チョコバーと未来と見えない鎖 ※
ブレイズと別れた白山はいったん部屋へと戻り、メディカルキットといくつか品物を手に取ると、改めて地下牢に向かった。
地下への入り口に立つ兵士へ声をかけた白山は、食事の残し具合や牢での態度について少し質問をする。
食事はきちんと食べており、おとなしくしているとの返答を聞き少し安心した。
「それで、あれから下手な手出しはしていないだろうな?」
少しだけ厳しい眼光を兵士に向けると、一瞬息をつまらせるように硬直し、緊張した面持ちでそれに答える。
「は、はい。 牢内には、一切出入りしておりません!」
それを聞いた白山はゆっくりと頷くと、「よろしい」 と言葉短く答えながら兵士の肩に手を置き、地下への階段を下って行く。
白山が通り過ぎた後、背後から大きく息を吐く声が聞こえたが、白山は構わず階段を下る。
地下牢と言っても構造的には半地下のような造りで、小さな格子が天井近くにいくつか付けられており、明かり取りと換気口を兼ねている。
コツコツと足音を響かせながら牢に近づくと、見張りの兵士が姿勢を正して白山を出迎える。
リオンに乱暴を働いた兵とは違い、見たことのない顔だった。
「入れてくれ」
リオンの入っている牢を顎でしゃくり、そう伝えると小さく頷いた見張りは、腰の鍵束から鍵をより分けて鍵を探し、牢の潜戸を開錠した。
白山が中にはいったのを確認してから、再び鍵を閉めてから入口近くへと戻っていく。
牢の中でリオンは簡素なベッドに座り、ひざを抱えたまま入って来た白山へ、感情の感じられない視線を向けていた。
「やあ、具合はどうだ?」
備え付けの丸椅子に腰掛けた白山は、表情を和らげてリオンに語りかける。
その言葉には返答せず、少し目を細めたリオンは小さく呟く。
「血の、匂いがする……」
はたと、言われてから白山はそう言えば昨日の戦闘後、湯に入ろうと思っていたが忙しさと疲労感から、それを忘れていたことに気づいた。
もし時間があれば、夕方の話の前に身体ぐらいは拭いておきたいなと、白山は思い立つ。
「ああ、君…… いや、リオンのお陰で無事にグレース様の救出に成功した。ありがとう」
白山の言葉を聞いて、リオンは内心かなり驚いていた。
港町界隈の裏社会では、リオンとともに行動してた黒陽炎は、かなりの名うてで通っており、その名に恥じず、リオンとともにこの支城への侵入を果たしていた。
しかし、そんな黒陽炎を顎で使うほど、今回組んだ連中は間違いなく一流以上の者達だったのだ。
それを倒して王女の救出をやってのけるなど、如何な精鋭揃いの騎士団とは言え不可能だと、リオンは思っていたのだ。
「そう……」
心を読まれるかもしれないと、素っ気なく答えたリオンの態度に白山は少し苦笑して話題を切り替える。
「よし、難しい話は後にしよう。まずは傷を見せてくれ」
足元に置いたメディカルキットを引っ張りあげると、ポンと叩いて笑いかける。
それを聞いてリオンは、もう一度驚く。
昨夜は情報を聞き出すために死なれては困ると、手当されたのだと思っていた。
それなのに姫を救出すれば用済みなはずの自分に、更に手当をするとはどれだけお人よしなのか、それともまだ裏があるのかとリオンは訝しむ。
「そんなに固くならなくていい。傷の手当は俺が好きでやっていることだ」
そう言って近づいてきた白山に、一瞬だけ身を固くさせたが、昨日と同様傷だけに目を向けているのを見て、そのまま身を任せた。
白山は、いちばん気にしていた唇の傷が、何とか綺麗にふさがっているのを見て安心する。
野郎どもの一般的な縫合ならば、傷を塞ぐことに重点を置いて縫合すればいいのだが、女性のそれも唇となれば、専門の形成外科の領域に達するのだ。
そこまで高度な手技には自信がない白山は、細い糸でなるべく丁寧にピッチを細かく縫い合わせていた。
何かこの世界に来てから、やたらと縫合の腕が上がっているなと自嘲しながら、手早くリオンの包帯やガーゼを変えてゆく。
「他に痛む所や手当していない傷はあるか?」
一通りの処置を終えてから、白山は質問するがリオンはゆっくりと横に首を振った。
「脇腹が少し痛むけど、折れてはいないと思う……」
黒陽炎からの暴力が日常茶飯事だったリオンにしてみれば、この程度の痛みは悲しいが、慣れっこだった。
「そうか、無理はするなよ」
処置を終えて使った薬品や器具を片付けながら、白山は優しくそう言って聞かせる。
