フェイズ2~移動 目覚めと儀式と月夜の移動
潜入初日の昼は、何事も無く過ぎ去っていった。
山城一曹はボートの偽装を修正し、警戒する隊員と夜の周辺偵察よりも広い範囲の偵察を指示して、拠点の安全確保を盤石にしていった。
ボートの警戒に出た隊員は、北の方面に手漕ぎの船が何艘か見えたと言っていたが、差し障り無い距離であり無視できると判断した。
この周辺はQRFチームとバードアイで二四時間監視しており、上陸地点に船の接近があれば即座に連絡が来る。
主たる脅威は森の中に狩人や木こりが現れる事だが、偵察に出た隊員達は周囲に人間らしき痕跡は皆無だったと報告をしてくれた。
山城一曹は、それを聞いて安心したが即座に気を引き締めて、警戒を怠ることなく注意しろと部下達に下達する。
「慣れと油断が一番危険だからな……」
誰に聞かせるでもなく、一人そう呟いた山城一曹は昼近くなってようやく自分のハンモックへ横になった。
隊長として部隊を率いるとなれば、絶えず情況を読み命令を下さなければならず、それに加えて率先して部隊での役割をこなさなければ部下はついてこない。
必然的に自分の休息時間は減ってしまうが、その点は長く野外で過ごしてきた経験が、補ってくれた。
それでも敵地での行動で神経も高ぶる。 いい加減重くなってきた思考を遮断するように瞼をとじれば、睡魔はすぐにやって来た。
山城一曹がハッとして目を覚ました時には、少し割り当ての時間を過ぎていた。しかし、次の休息する予定の副長が気を利かせてくれたらしい。
湖岸に近く虫の多い環境だったため、蚊帳を張りその中で寝ていた山城一曹は、ハンモックに横になりながら露出部分へ丹念に虫除けを塗り込んだ。
強い虫除けでも、汗とともに流れ落ちてしまえば効き目が落ちるので、定期的に塗り直さなければならない。
それにただでさえ不快な環境の中で、虫刺されから注意力が逸れては戦術的に隙を生みかねない。それならば、少しの手間でもマメに虫除けを擦り込んだ方がいい。
そうした儀式が終わると、副長は丁度睡眠前に食事を摂っていた所で、山城一曹にキャンティーンカップに作った濃いインスタントコーヒーを、差し出してくれる。
頷いて礼を述べた山城一曹は、苦みばしった液体を喉に流し込むと、僅かに残っていた気だるさが薄れるように感じた。
地面に座り一息ついた山城一曹は、そこで儀式の続きに取り掛かる。
汗や擦れて薄くなったフェイスペイントを塗り直し、皮膚の露出がなくなるように心がける。
ひと通り化粧直しが済むと、自分の寝床に潜り込むついでとばかりに、副長がバディチェックを施し、塗り残しを潰してくれた。
それが済むと近場にいる隊員に、自分の武器を示し同意を求める。
儀式の次の段階は武器のチェックとクリーニングだ。
隊長の仕草で何を求めているのか悟った隊員は、背中に敷いていた背嚢から薄手の布を取り出すと、山城に手渡す。
山城は緑色に塗られた顔から、僅かに白い歯を覗かせて笑いその布を受け取ると、地面に敷いて銃の整備を始める。
弾倉を外し初弾を薬室から抜く。そして銃を安全にした事を目視と指を突っ込み確認すると、レシーバー後部のピンを5.56mm弾で押し込み引き抜く。
そうして通常分解の手順を行い、小さなオイルスプレーを可動部に吹きかけてゆく。
射撃後ならばボルト部分の手入れも必要になるが、まだこの作戦では一発の弾丸も発射していないので、目視での異常の有無だけを確認し注油してゆく。
山城一曹は最初こそ89式との違いに戸惑ったが、今ではすっかりM4の扱いにも慣れ、問題なく取り扱うことが出来る。
最後に細いヒモにパッチを付けた銃身清掃用具を通して、簡素な手入れは完了する。
後は逆順で組み立てて、銃の動作を手早く確認し横に置いた。
手が掛かるのは、銃本体よりもむしろ弾倉と弾薬だった。
防水処理が施されている現代の弾薬は、多少の水ではその機能を失う事はないが、それでもリスクは潰さなければならない。
ここで確認を怠って万一戦闘になった時、不発や装弾不良で窮地に陥るのは自分と部下達なのだ。
まずはチェストリグに突っ込んである標準携行の弾倉八本のうち、四本を布に置くと中に詰められている弾丸を取り出してゆく。
二八発詰められた真鍮色の鈍い煌きと、僅かな金属音が響き忽ち弾倉が空になる。
空になった弾倉は、蒸発しきれていない水気を拭き取り、マガジンリップの変形やバネの効きを確かめておく。
幸いな事に、ボートでの上陸や荷物の搬送などで手荒に扱ったが、変形や歪みがあるものは皆無だった。
それが判ると、弾丸を同じようにボロ布で拭いていく。 火薬に水気が大敵なのはだれでも分かるだろう。
同時に弾丸を拭いながら、外観に異常がないかをざっとチェックする。
