先輩と呼べていたら
宇連陽無という同級生に、絡む理由は三つある。
一つは賢いから。
二つは見てて飽きないから。
三つは私の小説を読んでくれるから。
宇連は変わり者だ。日本語でいうオタク、あるいは英語のフリークと呼ぶに相応しい。
何かの物事に熱中し、集中し、夢中になる。
何かに積極的になれる人間というのはそれだけで尊敬できる。それに技術や知識が伴えば、誰もが認める傑物になる。
宇連は、傑物ではあるが誰も認める様子はなかった。それは彼女があまりに人に無関心で、人に積極的になれないからだ。
だから、私だけが宇連を尊敬している。
「ねー宇連、今日は何読んでいるの?」
「……、今読んでいるのは『異世界転生した落第生がチートスキル『解放』で成り上がり、異世界を救っちゃいます!?』ね」
「ほんと宇連がタイトル言うだけで面白いね」
「そう。じゃあ、読んでいい?」
「うん、ありがと」
宇連は、四六時中に本を読んでいる、そしてその集中力は、数時間見続けていても同じペースで、咳もくしゃみもなくお腹も鳴らずトイレも行かず、と身体面にまで現れているようだった。
昔はもう少し人間味があるような気がしたけど、高校生になった今は本当に読書マシーンであった。
懐古するのは小学生の頃の話。
まず私の話になるが、私の名前は湖南林寂といって、その下の名前が大嫌いだった。可愛くないし、偉大なる祖父につけられた重い力があった。
家にいて楽しいと思うこともなかった私は、それを慰めるように学校で友達を作ろうとした。
私は人当たりも良かったし、自分で言うことではないが可愛かった。可愛く見える工夫もした。
だから友達は沢山できた。
その結果、『リンちゃん』と呼ばれるようになった。
それが、嫌でたまらなかった。
「湖南さん」
たくさんの友達の中で一人だけ、私のことをそう呼ぶ人がいた。
それが宇連だった。
誰もが、私が私の名前を嫌いだと認識されていて、けれど改めて口にするでもなく形骸化している中、リンちゃんという曖昧な呼び方は許されている、という暗黙の了解を。
彼女は。
「なんでヒナちゃんはリンちゃんのこと湖南さんって呼ぶの?」
「名前が嫌いなのだから、無理に呼び方を変える必要はないでしょう」
「えー、固いよー」
「それに、こなみというのも名前みたいで可愛いと思うし」
宇連のそういうところが好きだった。私は子供の頃から敏いところがあって、表に見せる顔よりもずっと冷静で大人びた視線を持っていた。
私から見ても、宇連は物事を俯瞰できていた。他の子供よりも、場の空気や協調性を気にして私のことを気にしない大人よりも、私の気持ちを大切にしてくれた。
そんなことがあってから、宇連を気に掛けるようになった。
四年の頃には、宇連は眼鏡をかけて読書に勤しむ文学少女だった。
そもそも宇連に友達がいたのか、いなかったのか。誰かに自分から話しかけている姿は見なかったけれど、毎日必ず、本を読んでいた。
その様子は、見てて飽きた。
何も変わらない。読む本が変わるだけで、パラパラ漫画のように同じ行動を繰り返すだけの存在だった。
変わらない毎日だとか、ありふれた日々というものを体現するほど薄い存在で、過去を振り返った時に「宇連? ああいたなぁ、毎日本を読んでいたやつ」と思い返されるだろう存在。実際に宇連はそれほど本を読んでいた。
ただ、ある日のこと。
宇連の読む本を見て、息が詰まった。
湖南浄汪の短編集『蓮華』
「宇連さん、それ」
「……なに?」
「……誰が書いたか知ってる?」
「湖南浄汪。有名な小説家」
「……私のおじいちゃん」
「……ああ、本名なんだ。覚えておくわ」
「……それだけ?」
「感想を求めているの? まだ読んでいる途中だから、曖昧なことしか言えないけど」
不思議そうに、少しだけ億劫がりながら思案する姿を見て、私はようやくわかった。
こいつは変なやつだ、と。
「感想は別にいい。それより宇連さんが今までで一番面白かった本ってなに?」
「啓学館数三Cが読み応えがあった」
「け……? 作者は?」
「発行者? 当時認可した文部科学大臣は高尾昭」
「教科書だよね!?」
「読み応えはあった」
私は心の底から理解した。
こいつは、すこぶる変なやつだ、と。
―――――――――――――――――
宇連が書籍化したライトノベルを読んでいた理由に戻る。
宇連は物語が好きなわけではなく、情報量が好きなだけらしい。
「相変わらず国語以外はほぼ満点だ。すごいなー宇連は」
「そう」
「相変わらず国語はひっくいなぁ」
あんなに本を読んでいる宇連が何故国語だけ点が取れず、それ以外は点数を取れるのか。
事実を当てるだけの科目は簡単にできる知能指数の高い天才で、国語は集中力を削られるから。
文章を読むという作業、問題文を読む作業、そして解く作業で時間を使いすぎるからだ。
読んで理解するだけの理系はほぼ満点、英文と古文漢文はそれに劣り、現代文がさらに落ちる。そんな変なやつだった。
「で、前はなに読んでたっけ?」
「たしか、学園戦記アーセナルズ」
「……ああそれそれ。学校同士で戦うやつだっけ」
「ファンタジー世界に学園という軍人養成所があって、その組織同士で戦うライトノベル、ね」
「えっと、良かったんだっけ、作品として」
「なかなか読み応えがあるの。一巻の時点で七つの学園にそれぞれ五人以上の生徒が出てきて、記憶力を試されているみたい」
「……褒めてないね」
「そう? 読むのが楽しいけれど」
読むのが楽しいだけで、話が面白いと言わない。
そもそも宇連が、話が面白いから、という理由で何かを読みたがることがない。
彼女にとって読書は、知識との戦いなのだ。あるいは知能との戦い。
「ああでも――『河童』、面白かった。返す」
「あ、うん、ありがと……」
宇連から紙の束を受け取って、私は少し俯いて胸元にそれを寄せる。
宇連は、宇連なりに面白いと面白くないの判断はするし、その感想に私は一喜一憂している。
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中学の時に小説を書き始めた。
何を書けばいいかわからないもので、とりあえず思いついたのはシートンの『狼王ロボ』やヘミングウェイの『老人と海』のような、人と獣の争いの話だった。
『白狼』と題した作品は、賢い狼と、そんな狼を狙う猟師という、非常にありきたりで、どこにでもある話で、模倣の上澄みのような、どこに出しても恥ずかしい、書けば書くほど涙が出そうになるような、書けば書くほどこの世に不要な物質が増えていくような自己嫌悪にまで陥るものだった。
それなのに、捨てられないで、机の奥にしまっていたその原稿を、親が見つけて、天才だ神童だと褒め称えて。
捨てようと思った。破り捨てることもできなくて、けれど家で捨てればきっと親にまた拾われるから。
学校で、放課後捨てようと思って、けれどやっぱり捨てられなくて。
「それは小説?」
人に声をかけることがない宇連が、紙束を持った私に声をかけた。
運命という言葉があるのなら、きっと間違いなくこの時だと思う。
宇連と出会ったこと、同じ学校の同じ教室だったこと、宇連が祖父の本を読んでいたこと、そして私が小説を捨てようと思った日に宇連が偶々教室に置いていた本を取りに来たこと。
運命は、この時。
「これは、捨てるから」
「なら、捨てる前に読ませて」
「こ、こんなの、へたくその書いた文字の羅列だし!」
「文字の羅列なら、読んでもいいでしょう」
「これは……読まれると、恥ずかしいから。私が恥ずかしいから……名前を呼ばれるくらい嫌! だから!」
宇連は、それを読みたいと思っているようだった。
人に声をかけることがない宇連が、積極的に私を言い負かそうとしていた。
だから、名前のことを引き合いに出して退いてもらおうと思った。宇連ならきっとそこまで言えば諦めると思ったから。
宇連は私の気持ちを大切にしてくれるような優しい人であると知っていたからだ。
けれど宇連は、原稿を私の手から強引にひったくった。
「えっ、あ……」
「少なくとも羅列ではないじゃない」
「や、やめてよ……」
公開処刑をされているような気持ちだった。目の前で自分の小説を読まれて。
恥ずかしくて辛くて泣きそうで。
「……意外としっかりした文章ね。手堅くまとまっているし語彙も類義語を複数使い分けている。書き出しから物語を読者に伝える作りも悪くない。……私はこういう文学作品は好きよ。読み応えはないけど、けして平易な文体ではない。工夫を凝らした努力の結晶だもの」
「…………」
公開処刑をされているようだった。読みながら感想を言われて。
涙が出ながら心臓を抑える。苦しくて痛む心臓が、徐々に鼓動を柔らかくしていく。
緊張して強張っていた肉体は糸が切れたように力が抜けて、静かに涙が流れた。
自分も、親も、この作品を『好き』とは言わなかった。
「……また書いたら、読んでくれるかなぁ?」
「……泣くほど嫌なのに、読んでほしいの?」
宇連はやっぱり変なやつだなぁ、と思った。
そんな宇連が大好きなことは言うまでもない。
宇連はきっと、私の気持ちを大事にしてくれるから。
―――――――
高校生に上がって私は文芸部に入った。
小説を書けば、祖父と比べられたり何かを言われることはある。それは私にとって不要なもので、基本的には息の詰まる重圧だった。
けれど小説を書くことは好きで、それを宇連に読んでもらうことがもっと好きで、結局書き続けていた。
才能は、あると思う。ただそれを仕事にするにはやはり窮屈だった。
部活は楽しかった。宇連以外の人に読まれて、褒められたのは初めてだった。
「湖南さん……これ、すごいね……」
「中学から書いてたってのは伊達じゃないけど……」
「キャラと違う……」
「怖くて読めなかった」
「えへへ、そうですか? いやー好きなんですよね、ホラー」
『河童』は川に住む異形を描いた伝奇譚。
ある地方に、川に行く時は三人以上で行かなければならない、という風習が残る村がある。という一文から始まる怪奇小説で、キャラクター化されつつある妖怪の河童を掘り下げて、真に恐ろしい川の事故に見せかけられた妖怪を書いたものだ。
出来はそれほど気にしていない、半分は論文、半分は小説というような記載で、それなりに読ませる文章にしているが、人のウケは狙っていないから。
だが、素人とレベルが違うと言うのを自覚して、褒められて満足している振りをしながら、ちらっと宇連の方を見た。
宇連はただ読書をしていた。教室と違う様子はなく、眼鏡をコンタクトに変えたのと、髪が伸びたので見た目がどこか清潔感が増したようであるが、相変わらずだった。
この文芸部は、小説や漫画を書く人以上に何もしない部員が多く、宇連はその一人として、埋もれていた。
それでも近くにいる以上、集団の中で褒め称えられる私を見て、嫉妬だとか、独占欲のようなものがあればいいのに、と思う。
「宇連は小説書かないの?」
「私は読む専門だから」
「でも書けなくはないでしょー。作文とか感想文とか、長文の記述問題できるんだし」
「それと物語の創作は全く違うものよ。少なくとも、そんな感覚ではできない」
「えー。宇連の書いた小説とか読みたいなぁ」
「それに書く必要がないもの。既にこの世に本はたくさんあるし、湖南さんも書いてくれるから」
そんな風に言われると、何も言えなくなってしまう。
宇連は、私のことをどう思っているんだろう。
そんなことが気になり始めていた。
―――――――――――――――――
高校の二年にもなれば、もっと気になることができてきた。
文芸部の存亡と、宇連の人付き合い問題である。
まず文芸部は、三十人近く部員がいるのに、実際に物語を作り部誌を出すのは六人しかいない。
三年生の先輩がいなくなれば残るは三人、部誌を作るのに現実的な人数ではない。
