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十数年 愛 

作者: 今西 克己

 愛とは性欲が魅せる幻だ。 僕はその幻に踊らされない!

 トモヒロは自分に言い聞かせた。彼の両親は不仲であり何時も彼の前で喧嘩ばかりしていた。

「なんで結婚したの?」

 喧嘩の後、父親が家を出て行き彼が自分の母親に聞くと

「あなたが生まれるまではああじゃなかった」

 と母親は答えた。

 僕の生まれる前は幸せだったのか。母親は彼を責める意図など微塵も無かったのだがトモヒロは自分の存在を責められたような気がした。

 翌日も、その翌日も両親はお互いを罵り合う。好きあったのだから結婚をしたはずなのにどうして愛が冷めてしまったのか? トモヒロはわずかな人生経験の中で得ている数少ない知識を脳内で巡らせ、ある結論を導き出した。

 人間も所詮は動物、子孫を残すために人は恋愛という幻を見るのではないのだろうか。だから子孫である僕が生まれてしまってその幻を見る必要がなくなりうつつに帰ってきた。

 ならば、そうだとしたら僕がいなければ、生まれてこなければ父と母は今でも仲違いすることなく日々を過ごしていたのかもしれない。僕が生まれたから父と母はこうなってしまった。

『あなたが生まれる前はああじゃなかった』この言葉がトモヒロに無意識に罪悪感を植えつけ彼は自虐的思考に支配されている。


 僕は人を愛さない。誰も好きにはならなければ僕のように苦しむ人間を生み出さなくていい。トモヒロは愛を持たないように自分を律しようと誓った。

 試される時がトモヒロに訪れたのは12歳のときである。彼の心の片隅にいつも居座る少女が中学の同級生として彼の前に現れた。

 黒髪のロングヘアーを束ねた少女で名前はクミという。

 トモヒロは身体が弱くしばしば学校を休んでいたが、その日と休日以外は彼女の姿を瞼に映すことになる。 どんなに我慢しようとしても胸の高鳴りは抑えられない。人間はやはり人間、恋心を完全に消すことなどできない。

 一方でクミも初めてトモヒロに会った日から彼のことを一途に想っている。二人は相思相愛であった。どこか影のあるトモヒロとは違いクミは明るく活発な少女で積極的にトモヒロに話しかけ仲を深めようとするが彼は何時も素っ気なく冷たい態度をとっていた。

 クミから真っ直ぐに視線を向けられ話しかけられたとき、トモヒロは自分を律している誓いが揺るぎ崩壊してしまいかねない感覚に襲われる。その度に表情を穏やかにしないように自分への誓いを頭の中で復唱する。

 (愛は幻、ただの幻。僕は感情の無い鉄仮面。愛は幻、ただの…………)


 女の子同士でおしゃべりをしているときのクミの笑顔を見ただけでも自分の誓いのヒトカケラがどこかへ飛んでいってしまう。もし、わずかでも自分に隙をつくってしまったのなら、残りどれほどあるのか分からない心に造った壁が跡形も無く消え去り誓いを破ってしまうだろう。 そういう意味ではトモヒロは自分の弱さを知っている。

 三年間、二人は両想いでありながら同じクラスのたまに会話を交わす異性以上の関係になることはなかった。


 そして中学を卒業後、トモヒロとクミは別々の高校に行くことになった。

 二人とも学業は優秀で希望すれば一番の進学校に入ることはできたのだが少年は家から近いという表向きの理由でワンランク下の学校を選んだ。 友人たちは不思議がったが誰にも誓を守るためだと言えるわけがない。

 高校生活は彼にとって中学時代より楽であった。 心を揺り動かされる異性の存在に悩まされずに済んだからだ。裏をかえせばやはりクミのことが忘れられなかったということでもあり、クミのことを愛しているということだがそれは認めてはいけないと彼は葛藤していた。


10年後

 トモヒロは当然独身で、会社員として身を削って働いている。上司や親戚は結婚を勧めるが彼は聞く耳を持たない。 どうしても断れないお見合いを二度受けたが相手には丁重に断った。 誓いはまだ生きている。

