第2話 傷に触れて、心に触れて
──今日も、空は雲ひとつなく晴れている。
「……またダメかぁ……」
ぽつりと独り言が漏れた。
照りつける太陽に、村の地面はすっかり焼けて、土は硬く、ひび割れている。
「ほんと、雨なんてぜんぜん降りそうにないよね……」
窓の外を見上げてから、私はまた作業台へと視線を戻した。
今夜は見張りの当番。
だからその前に、武器の手入れを済ませておこうと思ったのだ。
革の鞘を外し、細かい留め具の動きを確認して、布でていねいに拭いていく。
手を動かしていないと、心が乾いていきそうで、怖いのだ。
水は、もうほとんど底をついている。
そこへ、玄関の外からバタバタと駆けてくる音がした。
「レナ姉ちゃーん!! 大変だ──っ!! トカゲおじさんだぁ──っ!!」
「えっ?」
思わず手を止めて、顔を上げた。
慌てて飛び込んできたのは、村の子供、トルくんだった。
顔を真っ赤にして、肩を上下に揺らしながら叫ぶ。
「こ、こんな……こーんなでっかいトカゲを、おじさんが、一人で引きずって来たんだよっ!!」
両手をめいっぱい横に広げながら、トルくんは大興奮で身振りを交える。
「トカゲって……もしかして、砂トカゲのこと?」
私は、少しだけ真顔になった。
砂トカゲ。
このあたりの砂地で出没する、体長5メートル級の大型モンスターだ。
普段の動きは鈍いけれど、跳ねるように突進してくると本当に厄介で……
撃退するだけでも、戦える大人が五人は必要とされている。
倒せれば、肉はとても貴重。
一頭で、村の人間十数人が数日はしっかり食べられるくらい。
焼いても煮てもクセはあるけれど、食べ慣れれば美味しい部位もある。
でも──
ひとりで仕留めるなんて、正直考えられない。
それに、運ぶにしたって……
屈強な馬に二頭立ての馬車でようやく引ける重さだ。
「……はいはい、落ち着いてね? じゃあ、一緒に行ってみようか。連れてってくれる?」
私は笑いながら立ち上がり、急いで鞘を留め直した。
途中の手入れは後回し。子供の話が大げさなのはいつものことだけど──
念のため、装備はしておいた方がいい。
「うんっ! レナ姉ちゃん、早くっ!」
トルくんは私の手をぐいぐいと引っぱりながら、玄関を飛び出していく。
その声を聞きつけて、周りの子供たちも
「なになにー!?」「トカゲってホントー!?」とワラワラ集まってきた。
私たちはちょっとした行列みたいになって、村の外れへ向かって歩いていく。
──そして。見えた。
村の出入口。
そこに立っていたのは、ひとりの見張りの青年と、見たことのない“誰か”。
その男は、日焼けした肌に、ちょっと不精なヒゲ。
服装も、この辺りではまず見ないような奇妙な……でも、妙に機能的な格好をしていた。
初めて見る顔立ち。異国の人かな?
でも、何より──
少し、かっこよかった。
けれど──その背後を見て、私は思わず足を止めた。
「……うそ……」
巨大な灰色のトカゲ。
甲殻に覆われた背、ぬめりを帯びた肌。
地面に沈むように横たわるその異形は、明らかに“本物”の砂トカゲだった。
(ひとりで……引きずってきた、の……?)
「ほらーっ!! ほんとにトカゲおじさんでしょ?!」
振り返ったトルくんが、得意げに叫ぶ。
私は、男とトカゲを交互に見つめながら、思わず口元に手を当てていた。
「……ほんとに、ひとりで……」
信じられなかった。
でも、目の前にある現実が、それを否定させてくれなかった。
(この人は、誰……?)
