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秘匿の剣(ひとくのつるぎ) HIDDEN SWORD エピソード1

 第一章 真実へのとびら



 コンクリートの階段を勢いよく上ると、自分の足音がビョン、ビョンと変な音で反響してくる。すぐに2階の彼女のアパートの冷たい灰色の鉄の扉が現れる。ほんの1時間前、オレはこの扉から出たはずなのに、またここに来た。一体何をやっているのだろう。

 全く、時間とガソリンの無駄使いだ。

 いや違う。彼女から呼ばれたのだから仕方がない。

 そうだ。彼女はオレの彼女であって、彼女にしてみれば、オレは彼氏なのだから仕方がない。少なくとも時間の無駄ではないはずだ。

 呼び鈴を押す。ピン、ポーン。

 あー寒い。ケンジは手をジーンズの太ももに当てて擦った。

 ・・・あれ、遅いな。・・・ピポン!・・・もう一度押してみる。

 ・・・なんだよ呼び出したくせに。遅いな。・・・ピポ・ピポ・ピポン!

 ケンジは少しイラついて呼び鈴を何度も押しながら、扉の上から下までをキョロキョロと何度も睨みつけた。

「誰?」

 中からミドリの低い声がした。さっき電話したばかりなのに誰とはどういうことだ。

「誰って、オレ。開けてよ。」ケンジはノブを捻ったが、鍵がかかっている。

「なんで来たの。」

「は?なんでって、来てって言うからだろう?早く開けてよ。」

「帰って。」

「は?なに?」

「帰って。」

「なんでやねん。開けてよ。早く。」

「帰って。」

「はぁ?なんでやねん。開けろや。」

 グワァン。

 ケンジは扉の下の方をつま先で蹴った。

「やめて!静かにして!!」

「訳わからん。もう知らんからな。帰るわ!」

 何なんだ!全く意味が分からん。ケンジはぶつぶつ言いながら、さっき帰って、また今来たばかりのコンクリートの階段を、今までより大きな音を立てて降り、県営住宅の団地の中の歩道に、半分乗り上げて駐車しておいた、黒のハッチバックに乗り込んだ。すぐにエンジンをかけて、一回大きくエンジンを吹かした。

 キュヒヒ・・グワン・グボワァーアーン・・・。

 大きなエンジン音が、県営住宅の団地の敷地内に響き渡った。ケンジはあまり団地に迷惑をかけるのもいけないし、駐車違反している後ろめたさから、今度はできるだけエンジン音を低くして、ゆっくりと車を進めた。

 県営住宅の中の道路は、道路というよりも、車が1台やっと通れるくらいの遊歩道のような道幅だ。しかも、庭の芝生の間を縫うように曲がりくねっていて、散歩には丁度良いが、車はお断りですと言わんばかりなのだ。当然駐車禁止の看板が20mおきくらいに立っている。

 団地の敷地を抜け、国道に出る交差点まで車を進めたケンジは、左にウインカーを出し一旦停止すると、ハンドルを握ったまま右からやってくる車列を凝視した。そして車3台分くらい空いた隙間を見つけると、急発進してハッチバックを滑り込ませた。

 グワーァン・ギュギュキキー・キィー。

 FF車は音の割に、FR車のドリフトのような大げさな挙動は無い。そのため、割り込まれて慌ててブレーキを踏まされたほうのドライバーは、「うわっ、ヤバそうな奴が来た」だとか、「お、カッコいい」だとかという感情ではなく、単に「おいおい、なんだ!この面倒くさそうな奴は!」という腹立たしい感情が沸きやすい。

 そんなようなことは、ケンジの視界の隅っこで、斜めに傾けたルームミラーにも映っていたし、そうと解っていても、ケンジにとってはもうどうでもよかった。そんなことよりも、早く自分の部屋に帰って、一人でふてくされようという目的を遂行したかった。

 さっきは何分かかったかな。28分くらいか。あー、あの踏切、このスピードだと跳ねるなぁ。

 黒のハッチバックのスピードメーターは110km/hを指している。

 ズギャッ、ダン。

 おー、ヤベえ。どっか壊れたかもなあ。

 ケンジは一瞬そう思ったが、もう既に、緩やかな坂を登る途中にある次の信号で、右折車が頭を出してこないかどうかを考えていた。

 まぁその右折車が出てきたとしてもパッシングして無理やり止めさせるつもりなのだが。

 案の定、対向車線の赤のコンパクトカーが右折を始めた。

 パ、パアーッ!