 その日も残業でくたくたになり風呂に入ってネットサーフィンをして動画などを観ていると、中学時代からの友人から久し振りに電話が掛かってきた。内容はクミが結婚するから披露宴に彼を招待したいということだった。 クミ……どうしても記憶から削除できない唯一の女性。


 彼は出席するのか断るのか思い悩んだ。彼女以上に気になる女性は未だにいない。 それならもう一切、彼女を視界に留めなければ自分の誓いを守ることができる。

 そう思う一方で彼女が誰かの妻になってしまうのをしっかりと見届ければ認めたくない彼女への愛情を綺麗に消し去れるかもしれないとも考えた。

 前頭葉での堂々巡りを経た末、 トモヒロは後者を選択した。


 そして披露宴当日、彼は出席したことをひどく後悔した。 十数年ぶりにみたドレスアップしたクミはハッとするほど魅力的な大人の女性になっていて、トモヒロの心は荒れ狂い彼女の隣に座っている男に憎悪の念を抱いからだ。嫉妬心、その言葉は知っているがまさか自分がその卑しい感情をその日初めて目にした見知らぬ男にたぎらせるとは思いもよらなかった。僕はなんて弱いんだとトモヒロは自分の心を責め気鬱な顔をしてはいないかと不安になる。

 披露宴の最中、トモヒロはクミと視線があうことを避けようと意識をしているはずなの気がつけばクミを見ていた。 幾度となく目があった彼女は笑顔の中に薄暗い何かを忍ばせている。

 2時間の披露宴だったがなんとも長く感じた。人生で一番長い2時間であった。


 その翌日から彼はしばらく休職した。

 抜け殻のように気力をなくし毎日、外を眺める日々が続く。

 太陽が街を照らす日、雨に濡らされる日、朝が来て夕方になり、夜になる。そのごく普通の現実をただ漫然と眺めていた……。

 時折会社の同僚や友人が電話をかけてきたが何を話したのかはろくに覚えていない。 体調不良の演技をし無難に相槌を打っていたことだけは記憶している。

 一週間後も彼は外を眺めていた。食事をろくに取ることもなく、お腹が空けばピザを頼んだりして出前で済ませている。


「太陽は昇りそして沈む。僕はただ、そのなかで生きるだけ」

 なにも変わらない日常を過ごすことにより彼は何も変わらない日常の幸福というものを意識し始める。外ではカップたちが幸せそうに会話を交わし腕を組んで歩いている。僕はいつまで母の一言に縛られて生きていくのだ。とトモヒロの中で何かが変わり始めた。

 そう、僕だってただの人間、当たり前に息をし、当たり前に食事をし、当たり前に排泄をし、当たり前に……人を好きになる。雪のふる日の午後、彼の脳は十数年の縛りから解き放たれた。愛というもへの肯定が胸の中の土壌で芽を出して蕾へと成長している。自分自身の存在を認めることができたということかもしれない。僕の誓いこそ所詮はくだらない幻想のひとつではないか。トモヒロの頭の中でカルミナブラーナが流れる。

 やはり僕はクミを愛していると、トモヒロは自分の心にやっと素直になれた。たとえそれが本当に性欲による幻であるとしても愛していることは事実である。

 僕は神や仏ではないただのちっぽけな人間。神がいるのかいないのか、いるのなら存在を、いないのなら概念であることを証明しなければならない。


 僕は何様でもない。特別な存在ではない。


 なのに愛を否定しようとしたのは……ただ傷付きたくなかったから、現実の辛さから逃げ出したかったから。愛というものに無理矢理理屈をつけ避けて逃げていただけ。

 少年時代は受け入れられなかった現実、でもいまの僕なら受け入れられるかもしれない。 だけど彼女はもう人妻だ。他人の妻に情欲を抱いてはいけない。


 ピンポーン……


 チャイムが鳴った。現実に引き戻されたトモヒロは手櫛をし人前に出るための表情を作る。 警戒心の強い彼がドアのレンズを通して外を見ると黒のロングコートを着た女性が立っていた。

 クミだ!!

