第壱部 後編
(第4章の続きからになります。まさか一度に十万文字投稿できないとは…)
第一試験を突破した主人公は、そのまま帰宅し翌日を迎えました。昨夜の出来事にあまり触れてこない母。そして、彼女の口から出てきたのは、物心ついた時から姿を見なかったため主人公とは縁遠かった『父』という言葉であった……
『本選第一試験会場C 何者かによって破壊される』
毎日欠かさず見ているニュース番組では、今朝からこの話を何度も繰り返し聞いている。
「ねぇ、ここってあなたの行った試験会場よね?」
一緒に朝食をとっていた母が、不意に俺に問いかけてきた。
「そうだね。」
「それで、昨日あんた傷だらけで帰ってきたよね?」
「それは…」
返しに苦しくなってしまう。
「ねぇ、あんた本当に大丈夫なの?」
母にはまだ何も話していない。
左手にある剣の話も、天皇家に狙われている話も。
「一応私ね、全部知っているんだけど…。」
………………それもそうか。
親なのだから、知っていてもおかしくない。
「私はね、あなたのお父さん…大和さんから全て聞いているのよ。」
「父さんが…関係しているの?」
俺の父さんは、俺が物心ついた頃には目の前からいなくなっていた。
だから、父さんの顔を何もかも覚えていない。
思い出そうとすることさえ考えないほどである。
「でも、この話は……まだできそうにないわね。」
「それって、どういうこと?」
「いや、忘れてちょうだい……」
母がそう言うのであれば、これ以上詮索する必要は無いだろう。
不思議とそれ以上知ろうという気持ちにはなれなかった。
「ごちそうさま……」
朝食をとり終わった俺は、食器をかたして再びテーブルに座った。
母も食べ終わっているが、食器をそのままにしてある。
テーブルの上で両手を組んだまま、ただボーっとしている。
それを真似るかのように、俺も同じ格好になる。
実は昨日のことで、少し気になっていたことがあったのだ。
いつの間にかニュース番組は終わり、代わり映えのしないバラエティー番組が始まった。
昨日の試験場は、俺しか居なかった。
そもそも、あれほどあの試験場に部屋が設置されていたが、実際にあの試験場を使って試験を行った人間は一桁しかいなかった。
それなのに、俺の部屋を中心にほとんどの部屋が、魔豹で埋め尽くされていた。
ということは、あの施設で俺が試験を受けた時に、魔豹が突然変異することを知っていたのかも知れない。
まるで全て知っていて、段取りされているような感じだ…。
確実に天皇家の息がかかっている……。
「「はぁぁああああ……」」
俺は深くため息をつくと、母のため息とシンクロした。
思わず微笑んでしまった。
「やっぱり親子よねー。」
「そうだね。」
テーブルで向かい合って笑い合っている二人は、はたから見たらそういう関係に見えてしまうかもしれない。
母は童顔で、俺と一緒に歩いているとよく姉弟と間違われる。
それほど近しく感じられたからこそ、俺はこの人と気兼ねなく話し合うことができる。
俺が昨日傷だらけで帰ってきたときは、何も聞こうとせずにただ「早く寝ろ」としか言わないでいてくれた。
それがその時の俺には、とてもありがたかったことで……
ピンポーーンッ
インターホンが鳴った瞬間に、二人の顔から笑顔が消えた。
天皇家がらみかもしれないという懸念材料が、二人の脳裏をよぎったからだ。
玄関の方向を睨みつける。
インターホンの先をカメラで見ることができる画面は、この椅子から座ったまま見ることができないため、確認することができない。
それに、もし今奴らがそこに居て、俺たちが一歩でも動いてしまったらどうなるかわからないから、迂闊に動くことができない。
ピンポンピンポピンピピンポーンピンポーン
……この滅茶苦茶ながらも適当なリズムをとる押し方は。
「……これ、優弥君じゃない?」
「だな。」
思わず苦笑いをする。
脱力する身体を起こし、玄関のドアを開けると、そこには超上機嫌な優弥がインターホンをリズミカルに連打していた。
「おい、近所に迷惑だ。」
「おぉ、やっと開けやがったか!」
「タイミングが悪いんだよ……。」
優弥をインターホンからはがし、玄関に入れる。
「え、なんかあった?」
「何にも。」
しっかりと玄関のドアを閉め、鍵をかける。
「優弥君、いらっしゃい。」
「あっ、どうも!」
「それで、今日の用件は?」
優弥の顔を睨みつけながら問いかける。
「そうそう、俺今日、第一試験受けに行くんだけど一緒に…」
「お前なぁ……。」
どうやらこいつは、本選のルールを完全に度忘れしてしまったようだ。
またこいつに「今日だけのためのルール説明」をしなくちゃならんのか。
思わず頭を抱えた。
「なんだ、頭痛か?頭痛にはバ〇ァリンだ!」
「コイツッ!」
持ち主を修復する機能。
俺はそれを確かめるために、優弥と手合わせすることにした。
「お手柔らかに頼むぞ。明後日は二次試験だから無理な怪我はしたくない。」
「応、ほどほどにボコボコにすればいいんだな!」
言葉のリズムは良かったが解釈が違うな……。
嫌な予感が、
「それじゃあ新技行くぜ!」
「ちょまっ⁉」
優弥が一瞬で橙色のオーラを身に纏い、次の瞬間にはすぐ目の前まで距離が縮められていた。俺がすでに剣を握っていても、対応が間に合わないほどだ。
すると、橙色だったオーラが青白く変化する。
「閃撃。」
俺が脳を整理しきる速度よりも早く、コイツの一撃は俺の腹部にクリーンヒットした。
「ガハッ!」
内臓とかが全部口から出てきそうな勢いだ。
意識が飛ぶ寸前で何とか持ちこたえ、右腕を振るう。
剣先が彼の顔を掠るだけで、傷を与えることはできなかった。
「んおぇ……うっ!」
彼を俺のそばから離し、なんとか体勢を立て直そうとするが、途轍もない吐き気が襲ってくる。本当にもういい加減にしてくれ。
「手…加減……しろ……。」
「悪ぃ悪ぃ、ついな。」
「つい」で済ませていい一撃じゃないぞ…これ。
このスピードと連動して繰り出される強烈な一撃は、初見殺しもいいところだ。
過呼吸でつらかった俺も、剣の修復能力のおかげで余裕を取り戻した。
「よし、改めて。」
「おおすげぇ、さっきまであんなにえずいていたのに!」
「感心しなくていいから、早く来い。」
俺は彼に向けて剣を構えた。
意識を『アイツと俺の直線状』の一転に集中する。
すると、俺の視界はそのラインしか見えなくなった。
「そんじゃ、行くぜ!」
彼が重心を落とし足に力を入れようとする動作が、はっきりとスローモーションのように見える。よく見るとこの時点からオーラが青白くなっていた。
そもそもなぜ術力を纏ったときのオーラの色が違うのかについてはこの後ゆっくりと考えるとしよう。
「閃……」
身体が初期地点から離れる。
今の集中状態でも、この移動時間を視認できるのは難しかったが、俺の脳処理が頑張ってくれたおかげで剣を振るタイミングを見切った。
もちろんこれは『修復能力』を試す特訓なのだから彼を切りつける必要は無い。
だが次の瞬間には、俺の腕は剣を振り切っていた。
そして、俺に一撃を与えずに通過して後ろにいた優弥は、右腕から血を流していた。
「いってーなてめぇ!」
「すまない、つい集中しすぎた!」
急いで駆けつけて包帯を巻き、応急処置を施した。
もちろん俺は刃物を扱っているのだから、救急箱を用意しておくのは当たり前だろう。
「ついで済ますなよ!」
「それについてはお互い様だろうが」と言いたいところだが、さすがにここまでざっくりと切ってしまうと言えなくなってしまった。
「ほんとお前。俺が空中で旋回してなかったら、顔面からパックリ逝ってたぞ!」
そのセリフに思わず目を丸くした。
思わず握っていた剣を地面に落とす。
確かにこの剣はすごいものだとは思っていたが、その強さが逆に俺の恐怖心を仰いでくるようだった。
もし彼の言ったとおりにこいつを真二つにしてしまったら、俺は二度とこの剣が握れなかったかもしれない。
「ハハハハハッ!俺ってやっぱり強かったみたいだな!」
「なんだよそれぇ!ハハハッ。」
だから今はとりあえず、この話を笑い話にしないと……
俺の心が持たない。
そして俺たちは、わけもわからないうちに大笑いしていた。
「流転豪撃!」
「クッ!」
あれから三時間、休憩なしでひたすら優弥の攻撃を受けている。
攻撃を繰り出すコイツも、攻撃をひたすら受け続ける俺もかなり限界に近い。
特に俺は、どれだけえぐい傷を負っても修復能力のおかげで回復してしまい、そしてまた傷を負うという嫌な循環が出来てしまったので、気が滅入ってしまいそうだ。
『無理やり回復する』ということが、これほどまでメンタルを削るものだとは思わなかったが、使い続けているためか、確実に修復速度が以前より上がっている。
「閃ッ撃!!」
「ングボォッ!」
今のであばらが三本ほど折れただろうが、その程度なら一秒ほどで治ってしまう。
そして、つぶれた内臓は三秒ほどで、吐き気や脳に起きた障害はさらにまた二秒ほどで治るようになった。
だからと言っても、無敵ではない。
内臓がやられたときに出た血は口から吐き出る(出さなきゃいけない)し、剣を握っていた右腕がバキバキに骨折してしまっては剣を持てなくなって再生できないし、相変わらず穴だらけ、弱点だらけである。
要するに、使う人を選ぶということだ。
「閃撃!閃撃!閃撃!」
恐ろしい速度の攻撃が、連続で三発襲ってくる。
俺はその攻撃を、剣の切れない部分で受け止めた。
キンッ!キンッ!ドゴッ!
「ぐぁあ!」
二発だけ防げたが、最後の三発目は剣と腕の隙間に入り、体に打ち込まれてしまった。
かく言う優弥は手が術力で覆われていて、表面が鋼鉄のように固くなっている。
剣の刃も少しボロボロになってきた気がする。
「ヘイヘイ!どうしたんだぁ?」
ぴょんぴょんと軽く跳ねながらポーズを構えている。
彼の腕に巻いている包帯が、赤く染みついていた。
それを見るたびに、少し心が苦しくなる。
「まだまだ行くぜ!」
「来い!」
再び意識を集中させる。
使用する脳の処理を最低限にするために、嗅覚と聴覚と触覚を遮断する。
剣を触っている感覚もしなくなり、肌に伝う空気感も感じない。
鼻は全く動かないし、耳からは何も聞こえない。
どうやらこの剣を握っている間は「五感を操れる」ようだ。
そのおかげで、脳処理がオーバーヒートしにくくなった。
だから今は、ただまっすぐ……。
まっすぐ前を向く!
