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夜叉九郎な俺(不定期更新)  作者: FIN
第2章 畿内にて
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第30話 人の縁




 堺で信澄らとの邂逅を果たし、信長の身に万が一があった時の際に取るべき行動を伝えた俺。


 だが、信澄にだけ対策を伝えただけでは不安だと感じた俺は別れる前に信張にも如何、動くべきかを伝えておいた。


 信張にこの話をした直後は何の事か解らないといった様子だったが、直ぐに此方が何を言わんとしていた事に気付き、万が一の時は動いてくれるとの確約をくれた。


 更に信張は事態が起こった際には雑賀衆との伝手を利用して逃がす道筋の段取りもしてくれるとの事。


 この点に関しては俺の方も昌長と重朝を陣営に加えた事で雑賀衆との繋がりが出来上がっているため、信張の配慮には感謝したい。


 また、堺で信澄と信張の2人と別れた後は俺が最後の目的地とした伊賀へと向かう予定だったのだが、昌長と重朝の進言で途中で根来の方へと寄る事になった。


 2人が言うには「戸沢家中でも鉄砲を使うのならば、指南役に適した人物が居た方が良い」との事。


 雑賀衆の鉄砲の運用方法には独特のものがあり、昌長も重朝もそれぞれに狙撃や組撃ち、釣瓶撃ち等のような普通とは違う方法での射撃を得意とする。


 そのためか、基礎的な部分を教えるのはそれほど得意ではないらしい。


 無論、雑賀衆と同じような戦い方で良いと言うのならば、教えられるとの事らしいが、既に戸沢家の軍勢は雑賀衆とは違う運用を前提に訓練されている。


 それ故に始めから戦術面でそれぞれの分野に適した運用を前提とした昌長と重朝の手勢のようにはいかない。


 俺としてもその意見には同意出来る部分があったので、2人の進言に応じて根来まで足を運んだわけなのだが――――。 



「解り申した。重朝殿の頼みならば参りましょう。これより、師と父に話を通して参りますので暫し御待ちを」



 重朝が掛け合い、この話を受けてくれたのは奥弥兵衛重政。


 根来衆が誇る若手の鉄砲使いで、津田算正と杉之坊照算の両名に砲術を学び初めて僅か数年で奥義を極めたほどの才覚を持つ人物。


 重朝と同年代である重政は織田家との戦の折には幾度となく陣を共にし、同じ戦場で戦った仲であるためか、御互いに深い交流を持っているらしい。


 また、重政は史実でも氏家行広や浅野幸長に仕え、その妙技を伝えた事でも知られている。


 数多くの戦歴を持ち、その腕を求められた重政は知名度こそ低いが、1570年代以降(天正年間)に活躍した若手の鉄砲使いの中では群を抜いて優秀な人物の一人だろう。


 何しろ、重政は個人技としての砲術と集団戦術としての砲術の双方に通じ、石山合戦の際は僅か10代後半と言う若さで重朝と共に武名を轟かせていたほどなのだから。


 そのため、この当時の根来衆の中でも大物と言っても良い、奥重政が出てきた事に俺は驚きを隠せなかった。



「師と父に尋ねたところ、重朝殿と昌長殿が選んだ人物であるならば構わないとの事。なので……この奥弥兵衛重政、これより戸沢盛安様の下で働かせて頂きたく存じます」


「あ、ああ……それは有り難い。重政、宜しく頼む」



 こうして、思いもしない形で重政が話を受けてくれたのは重朝の御陰なのだが……人の縁と言うものは想像以上に凄まじいものがあるようだ。


 一連の流れを見ても、重政があっさりと応じてくれたのは雑賀衆の2人が居てくれたからにほかならない。


 正直に言えば、俺を含めた戸沢家の面々だけでは話をする場が与えられたのかさえも解らないからだ。


 もし、何とかして話をする場合でも甚助の知名度の高さに委ねる以外には目ぼしい方法はなかったと思う。


 何しろ、根来衆は反織田家の立場に属している者が多く、信長の口添えで鎮守府将軍になった俺とは考え方次第では敵対関係であるとも言えるからだ。