ちなみに宇連はその中にいない。私が強引に誘っただけで、よく部室に来はするけれど本を読んで帰るだけで創作は決してしなかった。
新入部員の確保と、執筆してくれる人材の育成、それはフットワークの軽い私の仕事だと思った。幸い、部員はたくさん増えるから。
別にあるもう一つの悩みは宇連の人付き合い問題。
平たく言えば宇連の将来が心配だった。
将来も考えてない、家もそれほど裕福じゃない、人付き合いも上手くない。
一人で生きていける人間ではない。別に私が天才小説家の孫娘である女流作家として養っていくのもやぶさかではないが、それだけの意欲で小説を書ける自信はなく、売れるかどうかも結局運次第に思えた。
何か一つ愛嬌でもあれば、あの身なりである以上嫁の貰い手はいくらでもいるだろう。宇連は贔屓目を抜きにしても美人だった。
一年生が入部してから後輩に声をかけまくった。
十人にもなる後輩の名前を覚えたが、小説を書いていた人間はおろか、書こうという人間さえもいなかった。
何かしたいから部に入るのではなく、何もしたくないから、と部を選んだ人間の集まりなのだから、これから書く可能性でさえも期待値は低い。
それはそれで、交友を広げれば期待できる人材の情報が貰えるかもしれないから、仲良くはする。
そんな人材探しが空振りに終わる放課後の文芸部。
「湖南さん、ちょっといい?」
「え、なに珍しいじゃん。宇連から声かけるなんて」
挨拶もしない宇連が何か言うのは、それだけ意味があることしか言わないということだ。
部活も終わって帰る時に突然言うのだから、驚きもひとしおであった。
「後輩に、声をかけていたわね」
「うん。小説書かないかって打診しようと思ってコミュニケーションをね」
「……そう」
「もしかして書こうと思ってる? それなら……」
「いえ、そうじゃなくて。……後輩に、慕われたり、するんじゃない? そうやって交友すると」
「……?」
「いえ、なんでもない。変なこと聞いてごめんなさい」
変なこと、真に変なことだった。何が聞きたいかも理解が難しいほどに。
だが宇連は無駄なことは言わない。単純にまとめれば。
交友を深めれば後輩に慕われることを確認した。
後輩から慕われる方法を確認した。
「……え、なに宇連さん慕われたいの。後輩に」
「……年下や後輩に慕われたいと思うのは、一般的な考えでしょう?」
「いやそれはそうかもだけど。宇連さん全然一般的な考えをしない人でしょ? そう思ってたけど」
「……そう思われていたのなら心外ね。自分でもそう思っていたけれど」
「自覚あるならそれは、無理筋っしょ。もうみんな宇連さんのこと変な人だって知ってるよ?」
「でも新入生の後輩なら私が変な人だとわからないんじゃない?」
「そうだとして……えぇ? 宇連さんが後輩に慕われたい……?」
「別にそうは言ってない。一般的な考えだという話をしただけ」
言うと宇連は背を向けて帰った。どこかムキになっている様子を感じたが、無愛想で無口なのは普段の宇連の通りだから真意はわからない。
ただ、私は宇連とそれなりに付き合いは長いから、彼女のことはなんとなくわかる。
慕われたいのであろう後輩に、であれば紡いでやろう関係性、宇連が自ら望んだ人付き合いだ。
なので、執筆の人材探しではなく宇連の人付き合いの方で私の心配も取り除けそうになったのである。
―――――――――
宇連の文芸部での様子は、かといって一年の頃から変わる様子もなく、一年生にどう説明すればいいものかと少し頭を悩ませた。
ただ黙って本を読んでいるだけの人、友達を作るのも難しい様子だ。
だがそれは杞憂で、新入部員の一人から、宇連の方を指し示した。
「あの人は? 同じ学年ですよね?」
こんなチャンスはない、しめたものだと、これ以上ないくらいに私は宇連を説明する。
「ああ、あいつ? クラスでもずっとあんな感じ。ずっと一人で本を読んでるの。ねー宇連。あ、下の名前は陽無って言って、太陽の陽に無理難題の無で陽無、珍しいよね」
説明しながら、私は宇連が何が好きとか趣味とか、そういう一般的な話題の知識に欠けることに気づいた。
共に食事をすればだいたいなんでも好きと言い、暑い寒いと時候の話も一般的な反応、それが宇連である。
風変わりな人物で、そこを説明すればいいのに、それを説明することは慕われないだろうと憚られる。宇連は変人なのだ。それを隠して少しくらい神秘的な雰囲気を出そう。
「この子が宇連のこと知りたがってるよ」
「え、いや知りたがっているってほどでは」
「……読む?」
暴投気味のパスを受け取った宇連は、自分から読んでいる本を差し出した。
確かな進歩だった。宇連が自分から誰かに交友しようとするのを、見たのは初めてだ。
「い、いえ、めっそうもないです」
「そう」
けれど宇連のそんな奇行に近い勇気は、あっさりと無碍にされた。
「えー、借りればいいのにー」
本当に勿体ない。この子は、確か空木心といった。これがどれだけ希少で価値のあることなのか知らないのだ。
その後、宇連は一人で黙々と本を読んでいて、空木ちゃんは何をするでもなく、たまに宇連をチラ見していた。
で、私は様子を見ながら執筆する後輩探しに勤しむのであった。
――――――
「珍しかったじゃん。本貸そうとするなんて」
「……あれくらい、先輩として当然よ」
先輩風を吹かす宇連が妙におかしくて笑いそうになるけれど、こらえる。
宇連はあまり笑われるのが好きではなさそうから、友達としてのラインで宇連で笑わないように心掛けている。
そもそも宇連は、変わらないのだ。ずっと同じようにしている、泰然自若と、どっしりと構えて、協調性がなく、いわば究極のマイペース。
宇連の行動が珍しくても、宇連にとってはただ普段通りの行動原理で自分のしたいことをしている変わらない状態なのだ。
それが私にとってはありがたくて、宇連を見て自分の感覚を失わないようにしているほどだ。
ただ、後輩作りに関してはやきもきと口出ししてしまう。
それじゃ慕われないよ、宇連、と声をかけないと彼女は気づかないだろうから。
「……とりあえず、しばらく部活に出よっか」
「そうね」
ひとまず接触を増やさねば慕われることもないだろう。宇連の根気と、空木ちゃんの根気が試される。
で、案の定、次の日には空木ちゃんは来なかった。
初めて宇連が声をかけた希少な後輩なのに、ということでその日の宇連は、それはもう凹んでいた。
もっと何か手を出すべきか、それとも焼石に水と諦めるべきか。
悩んでいるうちに、また空木ちゃんが来る日があった。
不定期に部室に訪れる、というのは少し珍しいことだった。全く来ない、毎日来る、または家庭の事情などで時間潰しに毎週特定の曜日にだけ来る人などがいるが、空木ちゃんのそれはほぼ不定期。
強いて言うなら、毎週月曜は来ていた。習い事と気まぐれかもしれないとは思うが、頻度は多少多いくらいだった。
そしてもう一つ、空木ちゃんは宇連を見ていることがわかった。
本を読む手より、その視線や興味は宇連に向かっている。側から見てわかるというよりかは、私が宇連と空木ちゃんを意識しているから気付いた事実だ。
このチャンスを逃すわけにはいかない、と乗りかかった船を選び抜くことにした。
――――――――
「夏も来なよ、部活」
「……なんで? 暑いでしょう。あそこは」
「空木ちゃん絶対来るよ」
「……喋りもしない後輩のためだけに?」
「うん」
文芸部の部室にクーラーはなく、夏に生徒は結構来なくなる。
かくいう私もそうで、自宅か図書室の方がよほど作業するにも駄弁るにも向いていた。むしろ部室が焦熱地獄さながらであった。
去年の宇連も、夏の季節に部に来なかったものだが今年は違う。
「空木ちゃんにいいところ見せよう」
「いいところってなに?」
「来なかったら空木ちゃんが凹むよ」
「それは私も……」
「え、空木ちゃんが来なかったら凹むの!」
「……はぁ、わかった。行けばいいんでしょ」
ただ後輩のために。
それを了承した宇連の呆れ顔は、なかなか様になっていた。
―――――
秋に締切の文学賞があった。
それほど大きなものではないが、それに向けてそれなりの努力をしていた。
「宇連は、親になんで陽無って名前にしたか聞いてくれた?」
「聞かない」
「けち」
私は私の琳寂という名前は嫌いだが、宇連は宇連で陽無という名前を好んでいないらしい。
私は陽無という名前が好きで、呼びたいと思ったことも一度や二度ではない。ただ彼女が嫌う以上、それをするわけにはいかなかった。私は宇連が私の名前を呼ばないのが好きなのだから。
「理由は知りたいんだよねー。否定系の無を使う名前、すごくお堅いお坊さんみたい」
はぐらかされる、というのか、とかく宇連はその話をしなかった。
名は体を表す、と呼ぶだけに宇連の静けさや暗さがそのせいなのかと考えたこともある。
私はそれだけ名前というものを意識していた。自分の名前が、名前だけに。
「……ま、いいや。じゃあまた図書室行くんで、部室頑張って~」
「……はぁ、暑いのは好きじゃないのに……」
宇連の痩せ我慢に、空木ちゃんはたまに付き合っているらしい。相変わらず不定期に部室という蒸し風呂を訪れるのだ。
宇連のため、意外に理由はないだろう。あれはそういう場所だった。
一方の宇連も、空木ちゃんのために毎日あの蒸し風呂に行くのだから、もはや愛と呼ばざるを得ない。献身的な自己犠牲だ。
私は涼やかな場所で自分のための作品を書くがね。
―――――――――――
小説もままならないまま、夏休みが始まる。
「宇連、本当に来たんだ」
「……まあ、先輩として」
「いや空木ちゃん絶対来ないでしょ。だって連絡してないでしょ、あの辺の幽霊部員には」
夏休みに部活があるのは最初の月曜日だけだった。
文芸部員が作品を書き、印刷して、製本する。どこもそんなものだろうが、我が部はどうも書き手不足の一途を辿っている。
今年はついに一年が一人も来ないという事態になって、部長の表情も影が差している様子だ。
「本当に宇連がいてよかったー。人数減って大変なんだよね、製本作業。」
「……そのために?」
「基本来なくていいって言ったよ、私」
「……まあ、いいけど。あとは紙を畳んで重ねればいいだけでしょう? はぁ……」
宇連はそこまで周りと馴染めていないけど、部長と私が取り持ちながら作業を淡々とこなしていた。
紙を折る精度も動きも、初めてとは思えないほどスムーズで、こういうところに才能があるのかと。
「文芸部作業員にならない? 書かなくていいから製本だけ手伝うっていう……」
「それは雑用というのよ? 小説家なら覚えておきなさい」
「小説家だから少しでも良い風に言って誤魔化して騙すんですよー」
なんて作業の途中、空木ちゃんが来た。
沈黙が流れる微妙な空気は、闖入者の空木ちゃんの方もありありと感じているようで、すぐにでも踵を返しそうだった。
だが、帰すわけにはいかない。文芸部員としても、宇連の友人としても。
部長の方を軽く睨み、空木ちゃんの方を促す。
「空木さん、だったっけ? 今日製本って知ってたの?」
「あ、えーと、セイホン? 知りませんでした」
「だよね、みんなには伝えてないし。えーっと……普段通り、本でも読んでおいてくれる? あんまり場所ないけど」
何を恐れているのか、部長は後輩一人にビビっている気の使い方だった。
本を読むだけ。うん、宇連の友人としてはそれで充分な成果かもしれない。夏休みにまでここを訪れた、という意欲で充分か。
しかし、空木ちゃんは席に座らずに声をかけてきた。
「セイホンって何をするんですか?」
「えっ……と、原稿を半分に折ってまとめて本にする、んだけど」
「……お手伝いしてもいいですか?」
「うん! 正直助かるよ、人が多い方が楽になるから! じゃあ、宇連とか湖南の作業を見て、できるって思ったらやってみて。別に失敗しても印刷すればいいだけだから、気楽にね」
