御爺様
クォーツの手を握って、勢いよく土壁から飛び出すと、目の前がぱっと明るくなった。
周りは黒い土壁に囲まれているのに、少しも埃っぽさがない。壁に埋め込まれたランプには温暖色の明かりが揺らめいている。部屋は驚くほど質素で壁一杯に本棚が並び、渋い色の本がびっしりとならんでいる。図書館のような雰囲気だけれど、もっと優しい雰囲気がする。
石造りの机と椅子には読みかけの本と、ガラスの水入れ。土壁には五つの扉。椅子の数は三つだから三人暮らし?
きょろきょろと周りを見回していると、クォーツが右の扉を軽くノックした。
「お師匠様、ただ今戻りました。」
凛と小さな音がして、白い霧が部屋を舞った。クォーツの霧よりも範囲が小さく形が整うまで無駄がない。霧は拡散することもなく、ローブを着た小さな老人になった。
優しそうな細い目に、白く長い髭。頭に被った幅広いつばののとんがり帽子が昔の物語に出てくる魔法使いのおじいさんみたいで、クォーツのお師匠さまだってことに妙に納得してしまった。
「お師匠様、こちら森で迷子になっておられましたレイさんです。」
「すいません、ご迷惑をおかけします。神月レイって言います」
「遠いところからおいでいただき真に申し訳ない。まずはこちらの非礼をお詫びしよう・・・申し訳ない・・・」
丁寧に頭を下げるご老人に、あわててこちらも礼を返す。
非礼ってなんのこと・・・?しかも遠いところからって、ここまではクォーツに乗ってきたからそれほどの距離だったわけでもない。
というか非礼があるのはこっちの方。かってに人の家に押しかけているんだから。
「クォーツ、今の言葉をもう一度繰り返してみなさい。」
こ、怖い。笑顔なのにおじいさんの雰囲気が急に凛としたものに変わった。
それと同時にクォーツの顔色が土気色に変わった。
でも、おかしいな。さっきクォーツは何か怒られるようなこと言ったっけ。
「ええと、こちらは森で迷子になられていたようなそうではないような、ええとレイさんです」
「クォーツ、何でそんな曖昧なのよ・・・、あの、私、民家を探して森を彷徨っていたところをクォーツさんに助けていただきました」
うろたえて困っているクォーツの前になって、なるべく丁寧な言葉で訳を話してみる。
だって、森を彷徨っていたときはどっからどうみても迷子にしか見えなかったと思うし、レイ・・・は名前だからそんなところ怒られても困るなあ・・・。
後ろで困ったように身を縮めているクォーツを見て、困ったように老人がため息をつき、骨ばった手で長い髭をさすった。
「すいません、とりあえずこの方の保護を先にと思いまして・・・」
「わ、わたしが無理矢理お願いしてつれて来てもらったのです・・・そのクォーツさんを責めないでいただけると嬉しいかなーなんて・・・」
「いえ、貴方のせいではありませんよ。礼を尽くさねばならないのはこちらです。」
困ったような顔をしたご老人がすっとその場に膝をついた。そう、初めて会ったときのクォーツのように儀礼的な姿に思わずこちらも膝をついた。
こっちの世界の人たちはすごく礼儀正しいんだ!これはいけない、私もちゃんと礼儀正しくしないと。
両手をついて頭を下げようとすると、今度は老人が片手で制止した。
・・・もしかして頭を下げる順番とかある?
ゆったりと優雅に頭を下げる姿に、いたたまれない気持ちになってしまう。
「あの・・・」
「いと深き慈悲と愛の化身であるラサ神よ、よくぞこのイミテイションに参られました。私は黎明の導師と申します、度々の非礼をお許しください。」
一瞬、耳が老人の言葉を拒んだ。
誰が、何だって?
