恐怖と衝撃と王女の涙 ※
木こり小屋の内部では、奇妙な静寂が支配していた。
男は何やらゴソゴソと怪しげな道具を準備し、グレースはぼんやりとした表情で男の背中に視線を注いでいる。
パチン……と、何処かで森の中の枝が落ちた音が響くが、それ以外は再び静寂が訪れる。
グレースは男の背中を眺めながら、この男は一体どこの手の者か?何を目的としているのかを必死に考えていた。
ともすれば未だ薬の影響が残る頭の芯は、思考を放棄したくなるほどに痺れているが、この状況を脱するには考え続けなければならない。
王女たる自分を拉致したという事は、この場で殺すという差し迫った状況にはないという裏返しにもなる。
殺すのであれば支城の中で殺めた方が余程容易であるし、ここまで連れてくる意味が無い。
では何のために自分をここまで連れてきたのか?
身代金だろうか?それとも何らかの政治的な要求か?
王権を持たないグレースではあるが、王族として一定の裁量権は持っている。
この場で確約出来る事で相手の要求や欲求が満たされるのであれば、自由と引き換えにある程度の譲歩を考えてもいい。
しかし、嗅がされたのは痺れ薬なのか、眠り薬だろうか。思考が千切れ考えが一向にまとまらなかった。
グレースが必死に意識の混濁と格闘していると、男がふと動きを止める。
霞がかった視界でグレースが目を向けると、男は大きな宝石が嵌めこまれた首飾りを手に持って、ゆっくりと近づいて来る。
許可されていない者が王女の身体に触れるなど、大罪だが男は気にした風もなく、ぞんざいにグレースの上体を起こし猿轡を外す。
「……何者ですか?」
咎めるような視線と誰何の言葉、それがグレースに出来た唯一の抵抗だった。
「おや?随分と王女様は気丈でいらっしゃる。
あの薬の分量なら、夜明けまでは指先まで動かせない筈ですがね」
そう言いながら嫌らしい笑みを浮かべる男は、質問には答えず手に持った首飾りの留め金を外しグレースの首に回す。
その動きにグレースは生理的な嫌悪感を感じ、男を突き飛ばしたいと思ったが、身体は意思に反して思うように動かない。
王族たるグレースは生粋の箱入り娘ではあるが、思春期や学園での生活、メイド達の噂話などで、男女の性についてはある程度知っている。
そして自分は拉致されて、この場にはその一味と思われる目の前の男しか居ないと考えれば、途端に恐怖が沸き上がってきた。
必死に抵抗しようと身体をくねらせるが、それを見越したように手足には縛めが施されており、男の念の入れようにグレースの恐怖は一層強くなる。
「ここで味見をしても構わないのですが……」
首飾りをグレースにかけて、男はその耳元にそっと囁く。
総毛立つようなゾッとする感触に、グレースは思わずぎゅっと身を固くしてしまうが、男はそれ以上体を寄せてくることはなかった。
「……上にバレると厄介ですからね」
気味の悪い笑いを浮かべながら、そう言って先ほど準備していた床の上から何かを手に取る。
革製の道具入れの上に幾つかの奇妙な道具が並べられており、その1つは千枚通しのような器具で、鋭利な先端がランプの光を受けて鈍く光を反射する。
陵辱の危険が遠のき、小さく安堵したのもつかの間、今度は物理的な身体の脅威である。
グレースの心臓はまるで小動物のように早まり、血の気が遠のく。
そんなグレースの表情を楽しむように口の端を吊り上げた男は、ゆっくりと鋭利な器具を手に取ると、細くしなやかな手をがっしりと掴む。
「暴れると、余計に痛い思いをしますよ」
グレースは針のような鋭利な先端と、男に掴まれた手から連想されるその先の行為に身を捩らせる。
しかし、自身の意志に反して身体は思うように動かない。
男は必死の抵抗を試みるグレースの指先を握りこんで動きを止めると、躊躇わずに鋭利な器具を指先に突き刺した。
「……っ!!」
鋭い痛みを感じたグレースは、声にならない悲鳴が喉元までせり上がる。