(どこから来て、なにをして、なんで──)
聞きたいことが、山ほどある。
それに──
ほんの少しだけ。
気になる、かも……。
* * *
「……話の続きなんだが」
修平はゆっくりと、視線を青年に戻した。
不信も敵意もない──だが、しっかりとした目だった。
「この肉、どうせ 俺ひとりじゃ、持て余す。悪くしちまうし、それに……」
ニヤッと口の端を上げて、右手で杖代わりの銀パイプを、地面の石に軽く──
カツンッ
太陽の下、響いたその音には、不思議と力があった。
「……水、困ってんだろ?」
まるで、“ここが俺の出番だろ”と胸を張るように。
異国の顔立ちも、異様な服も、腰に据えた違和感だらけの道具も、今この男の発する言葉には、どこか安心感があった。
けれど、青年は気圧されていた。
修平が悪いわけじゃない。
ただ、あまりに“圧”が強い。
(す、すごいグイグイくるじゃん……)
視線を泳がせた青年は、近くに佇むレナの存在に気づいた。
「レ、レナさん……っ」
「はい?」
彼女が小首をかしげる。
「交渉……というか、その……砂トカゲのこともあるし、説明とか……代わってくれないかなっ?」
「えっ、わたしが?」
「う、うん……この状況、ちょっと荷が重いというか……」
周囲の子供たちが、くすくす笑いながら「がんばれ見張りー」なんて茶化していた。
レナは少しだけ苦笑しながら、前へと歩み出る。
「……はじめまして。わたし、レナって言います」
「おう、修平だ。村瀬修平。……まぁ、外国人みたいなもんだ」
「はい、えっと……いま、お水のこと……言ってましたよね?」
「ああ。水なら出せるぜ」
修平は腰袋に手を伸ばし、使い込まれたレンチを取り出した。
革手袋をしっかりとはめ直し、地面に膝をつく。
「このあたり、井戸はもう干上がってるんだろ?」
「……はい。もう何年も、まともな雨が降っていなくて」
「なら、試す価値はあるな」
彼は手にしたパイプレンチの柄を軽く叩き、まるで祈るように目を閉じる。
「……生成」
──ゴシュッ。
銀のパイプが一本、砂を割って伸び上がる。
見慣れぬその管が、太陽を鈍く反射しながら、修平の足元にしっかりと立った。
「……な、なにこれ……!?」
「えぇ──っ! 地面から管が生えたー!!」
子供たちが大はしゃぎで飛び跳ねる。
「これが“配管”だ」
呟くように言いながら、修平は継手をひとつ生成して取り付け、向きを地面に向けた。
そのまま、ゆっくりとパイプの先に触れる。
「放水──」
──シュボッ!!
細く、けれど確かに──水が流れ出した。
「っ……!」
「え、えっ……これ、水……? ほんとに、水……!?」
レナは思わずパイプに駆け寄り、手を添える。
指先に、確かに感じる冷たさ。
透き通った水が、キラキラと輝きながら流れていた。
「……ほんとに、水だ……!」
どこかで、誰かが嗚咽を漏らした。
「お母さーん!! 水が出てるーっ!!」
「見て見てっ、本物だよ! 本物の水がっ!!」
数人の子供たちが村の中へ駆け戻っていく。
それを追いかけるように、大人たちもちらほらと顔を覗かせた。
「……ど、どういうことだ? 水? 本当に水があるのか!?」
「砂の中から……!? こんな、突然……?」
そんな戸惑いの中──
修平は、ゆっくりと立ち上がる。
「配管ってのはな」
そう言って、彼は蛇口のように手をひねる仕草で、水量をやや増やす。
「水を通して、人を生かす仕事だ。俺の世界じゃ、そりゃ当たり前だったけど……」
その言葉の最後に、ほんの少し、寂しさがにじんでいた。
「ここでも……そうでありゃ、いいよな」
レナは、何も言えずにいた。
ただ、彼の横顔を、静かに見つめていた。
そして、その水のきらめきを、ずっと、忘れないと思った。
──この人は、命を繋ぐ人だ。
そう、心のどこかが告げていた。
ふと、視線を落とす。