そして再び弾倉に弾を込めていった。チェストリグに収めたもう半分の弾倉も、同様に清掃と点検を行い、ようやく儀式が終わる。
弾倉を半数ずつ清掃点検するのは、万一襲撃が合った場合にすべての弾倉が使用不能になるのを防ぐためだった。
そうした儀式を終え、水で溶いたヌルいインスタントコーヒーの残りを飲んでいると、スカウトチームを率いる上林二曹と田中二曹が山城一曹のもとにやって来る。
彼らは今夜出発し、二日かけてここから所定の偵察位置へと、徒歩機動を行うのだ。
「どうだ?隊員達の様子は?」
それぞれのキャンティーンカップにコーヒーの粉末を入れ、ポリタンクから水を注ぎ入れた山城一曹は、懐から地図を取り出しながら二人に尋ねた。
「緊張はしてるようですが、それほど疲労は見られませんね。ホントに設立一年未満の部隊とは思えませんね」
そう言って歩きがてら拾ってきた石や枝を地面に置き、上林二曹はコーヒーを受け取った。
「ボート操船も基礎訓練で散々しごいた所為か、習熟も早かったっすね」
まだ部隊に合流して間もない上林二曹とは違い、初期から隊員達を見守っている田中二曹は、そう言いながらニヤリと笑った。
「俺とリック軍曹で、動けなくなるまで散々鍛えたからな」
そう言って笑った山城一曹は、身を持ってそれを体験している副長の苦笑する顔を見ながらも、どこか教え子達の練度に満足した様子だった。
地図を地面に置いた山城一曹は、背嚢から携帯式のシャベルを取り出すと、地面の表皮を薄く剥がしていく。
やって来た二人も、受け取ったコーヒーを一口飲むとその作業に加わり、慣れた様子で応急的な砂盤を作っていった。
山の盛り上がりや河川に集落を小石や木の葉を使って示していき、それほど時間をかける事なく地形を模した砂盤は完成する。
砂盤を中心に車座になった三人は、これからの行動について確認する。
小隊の指揮を執っている山城一曹が、全般の流れを再確認するために口を開く。
「現在地点5500 4015 現時刻 1514 偵察分隊二個分隊は、日没後2000に移動を開始する。
S-1<スカウト1> 分隊長 田中二曹 目標シリアット S-2<スカウト2> 分隊長 上林二曹 目標 ルストレーム」
先端をナイフで削った枝を使い、現在地点とそれぞれの目標箇所を示した山城一曹は、二人に確認するように間を置いた。
「二個分隊は、当初東へ約一七キロ程進み、その後南下に転ずる。 森の中だ、歩測と方位に注意してくれ。
南下後約十六キロ程で、東西に伸びるシリアットと、ヴァラウスを結ぶ街道に到達する。
合計でおよそ三十三キロ程になる。時定的にはおそらく二夜三日…… 空挺レンジャーなら散歩程度だろ?
街道を越える際は、十分に注意しろ。街道を超越した後各分隊は、東西に別れる。
S-1は東へ…… S-2は西だ」
街道を表した砂盤の上を、跨ぐように指揮棒代わりの枝を動かした山城一曹はニヤリと笑う。
その南は土が盛られ、一見しただけで険しい地形であることが判る。
そこを見て、S-1を指揮する田中二曹が、山城一曹の冗談に苦笑しながらも口を開く。
「俺達は、別れてから東に移動し、この山頂 <5645 3890>周辺に分隊潜在拠点を確保する」
田中二曹は移動ルートと拠点箇所を、コツコツと自分の枝で示したあと、続く上林二曹へと視線を向ける。
「俺達は西に向かう。LUP※は、<5460 3800>付近を予定。
南側の主要街道と街の様子を中心に監視するが、状況によっては南北に伸びる連絡道についても、状況が許せば調べる予定だ」
「森の濃さが変わらなければ、おそらく時速は1.5~2kmといった所だろう。
距離的に見て、分隊が別れる前に街道周辺で一泊する必要が出てくる。
そこのポイントを今後作戦が長期化した場合、補給地点にする可能性を見ておいてくれ」
二人の行動予定を聞き、小隊潜在拠点 兼 補給拠点を預かる山城一曹は、そう言って簡素なブリーフィングを締めくくる。
出発前にさんざん打ち合わせした内容であり、多くの作戦や訓練を経験している教官達には、特に異論や意見は出ない。
むしろ、これから行われる分隊員へのブリーフィングの方が、経験の差分だけ時間を食うだろう。
それを見越して要点だけに絞った概要と地形の説明は、むしろこれから行われる命令下達の予習といった雰囲気だった。
砂盤の周辺は、これから二人の部下達が集まり静かな賑わいとなるだろう。
場所を移動した山城一曹は、人数が少なくなった後の周辺警戒のシフトを変更すべく、自身の部下が集まるエリアに向けてゆっくりと進んでいった……
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大陸標準時 1947 地点 5500 4015