優弥の足が青白いオーラを纏い、同時に両腕の橙色のオーラが濃縮されていく。
ググググッ!
空気が彼を中心に濃縮されていく。
彼の目がギラリと輝る。
彼が大きく口を開けて何かを叫んでいる。
スローモーションで見えているため、うまく口元を読むことはできなかった。
次の瞬間、先ほどまでの『閃撃』以上のスピードを発生させ、集中した俺でも捉えられない程に、一瞬で俺のそばまで飛んで来た。
彼の両腕が、俺に向かって来る。
俺と彼の間の空気が、爆裂するような衝撃が走る。
橙色の閃光が俺と彼を中心に飛び交う。
目の前が白い光に包まれる。
俺は、大きく口を開け叫んだ。
喉が枯れるほど、叫んだ。
そして、その勢いが俺の腕に伝播して、その瞬間だけ俺は光よりも早い速度で、剣を頭上に掲げてその閃光を切った。
切った瞬間に火花が飛び散る。
そして俺は、さらに無意識に剣で光と衝撃を切り裂いた。
そして目の前の光が消え、元の風景に戻った。
集中が解けて五感が戻る。
キィィィイイイイイイイイイイイイインッッ!!
急な轟音に鼓膜が破け、耳から血が噴き出す。
それと同時に鼻血が垂れ流される。
目からも口からも血が流れて、貧血のようになる。
優弥も術力を使いすぎて、口から血を吐いている。
「ハァハァ……」
「クッ、ハァ…。」
二人とも血だらけになりながら、その場に伏せる。
もちろん致命傷になったわけじゃないけど、全く体が動かせない。動かない。
「ハハハ…明日試験だって言ったのに…。」
「悪ぃ悪ぃ…ハハハハハゲホッ!ゴホッ!」
「無理すんなって……。」
うつ伏せだった状態から、無理に体を動かして仰向けになる。
優弥はもう完全に動けないようで、うつぶせの状態のままで笑っている。
見上げた空は、夕暮れで真っ赤になっている。
瞳に紅が映る。
「早く帰らないとなぁ……。」
「このまま暗くなるまで動けそうにないんだけど、俺。」
「じゃぁ、俺も動かないでいようかな……。」
「それはそれは……とても大変だねぇ?」
ぬっと俺の顔を覗く奴がいた。
彼だ。
コイツは本当に神出鬼没だなぁ……。
「あんた…ほとんど傷、治っているじゃない?」
そういえば、鼓膜も治っているし、喉も普通に戻っている。
「そういや、俺もなんだか治ってるぞ!」
「えっ⁉」
慌てて見てみると、彼がほどいた包帯の腕には、切った傷がなくなっていた。
身体の節々に見えた内出血の後も消えていて、すっかり元通りになっていた。
「そんな、まさか……。」
「そういえばさっき、お前の剣になんとなく触れたんだけどさ…」
「それって…」
ふと右腕を見る。
そこには剣を握っていなかった。
「もう、使い切って戻ったのか……。」
「何が?」
「ナニが?」
二人の問い掛けがハモる。
「うん、気にしなくていいよ。」
満面の笑みで二人のアホ質問に答えた。
「ねぇねぇ、もう遅くなるし、一緒にどっか食べに行かない?」
「「行かない。」」
俺と優弥は声を合わせて返答すると、奏雷を置いてその場から立ち去った。
「えぇ……。」
その場で一人ぼっちになってしまい、立ち尽くす奏雷。
秋風が吹き、彼の少し伸ばした髪が揺れた。
「これ、ボクが登場する意味あった?」
「参業…。」
ほぼ跡形もなく消滅してしまったため、再生するのにかなり時間がかかりそうだ。
コポコポという音を立てている機械を見上げ、ツゥと涙を流す。
その機械にはガラスケースが付いていて、その中には細胞を培養させるための緑がかった液体が満たされている。
その中には、もはや何かわからない程ぐちゃぐちゃになっている肉片が入っている。
これが彼にやられた〝参業〟の今の姿である。
「これで君の出番は、終わりかもしれないね………。」
そう言って僕は、機械についていた赤いボタンを押した。
ブゥゥォォオオオオン
轟音のような起動音と共に、その場にあった機械が一斉に動き出した。
「ギギ……ギギィィイイ……ギャァァァアアアアアアア!!!!」
つんざくような悲鳴が大きな地下室内に響く。
全面コンクリートであることもあるが、異様なほどに反響している。
涙が頬を伝う。
「あぁ、悲しいなぁ。」
次々と目から涙があふれてくる。
「僕が作ったのだから、君は息子も同然だったのに……。」
自然と口元が緩む。
起動音が聞こえなくなったころには、中に入っていた肉片は完全に分離されていて、機械も動作を停止していた。
手を口元に当てて、涙を流し続ける。
「悲しい…悲しいよ、僕は!でも、これが君の役目だったのだぁ……。」
下唇に指を引っかけて顔を歪ませる。
「悲しい運命を背負わせてごめんねぇ。全ては〝偉大なる計画〟のためなんだぁ……。」
コツコツと足音がすると、ぴたりと涙が止んだ。
音のする方に少し顔を傾ける。
「なんだい?」
「気は済みましたか?主様。」
無表情に問いかけてくる。
「あぁ、〝お別れ〟は終わりだよ。それで、準備は出来たのかい?」
相変わらず無表情で、人形のような彼女の左肩に、そっと左手を置いた。
そのまま距離を詰め、左耳の傍で優しく囁く。
「それじゃぁ、待っているよ?弐業。」
「いえ、待たなくても結構です。ここで……」
耳元に居た僕の顔を鋭い目で睨みつける。
すると、肩に乗っていた僕の手を握りしめ、それを手前に引き僕を抱き寄せた。
そして今度は彼女が、僕の耳元で囁く。
「今すぐに……私を。」
そう言いながら、僕の耳に舌が伝う。
ザラリとした感触が、僕に少しの快感を与える。
「そうか……それなら。」
そういった僕は、包帯だらけの左手で彼女の腹部をなぞる。
彼女は無表情のまま、少し体をのけぞった。
僕は彼女にそっと寄り添い、顔を近づける。
「禁忌教典項:転移生変」
僕がそう言うと、彼女の腹部に書かれていた紋章から紫色の光が漏れ出し、周囲に風が巻き起こっていった。
僕の左手に巻いていた包帯は、その風でほどけてしまう。
「むず痒いよ……。」
包帯の下からは、刻まれた大量の紋章が現れた。
その紋章の一部が、彼女の紋章と共鳴するように紫色に光る。
「あぁぁああぁぁぁああぁぁあぁああああぁぁあああ………」
「あぁ、ごめんよ……君にもこんな運命、背負わせてしまって。」
再び涙があふれ出る。
彼女の顔は相変わらずの無表情で、目からは光が消えていた。
部屋につるされていたむき出しの電球が破裂し、周りに置かれていた機会がそれに連鎖するように爆発し始める。
部屋全体が揺れ始め、天井が少しずつ崩れ始める。
「………あ……あぁ………」
もはや鳴き声とも聞き取れない音が、彼女の口に模した部分から漏れる。
少しずつ彼女の体が変形していき、巨大な影が映る。
「いやぁ……本当に」
思わず………笑みがこぼれる。
「悲しいねぇ……フフッ。」
涙はとっくに止まっていた。
まぶしい朝日に照らされながら、俺は見知らぬ道路を歩いていた。
「指示されたバスに乗り、支持された場所に向かっているが……」
辺りを見渡す。
視界には何を育てているのかわからない広大な畑が、いくつも連なっていた。
「わざわざ県をまたぐ必要……ないでしょう。」
ここは千葉県だ。
朝四時半に指定されたバス停に行き、それに乗ってから三時間揺られ、そして今三十分ほど歩いている。
もう七時だ。
畑の中を何匹ものトンボが飛び交っていく。
藁が重なっているところには、蠅のようにたかっていた。
「秋だな……コツコツとアスファルトにきざーむ……」
「君、その年齢でその曲は渋すぎるでしょ。」
急に話しかけられて、驚いてしまった俺はその場で飛び上がってしまった。
「わぁ…ごめんごめん。」
振り返るとそこには、若干見覚えのある顔がいた。
「君は、一年の時に同じクラスだった……?」
「そう!僕は累悠地!!」
この人のことはなんとなく覚えている。
確か一年の頃に、クラスの人たちを率先してまとめていた人だ。
学級委員長もしていたな。
それにしても、そんな彼女がどうしてこんなところに?
しかも農作業をするような恰好をして……って、理由は一つか。
「ここに住んでいたんですね。」
「あぁ、そうだよ!」
そう言った彼女は大きく手を広げた。
「僕はここが大好きで、だから東京に独り暮らししようとは思わなかったんだ!」
澄んだ笑顔で、この無……広大な畑をグルリと見回した。
「いつも学校で率先して動いていた君が、部活に入らなかったのはそういう意味だったのか。長距離通学も大変だろうに。」
………待て。
最初の違和感、やはり合っていた。
「ん?どうしたの?そんな顔して……。」
俺の顔を不思議そうな目で見つめる。
俺は再び周りを見渡し、景観を確認した。
電車が走る路線は無いし、バスはおろか、車もほとんど通らない。
「なぜ?」
俺の顔を覗く彼女の目を見つめ返す。
「なぜ、君がまだここに居るんだ?」
俺はここまで来るのにバスで三時間かかった。
俺の方向感覚を狂わせるためにわざわざ遠回りさせられたのもあるが、どれだけ早くても通っていた学校までは二時間以上かかる。
学校の始業時間は八時。
本選出場者でない限り、今日も平常通り授業があるはずだ。
それならなぜ、この場で農作業なんかしているんだ?
それに彼女が遅刻したところを今まで一度も見たことがない。
毎朝一番に学校に来ようとする俺を、教室で「おはよう」と迎えてくるのだ。
「君は本選に出場したわけじゃないだろ?なぜなら……。」
なぜなら、〝本選に女性が出場した〟という情報は聞いていなかったからだ。
「君…君だけは僕のこと、女性扱いするんだね。」
その一言で、話が繋がった。
恐らく彼女が抱えた〝手違い〟のせいだろう。
「そうか……君は、また〝男〟とされてしまったんだね。」
俺の視線から目を離し、彼女は小さく頷いた。
俺は他人の人生に口出しできるような権限は持っていないが、それでも俺は彼女の〝触れられたら困る傷〟に、一度触れてしまっている。
事の顛末は、彼女が生れた時に発生した。
彼女は最初、〝彼〟として生まれようとしていた。
病院関係者も親族も勘違いし、生まれる前の彼女に『悠地』という名をつけた。
しかし、いざ蓋を開けてみれば、そこに現れたのは女の子だった。
しかし、彼の父が既に男として、無理やり戸籍を登録してしまったので、彼女は女性として生まれておきながら男性として生きなければならなくなった。
そのため、彼女の家族は、彼女を男として育て今に至る。
髪の毛は短く切られ、胸はさらしを巻き目立たないようにしている。
だから学内でも男子用の制服を着ているし、体育でも男子として扱われる。
自分としては、ジェンダーの自由を否定しないわけじゃないが(約一名を除き)、彼女に至っては、自分の意志ではなく異性にされてしまっているのだ。
この事は彼女の家族以外では俺しか知らないし、逆に言えば俺にしかばれない程、徹底的に男を演じているのだ。
「君も本選に出るんでしょう?」
思い返していた俺は、急に現実に戻らされる。
俺から目をそらしたまま、彼女は聞いてきていた。
「そもそもここに来たのは、本選の会場に……そうだ!」
完全に忘れていた趣旨を思い出し、手に持っていた紙を彼女に見せる。
「これ。ここに行きたいんだけど……場所分かる?」
紙にプリントされた地図の一点を指さし、彼女に問いかける。
その地図を覗き込んだ彼女は、その場所を見るなり笑顔になった。
「知ってるもなにも…ここ、僕の家だよ?」
「は?」
なぜ彼女の…一般家庭が試験会場に?