しかし、ここで叫んでは男を悦ばせるだけだと思い、唇を噛み締めてそれを堪えた。
男が突き刺した器具は細い針に溝が切ってあり、真紅の貴血がその溝へとゆっくりと流れてゆく。
その血をこぼさぬように静かに器具を抜いた男は、先程グレースの首に巻きつけた首飾りへとその血を垂らす。
グレースの血が滴った瞬間、大きめの宝石が飾られたその首飾りは、淡い光を放ち光り始めた。
男はその光を確認して小さく頷き、それから自分が身につけている指輪にも同様に血を垂らした。
「定着するまでに時間がかかるのが難点ですねぇ」
一人つぶやいた男は、同じ色で光り始めた指輪を見て再びニヤリと嗤い、幾つかの器具が置かれている方へと背を向けた……
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白山は音を立てず移動できる、最速のペースで小屋に進んで行った。
先程の見張りを『処理』した後は、特にそれらしき相手とも遭遇せず、小屋の輪郭が見える位置まで到達した。
目算でおよそ百メートル程の場所にある茂みから、暗視装置越しに見る件の小屋からは、跳ね上げ窓の隙間から光が漏れている。
肉眼では光は確認できないが、最新の増幅管が搭載された暗視装置は、隙間から漏れる僅かな光源も鮮明に映し出す。
チラリと腕時計に目を落とした白山は、ブレイズと約束した時刻まではまだ少し余裕がある事を確認して、突入の支度を始めた。
いくらバードアイで周辺の状況が確認できるとはいえ、実際に目視で建物の構造を見なければ立てられない種類の作戦もある。
特に、人質救出作戦では、陽動の手法や突入用爆薬の量などは、精緻に計算する必要がある。
扉を爆破しようとして、小屋ごと吹っ飛ばしてしまっては、本末転倒になってしまう。
木こり小屋として作られている眼前の建物は、簡素ではあるがそれほど安普請ではなく、丸太の梁や柱を使った頑丈そうな建物だった。
これならば支城で考えていた作戦がそのまま使えるだろう。
そう考えた白山は、静かに背負っていたバックパックを下ろすと、中からスタングレネードと幾つかの品物を取り出す。
まずはあらかじめ丈夫な丈夫なビニール袋に入れて封をしておいた水、それに少量の爆薬を取り付ける。
手頃な長さの枝を拾い、ビニールテープでぐるぐる巻きにしてしまう。
爆破用の信管と導爆線を束ねると、一つ目の準備は完了する。
白山の手際は素早くそれでいて正確、しかし単独行動というリスクを忘れず、時折動きを止め視線を周囲に巡らせ、警戒を怠らない。
最後に起爆用の導爆線を取り付けて、一つ目の仕掛けは完成だ。
爆破薬の作成に使ったマルチプライヤーやコードの末端、ビニールテープの切れ端などを残らず回収し痕跡を消した白山は、最終アプローチを開始する。
程なくして小屋の壁際まで到達した白山は、石積みの土台が作り出す影に身を潜め、五感を駆使してじっと周囲の様子をうかがう。
支障なしと判断した白山は、無言のまま突入を最終決断する。
『カチカチ――カチカチ』
鋭い視線を正面に投げかけたまま、白山は小型無線機のスイッチを素早く押し込んだ。
『……カチカチ――カチカチ――カチカチ』
白山が考えていたよりも早く、その返答は白山の耳に飛び込んできて、ホッと胸を撫で下ろす。
突入までは、白山達の存在を察知される訳にはいかない。
しかし相手の意識を逸らして虚を突き、奇襲の理を最大限に活かす必要があるのだ。
それにはブレイズと突入と陽動のタイミングを完璧に調整しなければならないが、遠く離れた互いの意思を確認する術は、この世界には存在していない。
だが、白山はそれを可能にする、『無線』というオーバーテクノロジーを所持しているのだ。
何も難しい使用方法を教えこむ必要はない。
ただ、イヤホンを耳にはめて、PTTスイッチを押しこむやり方だけを教えれば、こんな状況でも十分にその役割を果たしてくれる。