空には大きな三日月と満点の星が瞬いているが、深い森の中に存在している男達には、その淡い光は届いていなかった。
定刻より早く S-1・2 の両分隊は出発準備を完了し、分隊毎に集合を完了していた。
これから真っ暗な森の中を踏破し、二夜かけて分岐点へと向かい、そこからはごく少数で皇国の直接監視を行うのだ。
王国と皇国の歴史を紐解いても、王国軍は国境周辺での防衛戦闘だけであり、皇国の領土深くまで入った事はない。
彼らは人知れず監視の足がかりを築き、皇国の現状を包み隠さず王国へと伝える手段として、敵地深くへと潜入する。
彼らはその為に十分に訓練を積み、そしてそれに値する十分な能力を有していた。
一時だけ監視を代わってもらい、見送りに立ち会った山城一曹は、彼らの姿を見てそう感じていた。
適度な緊張感を持ち、この作戦への気概も十分に見られそれでいて、硬くなってはいない。
闇と自然が自分達を十分に隠してくれる事を、十分に理解している野生の獣のように、そこへ佇んでいる。
田中二曹が軽く手を挙げて、出発を促した。
そのサインが順繰りに後方の隊員達へ伝達され、ゆっくりと隊列が進み始める。
山城一曹は、進み始めた面々と僅かに拳を合わせる仕草を繰り返し皆を送り出す。
ある隊員は無言で、またある隊員は僅かに頷いて、自分の拳を合わせてゆく。
そして外周警戒線を超え、一人また一人と、闇と濃緑色の世界へと消えてゆく。
月光が木漏れる森の中において、彼等の居場所はその淡い光が作り出す影の中だった。
かすかに聞こえていた衣擦れの様な音や僅かな足音も、次第に小さくなる。
そして、距離が遠のくに従いやがて静寂だけが残った。
少しの間、彼等が出発していった方向の暗闇を凝視し、その静寂こそが、彼らの存在した証だと山城一曹は納得し、自分の警戒ポストへと戻っていった。
S-1・2の隊員達は、一時間ほど進みようやく体が温まってきた。
ぎこちなかった足運びも、一定のリズムで踏みしめるように進み、五感が森の中の環境に順応してゆく。
十分程の短い休息が歩き始めてから初めて支持され、隊員達は意識してゆっくりと深呼吸し体の熱を吐き出していた。
誰もがその場で片膝を付き、左右に振られた警戒方向を凝視したまま、手探りで装具を点検していた。
今夜の月は明るく、幾分見通しがいい。その分暗視装置に頼らなくても周囲を見通せる。
しかし、その好条件は敵方にも当てはまるのだ。故に警戒は怠れない……
手慣れた様子で装具を点検した隊員達は、同じく胸元に取り付けたビーズを弄り、その個数を確かめる。
ペースカウンターと言う輪になっていない数珠にも似たそのビーズは、歩測を数える手段として使われるのだ。
歩いた歩数を勘定し、地図と照らし合わせて進んだ距離を計測する。
大体は列の先頭に近い隊員と、分隊長や地図判読を行う隊員の歩測を平均するが、訓練では抜き打ちで歩測と現在地点を教官に尋ねられる。
その癖が染み付いており、皆それぞれが大まかな方位と歩測を数えていた。
今になってみれば、その訓練の意味も隊員達は十分に理解していた。
こんな敵地のど真ん中で敵襲に遭い仲間とはぐれれば、それまでの自己位置を知っているのといないのでは、生存や合流に大きな差が生じる。
それ故に、全員が地図を読み地形を理解して、現在地点を把握しておく事は必須事項となっていた。
この長い縦隊を導く事になるポイントマンとセカンドそして、指揮を執る田中二曹は、違った意味での緊張を強いられている。
先頭を歩くポイントマンは絶えず前方の未知の地形や接敵の緊張を強いられ、セカンドは時折コンパスをチェックし進路を確かめる役割を負う。
それに加えて歩測も行わねばならず、通常の警戒も加わり相当に神経をすり減らす立場だった。
マップを読む田中二曹は、複数人の歩測の数を計算し距離を弾き出し、進路や地形に関する情報を前方へと伝達する。
頭の中で計算した距離は千二百メートル程で、予定よりもだいぶ遅れていた。
なれない地形と緊張から歩みが慎重になっているからだろう。もう少し環境に馴染めば速度が上げられる。
そう判断した田中二曹は、隊列を入れ替えポイントマンを交代させる。
全員に経験を積ませる為でもあるが、純粋にポイントマンの精神的疲労が大きいからだ。
思考は歩測の計算、視線は警戒、手は装具点検と、全く異なるタスクをこなしながら、田中二曹は小さく緊張を吐き出すように呼吸を整えていった…………
ご意見ご感想、お待ちしておりますm(_ _)m
※LUP Lying-Up Point~潜伏地点・潜在拠点と同義
直訳すれば寝て起きる所