想定以上の意欲を見せて、空木ちゃんが宇連の方に近づく。
二人の目が、たぶん合った。
私ほどでないにせよ運命を感じてしまう。小説で恋愛を書いたことはないけれど、良い経験かもしれない。
そうして、作業が進んでいく。
宇連の作業は心なしかさっきより早い。後輩の前で調子に乗っているのか。
「来てよかったねー宇連」
「そう?」
少し意地悪をしたら、棘のある他人のフリみたいな返事をされた。
普通に傷ついた、というのもあるが、そんな微妙な嫌悪感を出されると空気が最悪になる。
宇連は自分からは何も言わないし、空木ちゃんが私たちに何か楽しい会話を始めるとも思えない。
空木ちゃんも宇連みたいなものだ、先輩と仲良くなりたいって思っているくせに直接それを態度に示さない。
この面倒臭い奴らを何とかするために、多少はしゃべってみたけれど、会話が弾むことはなく作業が先に終了してしまった。
それで、夏休みの文芸部という特別な時間はすぐに終わってしまった。
―――――――――――
夏休みは、小説を仕上げるための最後の時間だった。
家が嫌いだから、学校に来て図書室で小説を書く。
部活に励む人の声もどこか遠く、家での喧騒も忘れられる中で、原稿を滑る鉛筆の音が心地良い。
「湖南さんは」
「え、うわっ! 宇連!? なんで」
「貴女に会いに来たのよ」
長きに渡り沈黙を守る石像が、突如動き出したかのような衝撃だった。
部活もない、用事もないはずの宇連が学校に来て私のところに来るなどありえない。
そう、ありえないから宇連は学校に用事があったのだとすぐに思い至った。
「国語の補習か。ビックリさせてー」
「学校に来たのはそうだけど、会いに来たの事実よ。図書室まで来る理由は他にない」
小悪魔みたいにあどけないことを言う。私だからそう感じるだけだろうけど。
「で、用事はなに?」
「私がどうして陽無という名前をつけられたと思う?」
「ん……」
私が、よく宇連に聞いていることを逆に聞いてきた。
質問に質問で返すというのは、国語のテストの宇連がよくすることだ。知識を得て知能を活用する宇連が、それを聞くのは興味を持ったからであろう。
名前について知りたがる、私に興味を。
陽無、珍しい名前だと思う。語呂合わせにしては他に良い漢字があるだろうし、否定形である無を使うには理由があると思う。
「……影は、一生自分に付きまとうもの。光が無いという意味で影を表して、陽無がずっと自分と一緒にいることを望んでつけた、とか」
「だったら影を名前に入れるでしょう。影子とか」
「そこは、語感とか。親の名前に近いとか」
「まあ、理由なんて何でもいいけど」
「いいんだ」
じゃあ、何故聞く必要があったのか。宇連がわざわざ足を運んでまで興味を引くことでもなかろう。
「貴女はそうやってきちんと考えることができるもの。……なら、自分がどうしてその名前になったかも想像は簡単じゃない?」
琳寂。
琳には綺麗な玉や触れ合って音が鳴る意味を持つという。
寂しいという字がそれに続く。
触れ合いと寂しさ、そんなものが混じったところに何かを感じさせようとしているのかもしれない。
ただ、理由はどうでもよかった。親が私に期待を込めて、偉大な祖父に名前をつけていただいた、そういう重圧がそこにはあった。
期待か、大きな愛か、私には感じることのできない暖かい気持ちに溢れているのか。
ともかく、親なりの大切に想う気持ちがそこにはあるはずだ。
そういう風にわかっては、いる。
「つっても、ねぇ。意味とか気持ちとか込めても、本人が嫌だと思っているんだから」
「……意味や気持ちを感じ取れる感性を褒めているの。漢字も意味もなんとなく適当に、名前をつける人だっている」
「それは、まあねー」
「私の陽無がそうだったらどうするの?」
「どう? いやどうもしないけど」
「嘘ね。名前のことばかり気にしている。小説のネタにするために期待して聞いているのなら、知らないほうが良いと思って隠しているの」
宇連の発言は、正鵠を射た。
まさしく私の小説は、応募するための力作『言霊』は言葉の力を題材にした物語になっている。
名前であるとか、昨今のSNSや匿名の文化にも込められたメッセージ性のある、商業的に寄せた伝奇にしようと思いを込めて書いていたのだが。
「……ふーん、自分でも気づいてなかったな。宇連にヒントもらおうとしてたなんて」
「……貴女は、無駄な会話をしようとしないから」
「それ宇連が言う?」
「お互い様。じゃあ」
それだけ言うと、挨拶もそこそこに宇連は軽やかに帰っていった。
私は進まない原稿を眺めてから、そっと窓の外を眺めた。
――――――――――――
「たのもーお!」
「来た、文ギャルだ!!」
体育館の端の方に卓球台のスペースが六台分。残りはバスケ部、バレー部と曜日ごとに分け合っているのに卓球部はそれでも使うスペースが少ない。
実績はそれほどないが、傍から見て素人では到底敵わない程度の実力者は充分にいた。
執筆が上手くいかない時は、勝手に卓球をさせてもらうのは私の習慣の一つだ。
無論、夏休みの最中であっても例外ではない。卓球部が活動していて私が学校で小説を書いている時はいつでも参加だ。
「ブンギャルってなんすか?」
「文芸部のギャルだよ。あいつあんな顔してめちゃくちゃ怖い小説書くんだぞ」
そんな風に卓球部員が話し合っているのが聞こえる。私は一年の頃から卓球していてそれなりに顔が広く、そんな風に仇名で呼ばれていた。
文ギャルとか、ジャクリーンとかね。
「誰か卓球しようぜ!」
「私やりたいっす! いいですか、部長」
「うーん、ま、いいよ。あれで程々に強いというか、勝率ある奴だし」
積極的なのは、見覚えのない一年生だった。
いや、見覚えはある。だが奇妙なことに顔に見覚えはあるが、少なくとも体育館では見ていないはずだ。
「そういえば、ひよこは文芸部と兼部だったか。じゃあ湖南ジャクリーンを知っているのか」
「……いや聞いたことない名前っスけど」
「なんか有名な作家の孫とかで有名らしいよ」
その子は、へー、と雑に反応しただけだった。
「とりあえず誰でもいいんだけど、打ち合ってくれるかなー?」
「あー、筋トレと素振りのセットは毎日やっているんでそれの後にお願いします!」
ひよこちゃんはそう言って、私を無視してそのルーティンを繰り広げていく。真面目だなぁと思いつつ、一人待たされる孤独を感じる。
少ししてルーティンが終わった後、やってきた一年生はやっぱ知っている外見だ。
「ああ、空木ちゃんと一緒にいた子」
「っす。逆町ひよこっす」
「ひよこ? 愛らしい名前だね」
「ほんと世界で一番可愛い名前っすよね。じゃ、試合、お願いします」
彼女は簡単に言ってサラッと流したけれど、私はそんな姿に小さな衝撃を受けていた。
簡単に自分の名前を、そんな風に言える人を見たことがなかったから。
そしてひよこちゃんは、結構卓球が上手かった。
「ムッ、文芸部にするには惜しい逸材っすね、湖南先輩」
「息抜きに来てるだけだよ」
一年の頃から作業が詰まるとよくお邪魔させてもらった。今の部長には多大な迷惑をかけたけど、特に気にしていない。
私にとって卓球は、小説に詰まった時の息抜きでしかない。ただ、それなりにセンスがあるのか部員との勝率は五分五分くらいだし、その実力も相まって飛び入り参加を認められるようになったりしている。
が、ひよこちゃんと初めて試合をして、十一対七で負けた。
「……で、ひよこちゃんはなんでひよこちゃんって名前なのかな」
「負けてすぐなんですかその質問!? いや、まあひよこみたいに可愛くて愛されるからじゃないっすかね?」
「それはひよこちゃんの意見でしょ。親は?」
「親? 聞いたことないっすね。どうでもよくないですか? ひよこは可愛いからひよこですよ」
自分で自分の名前の意味を決める。その強い気持ちには言葉も出ない。宇連ほどマイペースな人間はいないと思っていたけれど、ひよこもそうらしい。
「ってか湖南先輩ってジャクリーンとかって呼ばれるのも嫌なんですよね。どうでもよくないっすか? そんなん」
「キミめっちゃズケズケ言うね。嫌なもんは嫌だよ」
「そんなに他人の意識なんて気にしても、仕方ないと思いますけど? もう一戦します?」
「する。言い負かしてやる」
年下相手に、少しムキになって、先刻より緩い戦いを繰り広げながら諭説を進めていく。
「名前をつけられた側が一方的に解釈するなんて無意味だー!」
「つけた側の意見だけ聞いても納得できなけりゃ意味ないんじゃないですか? 自分の気持ちが一番っすよ」
この子は案外弁が立つようで、言い負かされた。そもそも親と子の対立なんてそんなに気にしていないし、子の意見を優先するような方に気持ちが寄ってしまうし。
「そういえば湖南先輩、あの宇連先輩と仲良いんでしたっけ?」
「え? ああ、うん。宇連の一番の仲良しだよ」
大袈裟かもしれない、と思いつつ言い切る。宇連が他の人とと親しくしているのを見たことがないから、宇連にとっての仲良しは私で間違いないだろう。
私の一番の仲良し。と言えば他の人がいるかもしれないけど、観測範囲では宇連の一番の仲良しは私のはずだった。
「友達の空木ってやつが、うれパイのこと気にしてんすよ」
「……え、なに。空木はわかるけど」
「宇連先輩を略してうれパイってとこですか? 仲が良い先輩ってそう呼ぶもんですよ」
「卓球部の風習?」
「そうっすね。ジャクパイは宇連先輩がどうしたらチョロく空木のこと好きになるかとかわかんないですか?」
「ジャクパイはやめて!? この名前そんな好きじゃないしせめてなみパイで。っていうか、ごめん、ツッコミが追い付かない」
「あ、じゃあ一つずつ処理してくださいよ……っと!!」
困惑している私を、ひよこの鋭いスマッシュが襲い、点を取られる。
ひよこが何を考えているかもよくわからないまま、私のサーブ権で放った球と共に出した反論は。
「宇連にチョロく好きになってもらう方法はなーい!」
「あっそすか」
「琳寂って名前だけど嫌いだから湖南の方で呼んで!」
「あい! 湖南の方が可愛いっすもんね!」
「っ、そう?」
「じゃ、なみパイで!」
不意を打たれて空振りをして、また点を取られる。
琳寂より湖南の方が可愛いと言ってくれたのは、今まで宇連だけだった。その衝撃で少し隙があったのを言い訳にしたいが、自分に対しての言い訳にしかならない。
「珍しいね、キミ」
「そうすか? みんなそうだと思いますけど」
確かに語感なら琳寂より湖南の方が可愛いだろう。しかしどうも同調圧力というようなものが、個別に与えられた下の名前を無理にでも褒めよう、使おうという風にさせていた。
「逆町さんだっけ」
「ひよこでお願いします。その方が可愛いんで」
ひよこは私と逆だった。名字より名前が好き。それはそれで不便そうだ、と思うけれど、ひよこはそんな「もしもの私」ともまるで違う精神の持ち主であるようだった。
「さっきより弱くなってませんか?」
「いやぁ、ひよこと喋っていると拍子が外れてくるから」
「なんすか拍子って」
カコン、とまた球が私の場で跳ねる。そもそもこんなに喋りながら試合はしないから、ボロ負けしそうだ。
「体調が良いか悪いかを調子って言って、気分のことを拍子って言ってるの。強いて言うなら私専用の言葉だね」
「へー」
「調子と拍子、常に両方を整えないと、うまくいかなくなる」
「体の健康と気分次第みたいなことっすか。スポーツ選手ならそういう気持ちの整え方ありますね。ジンクスとかでスランプ脱出みたいな。逆にイップスとかで選手生命絶たれる人もいますけど」
一流を目指す人間なら、必ず立ち向かうものがそういった己の精神の鍛錬であろう。
私にとってその拍子を合わせる方法が、卓球と宇連だった。