 いきなりの訪問に彼の心臓は破裂しそうなほど激しく動悸をおこす。ポーカーフェイスを意識してドアを開けると。

「来ちゃった」 と中学時代によく聞いていた声でいった。披露宴を伝えてくれた友人にここの住所を聞いたという。コートは濡れている、傘を差してこなかったようだ。

「どうしたの?」

 トモヒロはいいながらドアを広く開けクミに部屋に入るように促す。

「風邪ひいちゃうよ。お茶くらいだすからさ」

 クミを部屋に向かい入れた。人妻を独身の男の部屋にいれるのは無神経だったかもしれないがそんな事まで頭が回らなかった。

 彼女にお茶を出し、しばしの沈黙が訪れたときにそれに気づいた。 ソファに座り両手で湯のみを持っているクミは視線を下にむけている。 嫌な沈黙を少しでも紛らわそうと彼はテレビをつけた。そういえばテレビをつけるのは何日ぶりのことだろう。 ネットを始めてからはとんと見なくなったものだ。


 コートを脱いだクミは天候には似つかわしくない薄い服装だ。目のやり場に困りながらも彼女から目を逸らすのも不自然である。

「結婚おめでとう」

 トモヒロは無理に作った笑顔で話しかけた。

「…………」

 クミは何も答えず下を向いたままだ。

「優しそうなお主人だったなあ」

「ええ……」

 かろうじて聞き取れるほどの声でいう。

「何かあったの?」

「うん」

「元気が無いね。体調でも悪いの?」

「実は……てないの」

「ん?」

「……してないの」

「ゴメン。よく聞こえない」

「入籍はしてないの」

 とやっと聞き取れる声で言った。

「どうして? 披露宴までしたじゃない」

 そう言いながらも入籍をしていないと聞いたトモヒロは抑えきれないほど気分が高揚しているもう一人の自分に気づいている。

「ねえ。ひとつ聞いていい」

 クミは視線を上げトモヒロの目をじっと見つめる。

「なんだい?」

「正直に答えてくれない?」

「質問によるけど」

「私のことどう思っているの?」

「どうして入籍しなかったのかなと思っている」

「そうじゃないわ。分かっているでしょ」

「なんのことかな?」

「あなたは昔からそうだったわ。ずるい人間」

「僕が? ずるい? どうして?」

「私が何を聞きたいか。わかってるくせに」

 それは分かっている彼女は僕の気持ちを聞いているのだ。だけど正直に答えるべきだろうか。

 入籍はしていないとは言っても……。

「ご主人がいる人に好きとかそうではないとか言うのはどうなのだろう。それはまずいんじゃないかな」

 彼は探るようにいう。別れていなければ恋愛感情はないというべき。でも、別れてしまっていたのなら。

「別れたわ。 綺麗サッパリね。昨日まで親戚や披露宴に参加した方々に謝りに回っていたのよ」

 トモヒロはなぜクミが別れたのかは分かっている。彼女は僕のことを……こんな僕を未だに愛してくれている。

 彼女はどれだけの恥を晒してしまったのだろうか。どれほどプライドを傷つけたのだろう。僕のくだらないちっぽけな誓いのために。トモヒロは彼女から逃げてはいけないと覚悟を決めた。

「好きだった」

「だった……過去形なの? いまは?」

「好きだ!」

「じゃあ、正確に言ってちょうだい」

「うん……クミさん、僕は君を愛している」

 目を瞑りながら告白をした。生まれて初めてそして最後の告白は暗い視界の中で行った。

「うん、私もあなたを愛しているわ」

 瞼を開けたトモヒロの視界の真ん中には溢れんばかりの笑顔で彼の告白を受け入れたクミの姿があった。

 そして二人はキスを交わしベッドで愛を確かめ合う。クミの身体のぬくもりにトモヒロは生きていることの素晴らしさを実感していた。

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