「まぁ、正確には家の地下にある施設だよ。」
「地下施設?こんなところに?」
「こんなところとは失礼だ。」
拳で肩を小突かれる。
冷たい目で睨みつけるその顔から、この土地への愛を感じる。
「それはすまなかった。」
眼光に負けて、素直に謝る。
冷たかった顔をニコニコの笑顔に変化させ、「そうそう、それでいい」と言いながら俺の背中を平手で叩く。
こういうことをするときに手加減してくれないのは、彼女の悪い癖だと思う。
おかげで背中がヒリヒリ痛む。
「この土地は、表面では全く発展していない田舎畑だけど、地下にはすごい数の施設があるんだよ。地下都市と言っても過言じゃないかもな。あまり外に情報が出ていかないから有名じゃないけどね。」
「そうか、なるほど……」
確かにそれはとても効率的だ。
表面では環境を汚さないように植物を栽培し、その代わりに地下で技術を発展させていく。だからであろうか、地上にはほとんど家屋を見つけることができないのだ。
「農作業をしていた途中かもしれないが、ここまで案内してくれないか?」
同じ本選出場者なら、会場まで同行しても大丈夫であろう。
これはかなり助かった。
「いいけど、地下に入るための通行証はあるの?」
「通行証?」
その地下施設の存在すら知らなかったのだから、もちろん思い当たらない。
背負っていたリュックを地面に降ろし、中をやみくもに探す。
送られてきた封筒の中には、そんな感じのものは無かった気がするが……。
半信半疑ながら、封筒を中から取り出し、その中身を確認する。
累もそばから覗き込む。
「あっ!」
急に耳元で声を出され、ビクッと驚く。
「これだよ、これ。この青っぽいやつ。」
彼女の指摘した物を、封筒の中から取り出す。
紺色の名刺ほどの大きさのカードで、表面には《千葉第一地下施設 通行証》と書かれている。こんなもの、最初に見た時は入っていなかったぞ?
「よかった、これで入れるな。」
「そう…だな。」
疑問に思いつつも、俺はそれをポケットに、握っていた地図をリュックにしまった。
「よし、行こう!」
しまったところを見測ってか、リュックを背負った瞬間に俺の手を引っ張った。
勢いが強すぎて、俺はそのまま体勢を崩す。
彼女はそれにお構いなしに、俺をずるずると引きずっていく。
土埃が、目に染みる……
「ハァハァ……」
どうしてこうなった。
左腕と肩は骨折し、頭からは顔が紅く染まるほど血を流している。
そして地面には、切られた剣が転がっていた。
「ガハッ!」
口元を手で押さえたため、手が吐き出した血で真っ赤に染まる。
剣を持っていない以上、傷は回復することはない。
その剣もこのありさまであれば、もはや俺には勝ち目がない……
重たく感じる頭を上げ、前にあるそれを睨みつける。
「ここで……終われるものか………。」
口もとについた血を右手で拭う。
オオオオオオオ………
呼吸音なのかわからない音が、目の前の奴から発せられる。
漆黒の身体、鋭いかぎ爪、顔には鼻や口という器官が見当たらず、大きな一つの目だけがギラリと眼光を放っている。
基本的な体の形状は人型だが、その上にどす黒い靄のようなものがかかっていた。
そして奴の肌は、天叢雲剣を全く通さなかった。
足が動かない。
立っているだけでやっとの程だ……。
俺が動けないからか、奴はこちらを睨んだまま動かない。
ただ周りの靄が、周囲で流動しているだけだ。
「………こんなの、もう……慣れてるじゃないか?」
右手を強く握り潰し、歯を食いしばる。
「……う……うぉぉぉおおおおお!!」
足を一歩前に動かす。
身体に刺激が走り、意識が飛んでいきそうになる。
「おおおぉぉ……ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
声の限り叫び、意識を保とうとする。
キュゥゥォォオオオオオオオオオッッ!!
奴も俺の叫びに共鳴するように鳴き声を上げる。
アドレナリンが止まらなくなって、少しずつ感覚が麻痺する。
その時俺は、理性なんて保てていなかったかもしれない。
試験が開始してからこの場面になるまで、それほど時間はかからなかった。
もっとも、こんなことになるのは全く考えていなかった。
そう、まさに……
『どうしてこうなった』
6 障壁
「通行証を確認します。」
役員にポケットから取り出した通行証を見せ、エレベーターに乗る。
俺の手を引いた累は、なんと顔パスで通って行った。
地下室への入り口は、本当に彼女の家に併設されていて、来るときに何故か彼女の親に挨拶させられた。
秘密を共有している友人だからだろうか?
ウゥン
エレベーターがほとんど音を立てずに降りていく。
すると、地上の部分を通り過ぎた所で、エレベーターの外に地下施設が見えてきた。
そこそこ大きなテーマパークほどの面積があり、いくつもの無機質な建物が軒を連ねていた。明るさだけを重視したライトの明かりが、俺の目をくらませる。
「ねぇ、どう?」
「どう?と、言われても……」
返しに困る俺に、彼女は無言の圧をかけてくる。
急いで苦し紛れの返しを考える。
「そ、そうだな……眩しいよ。」
外の……いや、内の景色を見て目を細める。
「眩しすぎる。気がする……」
外で浴びていた太陽の光とは違い、ここの光はただただ明るいだけだ。
それが自分にはとてもあっていない気がする。
オブラートに包まないとすると、嫌いだ。
「そう。そうか……」
彼女もまた景色を眺める。
「僕は好きなんだけどね……」
ガラスに手をつき、優しく呟く。
チンッ
鈴音と共にエレベーターの扉が開く。
ゾクッ
俺は急な寒気に襲われ、目の前の扉が魔の門に見えた。
目を見開き、思わず後ずさりしてしまう。
「何してるの?」
不思議そうな顔で、俺の顔を覗き込んでくる。
「ほら、早くいくよ。」
そして、先ほどと同様に俺は、彼女の手に引っ張られてずるずると連れていかれた。
気持ちが落ち着いた頃には、試験会場の前に到着していた。
「ありがとう。すごく助かったよ。」
彼女の手を取り、感謝の言葉を返す。
「なぁに、どおってことないさ」と言った彼女は、俺の背中をドンと一叩きした。
「頑張ってきな。待ってるからさ……」
「あぁ。」
そう返事した俺は、彼女の手を離し、建物の中に入った。
なぜか俺の鼓動が鳴りやまない。
「うーん、でもどうしてだろう?この施設というかこの地下施設って、国には認知されていないんじゃ?そんなところで国家試験なんてやるのかな……」
前回と同じような機械がある。
しかも、建物に入ってから十分のところに。
「なんでこんなところなんだよ……。」
わざわざこんなところに設置するのは、何かの意図があるに違いないだろう。
そう、天皇家側の何らかの意図が。
「今は詮索する必要はない……とにかく試験だ。」
前回同様に機械で手続きをして、指定されたドアに入る。
そのドアはやけに分厚くて、今回もやはり二重のドアになっていた。
しかし、前回とは異なって、一つ目の扉が閉じたのと同時に二つ目の扉が自動開閉した。
その二つ目の扉は、一つ目よりもはるかに重厚で、どこの金庫よりも固いのではないかと思うほどであった。
ギギギギギィィ……
人が一人通れそうなほどの隙間が空いたところで、何故か扉は動きを止めた。
「なんだよ。最低限しか動かないのか……」
ゾクンッ!
「――――――ッ⁉」
ドックンッドックンッ……
鼓動が止まらない。
どんどん早くなる……。
何が、いったい何が俺をそうさせるのだ?
この扉の先に、いったい何があるって言うんだよ。
「駄目だ。」
恐怖心は、理性を欠く大きな要因になってしまう。
ここで振り払っておかなければ……
「出て来い……」
俺の合図で左手から剣が現れる。
そのまま飛び出した剣は、右手のひらに納まる。
気を紛らわせるために強く握る。
掌がじんわり熱い。
「行くぞ。」
そう言葉にして、自分に言い聞かせた。
開いた隙間から、見えないはずの殺気がくっきりと視える。
入ろうとすると、その殺気に肌が当てられてピリピリする。
ドンッ
部屋に入る一歩目を、わざとらしく音を立てる。
ヒュンッ……ドガッ!
俺の顔を、黒い何かが掠る。
いつも以上に集中していたため、なんとか避けることができたが、間違いなく俺の脳天を狙っていた。
恐怖心が強いためか、部屋の中が殺気で真っ黒に見え、何が居るか確認できない。
「何者だ。」
黒ずんだ殺気に満ちた部屋の中に、問いかけを投げる。
すると今度は、一つではなく五つの黒い影がものすごい速さで飛んでくる。
「クッ!」
攻撃を見切った俺は、その黒いものを切るように剣を振るう。
とりあえずこれを切ったら、一度態勢を整えて攻撃を仕掛けよう。
そう考えていた俺は、次の瞬間に思考が停止した。
スパッ
その黒いものは、剣を切ったのだ。
豆腐を糸で切ったかのように簡単に……
「えっ?」
剣だったものが、辺り一面に転がる。
黒斬撃に当たったのが剣だけだったため、不幸中の幸いか自分の身体は無傷だった。
手に握られていた破片からは、もはや力を感じなかった。
「嘘……だろ………?」
現実を否定しようと考えてしまう。
これは悪い夢なのだ……と。
キュゥゥウウ………
部屋の奥から、何か吸引音のような何かが聞こえる。
自分の中にあった恐怖心が膨れ上がる。
「今の俺に……何ができる?」
そもそもこの試験は、三つの中でどの試験なんだ?
前回が術力量なら、今回は印の試験だろ?
普通、印の試験に使うとしたら、壱から玖のそれぞれの種類に対応したロボット《バルガイドラウ:Mark5》でいいんじゃないか?