 ケンジは手慣れた手つきでクラクションとパッシングを継続しつつ、交差点に差し掛かるところの路面の轍で暴れるタイヤとステアリングをコントロールして、コンパクトカーの鼻先をかわして直進した。

 わざとスピードを出した状態で、鼻先ぎりぎりを狙ってよける。

 さらに、次の交差点では最初からパッシングして相手の右折車に、自車の面倒臭さを十分にアピールしながら通過していった。

 何とか無事に、というか面倒くさい黒い車の周りで我慢と協力を強いられた人々のお蔭で、ケンジは自分のアパートから100mくらい離れた駐車場に車を入れることが出来た。

 今回は30分くらいだった。

 これはいつもとそう変わらない平凡なタイムだ。

 エンジンを切り、車に鍵をかけて、ケンジはアパートに歩き出した。

 チチン・・・カキン、パキ・・・チチン・・カキン。

 最高に熱くなっていたエンジンが、急に止められ、息をついている。

 ケンジは、ふと足を止め、空を見上げた。

 12月の弱い日差しがケンジの上半身を満たした。ケンジは深呼吸してブラブラとまた歩き出した。

 4階建てのアパートの1階部分にある駐車場には、同居者で同じ大学に通う1年後輩であるヒロの白いクーペは無かった。

 ケンジはヒロに同居を持ちかけたとき、家賃に入っている敷地内の駐車場を譲ってやったのだ。それからもう1年くらいになる。

(あいつって一体どういう生活してんだ。)

 ケンジはヒロの駐車スペースを見ながらそう思った刹那、(自分の方がアパートにほとんど居ないんだから、聞く資格無いか。)と思い返して、部屋に続く階段を1段抜かしで駆け上がった。

 ダンッダッダッダン。

 ガチャン、ギギッ。

 ケンジは鍵を開けて中に入り靴を脱いだ。

「ふう・・、ただい、ま、と、うわっ、な、なんなんだ!この煙!」

 ケンジは顔を上げた途端、2Kのアパートの部屋全体の上半分に、真っ白で濃い煙が溜って浮かんでいて、雲の下の様な光景に出くわしたのだった。

「こ、これ、け、煙って、か、火事か?!・・・どこ?どこが燃えてるんだ?」

 ゴボッ!ゴフッ・・・ゴボッ!ブシュシュッ!・・・ゴボゴボッ!

 それに一体何だ。このさっきからゴボゴボいう変な音は。

 待てよ・・・何か変だ、これは煙じゃない!息苦しくないぞ!・・・湯気だ!てことは、キッチン?いやいや、ヒロもオレも最近キッチンなんて使っていない。

 ん?お風呂場?!!

 このゴボゴボという音は風呂釜か?一体どうなってんだ?!

 あー、分かってきた。分かってきたぞ。

 そういえば、オレ、自分でお風呂入ろうとして風呂沸かしてたんだった!

 早く止めなきゃ!

 ケンジは意を決して、雲のような湯気を両手でかき分けながら風呂場へ入り、浴槽の脇にある風呂釜に近づいてレバースイッチを探した。風呂場の中は湯気だらけで真っ白だ。

 あー、あった。これだ。あちっ!

 レバースイッチは完全に熱くなっていて、とても触れる状態ではない。ケンジは浴槽を見ると、浴槽の水面は、もうすっかり湯の出る穴の位置くらいまで下がっているのがうっすらと見えた。

 そこから高温の蒸気と熱湯がゴボゴボと音を立てながら咳込むように噴出しているのだった。これが煙、湯気の原因だ。

「あー、これかぁ。びっくりした。でもこれは、ヤバい。」

 ケンジは両手で煙をかき分けつつ、大きな独り言を言った。

 そして、雲をかき分けて泳ぐようなしぐさで、ヒロの部屋とキッチンを挟んで反対側にある、自分の部屋のカーテンのレールに干したバスタオルを引っ掴み、風呂場に戻り、風呂釜のレバースイッチにかぶせてOFFにした。

 ガチン・・・ボンッ!

