3.祭の始まり。
今日は神社の祭の一日目だった。案の定、志郎はクラスメイトたちに祭に行こうと誘われたが、彼はバイトがあるからと言ってそれを全て断った。学校から店に向かうまでの道は、祭へ行くであろう人たちで賑わっていた。そんな中を、志郎はひとり寂しく店へと歩いて行く。
そろそろ開けるのに慣れた戸を開けて、狭い道を通ると、そこにはいつも通り不機嫌そうな店主が書物を読んでいるはずだった。だが奥には誰もいない。いつもなら、無口無愛想な店主が座っていると言うのに。今日の店は休みなのだろうか。それならば、戸締りをしていないのはおかしい。
いつも店主が座っていたテーブルには、奥の部屋へ続くらしい細長い廊下がある。そこにも人影は見当たらない。まさか鍵もかけずに出掛けてしまったんだろうか。あの気まぐれな店主のことだ、有り得ないことではない。そうなると、店主が戻ってくるまで、ここで待たねばならなくなる。
「店長ー!」
とりあえず奥の部屋まで聞こえるように叫んではみるものの、返事は無い。こんなことは、今まで一度も無かった。店主はどこへ行ったのだろうか。志郎は仕方なく入り口の戸の鍵をかけた。このまま開けっ放しにしておくのはさすがに危ないだろう。
「…ちょっとだけなら、いいよな」
志郎はそう呟いてから、靴を脱いで一段高い床に上った。志郎はこの一段高い床に立ったことはあるが、その先に行ったことはまだない。こっそりと様子を伺うように奥へ続く廊下を見る。廊下の一番奥には、上に続くであろう階段があった。
「失礼します…」
ぎしぎしと音を立てる廊下を歩きながら、志郎は辺りを見回す。店の中に比べると、この辺りは綺麗に掃除されていた。店主が掃除したのだろうか。近くにある襖をそっと開けてみると、そこは居間のようで卓袱台が中央にぽつりと置いてあった。どうやらここにも店主はいないようだ。
他の部屋の襖も恐る恐る開けてはみたけれど、どこにも店主はいなかった。と言うことは、彼は上にいるのかもしれない。しばし迷ったあと、志郎は意を決すると、少し急な階段を上って、二階へと向かった。
二階にも同じように長い廊下が続いていた。ふと奥の方を見てみると、一つだけ襖が開いている部屋を見つけた。音をなるべく立てないようにそっと歩いて行くと、そこの部屋にだけ明りがついている。そろりと覗き込んでみると、部屋の中央には布団が敷かれていて、そこで寝ている店主の姿があった。
志郎は音を立てぬよう気をつけながら、襖を開けて部屋の中に入った。どうやら店主は眠っているらしく、志郎には全く気付いていない。志郎は店主の部屋を見回した。ごちゃごちゃとしていた店とは違って、部屋はとても簡素で何も無い。布団の側に、古めかしい本が数冊置かれているだけだ。その本の隣には、薬と小さな薬缶とコップが置かれている。
店主は何か病気にかかったのだろうか。起こさないように布団の側まで近付くと、置いてあった薬の袋を手に取った。袋には病院の名前と、一日何回飲むかということだけが書かれていた。流石に病気の名前はここには書いていないようだ。袋をそっと元あった場所に戻すと、店主が小さな唸り声を上げて目を開けた。
「……あ、店長」
「何故、ここにいる…」
店主が寝たまま、気だるげに志郎にそう聞く。その声が少しばかり苦しそうに聞こえたので、志郎は彼の側に座り込んだ。いつもならこの行為を咎めることもない。もしかしたら、体調が悪くてそこまで考えが至らないのかもしれない。
「店長、ごめん。店に入っても誰もいなかったから…」
ばつの悪い表情で志郎が答える。そんな志郎を見て、店主はゆっくりと起き上がった。近くにあった薬缶からコップに水を注ぎ一口飲むと、店主はふうと息を吐いた。そして彼はゆっくりとした口調で、志郎にこう告げた。
「今日の仕事は無しだ。帰れ」
突き放すような店主の言葉に、志郎は素直に頷けなかった。どうやらここには店主しかいないようだし、こんなに体調が悪そうな人を放っておくことなど出来ない。
「…でも店長、調子悪いんだろ。オレが飯作るよ」
「私が帰れと言ったんだ。帰れ」
「でも、調子悪そうじゃないか」
「煩い、子供は黙っていろ」
店主は渋る志郎に冷たくそう言い放って彼を睨んだ。それでも、志郎は店主が気になって仕方が無かった。もし急に倒れたとしたら、この調子では救急車を呼ぶことも出来ないだろう。自分では頼りないかもしれないが、誰もいないよりかははるかにマシだ。
「そうやって子供扱いすんの、よくねえよ。オレは一ヶ月ここで働くって店長と約束したんだ。今日の仕事は、オレが店長の看病をする」
不機嫌な表情を隠さない店主に、志郎がにかりと笑ってこう言った。
「ちゃんと約束通り仕事するんだ。文句ないだろ?」
結局志郎に根負けした形で、店主は彼に看病をさせることを許した。最初は蒼白だった顔色もだいぶ良くなったので、何か食べさせた方がいいだろうと志郎は判断した。なので今、志郎は台所にいる。とにかく何かしら腹に入れて、体力をつけさせた方がいい。
「なんにもねえなぁ…」
