出発と懇願と橋
白山は横のリオンが動く気配で意識を覚醒させた。
前方偵察と先触れを兼ねた先遣隊として行動しているリオンは、白山達の本隊よりも早く出発する。
いつの頃からだったろうか、リオンは花のような僅かな香りを身にまとうようになっていた。
本人に確認した訳ではないが、どうやらグレースの仕事を手伝い始めてから、幾らか化粧品などを譲り受けているらしい。
軍人として考えれば特徴的な香りや過剰な香水は、敵に発見される恐れがあり慎むべき事項ではあるが、その辺はリオンもわきまえている。
事務仕事の時や登城の際に、ごく僅かに香る程度に使用しているようだ。
まどろみの中で白山は、そんなリオンの体温と香りを感じながら口を開く。
「まだ、早いんじゃないか?」
ゆっくりと目を開けて周囲の明るさを見て取った白山は、リオンにそう問いかけた。
「コーヒーと、簡単な朝食くらいは準備してからと思って……」
身支度を整えていたリオンは戦闘服の袖に腕を通しながら、そう答える。
鎧戸の隙間から差し込む黎明の薄明かりが、リオンのシルエットを僅かに浮かび上がらせていた。
まだ起床時間には早いが、リオンの手前このまま二度寝するのも忍びない。
結局白山はそのまま起き出すと、ベッドの上でいつもより入念に起床後のストレッチを行う。
そうしている間に、室内にはコーヒーの香りが漂ってくる。
リオンが作ってくれたのは、小ぶりの丸パンに軽く炙ったハムと野菜を挟んだハムサンドだった。
その横には布に包まれた同じサイズのパンが置かれており、これはリオンの朝食だろう。
「それでは、行ってきます」
姿勢を正し白山に敬礼を行うリオンは、既に副官としての顔で出発報告を行う。
戦闘服の袖に着替えた白山も、答礼を返し真面目な表情で頷いた。
そうしてハムサンドの包みと装備を小脇に抱え、リオンは部屋を出る。
外では暖機運転だろうエンジン音が響き始めた。
宿のテーブルに向かいコーヒーを啜った白山は、地図を片手に今日のルートを再確認する。
等高線に注視して地図の中から地形の高低を読み取り、それとルートを重ねあわせる。
こうする事でルート周辺の地形を大まかに把握できるのだ。
やはり、昼過ぎに通過する山間部のルートには十分な注意が必要だろう。
白山がそう思案している所に、ノックの音が響く。
地図から目を上げて立ち上がった白山は、ドアに向かい扉を開く。
「先遣班、これより出発します」
「ああ、今日のルートは難所が多いから気を抜かないようにな。何かあれば無理せず本隊の到着を待て」
河崎三曹は、本来ならば輸送小隊の長である前川一曹に出発報告をすれば問題ないのだが、律儀に白山へも同様の出発報告をしてきた。
彼の生真面目な性格を知っている白山は、黙ってその報告を聞く。
彼らが出発すれば、次は自分達の本隊が出発する番である。
遠ざかるエンジン音を聞きながら、手早く朝食とコーヒーを胃に押し込んだ白山は荷物を持ち、足早に車の方へと向かっていった。
************
先遣隊の高機動車は、街道を順調に進んでいた。
「もう半刻ほどで、王国のご一行がこの道を通過します。もう少し進んだならば邪魔にならない場所で少しお待ち頂けますか?」
数は少ないが、こうして進路を妨げている足の遅い馬車に進路を譲るように要請するのも、先遣隊の任務の一つだ。
もっとも、後方から猛然とした速度で接近してくる高機動車の威容と、王家の紋章に皆が揃って恐れおののくか、逃げ出そうとしてしまうのはご愛嬌だろう。
そんな時に役立ったのは、リオンの容姿だった。
声をかけてきたのが威圧感の少ないうら若き女性だと判れば、それほど害意や忌避感を持たず少しは話を聞いてくれる。
先遣隊にリオンが入った事で生まれた、思わぬ副次効果だ。
