6.一緒にいたいんだ。
もうすっかり日が暮れてまっ暗になった店への道を、志郎は息を切らしながら走った。古ぼけた崩れそうな店の前に立って、息を整えると入り口の戸に手をかける。だが、開き辛い戸は開いてはくれなかった。もうこんな時間だ、店主が鍵を閉めてしまったのだろう。
「くそっ…」
志郎は意を決して、どんどんと戸を叩いた。
「店長、店長!開けてくれ!」
そう叫んでもう一度戸を叩くが、店からは物音ひとつしない。これ以上騒ぐと近所迷惑になってしまう。なので仕方なく、志郎は戸の前に座り込んだ。幸い明日は休みだ。店主が鍵を開けてくれるまで、ここにいても構わない。両親に怒られてしまうかもしれないが、真夜中に飛び出してきた時点で覚悟は決めている。
どうしても、志郎は店主に会いたかった。何としてでも、彼に会いたかった。話をしたかった。彼の不機嫌な原因を知りたかった。出来ればそれを解決したかった。あの店主といると楽しいって、今では思えるようになった。だからこのまま自分との繋がりを、消してしまいたくない。
薄暗い明りの下で、志郎は借りた漢書を開いた。そういえば、まだこれを読み終えていない。開けてくれるか朝が来るまで、ここで読み終えてしまうのも良いだろう。志郎は薄ぼんやりとした看板を照らす明かりの下で、じっと本を読み続けた。
本の内容が中盤に差し掛かる頃、がらりという音が、志郎の背後で響く。驚いて振り返ると、不機嫌そうな店主が戸を開けて立っていた。座ったままだったので、志郎は慌てて立ち上がる。
「店長…」
「何をしに来た。私は帰れと言ったはずだ」
店主が冷たく、突き放すように志郎にそう聞く。やはりその口調には、どこか苛立ちのようなものが含まれている。けれどここで怖気付くわけにはいかない。志郎は意を決して、手に持っていた本を差し出した。
「店長から借りてた本。返そうと思って来たんだ」
そう言われた店主は、いささか驚いたように志郎と本を交互に見やる。もしかして、渡したことを忘れていたのだろうか。それを聞いた店主が、入れと促して奥へ向かう。志郎も、店主の後を追った。店の奥にあるテーブルに座った店主に、志郎は持っていた本を渡した。彼は何も言わずに、それを受け取る。
「全部読めなかったけど、すげえ面白かった。有難う」
そう言って、志郎は精一杯笑ってみせる。だが店主の表情は強張ったまま、ちっとも変わらない。
「他に用件は?もう無いのなら帰れ」
「店長…!」
何とかして帰らせようとする店主に、志郎が声を上げた。何とかしてでも、店主との繋がりを作りたい。このまま終わりたくない。対話をする。喜代の言葉を志郎は思い出す。自分の店主への思いを、すべて伝えよう。例えそのせいで彼と会えなくなったとしても、後悔は無い。このまま何も言うことが出来ずに終わってしまう方が、もっともっと嫌だから。
「オレ、この一ヶ月間、店長と一緒にいて楽しかった。だから店長が不機嫌な理由がどうしても分からないんだ。あの祭のときは、あんなに楽しそうだったのに」
そんな志郎の必死の言葉に、今日始めて店主の表情が驚きに変わる。
「店長、ぶっきらぼうだったけど、色んなこと、教えてくれたよな。それが嬉しかったんだ。だから、出来ることなら、ここでずっとバイトしてもいいかなって、思うくらいには、ここにいるのが楽しかったんだ」
志郎の告白を聞いた店主が俯く。そんな彼を志郎はじっと見つめた。嫌われてしまっただろうか。それもそうだ。自分はまだ一ヶ月程しか店主のことを知らないし、彼が今何を考えているのかさえ分からない。店主のようなサイコメトリー能力があれば、もしかしたら、もっとストレートに思いを伝えられたかもしれない。そこまで考えて、志郎はおもむろに店主の手を掴む。
「なっ…!」
志郎の予想外の行動に驚いた店主が、思わず声を上げる。でもそれに構わず、志郎はじっと相手を見つめたまま、手を握り続けた。自分の思いが、相手に届くまで。
「……いい、もういい、止めろ」
そう呟いてから、店主は振り払うように志郎の手から逃れる。
「お前の気持ちは分かった。だから、もう止めろ」
困り果てたように、店主がそんな拒絶の言葉を吐く。でも彼の言葉を聞く限り、志郎の気持ちは、きちんと店主に伝わったようだ。なので志郎は相手からの答えを、じっと待った。
「……私は、楽しいという感情が、良く分からない」
俯いたままの店主の口から漏れた言葉に、今度は志郎が驚いた。
「分からないのか?店長…」
「理解は出来ても、分からない。私はずっとひとりだった。この骨董品たちに囲まれて、本を読んでさえいれば、それで良かった。それが楽しい、という気持ちなのかもしれない。でもお前といると、それとは別の気持ちが、湧き上がってくる」
表情が見えないながらも、ぽつり、ぽつりと店主はそう語り続ける。喜代が言っていた通りだ。店主はきっと小さい頃から、外に出ることもほとんどなく、友人とも呼べる相手もおらず、本を読みながら、この骨董品屋で、ひとりで暮らしてきたんだろう。