疑問が止まらない。
考えている暇なんかないというのに!
握っていた剣のかけらを地面に放り投げ、第二撃に備えるためにその場から離れる。
キュゥゥウウ………
とりあえず、先ほどから聞こえる呼吸音から最も遠い地点に行くしかない。
「今はとりあえず部屋の角に……」
シュルルルッ………ズドンッ!
「なっ⁉」
走るために前に出した左腕に、先ほどより大きな黒い影が衝突してくる。
ボキボキゴキキボキッッ!!
左腕の骨が、異様な音を立てて折れていく。
そのまま吹き飛ばされるように、左腕と身体は部屋の分厚い壁に衝突した。
壁のコンクリートが大きくえぐれ、破片が激しく飛び散る。
「ガッ……ァァァアアアア!!」
体中が麻痺するような痛みが走り、叫び声が腹の底からあふれ出る。
体は一度大きくのけぞってから、すぐそのまま脱力してしまった。
キュゥゥゥウウウウウウウッッ!!
先ほど聞こえた音が、今度は顔の横から聞こえる。
居る……横に。本体が。
体全体が麻痺している中、震えながらも顔を横に向ける。
ドクンッ!
目だ。
大きな一つの目が、俺を見つめている。
身体の形は人間を模していて、すべてが真っ黒に染まっていた。
俺の左腕は、その真っ黒な腕に押しつぶされて血と肉を噴き出している。
ウウゥゥゥゥゥ………
不思議と奴の目を見た瞬間、呼吸が止まり、音が出せなくなった。
しかしおかしい……
俺とこいつは完全に目が合っているのに、全く攻撃してこようとしない。
その目はしばらく俺を見ると、すんなりと手を離し左手を解放した。
押しつぶされて止められていた血が、一気に噴き出る。
「―――――――――――ッ!!」
体から一気に力が抜ける。
そして俺は、そのまま地面に膝を落とした。
貧血になり少しずつ意識が落ちていく……
ヤバい……かも………。
「うぅ……ぅぁぁあああ。」
痛みに悶えながら、つい声を漏らす。
ドゴッ!
次の瞬間には、後頭部がコンクリートに衝突していた。
脳震盪を起こし、意識が飛びかける。
キュゥゥゥウウウオオオオオオオッッ!!!!
俺の顔をわしづかみにしたソレは、俺の頭部を一度ではなく何度も壁に衝突させる。
ドゴッ!ドゴァッ!ドゴシャァッ!
回を重ねるごとに、その力を強くしていく。
頭蓋骨がひび割れ、脳をぐちゃぐちゃにされる。
顔の穴部から血が垂れ流される。
衝突時に痛みで意識が戻り、次の衝突までの間に意識が遠のくのを繰り返す。
アドレナリンが溢れ出て、体が激しく痙攣し、脳の回転速度が狂う。
走馬灯のようなものが駆け巡りそうになった瞬間……
ジジッ……ピンポーーーンッ!!
部屋に取り付けられていた監視カメラから呼び鈴のような音が流れる。
それに伴って、ソレは掴んでいた手を離し、その音の方向に歩いて行った。
俺はそのまま、壁にもたれかかるように倒れる。
背後の壁は、俺の血痕で真っ赤になっていた。
なぜか右腕の感覚だけはしっかり感じる。
頭が壊れているはずなのに、不思議と右手だけは意識をもって動かすことができる。
「「あーあー。聞こえるかね?」」
ボイスチェンジャーで変えた声で喋る音が聞こえる。
はっきりと声が聞こえたわけでは無く、そのような感じのような音が聞こえた気がするだけだった。
「「君……さすがにこの試験で神器を使うのは反則だよ!これはあくまで〝印がどれだけ使えるか〟を確認するテストなんだから……」」
それはごもっともだな……だが、そんなの大会のルールには。
「「なーのーでー。剣を使えなくできるような相手を用意しましたー!!」」
パチパチという拍手がスピーカー越しに聞こえる。
この音声は録音なのだろうか……
「「はい、実はそこに居る黒いのは、この世に存在してはいけないものです!禁忌に触れるほどのトンデモ生物でございまぁーす!」」
何を言っているんだ……まぁ、神器に対抗できるのだから、それもそうだ。
思考も少しずつ回復し、耳も少しずつ聞こえるようになってきた。
自己再生を使いすぎて、体が覚えてしまったのだろうか?
「「というわけで……ちゃんとその子は印に弱いから、印で攻撃してね!」」
神器に強くて印に弱いって……そんな好都合な生物居るのかよ。
そんなこと言っても、実際目の前にいるのだから何とも言えない。
ブチッという切断音と共に、再び部屋には静寂が訪れた。
キュゥゥウウ……
謎の生物も戻ってくる気配がない。
「印を使えって……左手がなきゃ使えないだろうが………。」
悪態をつきながら、動けるようになった体を起こす。
そして、今に至る。
「おぉぉおおおおぉぉおおぉおおぉぉぉぉおおおおお!!」
キュゥゥォォオオオオオオオオオッッ!!
二体の咆哮が、部屋中に轟く。
部屋はそれだけで震え、ぶつかった部分の壁がボロボロと崩れていく。
黒い生物は、体重をスッと落とすと、その反動を利用して恐ろしい速度でこちらに向かって来る。
俺はそれを見切ると、唯一感覚が残っていた右手を握り、前へ突き出す。
神器を破壊するほどの殺傷能力を持っていた物に、人間の肉体が耐えうるはずがないことは明らかだが、この時の俺は考えることをしなかった。
ただ無我夢中に、拳を叩きつけた。
ズドンッ
鈍い音を立てた俺の拳は、そのまま攻撃を押し返した。
なぜそれが可能だったのかは、たとえ冷静に考えたとしてもわからなかっただろう。
ただ、拳が漆黒の狂気に勝ったという事実だけがそこにあるだけ……。
「うぉぉおおお!!」
俺は続けざまに右手で一回、二回と殴りつけた。
激しい音を立てながら、その拳はその生物を前方に大きく吹き飛ばした。
今度はその生物が壁にめり込む。
俺はそれを追って、重い足を動かし近づいた。
一歩、また一歩踏み出すたびに、体中から力が湧いてくる。
その半面で、どんどん理性が消えていき、体を動かしているのが自分ではなくなってしまう。そして、少しずつ景色が青くなっていく。
深い、深い、青色に落ちていく……
ブワッ!
身体から正体不明のオーラが溢れ出る。
ゆっくりと開かれた瞳は青く光り、その場にあった空気の温度が一気に低下する。
グググッ……ボキッゴキッボキキッ!!
左腕があらぬ方向に曲がったり折れたりを繰り返し、変形させたのち元通りの左腕の形に戻っていった。
そして、治った左手で拳を握り、黒い生物を殴る。
ドゴムッ!ドゴシャァァッッ!
壁のコンクリートに勢いよく亀裂が走り、一気に崩れ爆散する。
壁に大きな黒い染みができ、生物は痙攣で大きくあらぶっている。
「ああぁぁあぁ……ぁあ………」
そしてそのまま、手を〝玖〟の印の型にする。
続いて〝参〟の形に変え、そのまま〝零〟の印を刻んだ。
周囲が振動をはじめ、その空気が生物を震撼させる。
生物の目と顔の部分は完全につぶれ、どうやら音はもう出せないみたいだ。
そして両手は、最後に〝弐〟の印を刻み、そのまま両手を環状にさせた。
その環の中心に、周りからグイッとエネルギーが濃縮される。
そして、妖しく煌いた。
「……メッ………コウ。」
周囲に白い閃光が走り、部屋中を高エネルギーで満たす。
そして命中した生物を中心に大爆発を起こす。
施設が丸ごと消滅し、そこにはポツンと一人だけ立ちすくんでいた。
その背中は、何故か少し悲しいようだった。
「ハッ!」
気が付いて目が覚める。
ウーウーウー
サイレンの音がいたる方向から聞こえる。
「なんだ?一体何が……なっ⁉」
目の前には、あったはずの建物が消えていて、いたはずの黒い生物も消えている。
それも、跡形もなくまっさらに……。
「一体、俺は何をしたんだ?」
推測することすらできないほどの状態に、困惑と疑問が尽きない。
ピキッ
「―――ッ⁉」
左腕がわずかに痛み、思わず目を向ける。
そこには無傷でまっさらな左腕があり、手首の紋様が妖しく光っていた。
「おーい!君、一体なにをしたんだーい⁉」
後方から、ついさっき聞いた声が聞こえる。
累悠地が全速力でこちらに向かってきている……。
「恐ろしい速さ……まるでプロ。」
キキ―――ッ!
何故、靴で車のようなブレーキ音が鳴るんだ?
ズザザ――――となって終わりだろう?普通……
到着するなり、俺の両肩を掴み、前後に大きく揺さぶる。
「ねぇ、何だよ、この状況⁉」
まだ意識が戻ったばかりで思考が上手く回らない……
「あんま……り、そん……なブンブ……ンしない……でくれ。」
「あぁ、ごめんごめん。」
そう言うと、今度は肩ではなく顔を掴んで揺らしてくる。
「どうしたらこんなことに……⁉」
うるさい、一度落ち着け。
そう言いたかったのだが、唇が変な形になってしまいうまく喋れなかった。
結局そのまま、五分ほど脳シェイクは続いた。
その頃にはサイレンが鳴りやんで、野次馬で周囲を囲まれていた。
「ハァハァ……」
「落ち着いたか?」
俺の思考能力も完全に回復した。
「おいおい小僧!これ、お前がやったのか⁉」
「すみませんでした、国選の第二試験を受けていたのですが、ついストッパーが外れてしまいまして……ご迷惑をおかけしました。」
とりあえず今思いついた適当な返事をする。
「ほぇー。この建物、国選に使う建物だったのか。」
「そういえば、一昨日から知らない間にできてたな……」
現地でそもそもあった建物を利用していたら危うかったが、新設した物だったら消滅させていても問題ないだろう。
国が勝手に負債しただけだ。
「ねぇ、詳しい話……聞いてもいい?」
野次馬に返答していた俺に、ひっそりと問いかける。
俺は小さく頷き、そのあとで人差し指と親指で「少しだけなら」というサインを送った。
「じゃぁ、うちで待ってるから。」
俺が野次馬への対応を見かねてか、彼女はそう言うとその場から姿を消した。
「おい!それなら兄ちゃん、どんな武術使ったんだい?」
「バカだなぁ、秘伝印じゃなきゃこれほど火力が出せるわざなんてねぇだろうが。」
「誰がバカじゃ!」
「そーんなことより、なんでこの場所に国の施設が建ってるんだよ⁉」
「そういえばそうだ!ここはお国も知らねぇはずじゃ⁉」
どうやら、俺に関係なく談義が始まったようなので、その隙を見て俺もその場から脱出する。大通りを抜けて、三つ並んだ大きなエレベーターに乗り込み、地上に上がる。
「あ、そういえば通行証……。」
ズボンにある三つのポケットを確認する。
基本的にチケットのようなものは、右ポケットに入れるようにしているが……
クシャリという感覚が右手に伝わる。
「うわぁ……」
血でところどころ赤くなり、見た目もかなり不格好になってしまっているが、何とか原型はとどめている……ような気がする。
「あ、出るときは通行証いらないですよ。」
その時一緒に乗っていた親切そうな男性が、ニコニコの笑顔で答えた。
俺の顔がよほど不安そうにしていたのだろうか……?