 ガスの火が消えた瞬間、不完全燃焼した周りのガスがもう一度小さな爆発音とともに燃えた。

 バシュッ!・・・ゴボッ!・・・ゴボ・・・ゴ・・・ゴボ・・・。

 少しずつ噴出の量が減り、間隔が長くなって、小さくなり、収まってきた。

 ケンジは風呂釜を冷やそうと蛇口をひねって浴槽に水を足そうとしたが、またゴボゴボがひどく噴出してきたのですぐにやめた。

 ケンジは、膝に手を置き、肩で息をしながら、空焚き状態にされた風呂釜が少しずつ冷めて静かに落ち着くまで、湯気の雲の下に腰を曲げた状態で観察し、その間、今回の顛末を思い出して、静かに反省していた。

 あーあ、何やってんのかなあオレ。

 風呂に水を溜め、風呂釜のスイッチをONにしたのは紛れもない自分であったし、その後ミドリからの電話で呼ばれ、感情を高ぶらせ、風呂のことはすっかり忘れて、ミドリのアパートに向かって飛び出していったのも正しく自分だ。

 いや、待てよ。

 よく考えたら、今帰ってきたから空焚きに気づいたけれど、もしあのままミドリの部屋に上がっていたら、そのまま泊まってくることになっただろう。

 ケンジはそう思うと、明日には火事の犯人探しが始まり、彼女の部屋に警察や消防が来て、また親に通報されるところを想像し、そのピンポーンという音を、彼女のベットで聞くことになったかもしれないと、背筋がちょっと寒くなった。

 (いやぁ、危なかった。火事にならなくて本当によかったなぁ。ヒロは彼女もいないし、行くところもないだろう。そうなったらオレが責任とって何とかしてやらないといけないけど、どうすればいいか分からない。助かったなぁ。)

 ケンジは風呂場を出て、薄い敷布団を敷いたパイプベッドで仰向けに寝転がった。

 膝を立てて足を組み、まだ少し天井に残った雲の下のような世界を、じっと見つめながら、ミドリのことを考え始めた。

 本当にあいつは面倒だ。なんであんなこと言うのだろう。オレをいじめて楽しいのか。全く腹が立つ。今度同じこと言って来たら何と言おうか。

 ケンジはもうふてくされるような気分も、ミドリに追い返されたことも気にならなくなっていた。

 少し眠りたかった。

 ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ・・・。

 電話が鳴った。

 ケンジはもうウトウトと寝はじめていたが、その呼出音でぼんやりと目を開けた。

 んはぁあー。

 ケンジは伸びをしながら、(なんだ?ひょっとしてまたミドリか・・・)と体を起こして、赤い受話器をとり耳に当てた。

「はい。」

「バカ。」

 ガチャ。プチ・・・ツー・ツー・・・。

 はぁ?出た。またこれだ。

 何なんだ?一体!

 ケンジはミドリに電話を掛ける。

 ダイヤル回線の固定電話は、相手の電話に繋がるまでに時間がかかる。

 ブツブチブチプチ・ブツブチブチプチ・ブツブチブチプチ。

 ツー・ツー・・・。

 は?話し中?なんなんだ全く。

 もう知らない。ケンジは電話を置く。

 ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ・・・。

 あーまた面倒な電話になりそうだ。

 ガチャ。

 ケンジは受話器を取った。

「ねぇ、あのさ・・・」

「バカ。」

 ガチャ。プチ・・・ツー・ツー・・・。

「くそっ!」

 もう寝る。

 ケンジはしばらく受話器を上げたままにして寝転がった。

 部屋にツー、という受話器からの音がしていたが、それはしばらくすると、ピィー!というけたたましい音になることをケンジは知っている。そうなるまでは眠ろうとしていた。

 ピィー!

