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大学生の男の子の部屋に上がってしまった主人公だが

大学生の男の子に誘われ、部屋に上がってしまった主人公だが。

あんまりよくないと知りつつも、彼のアパートに寄ってしまった。コーヒーの淹れ方に独特のこだわりでもあるのだろうか。手挽きのミルでコーヒー豆を挽いて、それをフィルターに移した。慣れた手つきでやかんで沸かしたお湯でコーヒーを丁寧に蒸らし、ドリップした。

「どうぞ」

 喫茶店でバイトしているのも、コーヒーが好きで、豆や淹れ方にこだわりをもっていたからなのだろうか。彼のコーヒーを入れる姿が様になっていて驚いた。

「自分、一人暮らしなんで、気楽にしてってくださいよ」

 ドキドキした。わたしは15年も夫とセックスしていなかったからなのか、体の中から沸き起こる自分の女の欲望に、戸惑いを隠せなかった。ああ、彼の腕に、肩に触れたい。後ろから抱き着いて、彼のにおいを感じ取りたい。それと同時に、自分の中の優等生の自分が、やめなさい、おばさんの癖に恥ずかしい。何を若い男の子にドキドキしているのと咎めた。恋の始まりは、触りたいという欲求からでもいいじゃないか。自分の中の誰かがささやいた。

 わたしは無言で彼の横顔を見つめた。こういうときって、言葉よりも視線のほうがより深い意味を持つのかもしれない。振り返った彼と目が合った。まっすぐにこちらを見ている。

「正直、気後れしているのよ。わたしももうおばさんと言われるような年になってしまったのだけども、子どもを産むまではわたしも、女だったのよ」

 ゆっくりと、わたしは話し始めた。

「この部屋に来るまでの間も、大学生のあなたが、こんな中年のおばさんと肩を並べて歩く姿を、若い女の子に見られでもしたら、いったいなんて言われるんだろうとか、本当に怖くて、でも、やっぱりわたしだって女じゃない。誰かから、好きだとか、かわいいとか、きれいとか、言われたいのよ」

 涙がこぼれそうになっているのを、自分でぐっと堪えた。自分がなぜ泣いてしまっているのか、なぜ涙が溢れてくるのか、全くわからなかった。大学生の彼が困りやしないかと心配になったが、どうしても自分を抑えることができなかった。大学生は、目を逸らして俯いて話を聞いていた。そうだ、この子だって男なんだ。女の感情の話をされても、やっぱりこうなってしまうんだ。

「あ・・・困ってる。固まってる。ごめんなさい。けども、あなたを困らすために言っているわけじゃないのよ、わかって」

 わたしは誰に言うでもなく、自分の若かった頃の話をした。まだセクハラだのパワハラだのモラハラだの、そんな言葉すら社会に存在しない昔の話。高校生だったわたしは制服を着て電車に乗った事。毎日のようにちかんの手と格闘した事。今のように、ちょっと指先がどこかに触るだけでちかんだと大騒ぎするような風潮はなく、しっかりとパンツの中に指まで入れられているのに、声を上げることすら許されない風潮があった事。大学に初めて行ったとき、電車の中で、隣に座った大学生が下着の中に指を入れてきた事。サークルに入るときに、初対面で、性的な言葉を浴びせられて戸惑ったこと。飲み会に参加する時は、知らない男の子に家まで送らせないように気を付ける必要があった事。それはとどのつまり、女だから、男たちから人格を全く無視した性的な搾取を受けていたのだという事。彼氏ができて、でも、その彼氏からDVを受けたこと。なんでそんな男と付き合ったのかといろんな人から言われ、説明に困ったが、簡単に言えば、付き合いだしてはじめのころまでは、その彼も、普通の優しい男の人だったのだ。本性を出し始めたのは、彼がわたしのことを本気で愛し始めて、わたしが逃げないと確信したあたりから。その後、メールで一回会った男が本当に最低だったこと。その後、恋愛にはもうこりごりだったはずなのに、やっぱりひとりで生きる決意もできず、今の夫と出会ったこと。初めて会ったその日に、夫はわたしに恋をした。「恋なんかしても、いいことなんて何もないんだ」とつぶやいたわたしに、夫は「自分のほかに会っている男はいないってことだな」と聞いた。「残念ながらそういう人はいないです」と答えると嬉しそうにした。「これからすべての休日を自分のために開けておいてほしい」と夫言われたこと。それから、土日には毎日のようにわたしの家まで本当に迎えに来たこと。それから3か月後告白されたけど、わたしははじめから夫の気持ちはわかっていたこと。その数年後、結婚して妊娠して出産して、その後、夫から抱かれることは一度もなかったこと。生まれた息子は夜泣きが激しく、数時間に一度の割合で起きて授乳したこと。朝起こして夜寝かせるまでずっとつきっきりでお世話をしたこと。そしてその息子は大きくなって、わたしの力を借りなくても自分の事が自分でできるようになってきたとき、急に、さみしさとか空しさが襲い掛かるように湧いて出てきて、それが涙のように溢れ出るようになったこと。それだけ話し終わると、わたしは無言で泣き出してしまった。めぐみさんはまだじゅうぶん若いし、きれいですよ。大学生の彼にそう言われたら、わたしはきっと死ぬほど喜ぶだろう。しかし、大学生は最後まで無言だった。