「あっ、ありがとうございます……。」
「いえいえ。」
俺は握っていた物を、再びポケットにしまい込んだ。
エレベーターを降り、検問をくぐった俺は、先ほど彼女に言われた通りに彼女の家へ足を向けた。地下への入り口からは徒歩十秒である。
コンコンコン……
玄関の扉を叩く。
ドタドタと扉の奥から聞こえ、その数秒後には玄関の扉が開かれた。
「おっ、おまたせぇ……」
若干息を切らしながら、扉の隙間から彼女が顔を出す。
服の肩に埃が被っていたので、もしかしたら掃除でもしていたのかもしれない。
異性を部屋に招くためのマナーとしてであろうか?
「今回の件については、おそらくかなり重要な話だろ?僕の部屋ならだれも居ないから……だから、そこでは話そう。」
「あっ、あぁ。」
妙に食い気味に来ているのは気のせいだろうか?
しかも、会話的に『今回の件』ではない方に……。
「お邪魔します。」
他人の自宅というのはなんとも新鮮で、その敷居をまたぐとなんだかパーソナルスペースに入っていくような気分になる。
だから「お邪魔します」と言うのは、なんとなくではなく、心の底から出てきた言葉なのだ。それに今回は彼女の自室に入るのだから、ついでに最終予選の対戦相手として情報を集めておこうじゃないか。
玄関を上がり、そのすぐ右にあった階段を上り、二回の右突き当りの部屋に入った。
個人的には、ギャップのある部屋が見たい。
普段は男を振る舞う彼女が、その部屋だけではかわいいものに囲まれて過ごしているとか、そういうものを少しでも期待してしまう。
ガチャ……
ドアノブがひねられ、開かれた扉の先には……
「どうぞ、くつろいでいいから。」
「…………はぁ。」
そこには可愛らしい物なんてなく、最低限、無駄をほぼ取り除かれたようなストイックな部屋であった。
唯一のピンクの物が、机に置かれた学校のワークの背表紙くらいだ。
思わずため息を一つついてしまった。
勝手に期待し想像して、勝手に裏切られた自分が悪いのだが。
部屋の中央に折りたためるテーブルを置き、そこに彼女が座る。
〝側に〟ではなく、〝上に〟である。
俺は普通に、フローリングの上に座った。
「それで……」
「おい。」
上から見下してくる彼女を睨みつける。
「何か?」とでも言いたげな彼女の目は、俺の戦意を大幅に削ぎ落した。
「はぁ……」
二度目のため息が漏れる。
「それで、今回は何があったんだ?あの場ではあんなこと言ってけど、あれは君のでまかせだったんだろ?」
強めに言うために、いつも以上に男っぽい喋り方をしている。
それに、蛇のような彼女の鋭い目を、今日はいつも以上に尖らせている気がする。
「〝でまかせ〟と言う根拠は?」
なるべく喋らずに丸め込んでおきたいが、この返答次第では、そうすることにはいかなくなってしまうかもしれない。
なんだか不確定要素の多い文になってしまった。
「女の……勘?」
「都合のいい時だけ女性になるなんて、まるで性別を侮辱しているようだな。」
「なんでそんなひどいこと……」
「言った傍から女性にしか使えない特権〝泣き落とし〟を使うんじゃない!」
半ば理不尽な理由をこじつけてきたので、こちらもそれ以上の理不尽な返しをしてみたが、意外とあっさり折れてしまった。
「冗談だ」と彼女は言っているが、真実だったのではないか?
そこで一度、会話が止まる。
その隙を見て俺は、部屋中を観察した。
机の上には数学と古文の教科書、ワークが積まれ、その上に黒い筆箱が置かれている。ワークに付いた付箋が、今勉強している範囲より先の所に付いているので、おそらく授業の予習をしているのだろう。ページの膨らみ方からして、かなり書き込んでいるタイプだ。彼女が学力で学年トップ3に入ってくるのも納得できる。
しかし、机の上には他のものは置かれておらず、机に備え付けられている引き出しの中にしまっているのだろうか。だが、引き出しを頻繁に開けた形跡がないので、おそらくそれほど重要なものは入っていないだろう。その横の本棚も、漫画や参考書しか置いていないので、特に探る必要は無いであろうが、漫画の趣味が似ているのでぜひ語り合いたい。
ベッドの枕元にはスマホの受電ケーブル以外置いていない、眼鏡などをかけているわけでは無いし、それもそうか。部屋のごみ箱には、見た所何も入っていない。あとこの部屋で視認すべきはクローゼットぐらいだろうか?
本当に情報量が少なすぎる部屋だ。理想的と言っても過言ではない。
部屋の電球はLEDを使っている。
しかも明るい寒色系ではなく暖色系の物だ。
なるほど、ここの部屋で勉強するのは昼間だけだな。
頭のいい彼女が、勉強をするときに眠気を増長させる暖色系を使うわけでは無いだろう。
机の上に別のライトがあるわけでは無いし、だからこそ勉強机がちょうど日光に当たる位置に配置されているのだろう。
「いや、だから何で、今日のこと喋らないんだ?」
彼女が話を戻してくる。
「その話は君の勘違いで終わりだよ。」
「はぁ?」
いかにも不満そうな顔で俺を見つめてくる。
わざわざこちらに顔を向けなくても、座っている位置的に視界に入ってしまうのだから、目の前で顔を右往左往させるのは止めてほしい。
「この件に関しては、君は関わらない方が賢い選択だと思うけど……」
これが本音なんだ……ここで引き下がってくれるとありがたい。
「私の秘密……知ってるくせに。」
「ウッ……」
コイツ、自分が男と女、両方の有利な立場を使い分けられると理解している。
止めてくれカサネ、その言葉はオレに効く。
彼女の本棚にもある漫画の名言(?)が、この状況にぴったり当てはまるな……。
さて、どうしたものか……?
頭を掻きむしり、頭の中で文をこねくり回す。
「わかった。」
そして考えた末に、腹を決めて話すことに決めた。
「うんうん、素直に話すのが一番……」
「ただし、条件がある。」
「えぇ……」
彼女の話に割って、一言添える。
「この件については、取り扱いに気を付けないとまずい……だからこそ本当に君にしか教えられないんだ。」
俺はゆっくりとその場から立ち上がり、部屋の入り口のドアに手をかける。
ガチャリとドアノブを押し、扉を開くと、その先には一人の女子が聞き耳を立てて座っていた。ゆっくりとこちらの顔を見上げ、かなり困惑しているようだ。
「こういうのって、困るんだよね……」
「ご、ごご、ごめんなさい!!」
そこにいた子はとても驚いた様子で、ササッと後ずさりし、俺の顔を見てあわあわしている。年齢からして、彼女の妹なのだろうか?
「あれ、ゆり……どしたの?」
「お兄ちゃんのことが、ちょっと気になって……」
確かに、秘密を抱えている彼女が、だれも居ない自室に人を招いているなんて、家族からしたら気になることかもしれない。
「大丈夫、この人なら気にすることなんて無いから。あ、この子は友理奈って言って、僕の妹だからね。」
「あぁ、この時間に居るってことは、君は○○中学に通っているんじゃないか?」
「え?なんでわかったの⁉」
不思議そうな目でこちらを見る。
俺の方に近づいて、どうやら興味津々のようだ。
「俺もそこの出で、今日はその学区の定例研があるだろうから……」
「あれ?それだけじゃ、学校までは特定できないんじゃないの?」
なんだ、勘がいいじゃないか。そこは姉と似ているな。
「その学区の中では、学生証にカードを使うのはそこだけなんだよ。」
そういった俺は、持っていた彼女の学生証を顔の前に持ってくる。
それを見た彼女は、後ずさりしてから急いでポケットをまさぐり、自分が今持っていないことに気が付く。
「い、いつの間に⁉」
驚いて目を輝かせる彼女に近づき、持っていたカードを手渡す。
「はい。これで満足したかい?これから話す事は命に係わるかもしれないから、君はなるべく聞き耳を立てずに、この場から立ち去ってくれるとありがたい。そうしてくれたら、お礼に勉強を教えてあげるよ。」
彼女が勉強に伸び悩んでいることは、廊下に置いてあったバックから察した。
「え?お兄さん、勉強できるの?」
おっと?その言い方はまるで、俺の見た目は勉強が出来なさそうだと言っているのかな?
それは心外だな……。
「一応この人、あの学校で毎回学年一位なんだよ……勉学では勝てる気がしない。」
「お兄ちゃんにそこまで言わせるとは……」
「一応って、何だ?」
俺はスッと彼女を睨みつけた。
俺と目が合った瞬間に、ゆっくりと目を離される。
「わかった、それで手を打つよ。ただし、私の頭の悪さにあまり驚かないでよ?」
それに関しては大丈夫だ。
先ほどの勘の良さから地頭が良いのはわかっている。要は教え方の問題だ。
「任せろ」と彼女の背中を押し(物理)、部屋から遠ざける。
それにしても彼女、一度僕が学生証を奪ってから全く隙を見せなかった。
俺に先ほど近づいた時も、全く隙が無いどころか、すぐにこちらの命を取ることができるほど態勢を整えていた。
あの時の彼女の目は、輝いているように見えつつも、その奥に完全なる殺意があった。
おそらく十四歳だろうが、本当に何者なんだ?
「さて、どこまで話したかな?」
「まだ内容については、一言も喋ってないと思うんだが?」
「あぁ、そうだったな。」
この期に及んで、話を少し濁そうとした俺が間違いだったかな?