 あぁ、もう鳴ったか。ケンジは眠れない体を起こして、仕方なく赤い受話器を本体に戻した。そして枕に戻った瞬間。

 ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ・・・。

 まただ。

 あいつずっとかけてるのか。全く。

 ガチャ。

 ケンジは、今度は無言で受話器を取った。

「・・・。」

「ねぇ。」

 ミドリだ。

「なに?」

「ごめん。・・・寂しい・・・来て。」

「え?・・・さっき行ったじゃん。」

「来て。」

「なんやねんもう。」

「・・・」

「・・・もう、待っとけ。」

 ガチャ。

 ケンジは電話を切った。

 ケンジは大きくため息をついた。さらにもう一度息を吐いてから、そのまま頭を両手でかきむしり、叫んだ。

「あー、なんなんだ!まったく!くそー!なんなんだオレはぁー!もうー!」

「・・・よし、しゃーない。行くか。」

 ケンジは車のキーを掴んで、換気のために開けておいた窓を閉めた。

 ケンジは自分で自分が何をやっているのか、全く嫌になったが、ミドリがしおらしい声を出すと、愛おしい気持ちが頭と胸から体全体に怒涛のように流れ、ほぼ一瞬で一杯になってしまう。これを止められず、そうなるともうミドリを好きな気持ちに逆らえなくなってしまうのである。

 つまり簡単に言うと、惚れているのだ。

 惚れた弱みとは正にこのこと。

「あぁ、情けない。」

 ケンジはとぼとぼと、車のキーを指でくるくる回し、うつむきながら駐車場に向かって歩いていった。

 ケンジは車に乗ると、ゆっくりと駐車場を出て、教習所で習ったばかりの初心者のときのような、腰を伸ばした姿勢と動作で、3車線の道路を右折レーンへ向かって、テンポよく車線変更した。右折レーンに着いたとき、ラジオから「翼の折れたエンジェル」が流れはじめた。

 ウゥイーン。

 ケンジは運転席と助手席の窓を下げ、風を入れた。

 音が車の中と外に風と共に流れ出すのを楽しんだ。

 肘をドアに乗せ、高架の下の交差点をゆっくりと右折した。そのまま一番右の車線をゆっくりと走った。

 ミドリの住む団地までは、このままほぼ直線だ。

 何回往復してるんだ、オレは。馬鹿じゃないか?うん、その通り馬鹿だな。やっと気がついたか?お前は本当に馬鹿だ。

 第一、ガソリンがもったいない。お金も無いのに。

 あー、喉乾いたなぁ、ミドリのところ行ったら、お茶でも飲ませてもらおう。部屋に入れてくれたらだけど。

 ケンジは三流の私立大学の三回生だ。

 困ったときだけ相談する、仲間のマサキから入手した、宿題レポートのコピーをコピーしまくって、何とか三回生になった。

 ミドリは二回生の時に、二個上のヒロシ先輩に連れて行ってもらった、短大生とのコンパで知り合い、付き合うことになったのだ。二人はお互い恋愛経験も少なく、お金もなかったが、ケンジの車であちこちデートを重ねて徐々に親密な関係となった。

 ミドリが短大を卒業する際、地元に帰って就職するか、ここへ残ってケンジと付き合いを続けるかの選択となった。

 ケンジはミドリと別れるのが嫌だったため、残るようお願いしたが、ミドリは最初、親に反対されたこともあり消極的だった。しかし、もしもこちらで就職が決まったら、残ってもよいという親の許可を得たため、その判断に委ねることになった。その後ミドリは見事、今の仕事である眼科の助手に就くことが出来たのだった。

 卒業後、ミドリは寮を出て、一人でこの県営アパートに応募してこの部屋を借りた。

 ケンジは車があったので引越しを手伝ってやった。

 このまま一緒に住むのは、お互いまだそこまでの関係を望んでいなかったのでやめていたが、しょっちゅうケンジはミドリの部屋に来ては泊まった。


 ブォーン、カチッ。・・・ギギッ。

 ケンジのハッチバックは、県営団地の歩道には先客がいて駐められなかったから、近くの喫茶店の前の道の脇でやっと息を止めた。


 階段をゆっくり登り、ケンジは呼び鈴を静かに押した。

 ピーン・ポーン

 ・・・ガチャ。

 ミドリの声は無く、素直に鍵だけが開いた。

 中に入ると、ミドリは夕飯の支度をしていた。

「お米研いでくれる?」

「オシ!いいよ。」

 なめこ汁と豚の生姜焼き、キャベツの千切りが、炊きたてのササニシキとともに完成した。二人は小さな居間の食卓でテレビを観ながら食事をして、片付け、お風呂、歯磨きと二人で淡々と仲良く夜を過ごした。