砂の上を、透明な水が静かに流れていく。
太陽に照らされて、白い光をはね返しながら。
その様子を見つめるうちに、レナの中に──
“もっと、この人の手が見たい”という想いが、そっと芽吹いていく。
「……やっぱ、問題はそこだよな」
修平は、膝に手を置いたまま、出しっぱなしの銀色のパイプを眺めていた。
水は出せる。
けれど、それは“今この場に自分がいるから”できること。
村の人間が自由に使えなければ、ただの見せ物で終わってしまう。
(……日本じゃ当たり前のことだったのにな)
点検口の脇で、レンチ片手にバルブ交換してた日のこと。
工事現場の片隅で、通水確認の声を飛ばし合っていた仲間たちの声。
──水は、俺が出すだけじゃ意味がねぇんだ。
「……単純に、バルブでもつけてみるか?」
そうつぶやきながら、修平は腰袋に手を差し入れる。
意識を集中し、念じるように呟いた。
「……ゲートバルブ、生成」
──ガチャン。
掌に重さが宿る。
無骨な鋳鉄製の筐体、両側フランジに、ずっしりとしたハンドル。
小型配管用のスタンダード、25A相当のゲートバルブだ。
「よし……上手くいったな」
小さく頷くと、さっそく水の出ていた配管の中間にフランジをはさみ、手早くねじ込む。
ラチェットレンチでぐるぐるっと、共に生成されたボルトを締め、ハンドルがくるくると回ることを確認。
「レナさん……だったか?」
修平が顔を上げ、近くで見守っていた少女に声をかける。
「えっ?」
レナは、びくりと肩を跳ねさせた。
「これ。試しに、ひねってみてくれるか?」
「は、はいっ……!」
少し戸惑いながらも、レナはそっと歩み寄る。
目の前に現れたその“異国の金属の塊”──
無骨で重そうなハンドルに、思わず身構えながらも、恐る恐る両手で握った。
「……こう、ですか……?」
「うん、左にひねってみな。反時計回りだ」
「こ、こう……?」
──静かに、金属が動いた。
音はほとんどしない。
ただ、ぎりぎりと手応えが伝わってくる。
回る感触と共に、わずかな緊張がほぐれていく。
そして──
「……わぁっ!」
レナの指先から伝わる確かな手応えと共に、
──シュッポォォォ……ッ!!
銀のパイプの先から、
さっきより勢いの増した清水が、見事に噴き出した。
「水、出たっ!!」
「ほんとだーっ!!」
子供たちが一斉に歓声を上げ、我先にとバルブに群がってくる。
「僕もやりたいっ!」「わたしも触ってみたいーっ!」
「うぉ、こらこら! 押すなって!」
「あーっ! ハンドル回しすぎると止まっちゃうからねーっ!」
わちゃわちゃと群がる子供たちに押されながら、レナは思わず吹き出した。
「ふふっ……もう、ちょっと待ってってば!」
その様子を、修平は後ろから見守っていた。
パイプの端を杖のように持ち、にやりと笑って。
「……こんなもんなら、いくらでも作れるからよ」
くるりとレンチを回しながら、軽く肩をすくめる。
「あとで、適当な場所教えてくれな。何カ所か設置しときゃ、使い勝手もよくなるだろ」
レナは、ふと振り返った。
パイプに手をかけながら、少しだけ、真っ直ぐに。
「……修平さん」
彼女は一呼吸置いて──
「……ありがとうございます……っ」
その声は、まるで噴き出した水と同じくらい、
真っ直ぐで、透き通っていた。
ほんのわずかに、声が震えていたのは──
きっと、涙をこらえていたからだ。
修平は、何も言わずにレンチを肩にかけたまま、
「……へへっ」
と、ひとつだけ笑った。
──小さなバルブが、静かに、くるりと回る。
それが、この村に初めて現れた、“希望のハンドル”だった。
────
「……これで、とりあえずは、水の心配はいらねぇな」
パイプを杖のように地面につきながら、修平は息を吐いた。
ひと仕事を終えた男の顔には、どこか満足げな色が浮かんでいた。
ふと視線を横にずらし、地べたに転がる巨大な砂トカゲをカツンと軽く突く。
