第10話 ベルキアの影
──夕暮れ、ふたりはとうとう目的の地に辿り着いた。
眼下に広がるのは、畑と小さな建物が点在する村。
数は少ないが、家々の屋根にはちゃんと煙突がついており、所々には使われていない井戸の跡や、乾いた畑が広がっていた。
「……ここが、ベルキア村です」
レナがぽつりと呟く。
夕陽が村を包み込んでいるにも関わらず、その景色には“生活の温かさ”というものが感じられなかった。
「なんか……やけに静かだな」
修平が眉をしかめながら呟く。
音がない。
風の音すら、何故か届かないような錯覚に陥る。
「……おかしいです。前に来たときは、もっと明るくて、人の声も響いてたのに」
レナが辺りを見回す。
村の奥まで見渡せるが、人の姿がまるで見えない。
「これ、誰かの葬式でもやってんのかってくらいだな……」
軽口にも、どこか張りつめたような声色が混ざる。
そしてふたりが畑の脇道を歩き始めた、その時――
「キャ──ッ! 助けてっ!!!!」
甲高い悲鳴が、突然、沈黙を切り裂いた。
その声に、ふたりは同時に振り返る。
畑の端。枯れた作物の影から、若い女性が走り出してきた。
まだ二十歳そこそこの娘で、着古した上着の裾を翻しながら、こちらに向かって必死に叫んでいる。
──そのすぐ背後、耕作地の縁を走る溝の中に、黒く光る“何か”が蠢いていた。
土が、かすかに盛り上がっている。
わずかながら、砂が呼吸するように膨らみ、しぼんだ。
「……っ、来るぞ!!」
修平が即座に腰袋へ手を伸ばす。
ズボォッ!!!
乾いた畑の地面を割って、巨大な蟻が地中から飛び出した。
全長は人の身の丈を超える。
複眼がギラリと光り、カマのような顎がカチリと鳴る。
「くそっ、蟻か……!?」
レナがすぐに鞭剣を展開する。
蟻は、一直線に女性へと襲いかかろうとしていた。
──が、その瞬間。
「おらぁッ!!」
修平が腰袋から銀色の“ソケット”を引き抜いて、全力で投擲!
金属の塊が蟻の関節部に直撃し、ガクンと動きが鈍った。
その間に、レナが跳ぶ。
足元の土を蹴り上げながら、しなやかに、鋭く。
「そこっ!!」
裂帛の一撃。
鞭剣が伸び、砂蟻の頭部に打ち込まれると、ざくりと肉が裂け、体液が噴き出した。
蟻が悲鳴のような音を立ててのたうち回る。
「もう一匹、右!」
「任せろ!」
修平はパイプを取り出すと、スナップの効いた肩で“芯打ち”の構えを取る。
突進してきた砂蟻が、修平の目前で跳躍――
ガツン──ッ!
鋭い踏み込みと共に、地を蹴った修平の一撃が炸裂した。
振り抜かれたパイプの先端は、わずかに開いた甲殻の継ぎ目を見事に捉え、
そのまま“芯”へと──鉄塊をねじ込むように──打ち込まれる。
まるで杭を打つかのような音が、腹の奥まで響いた。
砂蟻は痙攣し、そのまま地面に崩れ落ちる。
「レナ、巣穴だ!!」
「はいっ!」
地面には、別の蟻が出てこようとしている“巣穴”が残っていた。
修平はすぐさま腰袋から“剣スコ”を取り出す。
武器とスコップの中間のような形状のそれで、勢いよく地面を削り始めた。
レナも“角スコ”を受け取り、手早く削れた土を押し固めていく。
「──っしゃぁ、埋まった!」
最後に修平が、砕いた蟻の甲殻を重し代わりに乗せる。
音もなく、蟻の気配が静まった。
「……っ、助かったぁ……!」
先ほどの女性が、呆然とした顔でふたりを見つめていた。
膝から崩れ落ちそうになりながら、それでも懸命に礼を言おうと口を開く――
「……はぁっ……はぁっ……」
助けられた女性が、肩を震わせながらその場にしゃがみ込む。
レナは鞭剣を畳みながら、そっと近づいて声をかけた。
「怪我はありませんか?」
「あ……はい、大丈夫……です。あ、ありがとうございます……!」
彼女は顔を上げ、ようやく修平とレナの姿をまともに認識したようだった。
土で汚れた服の裾を握りしめながらも、胸元できゅっと手を重ねて深く頭を下げる。
「……いきなり叫んじゃって、すみません。でも……ほんとに、助けてくださって……」
「いえ、無事でよかったです。あれ、よく出るんですか? この辺に……」
レナが問いかけると、彼女は顔を曇らせた。
「……はい。最近は特に、夜になると……どこからともなく現れて、畑を荒らすんです。穴もいっぱい開いてて……。もう、みんな怖がって、外にも出られなくて……」
「畑を荒らすってことは、餌を探してるのか?」
修平がやや低い声で尋ねた。
「たぶん……でも、なんか、おかしいんです。前はこんなに頻繁に出なかったのに、ここ最近、急に数が増えて……」
「なるほどな……」
修平は顎に手を当て、ちらと後ろの畑に視線を向ける。
先ほどの蟻が飛び出してきたあたり。
土の中にはまだ、巣穴の名残が感じられる。
「あの巣穴……崩しはしたが、本丸はまだありそうだな」