日本で言えばこの年頃といえば、青春真っ只中の一番楽しい時期だろう。
それが世界や境遇が違えば、ここまで生き方が変わるのかと、白山は苦々しく感じていた。
一歩間違えば、近日中にこの少女の命は、処刑場の露と消えるのだ。
白山の脳裏にこれまでの作戦で助けられなかった人々や散っていった仲間たちの顔が浮かんでは消える。
『助かりたいか?』 と、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ白山は、まず信頼関係の構築からだと意識を引き締めた。
ここで空手形を切って最後に落胆させたのでは、互いに後悔する結果になってしまうだろう。
「さっき聞いたが、食欲も問題なさそうだな。ちゃんと食べてゆっくり休めば、すぐに傷は良くなるさ」
少しだけ沈黙が訪れ、白山に向けてではなくリオンは独り言のようにポツリと心情をこぼす。
「捕まって牢に入れられた方が、良い食事を貰えるなんて、思わなかった……」
小さく、囁くように言われたその言葉は、処置のために近くへ腰掛けていた白山の耳にも届く。
その言葉は重く、そして深く白山の心に響いた。
言葉に詰まった白山は、メディカルキットを持って立ち上がると、丸椅子の横に置いた図嚢を開いて、その中に入れておいた代物を取り出す。
ゴソゴソと動く白山に、リオンは何をしているのかと怪訝そうに思ったが、その手に持つ物が何なのか、リオンには判らなかった。
「食べてみろ。美味いぞ」
差し出されたそれは、携行食として持ち歩いているチョコバーだった。
白山は、警戒心を解こうと自らも頬張って見せ、毒ではないと証明する。
包装を剥いて差し出された黒い物体は、食べ物なのかと訝しんだが、リオンは選択の余地はないと思い、恐る恐る口元へそれを運ぶ。
一口かじった瞬間―― リオンの肩がピクリと動き、一呼吸おいてから一心不乱に貪り始めた。
縫い合わせた唇ももどかしげに、もぐもぐと口を動かすリオンの様子を微笑ましく見ていた白山は、水のボトルと一緒にもう一本差し出してみる。
すると、おずおずと手を伸ばしてそれを受け取ったリオンは、再び無言で甘みを堪能していた。
それまで無表情を貫いていたリオンの顔は、僅かに目尻が下がり、幾分表情が和らいでいる。
「甘いものは、やっぱり心を落ち着かせてくれるよな」
水を飲んで一息付いたらしく、甘味の余韻でぽうっとした表情を浮かべていたリオンを見ながら、白山は丸椅子に腰掛けて笑いかける。
リオンはその言葉には答えず、水のボトルを持ったまま牢の外に視線を向けて押し黙る。
「……どうして?」
長い沈黙の後、ポツリとリオンが疑問を投げかける。
その一言は長年築いてきたリオンの心の堤防に、ほんの小さなヒビを走らせた。
「これで終わる。やっと楽になれる…… そう思ってたのに」
白山は何も言わずに、リオンの言葉に耳を傾ける。
「なんで優しくするの? まだ私にあの悪夢の続きを見続けろって言うの!」
飲み干されたペットボトルが牢の格子に投げつけられて、カラカラと転がった。
白山はそれでも何も言わずに、じっとリオンから視線を動かさない。
「みんな死んでいって、私だけが残されて…… 生きるために何人も手にかけて、捕まってやっと終わりにできる。
もう苦しまなくていい。そう思ったのに、なんで!」
「黒陽炎が死んだなら、私も終わらせてよ……
どうして優しくして叶わない夢を見せるの? これが罰なの? もう…… 十分でしょ……」
最後の言葉は嗚咽に混じって、聞き取るのは難しかったが、それでも白山はリオンの慟哭を受け止める。
騒ぎを聞きつけた牢番の兵士が様子を見に来るが、白山は何も言わず手振りだけでそれを追い返すと、もう一度ベッドの側に座った。
「終わったんだよ…… 悪い夢は」
白山はひざを抱えて顔を伏せているリオンの肩に手を置くと、そう告げる。
「私に…… 生きる意味や資格なんて…… あるの?」
声を詰まらせながらそう聞いてきてたリオンに、白山はゆっくりと頷く。
「人間なんて、生きる意味を探すために人生の大半を費やすんだ。それには資格もクソも関係ない。
リオンがやりたい事、生きる意味はこれから探せばいい……」
白山がそう諭すと、泣き濡れた瞳をまっすぐに白山へ向けてきた。
「残酷な人…… これから処刑台に立とうとする人間に、希望を見せて……」
あのまま、そう……空っぽのまま処刑されるのなら、楽になれたかもしれない。
