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夜叉九郎な俺(不定期更新)  作者: FIN
第5章 夢幻の如く
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第68話 崩壊への序曲






 ――――2月6日





 信忠の命で先鋒として出陣した長可、忠正の率いる軍勢は早くも伊那谷への侵入を開始した。

 対武田家との戦における最初の関門となるのは伊那における城の一つである滝之沢城に拠る下条信氏である。

 信氏は信濃の国人でありながら、信玄の妹を娶ったと言う経緯を持つ武田家でも重用されている人物。

 既に高齢であり、隠居の身ではあったが武田家存亡の危機と言える織田家の侵攻に対して自ら軍配を執り、それに立ち塞がる構えを見せていた。

 信玄の娘を娶っていた義昌が一門衆でありながらも裏切った事を踏まえれば、まるで対照的な行動である。

 それだけ武田家に対しても忠節を誓ってくれている人物であるために初戦を任せるには最適な人物と言える。

 また、滝之沢城は東西で1キロにも及ぶ馬の蹄のような形をした崖城であり、有数の要害としても名高い。

 平時でも厳重な警戒がなされていた滝之沢城で迎撃するという信氏の戦術は良い着眼点である。

 要害に拠り、粘り強く戦う事で寡兵であっても大軍を相手に時間稼ぎをして後詰を待つのは勝頼が上原城にまで出陣している事を踏まえれば、正に上策。

 高齢であるが故に堅実な戦運びを狙う信氏の戦術は見事とも言えた。



「忠正。こんな城、すぐにでも落としてしまおう。信忠様の手を煩わせるまでもない」



 要害で待ち構えるという信氏の動きを見た長可は敵が寡兵であると見るや、直ぐにでも片を付けようと逸る。

 一々、待つのは如何もしょうに合わない。

 こんな如何でも良い相手など、さっさと撫で斬りにでもして勝頼や盛信といった猛将として知られる人物達と死合う事の方が楽しいに決まっている。

 長可は忠正を急かすように出撃すべきと主張する。



「少しだけ待ってくれ、長可殿。もう間も無くで殿が内応を約束したと言う者が動くはずだ。速やかに落とすならば、それに乗じた方が良い」



 それに対し忠正は長可には少しだけ待つようにと諭す。

 義昌の内応に乗じて信忠が他にも内応の約束している者が居ると言う事を聞いていた忠正は長可に比べて冷静であった。

 確かに長可の言う通り、初戦だからこそ急ぎ落とす必要がある。

 圧倒的なまでの力を見せ付ければ士気が衰える者も続々と出てくるからだ。

 しかし、滝之沢城のような崖城ともなれば力攻めだけでは被害が大きくなる。

 信忠が裏で手を回したのもそれを懸念しての事だろう。

 長可の猪突猛進な気質を良く理解していると言える。



「信忠様が? ならば、仕方あるまい。内応する者が居るのならばそれの手引きを機に一気に雪崩込むとしよう」



 主君である信忠が既に手を回しているなら此処は忠正の言う通りにした方が得策だ。

 力攻めで突破する自信はあるものの、連戦を重ねるならば出来る限りの消耗を避けるのは理に適っている。

 武田側が要害とも言うべき場所で迎え撃つ姿勢を見せたのも此方の戦力を疲弊させるためなのは間違いない。

 ならば、内応する者の手引きに従って一気に城に雪崩込むのも悪くはないだろう。

 呆気無い幕切れになるだろうが、まだまだ死合う機会は幾らでもある。

 此処は素直に従う事にするべきかと長可は判断した。



「うむ、その通りだ。……待ち望んでいた報せも来たようだしな」



 長可にしては珍しく懸命な判断である事に安心しつつ、忠正は内応通りに動いた報せを伝えに来た伝令の姿を捉え、頷く。

 本当は忠正もさっさと片を付けたいと思っていたのだ。

 しかし、長可の気質の危うさを知っている身としては適度な程度での我慢が必要だ。

 忠正は出来る限り、そういった事を心がけている。

 とは言っても忠正も長可と同じく、自ら得物を取って戦う武将だ。

 やはり、最前線で戦う方が自分に合っている。

 報告が来た事で漸く動ける頃合いが来た事で慌しく長可と忠正は準備を進めていく。

 いよいよ、武田家を滅ぼすための戦いが始まるのだ――――自然と意気も上がるというものである。

 溢れんばかりの闘志を燃やす2人の武将は待ち望んだ時が近付いてきた事に悦びを覚えるのであった。











 ――――2月7日






「馬鹿なっ! こんなにも早く、滝之沢城が陥落したのか!?」



 長可、忠正の率いる軍勢が滝之沢城を落とした翌日、素破からの情報で勝頼は僅か1日で要害と謳われた彼の城が陥落した事を知る。