「コイツはどーする? どっかに運ぶか?」
その一言に、レナが小さく息を呑んだ。
「……運ぶって……修平さん!? 本当にこれ、一人で引きずって来たんですか!?」
「そーだけど?」
悪びれた様子もなく、修平はニヤリと口元を緩める。
「信じられない……っ! 砂トカゲって、力の強い馬でようやく引けるくらいなんですよ! 普通の馬なら、二頭引きでも厳しいんです!」
「だったら 俺は、二馬力ってとこか?」
どこか得意げに、軽口で返す修平。
レナは唖然としながらも、その視線を横たわるトカゲの頭へと移した。
「……それに、このトカゲ、頭が……潰れてますけど……これって、まさか……」
「コイツで一撃ってな」
肩をトントンと叩きながら、修平は腰袋から抜いたパイプレンチを掲げた。
それは、戦士の剣でも、狩人の弓でもない。
ただの道具──けれど、それを手にする修平の目には、どこか誇らしさが滲んでいた。
レナはレンチを見つめ、それから、彼の目を見た。
嘘はない。むしろ、ほんの少し“褒めてほしい”という少年のような無邪気さが見える。
……もう、ほんとに……なんなんですか、この人。
レナは頬が熱くなりそうな自分を抑えて、そっと口を開いた。
「修平さんって……戦士か、冒険者なんですか?」
「おっ、冒険者って職業があるのか。さすが異世界──」
「えっ?」
「……ああ、いや、こっちの話」
言葉を濁すように笑ってから、修平は少し姿勢を正した。
「俺は“配管工”って職業だよ」
「配管……工?」
小首を傾げるレナの仕草に、修平は思わずドキッとしながらも、努めて平静を装った。
「まぁ、こんな感じにパイプを通して、人に水を届ける仕事だ。地味だけどな」
「へぇ……っ」
レナの目が、きらきらと輝き始める。
──が。
「ま、そんな話はあとでゆっくりな」
修平が再びトカゲをパイプで指し、空気を切り替えた。
「こいつ、邪魔にならねぇか?」
「そ、そうでしたねっ!」
レナは慌てて頷き、近くで子供たちと水遊びをしていた初老の男へ呼びかけた。
「村長ー! このトカゲ、どうしますかー!?」
「おうおう、そーじゃの!」
子供に水をかけられながらも、村長はにこやかに振り返った。
「まずは、ラサリナ村を代表して礼を言おう。水を、そして砂トカゲの恵みを、本当に感謝しますぞ!」
「いや、大したことはしてねぇって」
照れくさそうに頭をかきながら、修平は笑う。
「少し休ませてもらうしな」
「そーかそーか、なら遠慮なく。今夜は宴じゃ、宴! このトカゲは中央広場にでも運んでもらえると助かるのう。おっと、ではまたあとでな」
子供たちにせがまれながら、村長は再び水のほとりへと戻っていく。
「よし──」
革手袋のまま、修平は手をパンと打ち鳴らした。
「そーゆーこった。ちょいと道を空けてくれー!」
そう言いながら、ちらりとレナに目配せし、ずるずるとトカゲの尻尾を掴んで引きずり始める。
「乗っていいの!? やったー!」
「わたしも乗るーっ!」
子供たちが大はしゃぎでトカゲの背に飛び乗る。
抱っこをせがまれて、困った顔の修平。
「持ちますよ」
レナが柔らかく微笑んで、杖代わりのパイプに手を差し出す。
「ああ、助かる」
笑顔で渡されたパイプを、レナはそっと胸に抱え込んだ。
修平は子供をひょいと肩まで持ち上げる。
「うわー! 高いーっ!!」
彼のたくましい腕にしがみつく子供──
まるで肩乗りペットのように、満足げに揺れている。
そんな様子を、レナは胸元にパイプを大切そうに抱えながら見つめていた。
──修平さん、素敵……。
その頬には、少しだけ照れくさそうな赤みが差していた。
「よいしょっと……っと。もうちょいだな」
ずるずると砂を滑るように、修平が引きずってきた巨大な砂トカゲの死骸が、ラサリナ村の中央広場に横たえられた。