 眠る前、ケンジはミドリの首に左腕を差し入れ横から抱きしめた。

「ケンちゃん、わたしのこと好き?」

「うん。好きだよ。」

「ミドリは?」

「大嫌い。」

「あぁ、そう。・・・分かってるよ」

 いつもこうだ。二人はそのまま深い眠りに落ちた。



 朝まで寝ていた二人の枕元で、不意に電話が鳴った。

 ミドリは布団から体を伸ばし、その電話に出た。

「はい。」

「お宅の車が喫茶店の前に停まっていて営業妨害だと苦情が来ているのですが、違いますか?」

「あ、ちょっと待ってください。」

「ねえ、ケンちゃん、起きて。」

「ん・・・なに?」

「警察から喫茶店の前に車を停めてないか?って。」

「あっ!そうやった。まずい、すぐどける。悪い、そう言って。」

「えー、そうなの?わかった。・・・あの、すみません。すぐどかせますので。・・・はい。・・・はい・・・ええ、そうです。・・・はい、すみません。」

 ガチャ。

 ミドリは話し終えた。ケンジはもう鍵を持って部屋を出るところだった。

「もう。」

 ミドリは布団を頭まで被って眼を閉じた。

 ケンジはすぐに喫茶店のところまで走って行き、そっと車に乗って他の駐車できそうな路地を探した。朝になっていたので何度か止めたことのある場所へ路上駐車することが出来た。といっても駐車禁止なのだが。

「ふぅ、もうなんでこんなことに。もっと早く起きればよかった。」

 ケンジはミドリの部屋に戻り、布団に潜った。

 ミドリは起きていて、目玉焼きを焼いて朝食の準備をしていた。

「ケンちゃん、ご飯食べる?」

「うん。」

「じゃあご飯食べたら帰って。」

「なんで。」

「だって、車駐禁取られるよ。警察とか家に来るの嫌だし。」

「そうだな。分かった。帰るよ。」

 ケンジはミドリを後ろから抱きしめた。

「こら、危ない。やめて。」

「ごめんな。」

「はいはい。」

「オレのこと嫌い?」

「だーい嫌い。」

「あ、そう。たまにはスキとか言ってよ。」

「だって嫌いなんだもん。」

「あぁ、もう。分かったよ。」

 二人は向かい合って座り、まだ湯気の上がるご飯と味噌汁と目玉焼きに向かって、手を合わせた。

「戴きます。」

「戴きます。」

 二人とも、軽く頭を下げて、美味しそうな朝食に感謝しながら食べた。

 ミドリは東北の出身だからお米にはこだわりがある。

 この美味しいササニシキはミドリの母親が送ってきたものだ。

 ミドリは米の研ぎ方から炊飯器での炊き方、炊き上がってからの蒸らし方まで、しっかりとケンジに教え込ませた。

 ケンジはご飯を実に美味しそうに食べる。ミドリはそれを見るのが好きだった。

 仕事を終えてケンジがご飯を炊いてくれるのは助かったし、食費が浮いているのだから、仕事を提供するのは当然だとお互い、納得していた。洗い物もケンジが食べた時はケンジがすることにしていた。

「ご馳走様。あぁ、お腹いっぱい」

「ほらほら、寝たら牛になるぞ。」

「ンモォ〜」

「分かったから洗い物、お願いね。」

「よし。やるか。」


 その後、ケンジは自分の部屋に帰って寝ていた。

 親から電話があった。

「なんやお前、女のところへ泊ってたらしいやないか。警察の人からあなたの車が店の前に置いてあって邪魔だと電話があったぞ。どういうことや。一度帰ってきて説明しなさい。」ケンジは車の名義が親になっていたのを忘れていた。

「あ、ごめん。うん、、はい。明日学校あるから土曜に帰るようにするよ。」

「その女と付き合ってるって言うのか?やめとけ、やめとけ。早く別れなさい。お前は騙されとるだけやから。」

「そんなことないよ。」

 ガチャ。

 ケンジは落ち込んだ。親に反対されるのはきつい。今まで自分の好きなようにしてきたが、親には絶対に迷惑かけたくなかった。車も買ってもらって、仕送りももらっているのだから当たり前だ。

 ケンジはこの一件のあと、親に別れろと言われたことをミドリに話した。

 ミドリはそれを聞いてすぐに泣き始めた。

「ああ・・・私ケンちゃんの親に嫌われたのね。もう駄目かも。こんなことになって。・・・私、本当はケンちゃんと結婚とかも考えてたのに。どうしよう。・・・ほんとに・・・どうしよう。」