冷蔵庫を開けながら、志郎がそうぼやく。料理は家の手伝いで良くするから得意だが、こんなに品物が無いとどうしようもない。栄養をつけて早く元気になってもらおうと思ったが、これではどうすることも出来ない。
この店主は今までどんな生活をしていたんだろう。あまりにも人間味が無さすぎて、本当に彼は人間なのだろうかと、ふと考えてしまう。でも病気を患っているようだし、自分と同じ人間だと思いたい。
「とりあえず、お粥でいいかな…」
そう言いながら、志郎はごそごそと冷蔵庫の中を漁り始める。とにかくあるものを使って、簡素だがお粥はすぐに出来上がった。もっと豪華にしたかったけれど、何も無いのではどうしようもない。とりあえずそれだけでは寂しいと付け合せで浅漬けと梅干を用意して、志郎は店主の待つ部屋へと向かった。
閉まっていた襖をがらりと開けると、店主は起き上がって本を読み耽っていた。お粥を零さないように気を付けながら、志郎は慌てて店主の枕元に駆け寄る。
「店長、お粥出来たぜ…って、寝てなきゃ駄目じゃないか」
志郎に注意された店主は、明らかに嫌そうな目で彼を見る。だが、志郎にそんな風に見ても駄目と言われて、仕方なく本を閉じた。湯気の立つお粥を店主に手渡して、志郎はコップに水を注いだ。
「もし味気無かったら、梅干と浅漬けがあるから一緒に食べてくれ」
そう言って志郎が店主の様子を伺う。ありあわせで作ったものだが、気に入ってくれるだろうか。店主はスプーンでお粥をすくうと、一口ぱくりと食べた。
「味はどうだ?店長」
「……不味いな」
何口か食べてから、店主がぼそりとこう呟いた。なるべく美味しく作ったつもりだが、どうやら彼の口には合わなかったらしい。何とも難しい。
「…だが、嫌いではない」
「そっか。ありがとうな!今度はもっともっと美味しく作るよ」
そう、ぽつりと店主が続ける。もしかして、さっきの不味いは、彼なりの照れ隠しだったんだろうか。この店主は天邪鬼な性分であることは今までの付き合いで理解している。志郎がにこりと笑うと、開いていた窓から轟音と共に綺麗な光が部屋に舞い込んできた。どうやら神社の祭の花火が始まったらしい。色鮮やかな花火の光が、部屋を彩る。
「お、こっから祭の花火が見れるのか!綺麗だなぁ!」
どんどんと音を立てながら、綺麗な花火が何発も上がってゆく。きっとクラスメイトたちも、神社からこの景色を眺めているに違いない。それが少しばかり羨ましかったが、ここで見る花火も悪くはなかった。
「私は…ここからしか花火を見たことが無い」
ぼんやりと花火を眺めていた店主が、そうひとりごちる。その合間を縫うかのように、また花火が上がった。ここの祭はかなり昔から…それこそ志郎の両親が生まれる前から開催されている。それなのに、その口ぶりから見るに、祭に一度も行ったことが無いようだ。
祭は楽しい。珍しかったり、面白い色んな出店があって、浴衣を着て、そしてみんなでフィナーレの花火を見る。それはこの街の人たちにとって、本格的な夏の始まりとなる。でも店主は、ここでその夏の始まりを体験している。
「店長はお祭に行ったこと…無いのか?」
どんどんと間髪入れずに上がる花火を背にして志郎が聞くと、店主はこくりと頷いて答えた。その顔にはどの表情も浮かんでいなくて、悲しみも寂しさも無かった。でもきっと、花火はこの部屋で見るよりも、外で見た方が、絶対にいい。
「外に出た事はほとんど無い。ずっと、店かこの部屋にいる」
「…じゃあ店長、明日は祭に行こうぜ!オレ学校も休みだし」
店主の言葉を聞いた志郎が、彼にそう提案した。一際大きな花火が、どんと言う音と共に開いた。祭は明日もある。だから彼を連れて行ってあげたい。一度も体験したことが無いと言う楽しい楽しい、お祭に。これは自分の独り善がりかもしれない。でも一緒に行きたいと、何故か思ってしまったのだ。それはもしかしたら、店主の笑顔が見たかったからかもしれない。
「どうせみんな祭に行っちゃうんだ。一日くらいお店休んでも大丈夫だって」
ぱらぱらという音を立てながら、キラキラ光る花火が地へと落ちて行く。そしてまた、次の花火が上がった。志郎の提案を聞いた店主は、相変わらずの無表情で何も言わずに彼を見つめている。本当にこの店主は外に出たがらないようだし、怒らせてしまったかもしれない。一応謝っておくべきか。
「あー、やっぱり駄目かな…店長具合悪いみたいだし…」
反応を伺うように見る志郎に対し、店主は一言だけ「いいだろう」と答えた。まさかの返答に、それを聞いた志郎が破顔する。祭なんてバカバカしいと、突っぱねられると思っていたのに。
「ホントか!?」
「明日の仕事は休みだ…ただし、つまらなかったらすぐに帰る。体調が思わしくなかったら止める。いいな?」
「おう!じゃあ、明日の夕方からお祭に行こうな、店長」
今回は店主とだけれど、祭に行くことが出来る。果たしてこの無表情であまり感情を表に出さない彼は、祭に参加してどんな反応をするのだろう。俄然楽しみになってきた。うきうきという表現そのままの嬉しそうな表情で、志郎はそう言って笑った。