これで、連携に関する問題は解消された。
あとはお互いの役割をこなすだけだ。
白山の視界には疎らな木々を通して、開豁地の様子が伺えた。
その様子はまるで凪いだ水面のように不気味な程の静寂を保っており、ブレイズの姿も見えなければ、敵の見張りも姿も確認できない。
それでも小屋の内部からは、人が発する空気のゆらぎや僅かな熱が発せられ、奇妙な感覚のコントラストを作り出している。
『ドン!』
一瞬の閃光と、少し遅れて重い炸裂音が、夜の空気を切り裂いた。
『ドン!』
一呼吸置いて、再び鳴り響いた重低音が夜のしじまを震わせる。
野鳥達がギイギイと騒ぎ始め、森の静寂は破られた。
二発目の爆発音が鳴り響いたのと同時に、何者かが開豁地へと走り出すのが目に入る。
それと同時に白山も影から抜け出し、行動を開始する。
手早く小屋の角まで動くと、一瞬だけ顔を覗かせて正面の入口周辺を確かめる。
やはり、先程走り出した男は、正面の見張りだったようだ。
正面に誰も居ない事を確かめると、すぐに入口に向かい構造を確認する。
頑丈な木製の扉は、そっと指先で押しても開く事はなく、やはり閂か施錠が為されていた。
もし未施錠ならば、爆薬を捨てて蹴破って突入すればいいだけなので手間は省けるのだが、人質が囚われている建物が施錠されていない筈はない。
白山は作成した爆薬を戸口にしっかりと立てかけると、コードを接続しスルスルと後方へ下がってゆく。
爆破の影響が及ばない建物の角まで下がった白山は、導爆線と起爆装置を接続する。
爆破薬から自分の手元まで異常の有無を手早く確認した白山は、暗視装置を頭上へ跳ね上げ、『爆破準備よし』と脳内で復唱する。
そこまで準備が整った所で、白山はポーチからスタングレネードを取り出すとピンを抜き、躊躇せずに小屋の後方へと投擲した。
わざわざ入り口とは反対の方向にスタングレネードを投擲するのは、相手の意識を逸らす為だ。
小屋の後方に意識を向けさせた直後に、反対方向から爆破を行う。
これで攻撃の主導権を掌握するのだ。
頭の中で2.3秒をカウントしながら、右手にM4のグリップを、左手に起爆装置を握り、破裂のタイミングを待つ。
アドレナリンの所為か普段よりも秒数が長く感じられたが、その瞬間は体感を伴ってすぐに訪れた。
ドン! と聞き慣れたスタングレネードの爆発衝撃と圧力が背中越しに横隔膜を揺らす。
それを合図に白山は、左手に持つ起爆装置のスイッチを押し込んだ。
チューブの中を伝わった衝撃が、計画通りに爆薬まで瞬時に伝達され、ほんの一欠片の爆薬は、一瞬の閃光と共に爆轟という音速を超えた衝撃波を生み出す。
本来ならば爆破で生じた破壊力は周囲へと均等に伝わり室内の空間ごと戸口を粉々にするが、戸口方向への衝撃をビニール袋に封入された水が阻む。
質量の重い水は、爆破の衝撃を破城槌のように戸口の方向へ伝達し、扉を吹き飛ばす。
その衝撃は爆破薬だけで扉を爆破した場合より、比較的安全に突入口をこじ開けるのだ。
ただ単に戸口破砕を行うだけならば、もっと簡単な手法が多くあるが、今回は万一にも人質を傷つける訳にはいかない。
爆破の圧力と破片をやり過ごすために頭を下げていた白山は、起爆装置を地面に落とし戸口へと走り寄る。
周囲には飛び散った水しぶきがボタボタと降り注ぐが、それに構わず移動を続ける。
原型を留めたまま内側に倒れた扉は蝶番が耐え切れず、戸枠ごともぎ取られていた。
爆破成功を一瞥した白山は、舞い上がった埃と土煙にM4に取り付けられたフラッシュライトを照射して暗闇を切り裂く。
脅威が存在しないことを一瞬で確認し、戸口まで走り込んだそのままの勢いで小屋の中に突入する。
横長な長方形の小屋の中は、中央に間仕切りがあり、簡素なかまど場が入口近くにあった。
心理的にも統計的にも人質を置くなら、寝室や最奥の場所に監禁する事が多い。