卓球は室内で手軽にできるスポーツだし、小気味良い音のリズムが肌に合う。勝てたら気持ちも良くなる。今は負けまくりだし、ひよこのせいでダメだけど。
宇連はいつも調子が変わらないし、話はどこか抜けていて面白いし、喋ると拍子が合うんだけど、夏休みになると会わなくなるし。
いや、そもそも最近の宇連は少し変わってしまった。
「卓球と宇連が私にはルーティンみたいなものなんだけどねー。そういえば、宇連パイなんて呼んだら驚かれるよ」
「え。いや本人にそんなの言うわけないじゃないですか。恐ろしい」
宇連は後輩に慕われたいから呼ばれたら喜ぶだろうに、惜しい。ただこの子の感じはあまり宇連に似合わないから、そこまでオススメするのはやめよう。
「ってかなみパイはどうなんすか?」
「どうって?」
「ひよハイって呼んでくれないんですか?」
「まだ早いよーひよこちゃん」
「身持ち硬いっすね……、ま、そのうち呼ぶと思いますけど」
なぜか得意気にひよこは鼻息を鳴らす。
結局その日はもう二度と負けて、憤慨しながら家に帰った。
―――――――――――
夏休みにも関わらず、毎日のように学校に通って小説を書く日々。家に居づらい去年より、真面目に小説に向き合う今年の方が遥かに熱心だった。
「ちゃっす、なみパイ」
「うぇ、ひよこちゃん」
「ひよハイでいいですって」
「どうしたの? 図書室に何か用でも?」
「本当に小説書いているんですね。ちょっと見ていいすか」
突然図書室に現れたひよこであったが、制服姿であるため卓球部の活動はないと思われた。午前だけ練習の日などもあるため、ついでに顔を覗かせに来たか。
とかく、ひよこは原稿用紙を少しめくり、「何書いてあるかわからない……本当に怖い……」とおどろおどろしげにつぶやいた。
「いやそれは怖さじゃないし。どれどれ、漢字が読めないの?」
「漢字と空気が読めてない感じっすね」
「わかってて読まないのはよくないよー?」
「調子が崩れる?」
「ノン、拍子が狂う」
迷惑にならない程度にケタケタ笑う、邪魔をしに来たのだろう。
「なみパイやっぱ面白いっすね。初めて見た時にピンと来ましたよ」
「それはありがと。でも見てわかるならもっと他にいるんじゃない? 面白い人」
例えば、宇連とか。
「例えば、空木とか? あいつほど面白いやつもいませんね」
そこで、予想だにしない名前が出てきて驚いた。二人が同じ教室だとか、よく一緒にいる程度は聞いていたが、この場で名前が上がるほどの人物には見えなかった。
宇連に少し似ている、と以前考えたことをふと思い出す。
「空木ちゃんてどんな子? 割と気になるんだけど」
「爆弾みたいなやつですね。しっかり爆発しますよ」
「なにそれ、髪型が?」
「感情とか暴力?」
「危険人物にしか聞こえないんだけど」
「っても、私昔絞め落とされましたし。あいつに」
「なにを爆発させたらそこまで」
「図工の授業の時に同級生殺そうとしたらその前に」
「話に一生追いつけそうにないんだけど!?」
理解を次々と飛び越える話題を提供してくれるひよこちゃんに寄れば、だいたい以下のようになる。
図工の授業の時に苦労して作った本棚を、男子がふざけて踏み潰してしまった。
ひよこちゃんは「もう殺るしかない」と金槌を取ったところで、空木ちゃんは「こいつは殺る気だな」と察して後ろから首を絞めたという。
時代が同じはずなのに私と価値観が違いすぎる。二人とも紛争地域で育ったと言われて信じてしまうようなエピソードだ。
「めちゃくちゃ面白いねー」
「ねー、空木そういうとこあるんすよ」
「キミも大概だけどね」
「いやいや、なみパイも空木見てたらわかりますよ。あいつ化物ですって」
話を全て事実として受け止めるなら、犯罪を止めた空木よりすぐに殺そうと思い立ったひよこちゃんの方が化物に思える。
そんなひよこちゃんが空木が面白いといっても、価値観が異なっては。
「……ま、いいや。ほいで何しにきたんだっけ、キミ」
「なみパイの小説読みに来たんすよ」
「あ、そう。悪いけどがっつりは読まさないよ。途中で書き直しまくってるし」
「えー。じゃあ過去作品は?」
「家にはあるけど……部誌も出してるし。ほらあれ」
図書室の一コーナーに文芸部の部誌置かせてもらっている。去年の二回分と今年の夏休みに出したての新作にそれぞれ一作ずつ寄稿をしている。
それを知ってひよこは部誌を三冊ともかっぱらってくる。全然余っているからどうぞ持ち帰ってください。
「あれ、宇連パイは書いてないんですか?」
「宇連は読む専門だね。私も書けばいいのにってよく声かけるけど」
「へー。私書きましょうか?」
「お、じゃあ期待しちゃおっと」
「なみパイのやつ読んでから決めまーす。どれどれ、『砂掛婆』? えーと、村の若い衆にとってその家の者は疎ましかった」
「読み上げるのは恥ずいからやめて」
「漢字間違えてたら私が恥ずいんですよ」
仕方なしに、一緒に小説を読むことにした。気分転換というか、拍子を合わせるためだ。
砂掛婆は、復讐鬼の話だ。村の中で疎まれていた一家は村ぐるみで迫害され、ついには家を燃やされて老婆を残して皆死んでしまう。
老婆は足が不自由で、また火事のせいで目が見えなくなる。葬式も挙げられない老婆は焼け落ちた家から遺灰を拾い集めて、村人に投げつける。すると村人は既に冷め切ったはずの灰を受けた部分が火で炙られたかのように焼け爛れる。
そして老婆は、まるで目も足も自由であるかのように山の方へと行方をくらますと、穏やかだった山が噴火し、村は火山灰に埋もれてしまう。
『河童』同様の妖怪をモチーフにした怪奇譚だが、少しファンタジーが過ぎると反省している。締切に切羽詰まっていて、この時はこれで良かったと思ったが、幼気な後輩と共に読むには恥ずかし過ぎる出来だ。
けれど、ひよこちゃんはそれを笑いもせずに静かに読んで、読み終わって少し顔色悪そうに私を見た。
「怖すぎません? いや……こんなの書けないですけど?」
「えぇー? 簡単じゃん。こんな、日本昔ばなしみたいな」
「いやこんなのトラウマになりますよ子供が見たら」
そうだろうか。ひよこの価値観はあまり参考にならないし話半分に聞こう。
「書けそう?」
「いーや無理ですって」
「ま、私才能あるからねー」
「ムカついたんで書きます。じゃ」
互いに手の平を返す、返す。
ひよこはムカつきをそのまま、会釈してすぐにこの場を去った。
部活に行ったのか、帰ったのか。それはどちらでも構わない。
拍子は小気味良く整っていた。
―――――――――
夏休みも終わりになりそうな頃。
『言霊』も最終調整に入っていた。
会心の出来、というわけでもないが仕上がりは万全だ。自分では欠点は見えず、話は綺麗にまとまっている。
受賞する気は、正直しない。大きな感動もない、ただの小さな破滅の物語でしかない。
ただ、私の満足感はこれ以上ないほどにあった。
「……スヤつきそう。家帰ってスヤしよう……」
最近は睡眠時間も削っていたため、自分でも何を言っているのか不明だが、そろそろ夏休みの宿題をしないと怒られるということはわかっていた。
「あ、なみパイチーッス」
「あ、ひよこちゃん。久しぶり。ねむい……」
「うわ大丈夫っすか!?」
ついひよこちゃんにもたれかかると、彼女はしっかり受け止めてくれた。
「寝てないんですか? そんなんじゃいい小説書けませんよ?」
「いい……? ふふ、良し悪しを決めるのは私だよ……、お祖父様でも選考委員でもないんだ……」
名前の意味だってそうだ。
この名前が嫌いだった。父が、母が、良いものだと言っても私にとって悪いものなら、それは悪いものだ。
怪奇小説だってそうだ。宇連だってそうだ。誰かがそれを悪し様に言っても、私にとって良いものだから、私にとって優先すべきことなのだ。
めげない、曲げない、覆させない。
私は戦う、私の好きなもののために。
「ひよこだって教えてくれたんだよー。私の気持ちが一番だいじー」
「……先輩、今は寝てください。超眠そうなんで」
言われなくても、ひよこに抱えられたまま、私はゆっくりと胸元に頭をもたげた。
蒸し暑さで目が覚める。
図書室で椅子に座って寝ていたらしく、真っ先に慌てて原稿を探した。
けれど、傍にひよこがいて、それを持っていた。
既に秋を思わせる紅い夕陽が、その光景を照らしていた。
「ひよこちゃん」
「……今二回目読んでますよ。『言霊』」
「うっそーん。意外と読書家だね」
読ませる気はなかったけれど、自分の油断が招いたというか、うっすらひよこと出会ったことは覚えている。
眠くてあまり覚えていないけれど、隙を見せたのは確かで、それも合わせて少し恥じる。
宇連に読ませた時ほど、恥ずかしくはないが。
「天才ですよね」
「あは、なにそれ。初めて言われた」
「それは嘘っすよ」
漢字も読めないと可愛い子ぶっていた風に思うけれど、今原稿を読むひよこは真剣そのものと言った様子で。
集中する姿に、少しだけ宇連に似たフリークを感じた。
「……なんていうか、キミは本当に拍子を狂わせるね。書き上げた後に来てくれてよかったよ」
「文章読んで感動するなんて、思いもしなかったんですよ。今まで漫画しか読んでなくて」
熱い台詞は、今更する自己紹介みたいだった。けれど、目は、顔は原稿用紙に隠れてこちらからは見えない。
「全然軽い気持ちで読んだだけなのに、夏休みの間に何度も何度もなんでか読み返しちゃって」
「……ほぁ。そうなんだ」
「読めば読むほどこんなの書ける気しないって思いながら、卓球する合間に書いてたんです。先輩みたいに」
原稿用紙をもう読んではいないのだろう。紙束で顔を隠しながら、彼女が鞄から出したのは同じ紙束だった。
「二本も書いちゃいましたけど、先輩に比べると全然できてなくて」
『娘猫』。
『小僧鼠』。
そう題された二作があった。
夕陽に照る、ひよこの赤い顔が少し見えた。
「読んでいーい?」
静かにひよこは首を垂れた。
娘猫は、ネコを虐め殺していた少年が、大人になった時に結婚をして、妻が産んだのが人間ではなく猫であったという話だ。
怪異の描写は薄く、因果応報を基本にしている物語。読み応えがあるのは、過去に悪事を働いたといえ、大人になってからは真っ当に、幸せに結婚をした人間が、その過ちのために不幸になる強弱のつけ方。
――この露悪的ともいえるような筋道の立て方、私好みというか、私そのものだった。
小僧鼠は、幽霊屋敷の物語だ。
ある家に幽霊が出ると評判になって、誰もが人影を見るが正体を掴めないでいる。
背丈からして少年であろうと言われ、その家を取り壊すかどうかで大きく揉めるも、結局は取り壊しが決定する。
家を取り壊した時に、崩れた中から大量の鼠が這いだした。恐らくは鼠が集い、少年の形を成していたのだろう、という結末。
大山鳴動して鼠百匹と、幽霊の怪奇譚のようでユーモアに富んだ物語。
「ちゃんとしてるね。初めて書いたとは思えないよ」
「……今、どんな顔していると思います?」
「恥ずかしくて顔真っ赤とかかな?」
「いや、はい、うれしくて……」
ひよこが原稿を下ろすと、想像以上の満面の笑みだった。溶けちゃいそうなくらいニヘニヘーっと笑っていて、つられて笑いそうになる。
けれど、それ以上に私は火照っていた。
「なみパイのが顔赤くなってません?」
「……いやなんかジーンと来てるね。なみパイ感動してるよ」
モチーフも物語も文体も、全て私を模倣したかのような作品だった。けれどパクリというわけではなくて、私の作品を好いてくれて、同じようになろうとして作り上げたフォロワーの作品だ。
私には、今までそんなファンというものがいなかった。
「自分のために、自分のためだけに小説書いてたようなもんでねー。親とかお祖父ちゃんとか期待してるっぽいけど、知るか、自分のために書いてやるって粋がってたんだ」
「そうなんじゃないんすか?」
