んできます。亀野さんは遠ざかってゆく兎原くんの背中を必死で追いかけます。
カツン、カツン、
花弁の嵐のなかでふと兎原くんが消されてしまいそうで、またどこか遠くに行ってしまいそうで、亀野さんは無性にこわくなったのです。
カツン、カツン、カツン……
「兎原くんっ」
カツン、
亀野さんの呼びかけに兎原くんは長く伸びた影とともに立ち止まりました。
カツン、カツンという金属的な音も止まります。
「亀野さん?」
振り返った兎原くんは亀野さんの知らない表情をして、右手で銀色に光る杖をついていました。
「元気だった?」
兎原くんは笑っていました。
それは穏やかで、どこまでも空虚な笑みでした。
亀野さんは油を注し忘れたブリキの人形のようにぎこちなく頷きます。
兎原くんともっと話したいのに、会いたかったよと笑いたかったのに、いつまでたっても言葉が出てきませんでした。
「おれ、もう走れないんだ。
本当に『うさぎとかめ』のうさぎになっちゃった」
兎原くんはそう言ってまた笑います。
その笑顔を見るのが苦しくて、苦しくて胸がペシャンコにつぶれそうでした。
「……わたしが会いたかったのはイソップ童話のうさぎさんでも、足の速い兎原くんでもありません。走れなくても、いまは心から笑えなくても兎原くんは兎原くんなんです。
ずっと、兎原くんに会いたかったです」
亀野さんはいままで兎原くんが見たことがないほど必死でした。
兎原くんはすこし驚いたあと、ちょっと泣きそうな顔でこう言いました。
「おれも、亀野さんに会いたかったよ」
* * *
久しぶりに二人で帰る新しい帰り道。
亀野さんがは兎原くんのブレザーの裾をこっそり掴んで歩きます。
「重い」
突然、兎原くんがボソッとつぶやきました。
「ええっ?!」
まさか、裾を掴んでいたことを気づかれていたとは知らない亀野さんはとてもびっくりして兎原くんのブレザーからパッと手を離しました。
「それ、ちっさいときからの亀野さんの癖」
「し、知ってたんですか?」
「もちろん」
気づかれてないとでも思ってたの?と兎原くんが言うので亀野さんは恥ずかしくて逃げ出したくなりました。
幼いころ足の速い兎原くんは歩くのも亀野さんよりずっと速かったので亀野さんは置いていかれまいと必死でした。
そうするうちにいつの間にか亀野さんは兎原くんと歩くとき服の裾を掴むのが癖になっていたのです。
「もう、置いていけないからさ。
こうすればいんじゃない?」
そう言って、兎原くんは逃げようとする亀野さんの右手をつかまえました。
「兎原くんは、ずるいです」
兎原くんの左手は思っていたよりもずっと大きく、あのときと変わらない温かさで亀野さんの手を優しく包みます。
亀野さんもその手をそっと握りかえしました。
それは、しあわせなある日の午後のことでした。
〈エピローグ〉
「そうして、うさぎとかめは仲よく手をつないで歩きはじめましたとさ」
女の子はまんぞくそうに物語をしめくくり、眠たげに目をこすりました。
スヤスヤとやすらかな寝息をたてて眠る女の子は、となりで眠る男の子の服の裾をぎゅっと掴んでいます。
この物語が「ほんと」になるのはまだすこしさきのこと。
おわり
前作に続いて二作目の投稿となりました。
雨間みゆと申します。
今度はじめて恋愛のおはなしに挑戦しました。……が、なんとも薄味で申しわけありませんでした。ともあれ、ここまで読んでくださった方本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。