さっきもそのラサという名前を聞いた気がする。
「顔を上げて下さい。ですから、クォーツにも言いましたが、私は、神月 礼という名前です。人間違いだと思いますよ。」
「いいえ、人違いではありません。異邦人の神として、ラサ様の生まれ変わりとして、貴方に努めていただきとうございます。」
・・・心のどこかでこちらにつれてこられたのは、何かの間違いだと思っていた。それが、こんなに簡単に壊れてしまうなんて。
どうしていいのかわからなくなって、強く両手を握り締めた。
神様・・・だって・・・神様なんてそんな非現実的な・・・。
ここにきて初めて校長先生の言葉を思い出す。
返してほしいなら、彼に頼みなさい。
「私にはそんな大役なんか務まりません。ここがなんなのかも分からないのに・・・そんな事言われても・・・。それに・・・私・・・帰らないと・・・学校が・・・お願いです、返してもらえませんか・・・」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる導師様の目が痛くて、目を逸らせてしまった。真剣だったから、余計に怖かった。この現実を認めろと責められているようで。
私は認めたくない、こんなこと認められない。
だってついさっきまで、みんなと同じように勉強してて、笑って、あと少しで授業が終わるから帰り道にアイスを買って帰ろうかなって。
明日も同じような毎日が来るんだと思ってた。友達と一緒に笑って、かったるい勉強をして遊んで・・・。
まさかこんな形で壊れてしまうなんて思わなかった、やりかけの課題だってあるし、まだ習ってない歌だってあったのに。
高く結い上げた髪をはずして、背中に流す。少しでも楽になればと思ったけれど、胸が重い、頭が痛い。
「残念ながら、私は返す術を知りません。ですが、この世界を知ることで、ラサ様を返すことができる者を知ることができるでしょう。」
「ラサって・・・呼ばないでください。私は礼です。神月礼です、ラサじゃない。」
「・・・では、レイ様。いましばらくはここにお留まりくださいませ。」
深く、深く頭を下げる導師様にひどく胸が痛む。
一体誰を責めればいいのか、誰を憎めばいいのだろう。いや、そんなことを言ってもどうせ私は誰も憎めないし責めることもできない。
導師と敬愛されている人が、こんな小娘に頭を下げてここにいてくれと頼んでいるのにそれを通り越して自分の感情を押し付けることは理に反する。
ああでも、今ここでそんなことどうでもいいから元の世界に帰してと叫んで罵ることができたらいいのに。
両手をそろえて、こちらも深く頭を下げる。
自分の長い黒髪が一房、肩から滑り耳元を掠めて涙のように地面に垂れた。
「わかりました。何が分かったのか自分でも分かりませんが、分かったことにしておきます。・・・よろしくお願いします、お世話になります。」
「ラ・・・レイ様、頭をお上げください。貴方は頭を下げられることはあっても、下げることがあってはなりません。」
「人に礼を尽くすのは、たとえ神であっても人であっても変わらないことだと考えています。それに・・・導師様、わからないんです・・・神様だなんていわれても・・・せめてここでは人間として扱ってもらえませんか・・・?」
困ったような導師様の声がするけれど、了承してくれるまで決して頭を上げないつもりでいた。
こんな敬語で縛られた生活、二日と耐えられない。ただでさえストレスで頭痛がしているのに、神様として祭られるなんて堪忍してほしい。
少し思案するような空気が頭の上でしていたけれど、しばらくして温かい手が頭を撫でた。
驚いて顔を上げると、導師様が優しく微笑んでいた。
「では、そのときが訪れるまで、恐れ多いことですが・・・私はレイ様の家族代わりとなりましょう。クォーツと私と、一つの家族として、ここに滞在していただけますか?」
視界が涙で溢れた。ぽろぽろと頬を流れ落ちていく涙をぬぐって、二人に分かるように大きく大きく頷いた。
元の世界でなかったものが、この世界で貰えた。仮初の家族だけれど、私にとって初めての家族。
少しだけ照れているクォーツと、優しく頭を撫でてくれる導師様と。
例えようもなく嬉しくて、幸せで、導師様の背中に手を回して抱きついた。
「ありがとう・・・ありがとう・・・。」
ふと肩にあたたかいものを感じて振り返ると、クォーツがぼろぼろ泣きながらぺしぺしと肩を叩いていた。
なにやってんのかしら・・・もう、ほんとにかわいいんだから・・・。
導師様から手を離して、泣きじゃくっているクォーツにも同じように抱きついた。なだめるように頭を撫でてあげると、泣き声が大きくなった。
「ほら、泣かないで・・・これからもよろしくね・・・?」
「うん!うん、よろしくね・・・!」
なんだかな、ちょっと抜けた弟ができたみたい。
大きな声で鳴き始めるクォーツの背中を撫でて、クスクスと笑ってしまった。
なんでクォーツがそんなに泣くのよ、私が泣けないじゃない。
後ろを振り向くと、優しい笑顔を浮かべている導師様が見えた。
そうだ、もう導師様と呼ぶのはやめよう。おじいさんと呼びなさいといわれていたんだから。
その日は嬉しさと安心したことで二人で泣いて泣いて、泣きつかれて眠ってしまうまでずっとぐすぐすやっていた。
おじいちゃんはずっと笑顔でいて、ときどきハンカチやティッシュを持ってきてくれた。そう、クォーツは最後まで泣き止まなかったけれど最後は二人でなんでこんなに泣いてるんだろうって顔を見合わせて笑った。
おじいちゃんが用意してくれた部屋で、やわらかい布団に入って目を閉じるとすぐに睡魔が襲ってきて落ちるように眠ってしまった。
元の世界ももちろん大事だけれど、なんだかこちらの世界も好きになれそうだ。
一人だった私に、家族だよって言ってくれたこと。
きっと一生忘れられないと思う。