「この辺り、きっと巣が……深く続いてるのかも」
レナも頷く。
「そうだ、あの……あなたたち、旅の方ですか? もしよければ、うちに来てください! 他の皆さんにも……紹介させてください!」
「紹介って、村の人たち?」
「はい。みんな、家に閉じこもってて……。でも、今日のことを話せば、きっと少し安心してくれると思うんです」
その表情には、安堵と希望が混ざり合っていた。
「じゃあ……甘えさせてもらおうか」
修平がパイプを肩に担ぎ直して、にっと笑う。
レナも、それに続いて歩き出した。
「そういえば、さっきはどうして外に出てたんだ?」
道中、修平が何気なく尋ねると、女性はぽっと頬を染めて視線をそらした。
「あ……えっと……姉夫婦の家で夕食をいただいてたんです。でも、その……お姉ちゃんたち、新婚で……ちょっと気まずいかなって……」
「………………」
修平とレナが同時に硬直する。
「だから、早めに失礼して帰ろうと思って……そしたら、あの蟻が……」
「ま、まぁ、人にはそれぞれ事情があるか……うん……」
修平が咳払いして、どこかぎこちない声で言う。
「そ、そうですよね。気まずいって……分かる気もします……よねっ」
レナもなぜかうつむいて頷いた。
その横顔が、ほんのりと赤い。
ふたりはちらりと目を合わせ、すぐに逸らす。
妙な間が流れる。
──砂の風が、どこか気まずさをからかうように吹き抜けていった。
「と、とにかく今日は、泊まっていってください! 寝る場所くらいしか……お出しできるものはないんですけど……」
「ありがとう。助かるよ。正直……ちょっと疲れてたところでさ」
「じゃあ、案内しますね! あの、うち狭いんですけど……」
その背中を追いながら、修平はぼそりと呟いた。
「……新婚かぁ。いいもんだよな、きっと」
「し、修平さん……!?」
「な、なんでもねぇよ! さ、行こうぜ!」
日が、ゆっくりと沈んでいく。
静寂に包まれていた村の空気が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
その夜、ふたりは──ベルキアの村人の家で、休息の時を迎えることになる。
夜が、ベルキアの村に降りていた。
小さな民家のひとつ。
そこに灯るのは、ランプの淡い橙色の光。
寝台代わりに用意されたのは、簡素な敷布団と毛布──そして、部屋の中央には湯を張った洗面桶と、乾いたタオルが並んでいた。
「……ふぅ、落ち着いた」
洗った顔を拭いながら、レナはそっと吐息を漏らした。
村の家は狭いが、よく手入れされていて、どこか懐かしい空気が漂っていた。
──そしてなにより。
(……隣に、修平さんがいる……)
耳を傾ければ、寝息と、微かに聞こえる衣擦れの音。
あの人も、いま同じように、旅の疲れを癒やしているはずだった。
(べ、別に……やましいこと考えてるわけじゃないし!)
慌てて顔を横に振る。
けれど、赤く火照った頬は冷めてくれなかった。
「……新婚、かぁ……」
不意に浮かんでくる、あの村人女性の言葉。
そして、修平の何気ない一言。
──「新婚かぁ。いいもんだよな、きっと」
(そりゃあ、そうだけどっ! でも、あんなふうに言われたら、意識しちゃうしぃ……!)
レナはひとり、布団の上でゴロゴロと悶える。
毛布に顔をうずめ、声を殺してじたばた。
(あの人のこと、嫌いじゃないっていうか……むしろ、けっこう……)
(……あのスコップを握ってた無骨な指で、わたしの手をぐいって引いて……
そのまま、胸とか……お尻とかに、触れられたら……っ)
ぶるっと震える。
(や、やだっ……なに想像してんのわたしっ!?)
「村が大変なときに、なに考えてるのぉ……っ!」
思わず枕に顔をうずめて、じたばたと布団の上で転がる。
けれど、熱は引いてくれない。
ごろんっ、と寝返りを打つと、掛け布団がズルッとずれ落ちた。
慌てて毛布を引き上げたレナは、胸元をきゅっと押さえて深呼吸する。
(明日は、ちゃんと魔物のこと、話を聞かなくちゃ……)
(水のことも……絶対、解決しなきゃ……)
(……なのに)
ちらり、と天井を見上げる。
静かな夜。
それでも、どこか落ち着かないこの胸のざわつきは──
風のせいではなかった。
(……修平さん。今日も、すごく頼もしかったな)
心の奥で、ポツリと漏れる小さな想い。
明かりが消えた部屋で、レナはようやく目を閉じた。
けれど、なかなか眠りの波はやってこなかった。
──こうして、ベルキアでの一夜が静かに、更けていく。
読んでくださりありがとうございます。楽しんでいただけたら嬉しいです。
ブクマ・★・感想が本当に励みになります。
誤字や読みにくい箇所があれば教えてください。
次回もコツコツ更新していきます。
引き続きよろしくお願いします。