もっとも、声をかけてきたのが女と知って侮ると、相当痛い目を見るのだが、大抵は車上からMINIMIを構える隊員が睨みを効かせると、素直に話を聞いてくれる。
「やはり、昨日よりも往来が少ないですね」
運転席に座る河崎三曹が、追い越した馬車をバックミラーで一瞥しながら助手席に声をかける。
その言葉に頷いたリオンは、遠くに見え始めた山間部を見据えながら口を開く。
「もうすぐ山間部の領地境界ですね。注意して進みましょう」
今度は河崎三曹が頷き返し、車両は南へと進んで行った。
昼を少し過ぎた辺りで、先遣隊の一行は思わぬ状況に陥っていた。
これまでと同じように道行く馬車に声をかけたのだが、その農夫にすがりつかれ話を聞かされていた。
「では、リタからの行商が、ここ二ヶ月近く訪れていないと?」
「へぇ…… 食う物は畑と山で何とかなりますが、薬と塩だけは行商人が頼りなんでさぁ」
胸元にMP7を抱えたリオンが、そう問いかけると切羽詰まった様子で農夫は窮状を訴えてきた。
行政管轄としては、農夫の村はリタに属するらしいが、辺境という事もあり徴税の時くらいしか役人も訪れない。
小さな寒村では生活必需品を運ぶ行商人は生命線なのだ。
村の中で有志を募り、リタまで向かわせようかと相談していた所だという。
「頼みます。村長の話を聞いてもらえませんでしょうか」
地面に額をこすりつけるように懇願する農夫に、リオン達は困惑してしまう。
「お気持ちは判りますが、私達の任務は先触れです。残念ですが村に立ち寄ることは出来ません。
ですが、リタに到着した役人に必ず届け出ますので、それで納得して頂けますか?」
リオンは、地面に付した農夫の肩に手を置くと、なるべく優しい口調でそう言い聞かせる。
冷たいようであるが、先遣隊としての任務を考えると、村に立ち寄って時間をロスする訳にはいかないのだ。
納得はしていないようだが、それを聞いた農夫は「本当にお願いします」と、繰り返すばかりだった。
「私の名前において、報告と対処は確約しますので」
リオンのその言葉で、農夫はようやく納得し馬車を曳きながら、村の方向へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、運転席の河崎が心配そうな視線をリオンに向けてくる。
「本隊に報告を…… 速度を落として、警戒を厳重に進むしかないですね」
そう言って無線に手を伸ばしたリオンを見て、河崎三曹は隊員達に注意を促そうと後ろを振り返る。
日頃の訓練の賜物か、隊員達は装具や弾薬のチェックを自主的に行っており、既に周囲に注意を払っていた。
程なくして通信を終えた先遣隊は眼前に近づいてきた、険しい地形に向け再び進み始めた。
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山間部の道は時折細い場所はあるが、概ね車両の通行には問題がなかった。
先遣隊は比較的見通しの良い場所で時折停車し、双眼鏡を使って地形と兆候を観察し、異常の有無を確かめる。
往来が少ないのか、轍の中央部分は旺盛に草が生い茂り、車両底部をこする音が時折車内に響いていた。
後部座席の隊員達も、山間部に入ってからはビニール窓のジッパーを開き、周囲の状況に注意を払っている。
幾つもアップダウンを越えて、地図上ではそろそろ領地境界に差し掛かるであろうといった場所を、車両は静かに進んでいた。
「距離――五百、前方に橋」
MINIMIに取り付いていた頭上の隊員から鋭い声で報告が上がる。
一段高い位置から周囲を警戒している隊員の視界に見えてきたそれは、すぐフロントガラス越しに河崎の目にも飛び込んでくる。
「確認!停止する」
ゆっくりとブレーキを踏み込んで、高機動車を停止させた河崎は、目を凝らすようにして前方の橋を注視する。
その橋は石造りの橋で、ここまで続いていた自然を切り崩して作られた街道において、久しぶりに目にする人間の手が入った代物だった。