「だと思っていたのにね、ひよこに喜んでもらえてこんなにされると、なんでか踊りたいくらい嬉しい」
自分を失いそうになるほど、喜びが込み上げていた。ひよこに笑顔を見られることさえ気恥ずかしい。
私は、自分のために書いている。自分が良いと思ってそうしているだけで、他人の喜びを理由にしてしまうと、自分が霞んでしまう。
それは困ることだ。私にとって身近な他人は、媚びない宇連や、毛嫌いしている家族で、その人たちのためにというのは、私がまともに生きられなくなる。
「先輩の好きなものを好きって言う人がいなかったんですか?」
自分が掴みかねていた答えを、簡単にひよこは言い放った。
誰かに合わせるんじゃなくて、私が好きなものを好きと言った。
――宇連が初めて『白狼』を褒めてくれた時の感覚なんだ。
「……キミは、キミは本当に」
それだけ呟いて、俯く。
ひよこの顔を見ることもできない。
妙に突っかかってくる変な一年だとしか思っていなかったのに、どうもダメだ。私も宇連も考えすぎるところがあるから、こういう直情的なのに弱いのかもしれない。
私も宇連と絡む時はそういう風に意識をしているから。
「ところで、どうでした私の作品? 褒めてくれていいっすよ!」
「あ、えへへ……。キミはどっちの方が良いと思っている? 猫と鼠」
「ま、鼠ですね」
「じゃあやっぱ相容れないかもね。猫を私に寄せて、鼠を好きなように書いたってところでしょ」
それくらいは作品の空気感でわかる。最初に書いたのはたぶん猫の方で、私がするような文章のクセや諄さがあったけれど、鼠の方は中学の国語の教科書くらいの平易な文体も増えていた。
「相容れないなんて寂しいじゃないですか……ってか『言霊』はなんなんすか!? 全然妖怪の話でも昔の話でもないし!」
ひよこの怒りは、たぶん部誌に載っている私の作品が江戸から大正時代モチーフで、砂掛婆みたいな妖怪の話だから合わせに来たのだろう。
言霊は現代の話でカウンセラーと主人公の話がメインだから、比べると現代風だ。その方が、ひよこも書きやすいと憤っている。
「自分のために書きなよ。そしたら、私は読むから」
「……! じゃあそうしますけど!」
「……ふふ、やったぁ。書く部員ゲット~」
期せずして、少しだけ文芸部に明るい展望が見えた。
それ以上に、私にとっても良い経験になった。それを『言霊』に活かせないのは少し惜しいが――。
――いや、『言霊』には不要だ。これはもっと鬱屈とした小さな破滅の物語で、私が今のような高揚感に満たされていては完結できなかった。
つくづく、運が良い。
「ひよこちゃん、相談とかあったら聞くよ。私にできる範囲なら」
「ひよハイって呼んでください」
「え、あのダサいやつ? うっわーそれはちょっと」
「お願いします! ひよハイでお願いします!」
「……よし、私に二言はない! これからよろしく、ひよハイ!」
「はい、なみパイ!!」
文芸部、というより卓球部に引き込まれたような気分だった。
――――――――――――
夏休みが明けてから、より言霊をブラッシュアップさせるべく集中をする。
といっても周りは文化祭のムードになっていて、その手伝いをする時間が増えてくる。
文芸部での出し物はないし、部活では夏休み前の宇連と空木ちゃんに戻ったようだったし、その方での憂いはない。
ひよこは部活に顔を出そうとしていたけど、やはり卓球部に行く時間が多く、平日に部室で執筆ということはなかった。私に会いたがっていたけれど。
「あら宇連さん。素敵な衣装だね、豆腐のコスプレ?」
「お化け屋敷なのだから、食べ物ならこんにゃくにするべきね」
宇連が真っ白な着物を持って、右往左往していた。
周りは周りで忙しそうなのに、宇連は一人で忙しない。
「どしたん?」
「試着を任されたのだけれど、着替える場所がなくて」
「あー……まだ運動部とかが更衣室使ってそうだしね。空き教室使えば? 一年は使わないでしょ。大きい出し物ないし」
「誰かに見られたくないもの」
「廊下の突き当たりのとこなら誰も来ないって。一緒に行こうか?」
「行くなら一人でいいわ。執筆、忙しいでしょう?」
「あ、気ぃ使わせちゃった? ごめん。別にもう大丈夫だよ。ほぼできてるし」
「そうなの。最近、卓球部に行く時の方が嬉しそうだから諦めたのかと思っていたけど」
「うそ」
とりとめのない会話のはずが、突然足元を崩されたかのような感覚に陥る。
宇連の目にそう映ったということは事実なのだろう。確かにひよこといる時間は楽しいし、それに助けられているところは大きい。
「でもひよハイより宇連の方が好きだよ」
「……それはなに? どういう比較?」
「えー、ラブの話?」
「わけがわからないわ。……大事な話じゃないなら、行くけど」
「や、宇連も後輩と仲良くなったらわかるって。なんてーかなー、結構ラブよ」
「ラブ? ライクじゃなくて?」
「いや、ライクだけど。すんごい可愛いよ。食べられるか食べられないかで言うとたぶん食べられる」
「バカじゃないの?」
「伝わんないかなぁ」
妹ができたみたい、とは言ったものだ。実際の妹はあそこまで可愛くないだろうが、自分の後追いまでしてくれる存在というのは特別に見てしまう。
宇連の、歳下に慕われたいという願望も今ならわかるし、宇連がそれを知らずして渇望する点を見てもその感覚には脱帽する。
「宇連も空木ちゃんと仲良くねー」
「会いに行くわけでもないのに……」
呆れられたようだが、常にそう心がけておくことは大事だろう。
思い続け、言葉にし、行動にし、習慣にする。消極的な宇連でも少しは効果もあるだろう。
さておき、文化祭の手伝いをしつつ言霊をより研磨できないかと試行錯誤することにした。
少しした後、宇連を探すクラスメイトに声をかけられて、空き教室の方へ赴く。
宇連が衣装をもってうろついていたのもそうだが、宇連本人に段取りの説明やらなにやらしないといけないのでとっとと呼び戻せということである。
知識の豊富な宇連が着物の着方がわからないでもなし、確かに着て帰るだけなら時間はかかっている。そんな程度の遅れだった。
拍子が外れるからやめてくれよな、と軽口でも叩こうと思っていた。
「宇連先輩、宇連先輩、宇連先輩、宇連先輩!」
何度も宇連を呼ぶ声に、相対する宇連。
「わかったから……」
見て、すぐに分かった。
手遅れだった、拍子を戻すには。
そこにいた宇連は宇連ではないかのようだった。幻想的にも見える幽霊の姿も、顔を真っ赤にして困り果てた表情も。
小学生の頃から一度も見たことのない宇連だった。
見たことないといえば、手前にいる空木ちゃんもそうだった。むしろ宇連よりも興奮気味に見える。
「もっと照れる呼び方を考えます」
「さっきからずっとどういうこと?」
こっちが聞きたい。何があってこんな、面白くて訳の分からない状況になっているんだろう。
ひよこは空木ちゃんを爆弾と喩えたが、きっと爆発したんだろうということは想像がついた。
宇連が美人過ぎるからか。きっとそう、空木ちゃんは見る目がある。
「陽無」
空木ちゃんの声を聞き、考える。いや感じ入る。
運命とは。
恋愛小説のようでくだらないと一蹴したし、定めづけられたものを運命と呼ぶならば、私は家のことや死など、回避できない不幸に対してその言葉をよく使ってしまう。
運命とは逃れられない回避不可能の絶望であろうと。
けれど、宇連が私の『白狼』を読んでくれた時にはそれが、運命だと思ったものだ。
空木ちゃんと宇連が一緒にいるのは、それではないかと思う。
どこまでも自分の考えがチープになりすぎてしまうから、恋愛小説は苦手なんだ。
「……パイ」
「え?」
「ひなパイ」
「…………?」
「……あの、ころハイとか呼んでくださいよ」
「なんでそんなバカみたいな」
ひ、日和った。ひよこじゃないのにひよった!
「ぶはっ! ぐははははっ! ひっ、ひーっ! 何やってんの二人とも! さっきからコントみたいにしてもう笑うの我慢するの大変だったよー!」
「こ、湖南先輩……」
「あ、なみパイでいいよ。それより宇連は何やってんの。着替えるの恥ずかしいからってこんな端っこの空き教室に来たんでしょ?」
「それは……、この子が急に変なことを言うから」
「そうなの? まあどっちでもいいや。ころハイちゃん、今文化祭のお化け屋敷の最終調整だからまた今度ね」
「お化け屋敷……でしたか」
じとり、と暑く湿った宇連の手。もどかしそうで進みの遅い歩調。
「宇連さんだいじょうぶ? 体調的なものじゃないとは思うけど」
「あの子、変よ」
「ぐふっ! た、たしかに凄い子だったね。ひよこの言う通りでさー」
「ほんとうに、変」
「そだねぇ。いひっ、でも変変言うと傷ついちゃうかもだし」
「変、だわ……こんなの……」
違和感で振り返ると、宇連はもう角も曲がったのに後ろの方を向いていた。
手は汗ばんだまま、変という言葉が空木に向けられたものではないと悟った。
「変に、なってる……」
「……宇連さんや、とりあえず教室で座りましょっか?」
宇連の困惑がどれほどのものか、想像もできないのが本音である。
きっと私が宇連に抱いた感情以上であるということが、宇連の聡明さや普段の知的さと、今の落差を見ればわかる。
あるいは、動いたこともない感情に心が追いついていない、はじめての体験であるとか。
どうしたものか。
「うわ、宇連さん熱出てるの?」
「保健室行った方がいいんじゃない?」
「なんか冷やすものないか、みんな」
クラスが少しざわついてあわただしくなる。宇連を心配する動きで全ての作業がストップしたようだ
「ほら宇連、みんな心配してるじゃん。大丈夫? いっそ帰る? いっそ寝る?」
「……湖南さん、私……」
けれど、宇連は反対に落ち着いていた。
宇連の熱を帯びた瞳に急に決意の色が芽生えていく。
この決断は、私はきっと知っている。
「こ」
恋、その炎に間違いない。恋愛小説なんて書いていなくたってわかる。
「ころハイと呼んであげたいわ」
「なんでやねんっ!?」
珍妙なワードにツッコミを入れた瞬間、天と地がひっくり返り私は思い切り背中を床に打ち付けた。
「わっ! 湖南さんがこんにゃく踏んですっ転んだ!」
「宇連さんをこんにゃくで冷やそうとすんなよ!」
そんなクラスの喧騒を聞きながら、仰向けに倒れる。
照らし出す蛍光灯と、決意を固めた表情のまま心配して私を覗き込む宇連の顔が重なる。
宇連といると全く飽きない。
拍子は狂ったまま、狂いながら時間は進んでいく。
「いっちょ手伝ってやるかぁ! 乗りかかった船だし、宇連が立派な先輩できるように一肌脱いでやらぁ!」
「流石ね、湖南さん。心強いわ」
「まっかせとけーい!」
クラスメイトの困惑と心配を受けながら、私は深い溜息を吐いた。
――――――――――
私が出来ることなんてたかが知れていて、実際に頑張るのは宇連の方である。
空木ちゃんをころハイと呼ぶ。私やひよこなら簡単でも、宇連にとってそのハードルが高いことは、見ていればわかる。
ひよこに、空木ちゃんがいつ頃に部活に来るかリサーチしてもらい、そのまま連れてくるだけ。
そこまではうまく行ったが、部室に二人が来ても、宇連は何もしなかった。
がんばれ、宇連。そう心の中でエールを送る。
というかそもそも、ほんの数日前にひなパイだのなんだの言っていたのに空木ちゃんの方もおとなしい。何か言うこともあるだろう。
こうなると心配というよりやきもきする。暇だし、何か言ってしまいたい。
ただ、宇連は私のこれ以上の援助、介入を求めていないらしく、やきもきしながら待つしかできなかった。
苛立ちを募らせていると、ようやく二人の目が合う。
宇連がすぐに本に目を戻してキレそうになるが、もう空木ちゃんが宇連を見つめていた。
やっと、変わろうとしている。
宇連と空木ちゃん、二人とも。
「あの」
「……ころはい」
言ったァー!