「それで……もう〝それで〟って言うの、何回目なんだよ⁉」
「三回目だ。」
「ありが……いや、何で数えているんだ?」
「なんとなくだ……さて、本題に入ろうか。」
俺は立ち上がり、目の前の机に座っている女をそのテーブルからどかし、普通にクローゼットの上に座らせた。
ちょっと驚いたような顔で、彼女は微動だにしなかった。
テーブルを挟み、向かい合うような形で座る。
「この件は、最終予選に起こったある事に起因している。」
「へぇ、最終予選で何があったの?僕はほかの人たちと一緒に意識失っていたから。」
食い気味にテーブルの上に肘を突く。
「簡単に言うと、俺が神器を使って会場を滅茶苦茶にしたんだ。」
「神器?それって、何かすごい神聖なヤツ?」
「まぁ、ニュアンス的にはそれでいいだろう。そして、俺が持っていたその神器が、天皇家にゆとりがあるものだったんだ。」
「いや、天王家で神器って言ったら、〝三種の神器〟しか無くない⁉」
「大当たり。その中の《天叢雲剣》を、今俺は持っているんだ。」
袖を捲った左腕をそっと突き出し、手首を見せる。
試験終了後から発行しているのを隠すために、服の袖をめいっぱい伸ばしていたが、紋章がまだ光り続けていて驚いた。
「何これ?」
「ここに、神器が入っているんだ。紋章でしまわれているから、封印という形だったのかもしれない。もちろん俺の意志で、自由に出し入れできる。」
「へぇ、休学中にそんなことが……」
と言う感じで、淡々とこれまでの事情を話していく。
すると不意に彼女がこう言った。
「なんだか、ブラ〇ロの主人公と状況が似ているな……」
「おっと、それは言ってはいけない気が」
「それこそナ〇トにも……」
「あぁ、それは確かに俺も思った。」
だが、どれも完全に一致していたというわけでは無かったので、今後の生活に活用できるわけじゃなかった。しっかりと熟読したうえで、そう確信した。
それにそもそも、どちらの主人公も俺とは全く毛色が違っていたし。
「あくまでフィクションだからな、参考になったりはしないさ。」
「へぇ、結構割り切っているタイプなんだね。」
「何を言っているんだ、魔法なんてあるわけないじゃないか。武術の名称を変えただけかもしれないが、それでも、日本以外で化学以外の武力が発展するわけがないであろう?」
そのことは、世界大戦の頃からわかりきっていることじゃないか。
「それでも、ナ〇トの世界は少し近くない?実は幾世紀前に起きていたノンフィクションだったりして……」
確かに呼び名を変えただけかもしれないが、それでもあれほど大きな幻獣による災害や、武術暴走における世界の危機など、あれほど壮大なことはさほど起きていないだろう。
歴史に刻まれるのは、基本的に醜い人々たちの殺し合いだからな……。
「あれ、何話してたんだっけ?」
「さて、談義も終わったことだし、俺はそろそろおいとま……」
「思い出したから、ねぇ、まだ昼過ぎだし、まだ話していようよ。」
なんだか、趣旨が最初と変わっている気がする。
彼女はいったい何がしたいんだ?
俺の情報を対戦相手として絞り出したいのか、それとも、ただの友達として話をしていたいのか?少なくとも、俺の目的は前者だ。
今この状況で、かつてのクラスメイトと仲良くおしゃべりしては居られないのだ。
俺を襲った生物の正体、スピーカー越しに聞こえた声の主、俺が意識を失った後に起こっていた事、腕にあるはずの剣の感覚がいつもより違和感があること、このどれも推測が散らかってしまってまとまらないのだ。
推測と思考を書き起こして整理しておきたいのだが……。
「ねぇ、それで試験を受けに来て、そこに一体何がいたんだ?」
「そこからの話は……ほとんど覚えていないんだ。」
半分は嘘で、半分は事実だ。
それでも、ここから先の話は、俺が考えをまとめるまでは話す事が出来ない。
話したくない。
考えを共有したら、先に答えを出されてしまいそうで怖いからだ。
誰よりも先に、この難題を解いてみたい……
「そんなに面白いことでもあったのか?」
「ん?何が?」
「いや、にやけているから……」
気づくと無意識に口角を上げていた。
この状況を一番楽しんでいるのは、俺なのか?
「とりあえず君の状況はわかったよ。今日のことは話さなくていいけど、その代わりに僕が勝手に解釈するから。」
それが一番ありがたいかもしれない。
彼女なら言わずとも察することができるだろう。
解釈違いさえ、起こさなければいいのだが……。
「後はご想像にお任せするよ。」
時計の短い針は三と四の間を指していた。
辺りが、やんわりと茜色に包まれていく……。
彼女と別れ、俺はその日の内になんとか家に戻ってきた。
何と帰りは自己責任で、そもそも変えることを考慮していなかったような。
要するに、今回の遠出は片道切符だったようだ。
倒れるようにベッドに伏せる。
「はぁ……」
意識が薄くなり、瞼がだんだんと重くなる。
「今寝落ちしたら……危ないかも。」
そう思っていても、沈んでいく意識には逆らえない。
そして俺は、そのまま数分もしないうちに眠りに落ちてしまった。
いろいろと思うことはあるが、それは全部明日考えよう。
どうせ今考えても、余計なことで頭が散らかるだけだ。一度気持ちと考え方をリセットして見つめなおした方が客観的になれる。
その睡魔を受け入れた途端、勢いよく闇に引きずり込まれ、深く、深く堕ちていった。
まるで、闇が俺を取り込もうとしているような……。
(やめておけ!)
しばらく聞いていなかった、力強い声が聞こえる。
(その先は、お前が居てよいところではない!)
そっと俺の意識が、その声がある方向に引っ張られる。
そして、気づくと俺は、また夢のような現実の世界に引き込まれていた。
目の前には、スサノオ様がいた。
不思議と意識を保てていて、頭もスッキリしていた。
(お前、今日起きたことは覚えているか?)
今日?あの黒い奴と戦ったことでしょうか?
(そうだ、あれは私が知っている中でも最悪な奴だ。)
神が知っていて、しかも武神が〝最悪〟と呼ぶとは……本当に今の世界には存在してはいけないものだったのだろう。
(あれは……黄泉の邪神だ。)
黄泉……邪神………明らかに危ないワードが並んでいる。
しかし、日本神話には〝完全悪〟など存在しないはずだが……
(あぁ、本当は悪鬼や鬼神などと言ったものを〝邪神〟と呼んでいただけだが、あれは正真正銘の邪神だ。)
俺があの時に感じた悪寒は、どうやら正しかったようだな。
しかし、俺はあの時、どうやってあんなものを倒したんだ?
(やはり覚えていなかったか……)
もしかして、何があったかわかるのですか?
(わかる。しかし、今のお前には言えまい……)
何なのだ、それは……今の俺にはまだ何か足りないというのか?
(そうだ、お前にはまだ欠けたピースがある。だから、それも知るまでは私が深く話せることは無いのだ。)
それでも、なんとなく、先ほど吸い込まれそうになった〝闇〟に関係あることはわかる。
しかし、アレにはもう近づきたくない……そう本能が叫んでいるのだ。
(できることなら、それを知らぬまま、平穏に……今からでも国選と言うのを)
それは無理です。
いくら神様に頼まれようが、この約束だけは捨てるわけにはいかない。
今回を逃したら、次は無い気がするんだ……
(はぁ……その勘が、破滅を招くかもしれないというのに……)
たとえそうであっても、約束が果たせない世界なら要らない。
(お前……)
俺が最も愛した人と交わした、〝死の約束〟なのだ。
それが俺の今の生きがいなのだ。
それがあったから彼女の死も乗り越えたし、どんな理不尽にも抗ってきた。
(まるで呪いだな……貴様を縛る運命の呪縛。)
俺はあの日に死んでいたのだ。
今俺を生かしているのが呪縛だとしても、それを愛せずにはいられない。
ふと掘り返された過去が、頭の中に溢れ出る。
もっとずっと一緒に行きたかったとか、本当に死ぬのは自分の方だったのだとか、もしこの国に生まれていなかったらどうなっていただろうとか、彼女が死んだのは偶然ではなく必然だったらとか、考え出してキリがなかった『イフ』の世界線…。
彼女の最後の笑顔が、頭にこびり付いて離れない……空を仰ぐたびに、その先にありそうな世界へ手を伸ばしてしまう。
(どうして彼に、こんなものを背負わせたのだ……)
涙が頬を伝い、その感覚でプツリと繋がりが切れ、ゆっくりと俺の瞼が開いた。
顔の濡れた感覚に、思わず顔を拭う。
「涙……あれ?」
見ていた。
確かに何かを見ていた。
しかし、何故だか俺の記憶から消えていた。
頭を掻きむしってからベッドを出て、声が漏れるほど背を伸ばした。
カーテン越しに光が部屋を照らし、青白く染めている。
「まだ、朝早いな……」
枕元に置いてある、充電器に刺さったままのスマホを起動させ、時刻を確認する。
部屋に掛かっている時計は、一年前から動きが怪しく、時間がかなりずれているため、基本的にあてにすることは無い。
ただ、デザインが好きなので、インテリアとして置いている。
「まだ四時じゃないか……」
それでも、もう眠くないので二度寝する気は起きない。
「そういえば、昨日何かを後回しにして、寝落ちしてしまったような……」
部屋に、心地良い風が吹く。
机の上では、くしゃくしゃになった青いカードと封筒が、まだ青い日光を受けて光っていた。そっと昨日の記憶を呼び戻させようとするように……
(どうして彼に、こんなものを背負わせたのだ……世界は。)
(なぁ、大和よ。)
7 禁忌
「お疲れ様。」
「おっつー!」
俺の部屋に入ってきた優弥に挨拶をする。
今日は彼の第二試験受験日だ。
相当疲れていたのか、入ってくるなりその場に倒れこんでしまった。
「あぁ……やっぱり印を使うのって難しいわ。」
「お前に使えと言って教えたのは、たった一つだけだぞ?しかも一回やっただけで忘れる可能性があるから、立った一撃で終わる強力な奴だ。」
コイツに教えたのは『滅光』。
零印を使う〝超上位〟常印技だ。
零印は伍天王の血縁しか使えないが、優弥ならば問題ないであろう。
なにせあの武千家の長男なのだから……。
「それで、どうだった?」
「んーとね、なんか機械がいっぱいあって、俺が言われた通りの手の動きして、『何か出たぁ⁉』って言ってたら、全部消し飛んでてクリアになったよ。」
「そうかぁ……」
俺は座っていたベッドから腰を上げ、キャスターのついた椅子に座った。
そしておもむろにパソコンを立ち上げて、検索欄にある文字を打ち込む。
「なんだ?」と彼は後ろから覗き込んでくる。
その彼に、ある画像を見せる。
「そのロボットって、これの事か?」
「おぉ!それそれ!」
俺が見せたのは、《バルガイドラウ:Mark5》だ。
やはり俺以外の他の参加者は、普通の物を用意されているんだな。
「あれ?でも色が違うなぁ……」
「色?」
何かに引っかかったようで、俺の肩をどかしパソコンに顔を近づける。
数分間、画面とにらめっこした末に、何とか思い出せたようで俺の肩を勢いよくドンドンと叩いてきた。
「そうだ!この灰色のじゃなくて、赤色の奴だ!」
「赤色、それは本当か⁉」
既存の《バルガイドラウシリーズ》の中には、赤色の機体なんて存在しない。
つまり新作機ということになる。
『ニュータイプかっ⁉』って言うやつだな。
「赤色のバルガイドラウ……やっぱり今回の国選は、何か異質だ。」
そもそも、《バルガイドラウ:Mark5》も今年発表されたばっかりなのだ。
そんなに短いスパンで、新しい機体を作ったり出来るものなのか?