 報告によれば、信氏の家老を務める下条氏長が手引きをし、織田家の軍勢を引き入れたとの事。

 僅か1000にも満たない軍勢しか率いていなかった信氏は成す術もなく、城を退散するしかなかったという。

 本来ならば地の利を活かす事で粘り強く戦える城であっただけにこの呆気無い陥落には勝頼を始めとした幕僚を大いに動揺させる。

 滝之沢城を守っていた信氏の手腕は疑いようが無かったからである。

 だが、此処はすぐに切り替えるべきだと判断し、勝頼は次の防衛線である松尾城に救援を送る事にしようと考えた。

 しかし――――続けて伝えられた情報で勝頼はそれも断念せざるを得なくなる。



「鳥居峠を義昌と遠山の軍勢が越えて来ただと……!」


「御屋形様、これでは松尾城に援軍を送るのは得策とは言えませぬ」


「解っている!」



 援軍を反対する勝資の言葉に勝頼は苦々しく応じる。

 勝資の言葉は間違ってはいないからだ。

 鳥居峠を越えて侵入してきたと言う事は伊那谷の最重要拠点である高遠城の方面が危うくなるのである。

 万が一、高遠城が陥落すればその南に配された城郭や軍勢は全て立ち枯れるしか道はない。

 高遠城は伊那谷の根元と言うべき場所にあるからだ。

 根元が無くなれば大樹も枯れるしか無く、延命する余地は無い。

 現状でも一気に崩壊が始まっているとも言える信濃の入口の様子を踏まえると高遠城の防衛力を落とすべきではない言う勝資の意見は的を射ていると言うべきだろう。

 言い返そうにも、それが当たっているとなれば如何する事も出来ない。

 勝資の進言は間違いなく、正論であった。



「……義昌らに軍勢を差し向けよ」



 勝頼は歯痒く思いつつも義昌らを迎え撃つ決断をする。

 鳥居峠を越えてきたとあらば、木曽と遠山の連合軍は本格的に戦を交えてくるつもりなのだろう。

 現に織田家からの軍勢が後から来ている以上、その判断は理に適っている。

 待っても進んでも何れ、援軍が到着すれば結果としては戦力は大きく増大する。

 先行きが明らかになっている現状で義昌が機を見て動くのは当然の事だ。

 信玄から一門衆に迎え入れられたその才覚は決して侮れるものではない。

 勝頼は義昌が動き始めた事に対し、焦りつつ指示を出す。

 此処で手を拱いている時間も余地も無いからだ。

 僅かでも思考を止めたらその段階で全てが終わってしまう。

 義昌の手の内を読まなくては先はない。

 勝頼がそれを踏まえた上で指示を出すのは当然の事であると言えた。






 ところが勝頼が鳥居峠に軍勢を向けるであろう事を察していた義昌はあっさりと木曽谷へと撤退していく。

 主力を率い、如何にも決戦を挑むと言った様相で動いた義昌であったが、本来の目的は威力偵察でしかなかった。

 あくまで牽制する事とし、決戦という意図は義昌の中には微塵にも存在しない。

 勝頼が釣られた事を確認した義昌は偵察と牽制の両方の目的を達成し、悠々と退き上げて行く――――無論、追撃される可能性を考慮した上で。

 この木曽、遠山の連合軍の動きに対し、武田勢は追撃する事を躊躇う。 

 明らかに備えをしている相手に攻め寄せるなど、愚の骨頂であるからだ。

 動けば手痛い反撃を受ける事は目に見えて明らかである。

 此処は義昌が攻めてくる可能性を考慮した備えをする以外に術はない。

 だが、この躊躇いの動きが鳥居峠よりも先に援軍を送ろうとした松尾城を孤立させた。

 城主を務める小笠原信嶺は信玄の弟である武田逍遥軒信廉の娘婿であり、武田家の一門衆の一人。

 それ故に信用もされていたが、勝頼から援軍が来ない事に信嶺は紛糾する。

 後詰を今か今かと待ちわびていた目の前に翻る軍勢の旗は織田家の武将である長可と忠正の物。

 予定した通りであったならば、勝頼からの援軍の方が先に松尾城に到着していたはずである。

 にも関わらず、援軍が来ないともなれば最早、武田家が援軍を寄越すつもりが無いと判断するしかない。

 そのように結論付けた信嶺は2月14日に戦わずして降伏する。

 窮地に至って何の援軍も寄越す事をしなかった勝頼に恨みを募らせながら。

 勝頼の判断が間違っていたとは言わないが、一門衆として間近に仕え、勝頼の気質を見てきた義昌の方が駆け引きで勝ったと言うべきだろう。

 義昌に撹乱される形で勝頼は要害である滝之沢城に続き、松尾城を失ったのである――――。











 ――――2月14日同日






「抵抗が無いのはつまらぬが……流れとしては随分と幸先が良いな。武田なぞ大した事は無いのかもしれん」



 後詰を送らなかった勝頼に怒りを向けるかのように案内を申し出てきた信嶺とのやり取りが終わった後、長可はぽつりと呟く。

 義昌の手引きや主君である信忠の手際の良さもあるのだろうが、余りにも上手く事態が進み過ぎている。

