5.店長の異変。
志郎がこの骨董品屋でバイトを始めてから、もう半月以上も経ってしまっていた。埃だらけで散らかり放題だった店内も、志郎の努力の結果、見違えるほどに綺麗になっていた。そんな店の中で、いつも通り本を読み耽る店主を、志郎は作業をしつつちらりと見た。
最近どうも店主の様子がおかしい。いつも以上に客に対して無愛想なのだ。少し前までは無愛想ながらも適切な対応をしていたのに、彼は今日の客を、口論の末とうとう追い返してしまった。
志郎は店主のことを一ヶ月も見ていない。それでも、今の彼はおかしいと感じた。祭のときに見せてくれた楽しそうなあの笑顔は、どこへ行ったのだろう。少しずつ心を開いてくれた彼の心は、どこへ行ったのだろう。志郎の胸にちくりと、棘が刺さったような痛みが襲った。
「店長、作業終わったよ」
「…そうか。今日はもう帰っていい」
作業を終えた志郎に、店主は視線を本から動かさずにそう伝える。その声音が出会った頃よりも冷たいのに、志郎は内心で落胆してしまった。
「……分かった。それじゃ」
志郎はそれだけ言うと、店に置いておいた鞄を持って店の外へ出た。古くて崩れそうな店を遠くに見やりながら、志郎は帰り道を一人歩く。何故か足が重くて、先に進めない気がする。どうして店主はずっと不機嫌そうにしているのだろう。あのときのように笑ってくれたら、とても楽しいのに。ずっと笑っていてくれたらいいのに。
少しだけ距離が縮まったような気がした。店主のことが分かったような気がした。あの祭の日が楽しくて、楽しすぎて、もしかしたらあれは夢だったんじゃないかと思うくらいだった。でも二人で見た花火は本物のはずだ。分かりあえたと、思ったのに。
「おかしいのはオレの方なのかな…」
ぽつりと呟いて、志郎は夏の夕暮れの空を見上げた。
今日は一ヶ月の仕事が終わる前日だった。今日も今日とて、志郎は店の片付けをしていた。この作業も明日で終わりになる。明日は店主が言った一ヶ月の期日だ。これが終われば、志郎の仕事は終わる。店主と志郎の繋がりも、明日で終わりだ。
珍しく今日もこの店に客がやって来ていた。どうやらまた、店主と言い争いになっているようだ。志郎はこの店の手伝いをしているバイトだ。店主と客のいざこざに口を挟むことは出来ない。
どうやら客は持ち込んだ骨董品が偽物…贋作だったことに腹を立てたようだ。この店主は歯に衣着せぬ性格だから、事実をそのまま口にしたら、そんなことはないと怒り出してしまったのだ。店主はサイコメトリー能力の持ち主だから、それは間違いないだろう。高い金を出して買ったんだと憤る客に、店主はとても冷たかった。
「帰れ」
店主のその一言を聞いた客は、店主に怒声を浴びせながら店を出て行った。扉を壊さんばかりの勢いで扉が閉まり、店内はしんと静まり返った。少ししてから、読書を再開した店主のページをめくる音だけが響いている。
「…店長」
その一部始終を見ていた志郎が、苦虫を噛み潰したような表情で店主を呼んだ。こういうとき、どう伝えればいいのか分からないけれど、事実をちゃんと言うべきだろう。
「店長、俺が言うのも何だけど、接客するなら、ちゃんとした方がいいぜ」
そんな志郎の進言を、店主は視線を本から外さぬまま、「煩い」と言って突っぱねた。
「子供は黙っていろ。口出しをするな」
「オレは子供じゃねえって言ってるだろ!大体何でそんなに不機嫌なんだ。何か嫌なことがあったのか?」
どうしてこういうときばかり子供扱いするのだ。志郎が珍しく声を荒げる。この前といい、今日といい、店主の言葉の冷たさがいつもと違う。何故いつも通りに出来ないのだろう。あの祭の日のあと、自分の知らないところで、何かあったんだろうか。
自分と店主は雇い主とバイトの関係で赤の他人だ。それでも、あの祭の日に少しだけ彼のことが分かったような気がした。それなのに今の店主の考えが、まったく分からない。それが辛くて、苦しくて、どうしようもなく悲しい。こんな状態でバイトを終えることなんて、したくないというのに。
「お前に私の何が分かる」
そんな志郎に向かって発せられた店主の言葉は、氷よりも冷たかった。
「明日はもう来なくて良い。帰れ。二度とここには来るな」
魂の抜けたようなぼんやりとした表情で、志郎は一ヶ月歩きなれた帰り道を歩く。二度とここには来るな。店主から言われた言葉が、志郎の頭に響き続けていた。どうしてこうなってしまったのだろう。祭の日までは、とても楽しかったのに。
それなのに、店主はもう来るなと言った。志郎と店主を繋いでいたモノが、完全に断ち切られてしまった。考えてみれば、志郎は店主との連絡手段をまったく持っていない。放課後になったら店に行き、そして休日のときは店主から来るか来ないか、その前日に言われるだけだった。調べれば店の電話番号くらいは分かるかもしれないが、出てくれるかどうかは、少しあやしいところだ。
「志郎くん…?」
ぼんやりと歩いていると、背後からそんな声がする。ふらりと後ろを向くと、そこにはクラスメイトの喜代が立っていた。風呂敷の包みを持っているのを見るに、これからどこかへ出掛けるようだ。
「喜代、喜代じゃないか。こんな時間にどうしたんだ?」
「志郎くんこそ。私はお父さんに頼まれて零封堂に行く途中」
そういえば喜代のお父さんと零封堂の老人は知り合いだと言っていた。そんな彼女が機転を利かせてくれたおかげで、割れてしまったツボを何とかすることが出来たのだ。つまり喜代は店主と自分を、間接的に出会わせてくれた存在だ。