もしかしたらこの人は、ひとりで生きてきたせいで、上手く感情というものを、処理できていないのかもしれない。他人との交流があまりにも少なかったから、どう振る舞えばいいのか、分からないのかもしれない。志郎は靴を脱いで、店主の座る一段高い床に立った。そしてそのまま、彼は店主の隣に座った。
「店長、オレのこと…どう思ってる?オレといて、どう感じた?」
そう穏やかに、それでいて真っ直ぐに志郎は問い掛ける。志郎にそう聞かれ、店主が少しだけ顔を上げる。珍しく、彼は眉間にしわを寄せ、悩んでいるように見えた。
「……最初は、ただツボのために仕事をしている高校生だと思っていた。だが、あの祭の日…お前が嬉しそうに笑ったとき、私も…嬉しかった」
しばしの逡巡のあと、店主が絞り出すかのように言葉を紡ぐ。それを志郎は黙って聞き続ける。ここで下手に口を挟むのは野暮ってやつだろう。
「祭に行こうと言ってくれたとき…嬉しかった。そんなことを言われたのは、初めてだった。だから胸が…温かくなった気がした。それに気付いたら、お前との別れが辛くて…どうしていいのか分からなかった…」
「店長も、オレといて、楽しかった?」
店主の言葉を聞いた志郎が、神妙な顔つきで問う。店主の発言を聞く限り、彼も自分と同じ気持ちだったようだ。ただそれに店主が気付かなかっただけで。でもそれは志郎の決めつけに過ぎない。だからこそ、本人にきちんと向き合って、問いかけなければならない。答えを導き出さねばならない。
「楽しかった……そうなのかもしれない」
志郎の発言を聞いて、店主は素直にそう同意する。その表情は、さっきよりも幾分か柔らかい。あのとき祭で見せてくれた笑顔にとても近くなって、志郎は嬉しくなってにこりと笑った。
店主はきっと感情のコントロールが、上手く出来ないタイプなのだろう。人との付き合いがほとんど無かったからなおさらか。もしかしたら店主の持つ不可思議な能力も、それに関係しているのかもしれない。祭に行くとき、店主は手袋をしていたから。
「じゃあさ、店長も、それを素直に認めればいいんじゃねえかな」
「認める…?」
「そう。店長はオレといて楽しかった。オレも店長といて楽しかった。だからオレはもっともっと、店長を知りたい。だからここにいたい。なら、店長は?」
「お前は、私の知らない気持ちを、呼び起こしてくれた。だから私は…私も、お前と、一緒にいたい」
「じゃあ、それが答えだ」
答えは導き出された。店主の気持ちも、志郎と同じだった。そして店主はそれを自ら認める発言をした。もうお互いにわだかまりはない。満面の笑みを浮かべて、志郎は店主に向かってそう言ったのだった。
店主と長く話をしていたせいか、時計の針は予想外の数字を指し示していた。あまりにも遅い時間になってしまったので、志郎は両親に慌てて連絡し、今夜は彼の家に泊まることになった。
この家の中に入るのは二回目だ。意外と整理整頓されて綺麗な店主の部屋で、二人分の布団を敷きながら、志郎は隣で寝間着を用意してくれている店主をちらりと見た。そういえば、物凄く大切なことを、志郎は忘れていた。見られていることに気付いたのか、店主が視線を上げる。
「そういえば、店長の名前…聞いてなかったよな」
枕と掛け布団を乗せながら、志郎が寝間着を側に置いた店主にそう聞く。志郎の名前は、一番最初に仕事を始めたときに自分で名乗っている。だが店主は一度も名を名乗らなかったし、志郎も聞いたことが無かった。どうして今まで気付かなかったんだろう。
「……逆門庚。庚と呼べ」
すると作業を続けたまま、店主…庚が答えた。店名の逆門はやはり名字だった。でも庚という名前は珍しいと志郎は思った。どこかで聞いたことがある単語だけれど、すぐに思い出すことができない。あまり馴染みのない名前だった。
「庚かぁー。珍しいけど、いい名前だな」
「私もどういう理由で名付けられたのかは知らない」
「そっか。あ、店長、オレのこと、お前じゃなくて志郎って呼んでくれよ。もうとも…知り合いなんだからさ」
そう言ってにっこりと笑いながら店主…庚を見ると、彼は小さくこくりと頷いてそれに応えてくれた。さすがに年上の店主を呼び捨てには出来ないので、このまま店長と呼び続けるべきだろう。相手の態度次第で、呼び方を変えればいい。
綺麗な白い布団の上に、着替え終わった志郎はごろりと寝転がった。隣の布団で、庚も同じように横になる。明日は、志郎の仕事の最後の日。店主は一緒にいたいと言ってくれたけれど、そういえば仕事をどうするかは決めていなかった。でも、もう志郎の気持ちは決まっている。
明日になったら、この仕事を続けられるよう、店主にお願いしよう。今までみたいに毎日通うことは出来なくなるだろうが、それでも志郎はこの店を好きになった。だから出来る限り、ここにいて、店主と楽しく過ごしたい。そう考えているうちに、志郎はいつの間にか眠ってしまっていたのだった。