私は今まで宇連を甘やかしていたんだなぁ、とひょうげてしまう。こんなコミュニケーションのヘタクソな人間に育ってしまって後悔と悲哀に飲み込まれてしまう。
つって、呼吸を必死に止めている。何、今の間。
いやぁ、それにしてもころはいは面白い。笑ってしまいそうになるのをこらえながら、対する空木ちゃんの反応を待とう。
と思っていたのに先に動いたのは宇連。
「失礼します」
凄まじい勢いで本を閉じて荷物もそのままに宇連は走り去った。
今まで繰り返してきた全ての帰宅という動作を練習と仮定するならば、この瞬間の帰宅こそが積み重ねてきた本番の成果を出したかのような流れる動き、ある意味感動をする。
いや逃げてどうする。一人だけ三倍速みたいな動きで丁寧に扉まで閉めていく姿はあまりにも滑稽で。
「ぶひゃっ! ちょ、宇連……ひっ! 可笑し……だめ死ぬ……笑い死……かっ……」
宇連さんがこんなに、こんなになってしまうなんて。
こんな姿見たくなかった、という気持ちは確かに存在しているのに、あまりにも面白くてこういう宇連が見たかった、という気持ちがあることに驚いている。
宇連と私は、どういう関係なのかと、少し考えたことがあった。
教室ではよく宇連と絡むし、文芸部に誘って入ってくれた。私の書いたものも宇連は読んで感想をくれる。
けれど個人的に遊ぶことはほとんどなくて、それは私の他の友達よりも交友としては薄かった。
読者と作者、と呼ぶのが一番正しい気はするけれど、それでは腑に落ちなかった。
他の友人よりも宇連を大事に思って、宇連が好きだから。
心配な妹のように思い、愛玩するペットのように思い、支えてくれる恋人のように思う。
宇連を表すうってつけの言葉は私の中にはなかった。
でも今、宇連の姿を見て思ったのは、宇連は私にとって特別でも、他の人にとってみれば普通の、どこにでもいる人間だということだった。
顔を上げる。宇連はいなくて、空木ちゃんがいた。
「はー、一生分笑ったかも。でキミ、追いかけなくていいの?」
声をかけると火がついたように空木ちゃんが宇連の後を追う。追いついたらいいけど――いや、大丈夫か。
あの二人なら大丈夫な気がする。どうにもならないということはないだろう。
言霊を完成させよう。
――――――――――――
その後、宇連と空木ちゃんは問題なく交友を深めているようで、今度一緒にお出かけをするらしい。
私でさえ、宇連と一緒に休日に出かけたことはない。
有体に言えば嫉妬している。
「アンマリーダショット!」
「じゃ誘えばいいんじゃないですか?」
私の気持ちをぶつけた必殺ショットも、簡単にひよこは打ち返す。
「っていうかなみパイ、もうすぐ期限なのにまだ送ってないんですよね。こんなとこで油売ってて大丈夫ですか?」
「悩み相談に来てるんだから聞いてよ。こんなんじゃ『言霊』は日の目を見ないよ」
「それは困りますけど、じゃあ卓球はやめませんか?」
「なんとか拍子を整えたくてさ」
「はあ。まあいいですけど」
「私に魅力がないからなの!?」
「いきなりなんですか!?」
自分に自信がない、そういう一般的な悩みの相談のつもりだ。
単純に、私に宇連に好かれる要素がない。そう考えて。
「空木ちゃんの方が魅力があるのかな」
「度胸の問題じゃないですか? 普通ならたぶんなみパイのが人気ですよ。ま、私は空木を選びますけど」
「え、なんで。そんな傷つくこと言う必要ある?」
「なみパイ、人間的には凄く魅力的っすよ? でも、どっか冷めてるんですもん。なんていうか、冷静というか」
「そうかなぁ。エネルギッシュに卓球しているのに」
「や、人に対してです。なんか、他人のことどうでもよく思ってそうで」
「そんなことないよ」
「宇連パイとかはそうでしょうけど、遊ぶのダメなら他の人と、って考えてません? 絶対に宇連パイじゃないとダメ、とか絶対に私じゃないとダメ、みたいなこと」
「それは……確かにあんまないかも」
見たい映画がある時なんか、二人で行きたいと思ったらその相手が誰かであることを指定はしない。
それは普通である気がするけど。
「空木は私にとって特別ですよ。誰か殺そうとした時に殺してでも止めてくれるやつなんで」
「特別過ぎるよ、それは。女子高生の会話じゃないって」
「あいつのそういうパワーが、なんていうか惹かれるんですよね」
「ふーんなるほどねー。それは確かに良さそう。私にはあんまり、凄すぎてわかんないけど」
「なみパイ冷めてますしね」
「いや私のせいじゃないって! 空木ちゃんがヤバいアツさなだけだって!」
そう、空木ちゃんがの距離の詰め方がおかしいだけ。
紛う方なき事実でありながら、ひよこや宇連みたいな人にはそうでなければいけないというのもまた事実だと思った。
付き合いがあってわかるけれど、二人とも偏屈だ。宇連は交友に疎いし、ひよこは明け透けには本音を語らない。
そんな二人を私が特別に思うのは私の小説を、心を、読んでくれているからだ。
それでも、誰かの一番になれないのは、私がきっと臆病で、空木ちゃんが異常な勢いで迫るからなんだろう。
空木ちゃんはヤバい、私には真似できないほどに、強く、熱い。
その方が良いと言えない、むしろそれは交友関係を作る際に邪魔になるのに、それがないせいで私は大切な人に、差をつけられている。
いや、それに宇連に対して私は丁重すぎる気持ちでいた。
宇連は私にとって特別で、宇連が私に対しても誰に対しても少し冷たいから、距離を詰めかねている。
このままでは、これでは全てを空木ちゃんに取られてしまう……一人の後輩相手に、そこまで考えていた。
きっと普通に生きていれば私のやり方の方がずっと利益を得られるとわかっていても、この瞬間に私は大切なものを全て手に入れられないという自覚をした以上、その臆病なクレバーさは不要だ
私は、どれだけ広い交友関係や、祖父から続く資産や、小説の人気があっても、二人を失ってしまえば生きていけない。
空木ちゃんに全て取られるという被害妄想も今は事実として実感がある。宇連はともかく、ひよこは空木ちゃんの方が付き合い長いのに。
私にとっての宇連。
私にとってのひよこ。
私にとっての、私自身。
そのどれもが優先できないまま、不幸になる。
「ビビってんすかね、やっぱ」
「ビビるって……、色々ビビってはいるけどさ」
「『言霊』もそういうオチだったじゃないですか」
言霊。
言葉に発した命令を全て遵守させられる超能力を持つ男の物語だ。男はその力のために、口数が減り誰からも心を閉ざしてしまう。
紆余曲折を経て男は刑務所に入るが、そこで出会ったカウンセラーに徐々に心を開くが、恋人になってくれませんか、という問いかけに否定をされて、自殺してしまう。
「主人公みたいにビビってるし、何か言って失敗したら自殺しちゃうザコメンタルなんじゃないっすか?」
「ひよハイは本当にズケズケ言うね!」
「自分それが取り柄なんで」
後輩の面の皮の厚さに心底驚きつつ、少しは的を射た意見だと感じもする。
勇気のある行動、そういうものを私はしていなかった。宇連を応援する一方で自分は変わらずにいつも通りでいた。
私はまだ、『言霊』を世に放ってもいない。よりよくするためと言っても、それをビビっていると言われれば否定はしきれない。
空木ちゃんやひよこは、先輩と仲良くするために行動を起こしていた。
私にもそういう勇気があれば……。
「……いや? 私は何すればいいわけ? なんか、もっと仲良くするためにはみたいな話してるけど何が必要かとかわからんわ」
「ビビりが染み付いて人との仲良くなり方も忘れたんすね……」
「言い方ひどくない!? でも宇連とひよハイにこれ以上踏み込むって、なかなかねー……」
「それは確認すればいいだけっすよ。宇連パイには『ウチら一番の親友だよなー』って」
「それは、やっぱハードル高いわー……」
宇連が私を友達だと思っているかどうかも確認したことがない。友達は確認するものではないと言うけれど、宇連が相手だとそれも例外だ。
その確認を避けてきたわけではないが、ビビりが染み付いていた、と言うのが正しい気もする。
「あと私だったら『好きです付き合ってください』とか言えば空木より深い仲になれますよ」
「空木よりっていうか誰よりも深い仲になるくね? いやひよハイにとって今の私はなんなの、それ」
「今は……、今は私が一方的に好きなだけですね」
「……あれ、ごめんこれもしかして告白?」
「そうっすね、私も気づいてなかったっすわ」
「いやそんなことありますか?」
「あるんですよこれが」
妙に空気が冷めながら、ただ互いに表情が引き締まっていくのがわかった。
話の流れもムードもないながら、私は後輩から愛の告白をされているらしく。
「保留で。まだ『言霊』も応募できてないし、宇連に対するモヤモヤをなんとかしたいしね」
「それで宇連パイに告ったら呪い殺しますからね」
「怖いね!? 愛みたいなのはないの!?」
「物理で襲う方が生々しすぎてダメかと思ったんですけど、金槌のがよかったですか?」
「殺す方法じゃなくて。暴力はやめようね」
「そうですね……心がけます。その時次第ですけど」
「面白さが一気に怖さになったよ……」
半ば脅されながら、告白の返事を保留することは許された。しかし悩みが一つ増えたようで、だるま落としみたいにスコンと一つ、どうでも良くなった。
ある意味、肩の荷を下ろしてもらった。そんな風に受け止めよう。
―――――――――
放課後、どれくらいの時間がかかるか知らないけど、それでもひたすら宇連に声もかけずに待ち続けた。
それは私の臆病で、ただ猶予があるならふんだんに使おうという考えだ。
ただ、言霊の応募一週間前、絶対にこの日と決めていた。
そして、文芸部の部室から出てきた宇連と空木ちゃんに声をかける。
「やぁうつハイ。宇連借りていい?」
「一緒に帰るところなのだけど、用事はなに?」
返事は宇連から来た。見知った顔である以上道理だが、空木ちゃんも委縮している様子はない。私は変わらない調子で冗談を交えつつ会話を続ける。
「そりゃもう色々と、あんなことや、こんなことまで」
「具体的にはどんなことをするんですか?」
空木ちゃんが尋ねてきたけど若干目が怖い。怒りというより興奮と探究、宇連が行うあんなことやこんなことを想像して結構ハードな想像をしていらっしゃるようだ。
「それより小説は書き終わったの?」
「あい、それもありまーす」
「小説……、え湖南先輩って小説書くんですか?」
「原稿用紙に怪奇譚を書くのよ」
「……嘘ですよね、流石に。スマホで恋愛小説って感じですよ」
「外見ではそう思うかもしれないけど、湖南さんは原稿用紙に怪奇物語を書くの」
なんだいなんだい、人を外見と違う面白人間みたいに扱って。キミらの方がよっぽどの面白人間だからな。
なんて、まだ少し戯けていたいけれど、既に覚悟は決めている。
隠し持つようにしていた原稿用紙の束が入った封筒を宇連の胸元に差し出した。
「今回はホラーじゃないよん。四百字詰百十二枚、およそ四万五千文字の傑作『言霊』、是非感想を聞かせてよ」
「……そう。先に言ってくれれば、もっと早くに読んでいたのに」
「できれば、夜も更けてから宇連と話したくて」
「そう……、空木さん、ごめんなさい。先に帰っておいてくれる?」
「えっ!? 嫌です!」
空木ちゃん、本当に見てて気持ちのいい子だ。あまりの返事の勢いで、宇連が微笑んだ。
「遅くなるから」
「えー……うーん……じゃあ今度湖南先輩の小説読ませてくれたらいいです」
「いいよいいよそんなの、じゃんじゃん読んで。ってか部室に置いてるからね!」
空木ちゃんは明らかに不満そうだけど、宇連が手を振るとぶんぶん手を振って、名残惜しそうに帰っていった。
そして、宇連と二人になった。
「図書準備室でいい?」
「あー。こないだの空き教室とか考えてた。どっちでもいいよ」
どちらにせよ二人きりにはなれる。決まればすぐに宇連の案内で図書準備室へ移動した。
夏は蒸して冬は寒い、そんなイメージの狭い密室だが、秋の今は古書の香りと早くに出た夕焼けが窓から差して妙に幻想的だった。
「あなたの小説で四万五千文字なら、一時間半くらいで読めると思うけど、二人きりでする話が長いと最終下校を超えるかもしれない」
「いやーごめんねー。どうしようかな、長くなるつもりはないけど」
「長くても構わないわ。一緒に怒られて平気なら両方済ませましょう」
「やった! 宇連さんかっこいいー!」
宇連は、やはりブレない。変わったのは空木ちゃん相手の時だけだ。
それが、やはり私には少し、ほんの少しだけれど、決して剥がれない呪いのように蝕む。
宇連が黙々と『言霊』を読み進める。