既に数人の村人たちが、作業台や水桶、大ぶりのナタや石包丁を準備して待ち構えていた。日除け布の下、汗を拭いながら談笑する様子は、どこか“仕事前の職人たち”を思わせる。
「……あんたら、解体担当か?」
子どもをそっと地面に下ろしながら、修平が声をかけると、男たちは一斉にこちらを見た。
「えー!もっと乗ってたかったのにぃー!」
降ろされた男の子がむくれてそう言うと、修平は軽くその頭をわしゃわしゃと撫で、ナタの並んだ台に近づいた。
「ほれ見てみろ? こいつでケガしたら、めちゃくちゃ痛ぇぞ〜?」
冗談めかしてナタを手に取る素振りをすると、子供たちは「うわああ!」と笑いながら逃げ出していく。
「はっは、いい顔してるな兄ちゃん」
準備を進めていた年配の男が、親指で作業台を示しながら言った。
「ソイツは目立つからな。やるなら、きっとここだろうと思ってよ」
「段取り八分、仕事二分ってか……どこの世界も変わんねぇな」
その手際の良さに感心しながら、修平は軽く会釈し、レナのもとへ戻った。
「パイプ、ありがとな」
レナに預けていた杖代わりのパイプを受け取ると、修平は彼女を気遣うように言った。
「 俺にかまってて、大丈夫なのか?」
「問題ないですよ。水場の候補、あとで一緒に見て回りたいですしね」
そう答えるレナの声に、ほんの少しだけ照れが混じっているのを修平は感じた。
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらうかな。いろいろ聞きたいこともあるし」
彼は広場を見渡して言った。「……こいつら、いい仕事しそうだな」
「村では、狩りの経験がある人が中心になるんです。……私も、けっこう上手ですよ?」
少し得意げに胸を張るレナ。
「おお!? そいつは意外だな……って、あ、いや、悪い。今のは失礼だな」
気まずそうに笑う修平に、レナはイタズラっぽく目を細める。
「そんなに、可憐に見えました?」
「……いや、わりぃ。見えた」
そんなやり取りの横で、村人たちは解体作業に取りかかっていた。ナタが骨に当たる鈍い音が響く。
ふと思い付き、修平は腰袋からカッターナイフを取り出して声をかける。
「これ、使えるかも」
渡されたカッターを試した村人は、その切れ味に目を丸くした。
「うおっ……すげぇ切れ味だ! 兄ちゃん、これ武器か!?」
「いや、 俺の国じゃ文房具みてぇなもんだ」
「ぶ、文房具ぅ……? 修羅の国か……」
周囲から笑いが起こり、現場に少し和やかな空気が流れる。
作業はさらに捗り、トカゲの厚い皮が丁寧に剥がされていくのを眺めながら、修平はふと隣のレナに問いかけた。
「なぁ、この辺って……どんな国なんだ? 砂漠ばっかりなのか?」
「えっ……?」
レナは意外そうにこちらを見つめた。「修平さん、本当に何も知らないんですね」
「まぁ、ちょっと事情があってな」
「そうですか……じゃあ、説明しますね」
そう言うと、レナは細い棒切れを拾い、地面の砂にゆっくりと線を引き始めた。
「この大陸は、《ルフランティア大陸》って言います。ここが南東で……このへん一帯が全部、砂漠なんです」
「私たちがいる《エルミード王国》は、その真ん中あたりにあって、地下の水脈とか、泉の上に村や都市があるんですよ」
「へえ……水が命ってやつか」
「ええ、水と鉱石。この二つを持つ国が強いんです。交易もあれば争いもあって、エルミードはちょっと慎重な国なんですけど……」
「このラサリナ村も、元々は井戸が生きていて水に恵まれていたんです。でも、四ヶ月くらい前から水が出なくなって……ずっと苦しかった」
レナは地面を見つめながら、少しだけ声を落とした。
「でも修平さんが来てくれて、水が戻って……また、活気を取り戻せるかもしれないって……思ってるんです」
その横顔に宿る、ほんのわずかな希望の光を見て、修平は静かにうなずいた。