「いやー、でもすぐに消し飛ばしちゃったからな……」
「それは、それは、俺の助言が役に立てて結構だ。」
俺は再びパソコンに打ち込み、ネットで《バルガイドラウシリーズ》を作っている《株式会社 ラウズ》について、深いところまで探ってみた。
よくわからない文字を打ち始めたからか、優弥の興味はパソコンからは離れ、本棚に置かれていた漫画に移っていた。
彼が今読んでいる漫画は、狂気的になる病気にかかった主人公たちが、同じ病気を患って暴走した人達や、世界侵略を狙う超能力者達と戦うことになってしまう話だ。
なんだか滅茶苦茶な話だが、彼は案外好きなようだ。
「⁉」
ヒットした。
普通に一般の人が使うインターネットの空間より、かなり潜った位置にある二つ目のネットワークにはいろいろな『一般には見せたくない情報』がたくさんある。
ちなみにもう一段階潜ると、国家諜報員などの情報を見ることができる。
それが見ることができれば、今回の件について何かわかるかもしれないが……
もちろん、一般人の俺では、その領域まで辿り着くことは不可能だ。
そして、今回ヒットしたのは、ラウズ社の企画会議の資料についてのやりとりだ。
その中に、先ほど彼が言った『赤いバルガイドラウ』の情報が記載されていた。
足跡が残らないように、慎重にその画像を確認する。
「これは……『バルガイドラウ:Mark V』⁉」
どうやら、『5』と『V』をかけているようだが……書類の右上には『最高機密』と彫られた赤い印鑑が押されていた。そんな扱いだったら、そもそも、ネットを使ってやりとりしない方がいいのでは無いのだろうか?
難しい業界用語を読み飛ばしながら、三枚あった企画書を読み込んだ。
どうやら、今回の『Mark V』は今回の国選のために発注されたもので、その発注元は『武天家』になっていた。
間違いなく、武天業宇羅が書類に押すときの印鑑と同じ形だ。
「国王が直接依頼?そして、俺に関係ないとしたら……息子か。」
武天御業智……今回の国選は彼にも何かしらの因果があるのか?
「聞くしか……無さそうだな。」
そう思い立った俺は、椅子から立ち上がり、パソコンを閉じた。
いきなり動き出した俺に驚いたのか、優弥は持っていた漫画を、思いっきり上に飛ばした。漫画はベッドに落下し、ファサッとページが閉じられた。
「ど、どこいくんだよ。今日一日暇だから、ここに居ていいんじゃなかったのか?」
「あぁ、それはお前から第二試験の内容を聞くための適当な口実だ。とりあえず今からとある奴に会ってくるから。下手したら、無事に戻って来ることは出来ないかも。」
「ほーん…え、えぇ⁉」
「んじゃ、戸締りするから早く出ろ。」
「えぇ……」
優弥の襟を掴み、ずるずると引きずりながら部屋の外に出した。
そこからは背中を押し、玄関まで連れていく。
「なんだよぉ、何処行くんだ?それぐらい教えてくれても……」
「ヤツの所さ。」
「ヤツ?誰だよ……」
玄関に到着し、扉に手をかけた時、俺は振り返ってこう答えた。
「生まれながらにして、化け物になったヤツの所だよ。」
この時、俺はどんな顔をしていたのだろうか……
ただ、ドアノブに手をかけた瞬間の情動は、緊張とか恐怖とかの負の感情ではなかったような気がする。それに、一年前の彼から逃げていた俺は、もう居ないのだから……
「知らねぇよそんな奴!」
優弥のツッコミが入る。
言い回しが難しかったのだろうか、いまいちピンと来ておらず、眉間にしわを寄せて必死に考えているようだ。眉間に人差し指を当てて、クルクルしている。
「悪いが、お前は付き合わない方がいい。」
そう言って俺は、優弥が出てきたタイミングで玄関に鍵をかけた。
カチッと言う音が、俺の意識を切り替えた。
口角が上がる。
「やぁ、初めまして。」
「あぁ。」
江戸川の土手沿いで、俺と彼は向かい合っていた。
「君が……武天御業智君で、間違いないよね?」
「あぁ。」
とても冷めた態度で、機械のように同じ返答をする。顔の表情も走っているときから一切変えず、息切れも全くしていない。
まるで、人造人間か傀儡のようだ。
「……。」
彼からは、自分の意志を持った言葉を一切聞かない。
「ねぇ……俺と模擬でいいから、一度対戦してみないか?」
本来の目的は違う。だが、どうしても彼と戦いたくて仕方ない……。
そんな衝動に乗せられた俺は、彼に対する意味の無い対戦の申し出をした。
「……。」
それを聞いた彼は、顔の表情を全く変えずに、俯いて黙り込んだ。それが、『考え事をしている状態』だというのだろうか?捉え方によっては、深くお辞儀しているように見えなくもないぞ……。
俯いていた彼は、ものの数秒で結論を出し、勢いよく顔を上げた。
顔が重力の影響を受けて、目を見開いたように見えた。
「俺は……」
鼻から空気を勢いよく吸い込み、彼の瞳孔が開く。
グッと空気が重くなり、彼の身体から王家の覇気が現れる。
空気が揺れ、それが俺の身体に、重くのしかかってくるような感覚を与えた。
ゴゴゴゴ……
まさに、その音が似つかわしい……
ゆっくりと、彼の唇が動き始め、先ほどの続きを綴る。
「お前から、来てくれるのを………待っていた!」
少しずつ声のトーンが大きくなり、それに伴って空気の重圧も強くなってくる……顔の表情自体は全く変わっていないはずなのに、まるで満面の笑みを浮かべながら、俺に向かって熱血的な言葉を投げかけているように感じる。
俺はその重圧に押し返されないように、歯を食いしばって全身に力を入れている。
その時の俺は、自然と口角を上げていた。
楽しい。
そう、心から感じているような気がした。
「待たせて……すまなかったね。」
俺の瞳孔も、グッと開いた。
視界が一気に変わる感覚があった後に、少し涼しい風が一瞬だけ瞳に入り込んでくる。
周りに人はいなかったが、偶然いた鴉、鳩がバタバタとその場から飛んで行った。
土手の川も大きく波打ち、流れが少しずつ速くなっていく。
ヒュォォオオオオ……
その場に風が吹き荒れる。そよ風とは違った、風圧だけを感じるような突風が吹き荒れる。お互いがお互いの瞳を睨みつけ、視界がだんだんと絞られていった。
「ここで……?」
たった一言だけ、彼の口から俺に対して問いかけてくる。
「あぁ、今すぐなら……問題ないだろう?」
この土手なら、超有名な現国王の息子が、真昼間にランニングしていても、野次馬が現れないほどの人通りしかないので、今から全力で衝突したとしても、後日どこか適当な所がニュースに少しだけ取り上げられる程度で終わるだろう。
そして、暗黙の了解でこの場で戦うことを決めた俺たちは、さっそく戦闘態勢に入る。
「ハァ……来い。」
一息置いてから、俺は剣に問いかける。
かなり慣れたからなのか、一言問いかけただけで、左手のひらから何もせずとも飛び出てきて、そのまま自動的に右手の中に納まるのだ。
「さぁ、振るうがいい」と、こちら側に呼び掛けてくるような……
神が宿るのだ。もはやただの〝道具〟ではあるまい……。
「さて……」
相手を睨みつける。
すると、彼の身体には本来、橙色になるはずの『術力のオーラ』が、濃縮されすぎたのか山吹色に光っていた。地面が大きく崩れ上がり、覇気だけで地面の土砂が宙に浮かんでいく。下に向かう重圧と、上に向かう覇気が衝突し、彼の周囲はまるでバリアのような状態になっていた。
「行くぞ……」
彼の目に山吹色の閃光が走る。
剣を握り、彼の覇気の影響を受けなくなった俺は、ゆっくりと態勢を整え、剣を右に構えた。俺を中心に突風が発生する。
ヒュォォオオオ……
「「……。」」
二人の視線が衝突し、体中に電流が走る。
その瞬間に、一瞬だけ辺りが静寂に包まれる……
突風も止まり、空気の流動さえ止まったかのように何も音がしない。
グググッ……
ほぼ同時のタイミングで重心を落とす。
「「スゥ……。」」
二人とも同時に息を吸い込み、吸い切った刹那、
火蓋は切って落とされた。
ドッッ……カッ!!
二人の足元が、大きく変形する。発生した爆発は、周囲を大いに巻き込み、地面に大きな穴を開けた。川にも衝撃が走り、向こう岸の土手に波が押し寄せる。
ガキィィイイイイインッッ!!
地面から足が離れてから、コンマ01秒も立たずに俺の剣先と彼の拳は衝突し、激しい衝突音を立てる。向こうは素手のはずなのに、まるで金属と金属でぶつかり合っているかのような音が、俺の鼓膜を刺激する。衝突した瞬間には、周りを真っ白に塗り替えるほどの閃光が発生した。しかし、俺の目は既にその程度ではつぶれなくなっていた。
キィィィイイイイイイイインッッ!!
耳鳴りが始まってから、一秒もかからずに戻る。腕も血管が浮き出るだけで、血が噴き出ることはなくなった。確実に俺の身体が、常人の身体からかけ離れていく……。
「ンンッ!!」
双方、繰り出した初撃の威力は落ちることなく、紫電を走らせながら硬直が続く。
「クッ!」
ゆっくりと、初撃の勢いに力を上乗せしていく。歯を食いしばっていたため、少しずつ歯茎から血の味がし始める……思わず顔を歪ませる俺に対し、彼の顔は相変わらず変化しない。何かテープのようなもので固定でもしているのだろうか?