 それだけに昌長と重朝の両名を加えた事は本当に俺が想定する以上のものだった事を改めて実感させられる。


 人の縁とは此処まで、大きな影響を及ぼすのか――――と。











 ――――1580年5月






 安土、京都、石山、堺、根来と廻った畿内での活動はいよいよ大詰めとなり、俺達は最後の目的地である伊賀へと足を踏み入れていた。


 此処での目的は若手の忍である、彼の人物を引き込む事。


 史実では今より20年以上も後になる関ヶ原の戦いで漸く、歴史上の表舞台に顔を出す人物でそれ以前の事は伊賀の忍であった事しか明らかにされていない。


 有名な天正伊賀の乱の時や徳川家康の伊賀越えの時でさえ、その名は見当たらないのだ。


 はっきりと解っている事は伊賀上忍三家と呼ばれる服部、百地、藤林の中で服部氏に連なる者であるという事と俺と同い年であるという事だけ。


 しかしながら、彼の人物は関ヶ原の戦いの際に津軽為信に召抱えられ、その後は沼田祐光の後を継ぎ、津軽家の家老を務めており、優れた人物であった事を証明している。


 忍びの出自でありながら、政治、軍事、謀略に優れたと言われている彼の人物は知名度こそ低いが、知る人ぞ知るような人物であった。






「なるほど、戸沢殿の言い分は解った。若手の忍で武士を志している者を召抱えたいと……」


「はい、出来れば御目に適うような人物を御推挙して頂きたいと思います」



 俺が想定している彼の人物を召し抱えるために早速、俺が交渉を行っているのは伊賀の上忍の一人である藤林正保。


 通称で藤林長門守とも呼ばれる正保は百地三太夫、服部半蔵保長に並ぶ伊賀を代表する人物として知られている。


 何故、交渉する相手として俺が正保を選んだのかというと……三太夫が反織田家の立場にあるからだ。


 畿内での活動で俺が信長と接触した事は既に広まっているだけに三太夫に面会を求めたとしても門前払いになるのは明白である。


 それならばと言う事で俺が交渉するべき相手として選んだのが、中立的な立場に居る藤林正保という事であった。


 因みに正保は三太夫、保長に比べても知名度こそ低いが、その正体は謎に包まれており、忍ぶ者という意味においては2人を大きく上回っている。


 生涯に渡って、歴史の表舞台に立つ事はなく、裏舞台で活躍し続けた藤林正保は正に生粋の忍であると言っても過言ではないだろう。



「ふむ、先の織田家との戦で伊賀も随分と人手が足りなくなったが……若手の者をこのまま伊賀に置いておくは危険過ぎる。織田家とはまた戦う事になるであろうしな。


 かと言って、三太夫殿の手の者を推挙するわけにもいかん。そうなれば……やはり、あ奴しか居らぬか――――長門! 服部長門は居るか!」



 俺の要求に対して暫く考えた後、正保は周囲の空気が震えるかと思われるほどの声で一人の人物の名前を呼ぶ。



「御呼びにございますか」



 その求めに応じて気配も無く現れるのは俺と同年代かと思われる若い忍。


 背後で思わず、腰の太刀に手をかけた満安と昌長と甚助の動きを見ると年齢の割には相当な手練らしい。


 何しろ、音もなく不意にこの場へと現れたのだ。


 満安、昌長、甚助といった人物だからこそ、一早く気付いたに過ぎない。


 正保に服部長門と呼ばれたこの若者――――ぱっと見たところだが名前といい、歳の頃といい、俺が望んだ人物である服部長門の特徴と一致している。


 絶対とまでは言い切れないが……恐らくは本人だろう。



「うむ、長門よ。此方におわす戸沢盛安殿が忍を求めてこの伊賀へと訪れられた。必要とするのは若手の忍で尚且つ、武士を志している者だとの事」


「……それでは」


「そう、御主の思っておる通りだ。服部長門よ」


「……誠に宜しいのですか?」


「うむ、戸沢殿が良いのであれば、な」



 正保は俺が服部長門と呼ばれた人物を見定めるようにしている事を解った上で言う。