「……間に合ってよかった。子どもたちの笑顔、守れてなによりだ」
その言葉に、レナがそっと顔を上げる。
──砂の光を反射してきらめく瞳が、まっすぐに修平を見つめていた。
修平もまた、優しくその視線を受け止める。
言葉はなかったが、ふたりの間に流れた一瞬の静寂が、確かに気持ちをつないでいた。
ほんの一瞬だけ、時間が止まったような──そんな空気が、そこにはあった。
──
ふと、修平は思いついたように尋ねる。
「そういやさ。……この世界って、“魔法”ってあるのか?」
「ま、魔法ですか?」
レナはきょとんとした後、少しだけ笑った。
「おとぎ話の中では、たまに出てきますよ。“火を操る魔女”とか、“空を飛ぶ剣士”とか。子どもたちは好きですね」
「魔道具なら、たまに見かけますけど……でも、魔法は現実にはないです」
「そっか……なんか、“魔法がないのに、やたら不思議な世界”って感じだな」
「それを言うなら、修平さんのほうがよっぽど不思議ですよ」
レナは小さくくすりと笑って、カッターで皮を剥ぐ村人を指差す。
「ほら。文房具ひとつで、村の人たちの仕事が変わっちゃった。……魔法より、すごいですよ」
その言葉を聞いて、修平はどこか照れたように口元を歪めた。
「……ま、そっかもな」
ちょうどそのとき、広場の向こうから子どもが駆け寄ってくる。
「トカゲおじちゃん! 皮はむけたー?」
「もうちょいだなー!」
修平が笑って答えると、子供たちの歓声がまた広場に広がった。
レナはそっとその笑顔を見つめる。
──ふと、修平の左腕に巻かれた手拭いに視線が向いた。
あざやかな色合いと、どこかこの国のものとは違う文様。
それが風にひらりと揺れた一瞬、レナの目が止まった。
(……あの布、見たことのない柄……)
小さな興味が、彼女の胸の奥にひとつ、灯った。
物語は、静かに次の場面へと移っていく。
砂トカゲの解体もひと段落し、広場には安堵と興奮の空気が流れていた。
調理場へと引き渡された肉塊を、村の女性たちが手際よくさばいていく。
そんな光景を眺めながら、レナがふと修平の左腕を見つめた。
手拭いの布に、陽の光が反射して美しい模様が浮かび上がっている。
「修平さん……その布、すごく素敵な柄ですね。
それも、修平さんの国のものなんですか?」
「ああ、これな?」
修平は手元を見て、くくっと笑った。
「“手拭い”ってやつでな。昔からある、便利な布だよ。
こいつの柄は“円重ね”。いろんな意味が込められてんだけど……ま、縁とか、つながりとかだな」
そう言いながら、作業服のポケットを探る修平。
「他にもあるぞ。たしか──」
ごそごそと数枚の布を取り出し、唐草模様、そして小さな鳥が並んだ格子柄の手拭いを広げてみせる。
「わぁ〜っ……どれも、ほんとに素敵……♡」
レナの目が、きらきらと輝いた。
その様子を見て、修平は少し照れながら、ひとつを差し出した。
「じゃあ記念に、これやるよ」
彼の指が掴んだのは、千鳥格子の手拭いだった。
「えっ……? でも……」
一瞬、遠慮がちに手を引きかけたレナだったが──
その表情には、確かなときめきと喜びがにじんでいた。
「……ありがとうございます。大切にしますね」
布をそっと胸元に抱え、レナは微笑んだ。
その目には、ほんのりと潤んだ光が宿っている。
「そんな大層なもんじゃねーけどさ」
修平は照れ隠しのようにパイプの端をカツンッと地面に当て──
「いってっ……」
わずかに顔をしかめた。
「えっ!? 修平さん、今、どこか痛みました!?」
レナが顔を強張らせて詰め寄る。
「あー……こいつだな。さっきのトカゲに、ちょいとやられた」
そう言って、修平は左腕に巻かれていた手拭いをほどく。
布の下には、縦に大きく裂かれた傷跡。
血は止まっていたが、まだ赤黒く、痛々しさを残している。
「ちょ、ちょっとっ!? なに普通にしてるんですか!?