言葉を話さなくなった男が、カウンセラーの素っ気なくも心配する素振りを見せる態度に徐々に心を開いていく。
約束をすっぽかしても、無視しても、カウンセラーは献身的なまでに男に対して問いかける。
やがて二人は言葉を交わし、男はその超能力のことさえも話始める。真偽さえ確かめられないのにカウンセラーはそれを愚直に信じる。
刑務所の中で家族さえ会えない男は、やがてカウンセラーに愛を伝えるのだ。
それが命令ではないのは、男の誠意なのか、臆病のせいなのか。
結果、男はフラれる。仕事として付き合う以上カウンセラーと結婚なんてダメだし、そもそもカウンセラーには妻も子供もいる。
結果、男は落胆して自ら命を絶つ。
傍迷惑な悲恋のような物語。
宇連は百十二枚全てを読み終えた。
「それで、感想を言うべき? それとも話の方を優先すべき?」
「うー……、どうしよう」
話は、簡単なことだ。
宇連と私は友達なのか何なのか、みたいな話。
もう少し踏み込んで、空木ちゃんと私だったら私のが大事だよね、みたいなことを聞きたい。
そんな情けない会話をする前と後のどちらに言霊の感想を聞けばいいのか、選べるはずもない。
「なら、感想を先に言ってもいい? 読んですぐの方が言葉にしやすいから」
「あ、うん。じゃあお願い」
「文章は……相変わらずね」
「う」
「申し分ない出来。賞に応募するのなら、それで減点されることはないでしょう。至高の領域と言ってもいいのではないかしら」
「う、ん。良かった。ありがとう」
紛らわしいというか、それ以上にここまで褒めてくれたことは今までなかった。空木ちゃんと仲良くなってから彼女も心を語るようになったのだろうか。
どのみち複雑な気持ちになってしまうのなら、やはり会話の順序はどちらでも構わなかったらしい。
「物語や構成については、そもそも、妖怪を出さないのは『白狼』以来かしら」
「うん。ホラーばっかり書いてたからね」
「あら、『砂掛婆』はファンタジーじゃなかった?」
「宇連さん、ひどい」
「冗談はさておき」
宇連も少し戯けていたのだろう。
日の落ちた図書準備室の中、原稿の上に手を乗せて、瞳に逡巡を浮かべていた。
「決意を、感じた。白狼の時と同じか、というのは邪推だけれど。湖南さんの中の強い意志のようなものがあったと思う」
「……そう」
それは本当に、書評ではなく感想であった。私の作品を読んで感じたこと。
それもまた、宇連からは想像できない珍しい言葉だった。
「貴女がこの作品に、どんな想いを込めて書いたか、それが気になっている」
「宇連さんでもわかりませんか」
「想像はしているけれど。当ててみても?」
「お願いします」
この破滅するだけの物語、『言霊』を読んで宇連は何を感じたのか。
ひよこは、ビビっている私の心を示しているというように言っていた。
言葉を発しても損しかしないというような、気持ちの弱さ、そう指摘された時はそれが全て正しいとさえ感じてしまっていた。
私とずっと一緒にいる宇連は、私をどう読み取ってくれるのか。
「一般的な勇気の物語、かしら」
「……勇気」
「ええ。厭世的で自暴自棄な人間が、勇気をもって人と結びつこうとする物語。遍く人類に共通する一般的な文学だと考えられる」
「……にしては、オチは悪いんじゃないですかねー?」
「ええ。ヤケクソになったのかと思ったわ。現実的だけど、それじゃ賞が取れるとは思えないわ」
これじゃ賞は取れない、と宇連は断言する。そしてそれは私も同意見だから、思っていた以上にはショックだったが、動じることでもない。
ただ、物語のコンセプトの考え方には驚いた。
「勇気、勇気の物語かぁ。そうは考えていなかったなぁ」
「作者様はどう考えて?」
「この話は……愛の物語。どこまでも自分が大好きな男が、気の迷いがあっても結局は自分だけを愛し続ける物語」
「……自殺ではなく、自分と心中したと? それは、描写が足りないわ。この男は自分を嫌いすぎているようにしか見えないもの」
「自分のことしか考えていなかった。他人を傷つけるのが怖いというのは、他人を傷つけてしまう自分が嫌いで、結局は自分が傷つくのが怖いというわけで。どこまでも独りよがりで自分勝手なだけの、最後まで自分のことしか考えないってことじゃん?」
「カウンセラーへの告白は気の迷いでしかない?」
「そうだね。プライドを傷つけられた男は自分を殺すことで自分を慰めるのさ。俺を傷つけるのはお前じゃない、俺だけが俺を傷つけられる……とまで考えてはいないだろうけど。最後の瞬間までカウンセラーへの愛があったとは思えない」
「……猶更、選定されないでしょうね。賞なんかには」
「勿論。参加することに意義がある、ということにしよう」
「……感想は、もう不要そうね」
「ううん、宇連の感想聞けて良かったよ。その勇気ってコンセプトってことにすれば、他の人にも読んでもらえるかもだし」
「……それは、胸糞が悪い」
「ひ、ひどい……」
「それで話は?」
胸糞が悪いと言われた後に話す内容とは思えないが、時間も時間である故に。
「宇連と私って、友達だよね」
「……お金に困っているの?」
「困ってません。ただの確認。宇連と私が友達かどうか」
「……私、あなた以外に友達がいないの。だから、確認されると不安になる」
「……そう、宇連は私のことを友達だと思っていたんだ」
「ええ。それは、普通に。お互い普通にそう思い合っていたと思うけれど」
「じゃあ、空木ちゃんと私、どっちの方が大切?」
確認ついでの確認に、宇連は一瞬押し黙った。ここで空木ちゃんの名前が出てくることが想定外だったのだろう。
友達の確認の時点で想定外だろうけど。
「……どちらかを選ぶことはないでしょう。後輩と同級生、私にとって区別するものだもの」
「一緒に遊ぶのを同時に誘われたらどっちを優先する?」
「文芸部員でしょう? 三人で遊べばいいじゃない」
宇連がそんな器用な交友をできるわけないと思うけれど、そういうのならば別の考え方がある。
例えば、私と空木ちゃんのどちらか一方を殺す必要があったらどうするのか。
「じゃあトロッコの線路に私と空木ちゃんが括りつけられていて……」
「トロッコ問題ね。貴女を殺すわ」
「おいおい!」
「先輩でしょう? 後輩のために死になさい。同様に私と空木さんが線路に括りつけられていたら、たとえみっともなく命乞いをしても私を殺してちょうだい」
こういう会話をしていると、やはり宇連の不動、あるいは普遍というものを感じる。
人との距離の取り方が、絶対に一定であるかのようだ。年下に甘いとはいえ、年下であれば空木ちゃんであろうとなかろうと区別なく同じ行動をとる気がする。
それが、私は嫌なのに、宇連は同級生で私と比べるような友達がいないときた。
「宇連、私が聞きたいのは、宇連にとって私がどれくらい大事か、っていう話なんだけど……」
「随分、恥ずかしい話がしたいのね」
「だって宇連は……、いや私は、私が宇連を大事に思うくらい、宇連にも私を大事に思ってほしくて」
「そんな話をよくできるわね」
「ひよこに告白されたんだ。好きです付き合ってくださいって」
「……恋愛相談は不得手だけれど。逆町さんのことはよく知らないし」
「恋愛相談がしたいんじゃなくて! ……宇連は私がひよこと付き合ったらどう思う?」
「どう……。とても驚いているけれど」
「ポーカーフェイスだねぇ。掴みどころもないし……」
暖簾に腕押し、糠に釘。宇連との問答は全く成果をあげられないまま、私が一方的に喋るだけになっていた。
「ひよこは、ずっと一緒にいるなら空木ちゃんだって言ってた。私に告白するくらい好きなくせに、私はどこか冷めていて自分のことしか考えてない、距離の詰め方も甘いって。空木の方がパワーがあるって。私は、ずっと一緒にいる宇連にもそう思われているんじゃないかって不安になっている」
「……それこそ、比べるものじゃない。空木さんのパワーは尋常ではないから」
「それは見てて思ったけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて……ああ、もう、何なんだろ」
自分でも考えがまとまらない。
私は、宇連になんて言ってほしいのか。
どうしてくれたら安心するのか。満足して帰ることができるのか。
「……陽無という名前、だけれど」
「……え、なに」
「憂いがないように、無という漢字を使ったらしい。宇連ぇがないように。宇連だけに」
「……え、ダジャレ? いきなりなんで?」
「知りたがっていたでしょう? 名前の由来。『言霊』も書き終えたことだから、ね」
「……ちょっと面白いけど」
「もう一つ。……宇連陽無、うれひーな、うれしーな。そんな、嬉しい人生を送ってほしいと思っていたらしいわ」
「ぶふーっ!」
一度は耐えたが、宇連のくだらない名前の由来を聞いて、堪え切れなくなって笑った。
宇連という名字をフル活用しすぎている。そんな凝った名前、キャラクターじゃないんだから自分の子供につけるだろうか?
なんて、私が言えたことじゃないけれど。
「う、宇連の親って、結構、愉快なんだね、くふふっ!」
「おかげさまで、こんな人間に育ってしまったわ。……自分の名前が嫌いな湖南さんに共感してた」
暗くなって気付かなかったけれど、呟いた宇連の声は少し震えていて、顔は赤くなっていた。
「……ずっと隠していたのよ。小説ができるまで、なんて言い訳して、恥ずかしいから黙っていたのに!」
「え、お、怒っている?」
「照れてるの! はー!」
宇連が、宇連じゃなくなったようだった。
大きな声を出して、怒って、照れて、泣きそうになっていて。
「私が、湖南さんを大事に思っているか、それが知りたいんでしょ。大事よ。ただ、私にとってあなたはライバルだった。ただの仲の良い友達じゃない、憧れて、たまに憎くて嫉妬して、凄く複雑なの!」
「……ど、どこで? なんで? 私に憧れたり、嫉妬するところある?」
こんな宇連は知らない。
いや、そもそも私の思っていた宇連はこんなことは言わない。
けれど目の前にいるのは宇連で、唇をわなわなと震えさせながら、次の言葉を出そうとしていた。
「……白狼を読んだ時からずっとファンだった。私は読むのは好きだけど、書くことはできないから。物語を書き続ける貴女に憧れたし嫉妬もした。私より友達も多いし、後輩にも声をかけられる。勉強だって国語ができる。そんなあなたが私と一緒にいてくれることは嬉しかったし、小説を書いて読ませてくれるたびに内心喜んでいた」
「でもそんな、全然億尾も」
「隠しているに決まっているでしょう。犬みたいに笑って、それは私のプライドが許さない」
「プライド、って……」
「……同級生に舐められたくない」
腑に落ちた。
これ以上ないほど、ストンと胸にあったわだかまりがなくなった。
宇連は後輩に慕われたいと執着している。
そんな年下によく思われたい人ならば、同じ年の人より差をつけて前でありたい。
同年代の人には舐められたくない。
それは確かに、似た感情かもしれない。
そう、見るからに宇連はプライド高いし。
「あはっ……あははははっ!! あははははっ!! そ、そうだったんだ! 宇連ってそうだったんだ!!」
「えーえ、そう。そうだったの。これで満足? 嬉しい?」
「あーあー、そうなんだ。そうかぁ。皮肉だね。宇連が白狼を読まなかったら、絶対もう小説なんて書いてなかったのに」
本当に、宇連と出会わなければ小説なんて捨てて終わっていたと思う。あの日、宇連が読んだから、褒めてくれたから、今もこうやって続いているだけなのに。
「そう……。だったら……やっぱり、読んでおいてよかったわ。悔しいけれど、言霊も本当に面白かったもの」
「あー……そうなんだ……」
簡単に涙が流れてくる。頬に熱いものが通ってから、不意に喉がしゃくりあげて、変な順番で泣いているくらいに体がおかしくなっている。
「……どういう、涙?」
「わ、わかんない。たぶん、う、嬉しい、か、安心、した」
「……そう」
ぐずぐずとしゃくりながら、煩悶するのは宇連のことだった。
私が後輩だったら、宇連を先輩と呼べていたら、今まで抱えていたような不安もなかったのではないかと思う。
けどそれはほんの一瞬の後悔だった。
同級だから宇連は白狼を読んで、私に嫉妬して、私の傍にいた。
今日のこの瞬間もきっと運命だろう。そしてこれは偶然ではなく、私が宇連と向き合おうと決めて、自分から引き寄せた運命に違いなかった。
「……そんなに泣かれると、心配になる」
「うぅー、宇連ぇ……」
「……はい、ハンカチ」
「持ってるよそれはぁ~」
自分のハンカチでズビズバと涙を鼻水を拭いながら、とめどなく溢れる感情を抑え込んでいく。
嬉しい。
今はただそれしか感じていなかった。
宇連が。
ああ、あの宇連が!