しかしリオンの心には、小さな希望が灯ってしまったのだ。その光明に照らされて、想像してしまった未来。
果てなく広がるその先を見てしまったリオンは、怯えていた。
それは裏稼業という暗闇に生きてきたリオンには、あまりにも眩しかったからだ。
それでも自分を縛りつけていた黒陽炎という枷は外れたのだ。手を伸ばせばその先に届くかもしれない。
懇願と困惑、そしてわずかな恐怖を瞳に映しながら、リオンは黙ったまま白山を見つめる。
「生きたいか?」
白山は端的に、リオンへそう問いかけた。
言葉はなかった。 それは広大な未来という荒野に対する怯えが、声を詰まらせたのかもしれない。
それでもリオンは白山から視線を外さずに、小さく頷いたのだ。
白山には、それで十分だった。
少しゴツゴツとした白山の手がリオンの頭を撫でる。
リオンはその大きくて温かい手の感触に、少し戸惑いながらも悪く無いと感じていた……
************
白山は牢の中でリオンから聞き出したこれまでの経緯を、ざっと反芻しつつ外に出た。
見れば太陽は随分と傾き、もう少ししたら西の空が茜色に染まり始めるという頃合いだった。
部屋に戻り湯を浴びるか身体を拭うくらいの時間はあるかと、白山は考えていた。
この世界に来てから約六日、目まぐるしく事態が動き続けており、さすがの白山も精神的にキツくなってきた。
肉体的な疲労は休息が取れれば問題ないが、常に気を張っていなければいけない状況はどうにも不味い。
一日でもいいから、安全な場所でゆっくりと心身を休めなければ、早晩どこかで致命的なミスを犯す可能性が出てくる。
王都に入れば、今のように限られた手勢で守られた支城よりは、王の安全は強固になるだろう。
そうすれば、いくらか枕を高くして休息が取れるのではないかと白山は考えた。
王の安全と自身の安全がリンクしている現状では、王の早期帰還は白山の利害とも一致するのだ。
そう考えた白山は、頭の中で王都への早道は何か無いかと思案する。
本館の入り口近くまで歩いてきた白山は、ふと足を止め妙案を思いつく。
「あるじゃないか…… いい手が」
そうつぶやいてから頭の中で手早く計画をまとめると、意気揚々と部屋へと戻っていった。
幸い、部屋付きのメイドに聞くと浴場が使えるそうなので、白山は早速ひとっ風呂浴びようと浴場へ向かった。
さっぱりして戻ってきた白山のもとに、コンコンと力強いノックの音が響いて、ブレイズが入って来る。
「よう、そろそろ時間だが、そっちの首尾はどうだった?」
ブレイズが対面に座り、口の端を歪めながらしたり顔で訪ねてくる。
白山はメモ帳に書き込んでいた手を止めて、ブレイズへ視線を投げかけた。
「何が首尾はどうだった?だよ。どうせ、途中まで聞いてたか、報告でも受けたんだろ?」
白山はメモ帳を閉じると、胸ポケットにしまい込み、背もたれへ身体を預ける。
気づかれないとでも思っていたのか、白山がリオンの牢に入ってから幾度か地下への出入りを感じていた。
それは微かな足音であったり、空気の流れだったりするのだが、その点まで明かす必要はない。
「くくくっ、やっぱり気づいてたか」
「そりゃ、流石に気づくわ」
少し呆れながらも白山は、部屋付きのメイドに茶を頼んだ。
「スマンな、アレックスの奴がうるさくてな。あいつグレース様をお前に盗られたと思って、やっかんでるんだよ」
忍び笑いをこぼしながらブレイズは、冗談めかしてそうこぼすが、白山は諦めとも納得とも取れる表情を浮かべ、小さくため息を吐く。
「まあ、昨日の今日で、俺が単独で虜囚に接触するって聞いて、さすがに警戒しないほうがおかしい。
と言うか、ここで警戒しなけりゃ、逆にこっちが心配になるぐらいだ」
「すまん、すまん。 そう言ってもらえるとこっちも助かる」
「それで、聞いているとは思うが、こっちからも一応報告だ」
そう言って白山はリオンから聞き出した話を逐一ブレイズに聞かせる。
「つまり、黒陽炎とあのリオンっていうヤツは、バルム領で雇われた裏稼業の人間で、案内と下準備が主だったと……
それに僅かだが、あいつらの言葉に、『東部の訛り』が聞こえたって所か」
「ああ、今回の一件に関わりがある内容としては、それで全部だな……」
「ん?何か、含みのある言い方だな?」
訳知り顔で混ぜっ返すブレイズと、涼しい顔で言葉を続ける白山の間に、何か芝居じみた雰囲気が流れる。
報告を受けているが故の、腹の探り合いとでも云わんばかりに、ブレイズにはこの先の白山の言葉が予想できた。