「コーヒーおいしいですか。僕、豆とかにこだわっているんですよ」

  自分でも何故泣いているのかわからなかった。気が付いたらキスされていた。部屋に誘われたあたりから、本当は気が付かなくてはならなかったのだ、こうなることを。部屋に上がってしまったということはOKだととられかねない。大学生の手が、わたしの胸を服の上からまさぐり始めていた。いかん。やめさせなければ。わたしは既婚者なんだ。家に帰ったら、初めて会ったその日からわたしを愛してくれた夫が、自分の妻が隠れてこんなことをしているとも知らずに帰って来る。

「駄目よ」

 咄嗟に強く大学生を押し返して、体を離した。

「こんなことがあったら、明日からもうバイトに行けなくなるじゃない」

「・・・・・」

 なんでだよとでも言いたげな目で、彼はわたしを静かににらんだ。45歳になったわたしは、自分はもう女じゃないと思っていた。思い込んでいた。世間からしても、ある人から見たらもう45歳は女じゃないだろう。でも、45歳のわたしを女だと思うかどうかは結局は相手次第だったのだ。その事実にわたしは正直戸惑った。彼は、いわゆる、そういう性癖のある変な男の子だったのだろうか。自分の母親とも違わない年代の女性に性的な好奇心をもって接することを望むおかしなところがあったのだろうか。世間はそれをわらうのだろうか。わたしたちをオカシイと思うのだろうか。大学生の彼から求められるのは正直に言ってものすごくうれしい。ただ、わたしは結婚しているのだ。離婚していないのだ。夫はわたしの事を今でもなぜか本気で愛しているし、大切にしてくれている。だから、裏切っちゃいけないのだ。

「ごめん。帰る。わたしは夫をやっぱり裏切れない」

 大急ぎで鞄とスマホを手に取って、大学生の彼の部屋を出た。彼の部屋には飲み残しのコーヒーが残ったままだった。



 家に帰って、先に鍵を開けて帰っていた息子と一緒にお茶を飲んで、それからいつも通りに夕食の準備をした。その後、息子は宿題をすると言って部屋に篭った。部屋の外から様子をうかがうと、オンラインゲームをやっているようなボイスチャットの声やキーボードをカタカタ打ち込む音がした。あんなに育てるのが大変だった息子も、もう母親を必要とはしていない。さみしいな、と思った。だからといって愛されたいと願って夫に求めていったところで、夫が自分の体に欲情しなければ、性行為は叶わない。愛されたい。でも自信がない。その二つの間で葛藤した。わたしの胸は子育てが終わって、若いころのような弾力を失ってたれていた。育児や仕事に疲れ果てた目の下はひどくくたびれ、妊娠中のホルモンの影響で、カンバンやシミがたくさんできていた。自分のこんな顔や体を鏡に映して見て、ぞっとした。こういう、容姿の衰えも、自分に対する自信のなさも、性から遠ざかる一因となっている。しかし、そうも言ってられない。しかし、今日の出来事を反芻し、自分が思っているほど、目の下のシミの事も、たれたおっぱいのことも、夫はもしかしたら気にしていないのかもしれないと考え直した。そしてそれには、かなりの勇気が必要だった。



 20時になると、ガチャガチャと鍵を開ける音が玄関からした。夫が帰ってきた。いつも通り夕食を食べて、会社であった話を聞いて、家族で順番に風呂に入って洗濯機を回して洗濯物を干した。歯磨きが終わると、これまで別にしていた夫の寝室に入った。翌日も早いため、早く眠りについている夫の布団の中に、入った。夫と一緒の布団に入るのはいったい何年振りだろう。はじめは、立ち合い出産が原因のセックスレスだった。妻にあんな思いをさせてしまったという配慮からくるものだったのだろうか。それから、今度は、わたし側の育児の忙しさを理由にした、夫への拒絶だった。子どもが小さくて満足に働けない間、夫から渡される生活費だけじゃ生きていくのは困難だった。わたしは何も言わずに、独身時代にため込んだ貯金を解約しては生活費に充てていた。夫への不満が募るばかりだったが、夫の給料がいくらなのか、わたしはちゃんと理解していた。我慢するしかなかったのだ。小さな我慢が不満へ変わり、夫への怒りになった。息子が保育園に上がるころに、喫茶店でのアルバイトを始めたが、稼いできたお金は全部生活費に消えた。

 夫はわたしの行動に戸惑いを覚えながらも、昔のように、背を向けて眠っているわたしを後ろから抱きしめてきた。その手が胸へ。ああ、なんで男って女の胸がこんなにも大好きなんだろうなと思いながら、されるがままになっていた。脳の中で蟠りがゆっくりと解けていくのがわかった。気が付いたら一通りの情事が終わった。終わった後、夫は「いままで苦労させてきてごめんな」と小声で言った。「まさか、ふたたびお前を抱ける日が訪れるなんて、夢みたいだ」と続けた。


 自分はもう年を取っている。もう40歳の半ばだ。そんなものは、もしかしたら、ただの杞憂だったのかもしれない。40代の女にも性欲はあるし、それ以上に誰かから愛されたい。40代以降の女の性は、誰かから、再び大切にされ、愛されることを切実に望んでいる。それをわたしたち女が恥じることはない。40代の母親になったわたしのおっぱいはたれていた。夫は「このたれたおっぱいがいいんだよ」とほめてくれた。女として生き、子育てもがんばってきた勲章なのだそうだ。ひととおりの情事の後、夫は再び裸のまま布団に入り、わたしと隣り合わせで横になった。「お前のことが、本当に好きだ」と夫は言った。「ありがとう」と、わたしは言った。たったの一瞬でも、夫を裏切りそうになった自分を、ひどく恥じながら。



結局、主人公は大人の対応をし、大学生の男の子とは線をひいた。そして、自分の夫との夫婦再生を目指す。結果がハッピーエンドになってよかった。

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