……あの宇連が、私の小説を面白いって言ってくれた。
私のことを意識していた。
私の悩みは本当にそれだけだったと自覚する。宇連に、なんとも思われていないことが、空木ちゃんの方が遥かに意識されていることが、怖かった。自分がどうでもいい存在だと思われていると思いたくなかっただけだった。
私は、宇連にとってもちゃんとした友達だった。なんなら友達以上の存在だった。
それだけだったんだ、私は。
私の変な小説を読んでくれる人。
私の名前を呼ばないでいてくれる人。
私にずっと憧れてくれる人。
宇連が、そうだった。
「認められたかったんだ、私は。私自身の力を、私自身を、認めれくてる人を……」
「……偏屈ね。貴女がいないところでも、あなたを貶す言葉なんて聞かないのに。小説のジャンル以外はね」
「だって……」
「ホラーはとっつきづらいもの。それでも、貴女を悪く言わない」
「う、宇連」
「もっと自信を持ったら? 貴女はみんなから評価されて……」
「私は! みんなじゃなくて宇連に褒められたのが嬉しいの!」
今の私は本気でそう思っている。
他の友達より、文芸部のみんなより、空木ちゃんより。
宇連が。
私の小説を初めて、他の要因関係なく、作品を読んで満足してくれた宇連が、そう言ってくれたことが、特別に嬉しい。
「ずっと、宇連のことがわからなかったんだよぉ! 宇連は無表情だし何もわからないし本当に小説が面白いかもわからないし私をどう思っているかもわからない! 宇連が、なんにも教えてくれないからだよ!」
「……、貴女がそうやって、みっともなく言ってくれれば言ったわよ。でも、湖南さんはいつも飄々として、何があっても平気そうにしているから、それが私は悔しくて……」
「わかってよ……、私にとって宇連が特別だって!」
「そんなのわかるわけないでしょ! 貴女はみんなと仲が良いもの! 私が! ……私にとって、貴女だけ特別なのは誰から見てもわかるでしょうけど……」
「……そこはわかってほしいけどなぁ」
「わからないから。……わからないから」
そっと宇連の手を握った。宇連が、あまりに不安げに呟くから。
私だけじゃない、宇連も私のことなんて知らなかった。
宇連にとって私なんて、気まぐれにいろんな人に話しかける飄々とした奴でしかない。宇連のことを特別視しているとも思っていなかった。
決してそんなことはない。私と宇連は、きっとお互いに唯一無二の存在だった。
「……宇連と話せてよかった」
「そう。……私は複雑。貴女の気持ちを知れてよかったけれど、私は、少し取り乱してしまったみたい」
「でもおかげで安心できた。宇連の気持ちをずっと知りたかった」
「……そう。それで満足したのなら、良かった」
呆れたような、落ち着いたような、そんな普段通りの宇連が見えたのも束の間。
だんだん、宇連は頬を朱に染めていく。
「どうしたの?」
「……死ぬほど恥ずかしくなってきたわ」
「そんなに? 私のこと意識してたっていってもお互い様だよ。私も宇連のこと気にしてたし」
「それもそうだけど、どちらかといえば、名前の方ね」
「ああ……うれひーな」
「最低よね……」
「ううん。可愛いよ」
「可愛さは求めていないから。……おかげでこんな風に育ったわけだけど」
「よかった。それで、私は……」
琳寂で、良かった。自分の名前が嫌いだったから宇連と結びつくことができた。
だから宇連も、陽無で良かった。だから私たちは共感出来て、お互いに意識することができた。
そう言いたかったけど、言えなかった。
唇を固く結び、妙に熱っぽく目を潤ませる宇連が、あまりにも普段と違ったから。
冷徹、冷血にまで見える宇連が、あまりにも年相応の少女のような表情で、恥ずかしがっていたから。
「……どうしたのよ」
「いや……宇連って、そんなに……可愛かったっけ……」
「……何を言っているのか、わけがわからないわ」
「……空木ちゃんとかに聞いてみようかな」
「何が」
「空木ちゃんの気持ちがちょっとわかったかもしれない」
今の宇連と二人でいると、妙に胸が高鳴る。
というよりも、小動物やぬいぐるみを見ても感じない、抱き締めたり撫でたいというような感情を初めて得たかのような気分だった。
要するに、可愛い。
それ以外考えられない。
「……帰ろ。遅いし」
「急ね。いいけど」
「うん、帰ろう帰ろう。あ、ひよこちゃんと付き合おうと思うから」
「そう。それは私も賛成よ。空木さんからたまに聞くけれど、悪い人ではなさそうだから」
「適当じゃない? 宇連」
帰る準備をして図書準備室を出ながら、そんなことを宇連と話した。
私は、そこは正直決めていたから問題ない。
ひよこは可愛くて、意外と真面目でまっすぐなところもあって私には勿体ないくらいの人だ。
何より見ていて面白い。彼女に殺されることがあれば、それはそれで……なんて割り切れないけど、そんな意味不明なところも興味深くて仲良くなって分かり合いたい。
「適当じゃない。貴女が選んだことに間違いはないでしょう。きっと」
「信頼ですかぁ? それとも面倒臭くなって投げやりに……」
「……しているわよ、信頼。空木さんも、貴女が引き合わせてくれた。……貴女も、少しは私を信頼してほしいものね」
呆れるように溜息を吐かれながら、その宇連の無関心の正体を知る。
きっと彼女は興味がないことには無関心なのだろう。
けれど、私に対しては私を信頼してくれているから、気にしなくてもいいと思っている。
深い気持ちにまた、胸がジンと熱くなる。
「……じゃ、幸せになろうかな」
「祈っているわ、貴女の幸せを」
そんな大仰な言葉さえも、きっと変わらず冗談交じりでさえないと、私は思った。
―――――――――――――――――――――――
言霊の原稿を投函した後、私はひよこに告白の返事をした。
そして、卓球をした。
「聞いた感じ、私と恋人になる流れじゃなくないですか?」
「なんでそんなこと言うの。冷めた?」
「いいえ、宇連パイのが好きなんじゃないかなって」
出会ったばかりの可愛い後輩よりも、ずっと一緒の幼馴染の方が好きなのではないか。
それは真っ当な考えで、何よりひよこと私が互いのことをまだあまり知らないとも考えられる。
宇連や空木ちゃんのことがあってややこしいが、ひよこと私自体は凄くシンプルな関係だった。
「ひよハイはなに? 私が宇連の方が好きだと付き合いたくない?」
「そりゃまあ。それならとっとと告白してこい軟弱者って言いますね」
「あはは……確かに宇連のことは好きだけど、なんていうかな、ちょっと違うっていうか……」
宇連は――
宇連と恋人になる想像くらいはできる。と言っても、イメージは小説を書く片手間に家事をする私と本を読むだけの宇連だったり、結婚しているようなイメージだけれど。宇連とずっと一緒にいるくらいは可能だ。
それが、私の恋人のイメージで、結婚のイメージ。一般的なものと大差はないだろう。
性的なことでも、問題はない。宇連もひよこも汚らしい雰囲気はなく、むしろ自分の体のように抵抗感のない、それぞれ別の清廉な雰囲気があった。
透明感のある宇連も、健康的で逞しいところのあるひよこも、魅力的と言った方が良いほどだ。
少し話がそれたが、何故宇連ではなくひよこを選んだか。
「宇連とは、たぶんそんなに変わらないんだ。告白して、恋人になっても、フラれても、たぶん今と何も変わらない。まあ、手をつないだり、一緒に出掛けたりするかもしれないけど、告ってもフラれても私と宇連は次の日から同じようにしてそうで」
「……ええーそうですかぁ? そんな色々あって仲良くなりましたって話してたのにぃ? 恋人になったら案外二人とも張り切っちゃったりしますよ。ペアルックなんか着ちゃったりして」
「それがイメージできないんだって。そういうイメージができないから」
「何事も挑戦だと思いますけどね~」
「キミ、フラれたいの?」
「いやそれはないっすけど!」
思ったことをそのまま言うひよこも難儀な性分だ。
もっとも不安を潰したくて難癖をつけているのかもしれない。恋人が、別の人に想いを残したままだと嫌だろうから。
「ひよこは、それなりに賢いし、私の小説を読んでくれるし、面白いよ。凄く興味深い。ひよこのいろんなことが知りたい。だから恋人になりたい。というか」
「なんすか」
「恋人と言うのが正しいかは、微妙なところ。私はひよこともっと親密になってひよこのことが知りたいから告白を受けただけで。だから……、とりあえず恋人っていう名前の関係にするけど定義はまだ決めてない感じ」
「……もっとわかりやすい風に言ってくれません?」
「ひよこの望む通りにできないかもしれないけど、もっと仲良くなりたい。その証拠に君のために他の恋人というものは作らない」
「……よし! それでいいんじゃないですかね!? もうわからないんですけどね!?」
ずっと思い悩むような表情だったひよこが、ようやく表情を明るくした。ヤケクソのように見えるけど。
「よし! よし! よし! じゃあ、行きますよ」
「何が? どこに?」
「こ、湖南」
「……」
「……ど、どうですか?」
私がひよハイじゃなくてひよこと呼んでいるから、そういう風に言ったと理解した。
それはひよこなりの親愛の行動で、恋人という関係だから、合わせて呼称を変えようとしたのだろう。
であるならば、私なりにその行動に応えなければならない。
「琳寂でいいよ」
「……え、え、でもそれって嫌な名前じゃ」
「ひよこに呼ばれるなら、いい思い出増えていきそうじゃん? みたいな」
「うわ~、ふおー!」
「なんです、それ?」
「先輩……好き……」
「や、名前は呼ばんの?」
「いいんですか? 本当にいいんですか!?」
「良いって言ってるし」
「では、はい、呼びます」
そんなに勿体ぶるほどのものでもない。
名前を呼ぶくらい誰だってすることだ。親からは毎日のように呼ばれるものである。
「琳寂……」
なのに、風が吹いたような感覚だった。
自分が嫌い、避けていた行為に胸を打たれ、衝撃を受けた。
食わず嫌いしていたのか、それともひよこが特別なのか。
宇連が呼んだなら、なんて考えてしまうのは申し訳ないけれど。
「……いやぁ、いい思い出できたよ」
「早いっすよ!? もっと抵抗感とか、いやいい思い出で終わらせませんし!」
ひよこが色々囀るけれど、名前を呼ばれただけの衝撃にはなかなか敵わなかった。
やはり、ひよこで間違いなかったと、そう確信できる。
私を認め、私を見て、私の名前を呼べる、ひよこだから。