こんなの、ちゃんと手当てしないと跡が残っちゃいますよ!!」
レナの声は、半分怒気を含んでいた。
「いやいや、大丈夫だって。このくらい、男の──」
「ダメですっ!!」
言葉を遮って、レナは怒ったように修平の“右腕”を掴んだ。
「今すぐ手当しますよ。ほら、こっち!」
強引に引っ張られるまま、修平はただ苦笑いするしかなかった。
(……ったく。でも、悪くねぇな、こういうの)
鼻の下が、ちょっとだけ伸びていたのは気のせいじゃない。
───
レナの家は、村の外れの小さな平屋だった。
白い漆喰の壁に、干し草の香りがほんのり漂ってくる。
部屋の中はこぢんまりとしていたが、温かみのある木の家具と、
窓辺に並べられた小さな多肉植物が、どこか彼女らしい。
壁には手織りの布が飾られ、床にはふかふかの敷き毛布。
棚の上には、ハンマー型のペーパーウェイトや、小さな鍛冶道具も置かれている。
「……女子の部屋、か……」
ベッドにちょこんと座らされながら、修平は妙に緊張していた。
「修平さんは、そこでじっとしててくださいね!」
レナはキッチンらしき小部屋に行き、ゴトゴトと薬草や布を取り出している。
その背中からは「まったくもう……」という独り言が小さく漏れていた。
やがて、木製の洗面鉢と包帯を手に戻ってきたレナは、
修平の腕をそっと取り、真剣な表情で消毒と処置を始める。
使っているのは、薬草をすり潰した軟膏と麻布の包帯。
異世界らしい素朴な治療だが、どこか丁寧で温かい。
「……はい、これでよしっ!」
手際よく包帯を巻き終えると、レナはそれをそっと撫でた。
そして──つぶやいてしまう。
「……この人、この先、一人じゃ心配かも……」
「えっ!? なんだって?」
「な、なななっ……なんでもありませんっ!!」
レナは慌てて身を引き、顔を真っ赤にしたまま立ち上がる。
「そ、そろそろ暗くなる前に、水場候補、案内しますっ!」
「……ああ、頼むよ」
修平はちょっとだけ目を細めて微笑む。
その表情には、どこか“まんざらでもない”色が混じっていた。
そして──
夕暮れ色の村の道を、ふたりは並んで歩き出す。
次なる目的地へ、水の道を求めて。
───
村の外れ、わずかに窪んだ地形の中央に、それはあった。
──枯れ井戸。
石積みの外縁は、長年の風雨に晒されて角が丸くなっている。
砂埃が積もった蓋を修平が外し、内部を覗き込む。
「……こりゃー、完全に干上がってるな」
底は乾ききり、かつての水面の跡だけが虚しく残っていた。
「ここ、元々みんなの水場だったんです。……できれば、今後も使っていきたいなって」
隣で小さく口にしたレナの声音には、思い入れと願いが込められていた。
「なるほどな」
修平は井戸の縁に手をつき、質感を確かめるように指でなぞる。
「作りはしっかりしてる。下に水が溜まりさえすりゃ、十分に再利用できるだろ」
修平は井戸の縁に片膝をつき、革手越しに土を軽く押さえた。
「……生成」
その一言と同時に、地面の下から鉄製のパイプがすうっと生えてくる。
終端には自然とバルブの口が形成され、まるで地面から芽吹いた鉄の芽のようだった。
彼は慣れた手つきで、長さと口径の違うパイプを組み合わせ、二股に分かれる構造を形作った。
「片方は注水、もう片方は取水用にしとく。両端にバルブをねじ込んどいたし、村の誰でも扱える」
パイプの根元を軽くゆすり、安定しているのを確認した修平は、井戸の縁との角度を調整しながら位置を定めた。
ゆっくりとバルブを回す。
──チョロロ……チョロロロロ……
数秒の沈黙の後、水の音が響き始めた。
井戸の中に、わずかずつだが確かな“命の水”が満ちていく。
「……!」
レナが、小さく息を呑んだ。
どこからともなく、村の誰かが「井戸にも水が……」と呟いた。