 ケンジはミドリがそんなことで泣くとは思ってもいなかった。

 しかも、結婚まで。ケンジは冷静になりかけたが、急いでミドリを慰めにかかった。

「え、ご、ごめんよ。」

 ケンジはミドリが結婚まで考えていたとは、夢にも思っていなかった。ケンジは今までミドリを、彼女だという肩書でしか考えていなかったが、この言葉を聞いて、ミドリが真剣だったことを知り、肩書の前に「結婚を前提とした」が付くことになり、一気に真剣味が増す事件となった。

「お、オレは別れるつもりはないからさ。泣かないで。ごめん、しばらくは泊まらないようにするけど。オレの中の気持ちは変わらないから。」

「・・・うん。」

 この時ケンジは、顔を少し上げたミドリが何か一つ大きな階段を上ったように大きく見えた。

(女は涙で一つ一つ強くなる)

 誰かがそう言ってたなぁ・・・ヒロシ先輩だっけ。ケンジはそう思った。

 しばらく会わずにいた二人は、少しよそよそしくなった。

 二人ともお金はきつかったが、もう少し自由な生活を考えていたミドリは、別の安いアパートを見つけて契約した。

 2か月後、その部屋に入れるようになり、ミドリは嬉しそうにケンジに話した。

 ケンジはまた引っ越しを手伝った。

 何となくこの部屋は二人の夢が叶いそうな温かい生活感のある部屋だった。3階で南向きの窓からは明るい日差しが入り、キッチンやお風呂は小さいけれど、どこかいい部屋だった。

 ベッドも買った。卵色のかわいい布団とピンクのカーペット。ベージュのカーテン。青の水玉のシャワーカーテン。こたつとこたつ布団はずっとこれだね。


 喧嘩した、抱き合った。殴り合い、愛し合う。泣く。大泣き。

 スパゲッティのミートソースがふすまに飛び散る。泣く。過呼吸。

「苦しい、ケンちゃん、助けて。」

「大丈夫か?」

「紙袋!ちょうだい!」

「はい、これ!」

「はー、はー、はぁ、はぁ・・・」

 片づける。掃除する。ご飯を炊く。お味噌汁を作る。お風呂に入る。

「ねえ、今日どこ行く?」

「京都。」

「えー!京都?行きたい!」

「行こう!」

「うん。」


 ねぇ、ケンちゃん、ずっと一緒だよね。うん。でもなぁ・・・わたし、ケンちゃんのこと嫌いだから。え?ほんとに?嘘だ。ううん、ほんと。そんなわけないよ。うふふ、ほんとだよ。だってケンちゃん子供だもん。わたしもっと大人の包容力のある人が好き。ふーん、そりゃ悪かったね。・・・ばーか。なに?なんだと。ばーか、ほんとに分かってないね。ばかって言うな。だってばかなんだもん。オレばかっていう言葉嫌い。ふーん、じゃあもっと言ってあげる。ばー。。。