「右手の丘が邪魔で、橋の向こうが見えませんね。もう少し前進しますか?」
「そうですね。橋の先が見通せる位置まで前進しましょう」
双眼鏡で周囲を観察していたリオンは、橋の手前側に目立った兆候が見られなかった事から、河崎の意見に同意した。
先ほどまでは聞こえなかったが、停車した事で僅かではあるが低いアイドリングの音に混じって、川音が聞こえてくる。
ゆっくりと前進を再開した高機動車は、ジリジリと進んで行く。
程なくして見えてきた橋向の地形は、橋を渡ってから右に曲がり、そこから先は一キロほど直線が続き、その先は左に折れた緩やかな上り坂になっていた。
橋の下を流れる川は、山間部特有の流れの急な清流で、進行方向の右側を街道に沿う形で流れている。
徒歩でなら渡河する事も可能だろうが、車両では難しいだろう。
どのみち街道の両側は、切り立った山肌と木々が迫っており逃げ場は見当たらない。
つまりは、格好の伏撃点と言えるのだ……
「この地形は、ちょっと――怖いですね」
橋の手前で停車した河崎は、地形の状況を見てそう呟いた。
「とにかく、橋の安全確認だけは済ませてしまいましょう」
リオンも地形に目を向けて厳しい表情を浮かべると、意識を切り替えるようにまずは眼前の課題を片付けるべく、橋に視線を向けた。
「うっし、お前ら四名降車、二名警戒、二名は橋のチェックだ!」
リオンの言葉を聞いた河崎は、後部座席に向けてそう叫ぶと、隊員達が素早くドアを開け後部から展開する。
四名は車両の前で道の両端に布陣して、二列縦隊で四角形を形成するようにゆっくりと橋へと接近してゆく。
高機動車のハンドルを握る河崎は、その隊員達の動きに合わせるように一定の距離をあけて車両を前進させていった。
万が一襲撃があった場合、車載のMINIMIが前の隊員達を援護できる位置取りを崩さない。
橋へとたどり着いた隊員達は、先に二名が橋を渡って対岸へと移動する。
その間、もう二名は後方から援護の体勢を維持する。無事に橋を渡り終えた四名は、二名が警戒を維持しつつもう二名が川へと降りてゆく。
現代であれば、警戒すべきは爆発物やIEDだが、ここでは違った問題がある。
十トンに近い車重の三トン半の車重を支えられるか、問題になる場合があったのだ。
余談であるが、73式大型トラックの通称 『三トン半』は標準積載量からきており、前述のとおり約 8.57tの重量がある。
高機動車でも約 2.64tの重量があり、現代建築ではないこの世界の橋や道路、そして路肩は細心の注意を要するのだ。
部隊では過去に、実際に基地近くの石橋が老朽化と往来する車両の重量で、崩落した事例があった。
幸いにしてけが人や車両の喪失もなかったが、部隊初の事故として隊員達の印象に強く残っている。
全隊員を集めた朝礼で真剣な表情の白山が、事故の発生を告げたが教官達は認識のギャップに戸惑った。
隊員達は死者も車両の破損もないならば問題無いと考えていたが、現代の感覚を引きずっていた白山達は、改めてここが異世界だと再確認する事態になったのだ。
無論、その後隊員達によって橋は強固なものに修復され、隊員達には安全管理教育が徹底されたのは言うまでもない。
膝まで水に浸かりながら、橋の底部や基部を確認した隊員達は『問題なし』と判断して、高機動車にハンドシグナルを送る。
それを受けて河崎は高機動車のアクセルを静かに踏み込んだ。
車幅に余裕はないが、これならば三トン半も問題ないだろうと思いながら、脱輪に注意しながら何とか渡り終える。
「さて、この先何もなければ良いんだがなぁ……」
無事に橋を通過した河崎は、正面を見据えながら小さくそう呟いた…………
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