 俺としては、この服部長門が求めている人物である可能性が高いために断る理由はない。


 正保の言葉には頷くのみである。



「……有り難き幸せ。この服部長門康成、身命を賭して御仕えする所存にござる」



 俺の返答に歓喜した様子で平伏する服部長門――――もとい、服部康成。


 此処で本人から正式に名を聞いた事でこの若者が俺の探していた服部康成である事が明らかになる。


 康成は伊賀の上忍である服部氏の一族の者にして、史実では津軽為信に仕えた忍の者。


 忍でありながら政治手腕に長け、最終的には津軽家の筆頭家老を務めた人物にして、無頼の良臣の異名を持つ人物として知られている。


 現状の戸沢家からすれば、既に老齢に近付きつつある前田利信の後を引き継げる資質を持つ貴重な人物でもある。


 そういった意味でも康成は勢力の拡大した今後の戸沢家にとって必要な人物なのだ。


 こうして、康成が登用に応じてくれた事で俺が畿内へと足を運んだ目的は全て完遂出来た事になる。


 此処まで随分と駆け足となったのは否めないが、雑賀衆の2人を含め、奥重政、服部康成といった人物を得られたのだから畿内での活動は有意義なものだったといえる。


 俺は次なる段階へと進む準備が整いつつある事を実感し、奥州の出羽国の方角をじっと見据えるのであった。











 1580年の3月から5月にかけて畿内での活動を終えた、戸沢盛安。


 彼は時の天下人である織田信長との謁見の後、朝廷より正式に鎮守府将軍に任命され、自らの立場を確かなものとする事に成功した。


 しかし、新たに鎮守府将軍に就任した者が現れた事で奥州探題の立場にある伊達家と羽州探題の立場にある最上家の立場がなくなった事も明らかである。


 幕府が形だけで有名無実化した存在に対し、朝廷は今も尚、影響力を残したまま存在し続けているのだから。


 実があるか無いかという点においてはこの差は余りにも大きい。


 探題職が幕府の任命したものであるのに対して、鎮守府将軍は朝廷が任命したものであるからだ。


 これによって、戸沢家は官職の立場的には伊達家、最上家を上回った事になり、その上で奥州総代の役割を与えられた事も踏まえれば奥州そのものを委ねられた事になる。


 要するに盛安は自ら畿内で活動する事で奥州における大義名分を得る事に成功したのである。


 当主が自ら赴いて活動する事は博打に近いものがあったが、最終的な結果も踏まえると盛安は賭けに勝ったともいえる。


 鎮守府将軍に就任し、雑賀衆を得、次代を担う若手の人物達を新たに加えた戸沢家は酒田の町を得た事に引き続き、更なる飛躍の材料を得たのだ。


 この結果は奥州の地で過ごす数年の時よりもずっと大きく得難いものであった。


 何しろ、本来ならば在り得ない事を幾度となく経験する事になったのだから。


 天下人たる織田信長との出会い。


 史実では盛安と同じく若くして世を去った、蒲生氏郷と堀秀政との出会い。


 的場昌長、鈴木重朝、奥重政といった時代を代表する鉄砲使い達との出会い。


 服部康成という大器を秘めた忍との出会い。


 そして、織田家でも重要な立場にある津田信澄と織田信張との出会い。


 何れも奥州で彼の地の統一を目指すだけでは邂逅する事がなかったであろう人物達だ。


 もし、目的が一つも果たす事が出来なかった場合でも、盛安にとっては彼の人物達と出会えた事だけでも畿内で活動した価値が大いにあるというものである。


 何しろ、畿内で会った誰もが優れた人物であり、学ぶべきところを持っていた人物達だったのだから。


 こうして、多くの出会いがあった畿内から故郷である奥州へと戻る盛安。


 だが、その船に乗るために立ち寄る事になる越前の敦賀の町にて、意外な人物と出会い、更には驚くべき話を聞かされる事になるとは思いもしない事であった――――。
















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