白山は右手で据銃をしつつ、移動しながらポーチを手探しスタングレネードを取り出す。
本来ならば警戒やグレネードの投擲は仲間の隊員が分担して行うのだが、単独で突入した白山はすべての作業を一人で行わなければならない。
M4のグリップを握る右手小指にグレネードのリングを引っ掛けて引き抜いた白山は、間仕切りの手前で停止すると、躊躇なく部屋の奥に向かって投げ入れる。
一切の音と気配を絶ち、ステルスを追求する状況は過ぎ去ったのだ。
後は一気呵成に奇襲の要素が薄れないよう、迅速にこの場を制圧するだけだ。
手元で安全レバーを飛ばしてから投擲されたスタングレネードは、白山が狙った通り床に転がった瞬間に炸裂する。
室内で行き場を失ったガスが、それなりに重量のある跳ね上げ式の窓を一瞬持ち上げ、床面に煙が流れる。
投擲の直後に動き出していた白山は、立ち込める煙の中で叫びながら素早く室内を検索してゆく。
「動くな!動くな! 伏せろ!伏せろ!伏せろ!」
角を曲がり、フラッシュライトの光柱が室内を照らした瞬間、スタングレネードによる未知の衝撃で見当識を失い、棒立ちになった人影を照らし出す。
白山はライトを消してその男に接近してゆく。向けられたライトが突然消され、朦朧とする意識の中で白山を見失った男は必死に辺りを探る。
しかし、次の瞬間には接近してきた白山の左手が、男の首をつかみ抵抗の間暇も与えられず地面に叩きつけられた。
硬い床板の衝撃が背中に広がり、男は思わず息を吐き出してしまった。
かろうじて意識を保ってはいたが、白山のヒザが鳩尾に落とされ、更に息が圧迫されてしまう。
訓練で何度も繰り返した脅威の制圧手法は、緊張と混乱の中でも白山の肉体を半ば自動的に動かす。
素早くひざ下に男を組み敷いた白山は、奪われる危険性の高いM4を背中に回し、取り回し易いSIG-P226を腰のホルスターから引き抜く。
近接戦闘においてフラッシュライトは必需品であり、当然226にもマウントされており、直近の脅威を制圧し再び室内を照らして見渡す。
すると一番奥の簡素な寝台の上に、薄いピンクのナイトガウンを着込んだグレースが、胎児のように身体を丸めた状態で、僅かに動くのが見えた。
もう一度室内を見渡すが、白山が抑え込んでいる男とグレース以外に人影は見当たらない。
そこまで確認すると男の腕を掴み、関節を極めながら男を裏返す。
腕を極められて、ひどく不自由な状態のままうつ伏せにされた男に、ざっと身体検査を行いプラスチック手錠をかけた。
男の腰には小ぶりではあるが非常に鋭利なダガーが吊られており、それを取り上げた白山は無造作に自分のベルトへ手挟んだ。
「クリア!」
長年の習性かアドレナリンの所為なのか、報せるべき仲間が居ないにも関わらず白山はそう叫ぶ。
コンバットレディと呼ばれる射撃姿勢から僅かに銃口を下げた状態で、寝台へ歩み寄った白山は素早くグレースの怪我の有無を確かめた。
「お怪我はありませんか?」
「ひっ、あうっ!」
ライトの残照に浮かび上がる白山の姿は、フェイスペイントで顔を塗りたくり、戦いの余韻が残っている。
突然連れ去られ、見ず知らずの場所に監禁されたのだ。
そんな恐怖に震えていた所へ、いきなりの爆発と突入の衝撃、そして悪鬼のように突然現れた緑の肌の男……
動転しない方がおかしいだろう。
「落ち着いて下さいグレース様。私です。ホワイトです……」
「えっ、あ? ゆっ、勇者様……?」
肩に手を置き、ゆっくりと言い聞かせた白山の言葉で次第に状況を理解したグレースは、爆発しそうになる感情をグッと堪え、長く息を吐き出した。
そして弱々しくではあるが、縛られたままの腕を伸ばし、白山の手に手を重ねる。
「絶対に助けに来て頂けると……信じておりました」
そう言ったグレースの瞳に涙が溢れ、白磁のような頬を一筋の涙がこぼれ落ちていった…………
2015/05/02 編集
近日中に1章終わりまで、投稿致します。