「どうかしたの?いつもの志郎くんらしくない」
心配そうに喜代がそう聞いてくる。彼女はあの一件もあって、逆倉でバイトしていることを知っている。だから少しくらいなら、相談をしてもいいかもしれない。そう考えた。ひとりで悶々と考え込むより、誰かに吐き出してしまいたい気分だった。
「少し、話をしてもいいか?」
「うん。じゃあ、あそこのベンチはどう?」
喜代が指さしたところには、観光客のために用意されたベンチがあった。もう遅い時間だし、周りには誰もいない。話をするのにはもってこいの場所だ。彼女に促されるままに、志郎はベンチに座った。
「ここのところ、店長の様子がおかしいんだ。この前の祭に二人で出掛けたんだけど、そのときは…いつもより機嫌が良かったのに」
「今は機嫌が悪いの?」
喜代にそう聞かれ、志郎は素直に頷いた。それを聞いた喜代が、そっか…と小さく呟いた。
「お父さんから聞いた話だけど、あの店長さん、物凄く気難しい性格なんだって。お父さんも何度か仕事で店長さんとお話したけど、コミュニケーションを取るのが大変だって言ってたわ。でも、悪い人じゃないとも、言ってた。骨董品が大好きだから、あのお店が大好きで、大切なんだって」
そう、喜代が続ける。骨董品が好きな割には、志郎があの店に訪れたときは、品物は埃だらけだったし、店は乱雑としていた。でももしかしたら体が弱いせいで、整理整頓をしたくても出来なかったのかもしれない。志郎が誘わなかったら、祭にも行かなかっただろう。
店主の骨董品に対する真摯な態度は、今までの接客や鑑定する姿を見ているから、喜代の言うことも分かる。バイトをしている間、店にある品物は、志郎なりに丁重に、大切に扱っていたつもりだ。でもだからこそ、店主の機嫌が悪い理由が見当たらない。
「いくら店長さんでも、理由もなく不機嫌になることは、無いんじゃないかな。何かしら原因があるんじゃないかしら」
「原因…んー!わかんねえ!」
今日までの日々を思い返してみたけれど、やっぱり原因はさっぱり思い付かなかった。もしかしたら自分が、何か重大なミスをして、それを見逃している可能性もあるのだが、それなら言ってくれないと分からない。
「相手のことを知るには、話し合うのが一番だって、お父さんが言ってた。どんな存在であろうとも、まずは対話から始めることが大事だって」
「対話…出来るかなあ」
「少し前までは、問題なかったんでしょ?ならきっと大丈夫。…店長さん、あのお店を継いでから、ずっとひとりなんだって。小さい頃は零封堂のお爺さんに、育ててもらってたらしいけど」
「そうだったのか…」
思いもよらぬ店主の過去を聞いてしまい、志郎は素直に驚く。あの大きな家にひとりで住んでいることは知っているけれど、まさか零封堂のお爺さんに育てられていたとは。ということは、彼の両親は、幼い頃に亡くなったのだろう。
あの店…逆倉を継いでから、店主はずっとひとりだった。体が弱いにも関わらず、誰にも頼ることなく、あの店を続けていた。どうして誰かを頼ろうとしなかったんだろう。どうして誰にも心を開かなかったのだろう。
「うん。お父さんとも、そのとき知り合ったみたい」
「志郎くんがいなくなったら、きっと店長さん、またひとりになっちゃう」
「…それって、寂しいな」
「私もそう思う。あまり店長さんのこと、知らないけど」
このまま店主と離れ離れになるのは嫌だった。彼の過去を聞いた今、なおさらその気持ちが強くなった。自分はまだ高校生の、言ってしまえば子供だ。そんな子供にあれこれ言われたくないかもしれない。でも、あの店主を放ってなんておけない。心配なのだ。
「対話かあ…よし、頑張ってみる!」
「うん、きっと志郎くんなら、出来るよ」
「ありがとう喜代。少しすっきりした」
そう志郎が言うと、良かったと喜代が笑った。用事のある彼女をこれ以上拘束するのも悪いので、二人はここで別れることになった。頑張ってと応援してくれる喜代を見送りながら、志郎は帰宅し、どう対話するか考えながら食事を終え、風呂に入り、そして自分の部屋に戻る。
体はさっぱりしたけれど、その心はどうしようもなく重たい。対話をするにもきっかけが必要だ。どうするか。そんな気持ちを抱えたまま、志郎はごろりと寝転がった。しばらく天井を見ていたが、何も考えられなくて、仕方なくごろりと寝返りを打つ。すると、視線の先に一冊の古い本があった。
「あ…」
それを見て、志郎は声を上げた。
「これ、店長のだ…」
手を伸ばして本を手に取る。簡単な漢書で読みやすいからと、店主から借りていた本だ。仕事と勉強と家の手伝いの合間に読んでいたので、まだ途中までしか読んでいない。それでも、この本は読みやすくて面白かった。
店主と自分を繋いでいたのは、仕事だけでは無かった。もう一つだけ、あったのだ。まだ読み終えてないけれど、明日は来るなと言われてしまった。それなら、今から本だけでも返しておこう。もう夜だけど、とにかく行動を起こしたかった。今動かなければいけないと、対話すべきだと、心のどこかでもうひとりの自分がそう囁くのだ。
「返さないと」
そう呟いて、志郎は立ち上がる。まだ繋がりは消えていない。まだ、望みはあるかもしれない。このまま店主との繋がりを消したくない。この思いを、消してしまいたくない。志郎は本を手にすると、店に向かって走り出した。