 立て続けに無血開城といった形で城が陥落したのである。

 しかも、話によればそれぞれの城を守っていたのは武田家の一門衆だと言う。

 同じ一門衆である義昌の寝返りが相当に功を奏したのであろうが、余りにも呆気無い。

 長可の目から見ても良い戦となると思われた堅城は哀れとしか表現出来ない程に落ちていく。

 これならば、まだ一揆勢を相手に撫で斬りをしていた方が余程ましなくらいである。

 武門の家として名高い武田家がこの程度とは落胆せざるを得ない。



「長可殿の言う通りではあるが……殿には吉報を御伝え出来るから良いではないか。些か深入りし過ぎたと思っていたが、これならば御咎めも少なくて済む」



 如何にも残念であるといった様子の長可に対し、忠正は一安心といった表情を浮かべる。

 信忠からは背後の上杉家の存在も含め、深入りする事は避けるように命令されていたからだ。

 にも関わらず、結局は長可に付き合う形で此処まで軍勢を進めてしまった。

 本来ならば命令違反として罰せられるのが当然である。

 しかし、被害無く要害を落としてきたと言う結果があるならば信忠とて強くは言えない。

 想定した以上に大きな戦果を上げ、尚且つ預かった軍勢は消耗していないのだ。

 結果としては上々どころかこの上ない程のものである。

 これでは深入りしたとはいえ、大功を上げた長可と忠正の両名を罰する事は出来ない。

 目付役として後から追いかけて来ている秀隆が何も言ってこない事を見ると忠正の読みは当たっているらしい。

 大功を上げた者を咎める事で士気を下げる事を良しとしないのならば当然の判断である。

 流石の秀隆も此処まで順調だと何も言えないのだろう。

 寧ろ、只管に突き進む長可達に呆れてものが言えないのかもしれない。

 何れにせよ、秀隆からも何もない以上は大きな問題は無いと言える。



「ふむ……それもそうか」



 確かに忠正の言う通りだ。

 これだけ戦果を上げれば信忠からの咎めは少なくて済む。

 元より長可は待てと言う命令に関しては従うつもりは微塵にも無かったが、咎められる事については良い気はしない。

 吉報を伝える事でそれを抑えられるのであれば深入りした甲斐もあると言うものである。



「だが、道案内を志願してきた者が居るにも関わらず待つのもな……。良し、次の目標である飯田城を囲みながら信忠様を待つとしよう」



 しかし、これだけでは満足出来ないのが鬼武蔵と言われる長可である。

 深入りしたにも関わらず、敵が居ない事には満足出来ない。

 せめて、一戦くらいは交えなければ自分だけでは飽き足らず得物である人間無骨も血に飢えるだけだ。

 それに座して待つのは鬼武蔵の名が廃る。

 何もせずに信忠を待つくらいなら次の戦場に移動し、其処で合流した方が良い。

 恐らく、信忠の事だから長可達が予定よりも早く進軍している事を知れば慌てて追いかけて来る事は疑いようが無いだろう。

 信忠が此方の気質を理解しているように此方も信忠の事は理解しているつもりだ。

 そうでなければ、こういった事態になる可能性があるにも関わらず長可達に先鋒を任せるはずがない。

 どちらかと言えば手応えの無さ過ぎる武田家が今の事態を引き起こしたとも言える。



「……それならば、早ければ翌日には殿と合流出来るかもしれぬ。流石に飯田城よりも先に進むつもりならば認める訳にはいかないが」



 長可が飯田城まで攻め入ると言う事については反対しない忠正。

 距離的にも翌日である15日には囲む事も可能である飯田城ならば特に問題はない。

 無理な行軍で軍勢を疲弊させる事も無いだろうし、今ならば武田家の方も体勢を整えていない可能性も高いだろう。

 長可は特に何も言わないが、恐らくは感覚的に進むべきである事を感じている。

 一度、雪崩込む事の出来る状況に持ち込んだのならば行ける所までは行くべきだ。



「ふん……俺とてそれくらいの了見はある。忠正に言われるまでもない」



 忠正に言われるまでも無く、長可の方も止まるべき段階が何処かまでは把握している。

 岩村城に入った信忠が急いで軍勢を動かした場合に1日で間に合う距離である最前線の城は飯田城であるからだ。

 父である信長に負けず劣らず、行動するのが早い信忠ならば間違いなく追い付いてくる。

 事実、長可が予想した通りに信忠は既に行動を開始していた。






 ――――1582年2月14日






 長可、忠正が既に松尾城までも落とした事を聞いた信忠が岩村城を出立したのは正に今、この時であったのだから。
















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