それに気づいた人々が、広場からぽつりぽつりと井戸の周りへ集まり始める。
「これで、井戸は復活だ。ちょっと時間はかかるが、満ちれば普通に使える」
「修平さん、すごい……」
レナは井戸の縁に手を置き、水音に耳を澄ませながら微笑んだ。
「ほんとに、あっという間に……」
「ま、配管工ってのはそういう仕事だからな」
修平が照れ隠しのように笑う。
「配管工……って、さっきも言ってましたよね。どんなお仕事なんですか?」
問いかけるレナの目が、まっすぐに修平を見つめていた。
「 俺の国じゃ、水とかガスとか──建物の中に通して、使えるようにするのが“インフラ工事”ってやつでな」
手に持ったパイプを軽く掲げる。
「このパイプを通して、水を流したり、逆に排水したり……建物の“血管”を作るような仕事だ」
「建物の……血管」
レナはその言葉を反芻するように口にし、ふと、井戸に満ちていく水を見た。
「それって──とても、修平さんらしい仕事ですね」
微笑むその横顔に、修平も思わず息を呑んだ。
井戸の水音を背に、修平とレナは広場へと向かった。
まだ西の空に太陽の名残がある中、中央の調理場では、焼かれる肉の香ばしい匂いが漂い始めている。
「──なんか、祭りみたいだな」
焼けた砂の匂いに混じる、香辛料と煙の香り。
子どもたちのはしゃぎ声、大人たちの笑い声、肉を裏返す音。
活気が、広場いっぱいに広がっていた。
「この村では、あまり“お祭り”っていう文化はないんですけど……今日は、特別ですから♪」
レナが頬を染めて笑う。
「なんだか…… 俺も、ちょっとワクワクしてきたな」
修平が苦笑しながら腰袋をまさぐる。
そして──ひとつの木札を取り出した。
「なぁ、レナさん。ちょっと見てくれないか」
「え……?」
受け取った木札は手のひらサイズで、滑らかな木肌に何かが彫られていた。
レナは目を凝らすが──文字は、見慣れたものではなかった。
「……これ、何かが書いてありますね。でも、読めないです……」
「 俺が砂漠で目ぇ覚ましたとき、腰袋に入ってたんだ。理由はさっぱりだが──」
修平は木札を指で示す。
「ここに書かれてるのが、“スキル”らしい。“パイプ生成”──どうやら、 俺がこの世界で使える唯一の力だ」
「スキル……? それって……」
レナの声に、わずかな戸惑いと驚きが混じる。
「確かに、修平さんがパイプを出すの、見てましたけど……」
そっと木札に指を伸ばし、慎重に文字をなぞる。
「読めないけど、なんだかあったかい感じがしますね……。修平さんに、ちゃんと馴染んでるみたい」
「……なんの因果かねぇ」
つぶやいた修平の横顔は、少しだけ遠くを見ていた。
その目線の先には、広場で笑いながら踊り始めた子供たち──そして、水場を覗く村人たちの笑顔。
「でも──修平さんが来てくれて、本当に村が変わりました」
レナの言葉に、修平は肩をすくめた。
「そりゃ大げさだろ」
「いえ、ぜんぜん。あの水と笑顔が、それを証明してますよ」
ふと風が吹き、レナの髪がさらりと揺れる。
互いの視線が、わずかの間だけ交差して──
二人は、ほとんど同時に目を逸らした。
沈黙を破ったのは、修平だった。
「……で、酒は?」
「え?」
「こんだけ盛り上がってんだ。酒くらい出んのかなって」
「ふふっ、ありますよ。果実酒♪ 保存がききますし、村長さんが最後の水分として大事にとってあったはずです」
「お、そいつぁいい。祭りにゃ酒だ」
そう言って、修平は腰のパイプを軽く“カツンッ”と鳴らした。
そして二人は、笑い合った。
ささやかだけれど、心がほんのり温まる──そんな“この世界の夜”が、始まりを告げようとしていた。
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