「まあな。それで…… その、話を聞き出す過程で、リオンのこれまでの身の上についても耳にしてな」
「王家への反逆はその家族を含め、関係者はあまねく、死を持ってこれを処断する」
ブレイズが難しい顔で叛逆罪の条文を諳んじる。
白山が何を言わんとしているか、それを制する形で先手を打つ。
「……法は、曲げられんか」
曲がりなりにも成熟した法治国家で生まれ育った人間であり、法の重さは十分に理解していた。
重苦しい沈黙が流れ会話が途切れたところで、小さなノックの音と共にメイドが戻ってきて、白山とブレイズの前に香り高い茶を置いて下がる。
再びパタンとドアが閉められて、双方が乾いた喉を潤すため、ないしは冷えた肝を温めるためにお茶を手に取った。
ブレイズが茶を飲んでから、ガラリと雰囲気を変えて口を開く。
「まあ、建前はそうなってるんだがな……」
「建前……?」
白山は少し首を傾げながら、黙ってブレイズの言葉の先を待つ。
「昨夜の一件は厳重な箝口令を敷き、すべての証拠は闇に葬られるんだ。
表向きには昨夜は、王家の危機を救った勇者との歓談の宴が開かれて、平和な夜が過ぎたことになる」
昼の襲撃に関しては目撃者は王の一行以外に存在せず、これも秘することは可能であったが、そうすると白山の存在に説明がつかない。
王国内で筋道を建てた物語を披露できなければ、白山が勇者であるとの王の認定に瑕疵がついてしまうのだ。
それゆえに昼の襲撃は公表し、広く白山の存在を知らしめる手段として巧く用いられることになる。
「陛下は忠には恩で報いる方だ。 しかし、働きはあってもその忠を表に出せないとすれば、それも困ったことになる」
「どういう意味だ?」
何か嫌な予感を感じながらも、白山はブレイズの話の結論を待つ。
「意味も何もない。昨夜の襲撃は存在しない。それならば襲撃者もいない。何にもないって事だよ。
ただ、存在しない事件について、しゃべる口があっちゃ拙い…… 本来ならな。
それなら、目の届く所で監視しても同じ、じゃないか?」
そこまで聞いた白山は、嫌な予感が的中したと言わんばかりに、思わず溜息をこぼす。
「いや、俺としては微罪釈放を頼むつもりだったんだが……」
「まあ、何だ…… 諦めろ」
ニヤニヤと、どこかいやらしい笑みを顔に貼り付けながら、ブレイズが言い放つ。
かくして、リオンは監視つきという条件で、白山にその身柄が譲渡されることが言い渡される。
上手く丸め込めたか? と、内心で冷や汗をかきながら、ブレイズはここまでに至る経緯を思い起こしていた。
意外にも白山の牢内での言動について部下から報告を聞き、一連の絵図を描いたのはアレックスだった。
それまでブレイズはリオンを、処分する方向で考えていた。
しかし白山がリオンに対して、情をかけているとの報告を聞き頭を悩ませた。
闇に葬られるべき事案に関わっていた人間をおいそれと野に放つ訳にもいかない。
味方であるとブレイズに対して明言した白山だったが、あの力が敵に回った時のことを考えると、背筋が凍る。
今の段階で、白山の信頼を損ねる訳にはいかないのだ。
難しい顔で報告の内容を聞いていたブレイズは、白山との信義と王家の威信に板挟みになっていた。
部下の報告をブレイズと共に聞いていたアレックスは、少し考えてからこの筋書きをブレイズへと進言してきた。
そこには、白山とともに尋問に立ち会い、リオンに対する憐憫の情が多少なりとも含まれていたかもしれない。
もしくは密かに慕うグレースの心が、白山に向きつつある事への当てつけなのか。
未だ彼の心に燻る白山への猜疑が、そうさせたのかは判らない。
アレックスからの進言を吟味したブレイズは、その他に妙案は浮かばず、この一件を王へと上奏することにした。
それを聞いたレイスラット王は、即座にそれを許可する。
王は内心で葬るべき少女一人の命で、勇者の歓心を買えるならば安いものだと考える。
そして情が移れば、それは勇者をこの地に繋ぎ留める鎖にもなるかもしれない。
王の命を狙ったという事実も、今後王都へと戻れば勇者の目もあり、今よりも更に手厚い警護によって、その刃は届かないだろう。
そしてもしそうなれば、その身柄を預かる勇者に責任を負わせ、さらに鎖を太くできる。
打算や不安、もろもろの感情が入り混じり、リオンの身柄は本人の与り知らぬ所で、白山へと譲られることに決定したのだった…………