 ケンジはミドリの口を押さえた。

「もうやめよう。」

「私ね。ケンちゃんとはもう付き合ってないよ。」

「何だよそれ。もう。」

 ケンジはミドリの胸に顔を押し付け、もう聞きたくないという気持ちを込めて、横から抱きしめた。

 ミドリは黙ってケンジに体を預けた。


 ケンジはミドリの本当の気持ちが分からない。もっと愛してほしいのか、本当は別れたいのか、本当は嫌いなのか。

 それとも、他に好きな男がいるのか。

 この間の親からの電話で別れろと言われたという話から、心が離れたのか。

 ケンジには全然分からない。そのことを聞くのが怖い。

 全く不安で仕方がない。でも好きだ。ミドリも本当は好きなのだろう。ただそう言うのが照れくさいだけだ。絶対そうだ。

 そうに違いない。


 季節がどんどん過ぎ、夏になった。


 一方、ミドリは将来のことを考えていた。

 来年4月からは何がどうか分からないけど、自分がどうしたいか、決めて進みたい。そう思っていた。

 ある日、ミドリは出張で近くに来た兄を部屋に呼び相談した。

 今も一人暮らしのことを親に反対されているのかどうか、ケンジとは別れた方がいいか。

 以前から気になって連絡をくれるヒロシさんにも会いたいがどう思うか。

 親元に帰ろうか、それとももう暫く仕事を頑張るか。

 お見合いは嫌だが、母が送ってきた写真だけなら見るか。

 などなど。。


 兄の話はこうだ。

 お前は好き勝手にやってきたし、まだ母さんも父さんも元気だから、仕事をしっかり覚えて、資格が取れたら松島に帰って来ればいい。

 そんな何処の馬の骨か分からない輩とは別れるほうが良いとは思うが、好きにすればいい。但し絶対に子供ができたなどという事にはならないようにだけはしてくれよ。頼むから。


 その夜、ミドリは一人、天井を見つめて考えた。

 やっぱりヒロシ先輩のところに行ってみよう。手紙で新しい住所や電話番号は知らせてあったし、いつでも遊びに来ればいいし、近くの駅まで来たら電話してくれたら車で迎えに行くからという親切な電話もくれていたからだ。

 此処からは電車で4時間くらいかかるだろうけど、直接ヒロシさんに会って、ケンジとのことをこの先どうしたらいいか、聞こうと思った。

 しかし、うわべでそう思うと、もう一つ、ミドリの心の奥にある秘密が目を覚まして占領し始める。

 ヒロシさんへの想いがどのくらいなのか、直接会って、自分に問いたかった。ヒロシさんはケンジと違って大人だ。何がどうかよく分からないけれど、芯があって、自分のやりたいことが定まっていて、そこに向かってひたむきに頑張っているような人だから、そこに惹かれている。尊敬もしている。

 好きなのかな。たぶんそう。

 どこまで好きなのか、そこは自分でもよく分からない。

 でもケンジとは何か種類の違う好きという気持ち。

 自分にはこういうヒロシさんへの想いのほうが合っているんじゃないかな。もしもワタシが、ずっと前からヒロシさんのことが好きです。と言ったら、、、。

 この気持ちをもし打ち明けたなら、ヒロシさんはどんな顔するかな。この気持ちをひょっとしたら受け止めてくれるかな。いいえ、そんなことをしたら迷惑かもしれない。それにあんなに素敵なんだから、とっくに彼女がいてもおかしくないし。

 ワタシなんか、きっとダメ。

 でも。

でも、ヒロシさんはワタシに優しいし。

 ミドリはそう思うと、怖くて、不安で胸が痛くなった。でもずっとそのことが心の中の真ん中の部分に重く硬く潜んでいて苦しいのだ。

 その代わりケンジは対照的で軽い。ほぼミドリの言いなりだし、いつも本音が言えて楽だ。喧嘩は嫌だけど、そうなった時は帰らせればいいとミドリは考えている。実際のところ、ケンジは今までもミドリに強く言われると従ってしまうのだ。

 今年の八月で、ミドリの市営住宅での暮らしも半年になる。お盆にはそれぞれの田舎で過ごそうねとケンジには話してあるが、実はミドリはヒロシ先輩の実家のある藤沢市に泊まりがけで行くつもりなのだ。ヒロシ先輩とは既に手紙で日も決めてある。

 ミドリはヒロシ先輩に会うことが楽しみで、胸が熱くなった。

 水着も持って行こうかな。先輩の前じゃちょっと恥ずかしいけど、平塚の海岸を目の前にしたら海に入りたくてたまらなくなるに決まってる。ひょっとしたらヒロシさんもサーフィン仲間の人を呼んでるかも知れないし。

 あーあ、来年の桜の咲くころになれば、ケンジとはどうなっちゃうんだろう。あのバカ。全く子供だからなぁ。何にも分かってないし考えてないだろうな。

 あれじゃ、将来もどんな仕事するのか分かんないなぁ。とても親に説明できないし、兄ちゃんにも味方になってとも言えないし、ホント困ったなぁ。


(ガチャン!)

 ミドリは、二泊分の荷物を詰めた黒のボストンバックを持ち、アパートの玄関に鍵をかけた。

 階段をゆっくりと降り、地下鉄の駅まで眩しい朝の光の中を真っ直ぐに前を見てミドリは早足で歩いた。


青い空に大きく白い雲がゆっくりとミドリの頭の上を超えて後ろへ流れていく。


(エピソード2へ続く)



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