だんだんとエネルギーが一点に集中されていく。どんどん中心点部分が熱くなっていき、それが空気を伝って体に伝導していく。一気に汗が吹き出し、立った一瞬だけ体勢を崩す。
「――――ッ!!」
その一瞬を彼が見逃すはずもなく、その隙を衝いてより一層力を押し込まれ、俺は思い切り後方に吹き飛ばされてしまった。
「グァッ!」
ズドォォオオンッッ
川を横断するために架けられていた橋に、背中から勢いよく衝突する。
その衝撃で橋に大きなひびが入り、そこを中心に大きく崩れ落ちた。橋の支柱が壊れたわけでは無かったので、橋が全壊することが無かったのは不幸中の幸いだ。これが一つ先の水道橋だったら、その地域の何人もの生活に支障が出る事態にまで発展するところだった……
衝撃で体中を強く打ち付けたものの、その傷はすぐに治るので、俺はすぐに態勢を立て直すことができた。しかし、顔を上げた時には既に、彼が印を刻みながらこちらに向かって飛んできていた。刻んでいた印は玖、壱、漆、参。その四つの組み合わせは無いが、これの前に零を刻んでいたとしたら、『滅裂戒限』が飛んで来ることになる。
案の定、参を刻んだ瞬間に彼の腕には濃縮された術力のオーラが渦を巻いき、肘から後方にかけてジェット噴射のようにはじけ飛んでいる。
キュィィィイイイイイイ……
風切り音と共に、エネルギーが集束されていく音が聞こえる。
術によって加速されたここまでの到達速度は、目測で一秒足らず……ここから剣であの一撃を防ぐには、俺の両腕が音速以上の速さで動かないと追いつけない。初めてこの剣を振るった時の映像が、脳内にフラッシュバックする。あの時の俺の移動速度は音速どころか光速すら超えるほどであった。あの時と同じことができれば……
俺の思考速度は常人のそれを超え、あれほど早かったはずの彼の姿が明確に瞳に映し出された。近づくにつれ、どんどん遅く見える……
今なら、出来る!
何の確証も存在しなかったが、それでもこの時俺は、できると信じてならなかった。受け身を取るために開かれた左腕を、剣を握った右腕に移動させ両手で剣を握る。そしてそのまま彼に向かって全力で剣を振るう。
歯をギリギリと食いしばり、こめかみに浅側頭静脈がくっきりと浮き出て、側頭筋がピクピクと痙攣をおこす。腕には筋肉と血管が浮き出て、先ほどの慣れていた時とは違いとっさの高速移動に体が悲鳴を上げる。以前のように血管から血が噴き出し、顔じゅうの窓からも表情筋を酷使しすぎたためか、ダバダバと血があふれ出てくる。
瞳孔は開き切り、移動速度によって目の潤いが少しずつ消えていき、視界が少しずつ歪んでいく。足で踏ん張ることができないので、その一撃を上半身中心に行うしかなかった。腹筋はミシミシと音を立て、胸筋はミチミチとちぎれていくかのような感覚が襲う。顔で体を無理やり回転させているため、首の筋肉がブチブチと音を立て、あるところまで痙攣すると硬直して動かなくなってしまった。
身体中の全ての激痛を、俺はアドレナリンを使い後回しにする。
―――――――――――――――――――ッッ!!!
風切り音が高音すぎるのか、もはや耳では聞き取れないほどの超音波になってしまっている。次元を切り裂くような感覚を、剣を伝って脳にさらなるアドレナリンを分泌させる。
「滅烈……」
「―――――ッッ!!」
振っている途中だが、剣から日光を上乗りするほどの閃光が走る。
空気と剣の狭間で空気抵抗以上の摩擦を発生させ、バチバチと紫電が発生する。
「戒ッ限ンンッッ!!」
「――――ッッゥゥァァァアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
カッッッ!!!
再び激しい衝撃が発生する。
シュゥゥウウ………
身体中から湯気を出し、フライパンの悲鳴のような音を立てている。
ポタポタと腕と顔から血が滴り、意識を朦朧とさせながらふらふらと立ち尽くしている。
「ウッ、ウウ……」
脚がおぼつかなくなり、腕はもう動かない……そんな中、この橋の上で…もう一人たたずんでいる男がいた。御業智……武天御業智だ。
彼も術を使った反動なのか、体中から血を垂れ流し、意識を朦朧とさせている。表情を変えることは無くとも、彼の精神には確実にダメージが蓄積している……はずだ。
先ほどの一撃は、正直に死ぬかと思った。
何とか間に合ったものの、完全にエネルギーを相殺することは出来なかったため、橋ごと一撃をくらい、宙を舞ってしまった。双方、それぞれ分かれた橋に着地はしたものの、おたがいたった二撃繰り出しただけで、これほどまでボロボロになってしまった。
これが、高次元同士の衝突なのだろう。
「まだ……戦えるか?」
向こうの橋から声が聞こえる……口に血を流した後を残したまま、彼はこちらを向いて問いかけてくる。自己修復によってある程度まで戻っていた俺は、迷わずこう返した。
「もち……ろん………。」
その返事を皮切りに、お互いが再び全身に力を籠め始める。グッと剣を、今度は右手だけで握る。ゆっくりと視界を狭め、集中させていく……深海に潜っていくように、深く……。
瞳が青色に光り、視界が青色に塗り替えられる。体からブワッとオーラを溢れ出し、瑠璃色で全身が染まる……今度はしっかりと意識を持った状態で。
何故かこの前のことを鮮明に思い出す。覚えられるはずのない記憶を……。
剣を振り回し、その軌跡が青色に塗られ、すぐに無色に溶けていく。剣を振る度に周囲に突風を巻き起こし、川の水が自分を中心に集束していく……やがてそれは、俺の周りを囲む浮き輪のようなリングに代わる。どうして剣のこんな使い方を把握しているのかは分からないが、それでも何故かこの剣の全てを知っているかのようだった。
出来上がったリングから、いくつかの水の塊が分裂によって生成され、それが俺を中心とした軌道を描き、周囲を漂っている。その状態のまま、俺は剣を右手で滑らかに廻し、攻撃する体制を整えた。
その時目を向けた彼は、既に印を刻みはじめ、じわじわと俺に攻撃しやすいような、攻撃の反動が自分にこないような態勢を取り始めていた。
そして彼は印を壱、弐、参、肆……と、順番に刻んでいく。血だらけになった手でゆっくりと……そして、一つ刻むたびにだんだんと空気が重くなっていく。
ズダンッ……ズダンッッ……
漆、捌、玖……そこまで印を刻むと、彼を中心に大きな竜巻を発生させていた。俺が知っている印に『壱から玖』で繰り出す術は存在しない……つまり、あと一つ刻むわけだ。
玖を刻んだ後に、動かすだけでやっとになってしまった両腕を、無理やり上まで持ってきて、両手を強く握り潰す。これで最後だというかのように、小刻みに震えていた。
「やっと……これが使える………」
彼を取り巻く風の隙間から、山吹色にギラリと光りこちらの命を狙う彼の瞳と、今まで変化しなかった顔が浮かべたわかりやすいほどの満面の笑みが、チラリと見え隠れした。
その笑顔につられるように、俺の頬も緩む。
握った拳をかち合わせ、零の印を刻む。その瞬間に、彼の周囲を取り巻いていた竜巻が弾け飛び、彼の中心点に高密度のエネルギーが集束する。そして、それが光となり彼を背後から照らし出す。その生み出された神聖な後光に俺は思わず目を細めた。
来るッ!!
ピキンッと脳に刺激が走り、本能が身体中の神経を逆撫でする。全身の細胞が覚醒し、敏感になった第六感が脳の能力を少しずつ押し広げていく。そして、そのすべてをあの一撃を相殺することだけに集中させる。
研ぎ澄ませ、
研ぎ澄ませ、
刀身が青く輝くほど………。
「須佐之男命直伝……」
今度こそ……三度目の正直だ。
「特異天……」
ギュィンッッ……キィィィイイイイッッ!!
彼が言い放つと、彼の背後にあった光が彼の手に収束し、それがこちらに向かって放出される。まるで大きな丸い光が襲い掛かってくるような……いや、神の咆哮が飛んできたような感じだ。準備が完全に整い、俺は完治していた右腕と両足に思い切り力を入れた。
「水迅……烈剣ッ!!」
ブゥォオンッッ!!
青く光る軌道を描きながら、俺は身体ごと剣を光に向かって一直線に飛ばす。
キュゥゥィィィイイイイイイイッッ!!
重低音だった風切り音が、だんだんと高音波になっていく。
瞳に移る青い世界が、グラグラと揺れ動いた。
やがて、剣は光と接触する。
ヴゥオンッ……
聞いたことのない重低音が響き、俺の剣どころか身体の推進力もだんだんと押し返されていく。体の至る所にひびが入り、そこに光が入り込む。
痛い……いや、死滅していく。
細胞が、光に当てられて死んでいくのだ……
「――――ッ!!ゥゥァァアアアアア!!!」
すぐに左手でも剣を握る。
ギィィイイイイイイッッ!!
より一層、剣に力が入り込み、光をだんだんと切り裂いていく。
しかし、防ぎこぼしてしまう光によって、だんだんと俺の身体が蝕まれていく。かなり慣れて早くなったはずの自己修復も、もはや間に合わず何の役にも立たない。
ピシッピキピキッ……
ひび割れた所からさらに広がっていき、顔にまで到達する。
視界がパキンとひび割れる。
「ぁぁぁぁぁぁぁああぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁああああ!!!!!」
ただひたすらに声を出し、無理やり身体中の筋肉を動かす。
血すら噴き出さなくなった体を動かしているのは、もはや俺の気合だけだ。
剣の推進力がどんどん上がり、やがてエネルギー量が光を超える。
光が目の前からどんどん切り裂かれ、切断面がバチバチと点滅し始める。
真っ白だった視界が、少しずつ青色になっていく……そして少しずつ態勢が戻り、さらに剣の威力が上がっていく。光が裂けるのと同時に空間も裂けていく。その隙間から墨色の何かが溢れ出てくるが、すぐに裂け目は閉じられその何かも消滅する。
「ああああぁぁ……っぅぅぉおおおおお!!!」
――――――――――ィィイイイイイブゥオンッッ!!
剣が振り切れる。
目の前からは光が消え、元の景色に戻る。
「はぁ……はぁ………」
痛い……
痛覚は感じない。
意識が落ちる……
はっきりと思考は回る。
身体が動かない……
自己修復で最低限は動く。
いろいろな身体の情報が頭をぐちゃぐちゃにかき乱し、そこから発生した拒絶反応が全身に回る。完全にまとまった思考を巡らせるのが困難だ。
ひび割れた瞳には、反対側の橋に倒れこむ彼の姿が見える。膝をつき、顔を上げ、空を仰ぐようになっており、体は伏していなかった。顔からは笑顔が消えていて、何も感じない抜け殻のような顔になっている……
「は、はは……」
思考をすべて放棄し、俺は歓喜した。
「俺の………勝ち……か………。」
そして俺は、そのまま地面に倒れこんだ。
ガシャン……
陶器のようなものが割れる音がする。
空耳、だろうか……?
瞼が、ゆっくりと落ちる。
「……で、今に至ると。」
見慣れた病室。居心地のいい真っ白なベッド。俺は再び、この病院にお世話になることになってしまった。というのも、俺たちが橋の上で倒れているのを、御業智のようにあそこをランニングコースにしていた通りがかりの男性が発見し、119番にリンリンしたのだ。
「聞いたよ、右足が陶器のようにかち割れていたんだろ?」
奏雷がベッドの横に備え付けてある丸椅子に座りながら、俺の包帯でグルグル巻きになった足を見つめている。動かさないように天井から吊らされているので、俺の上半身は起き上がれなかった。
天井を見つめながらボーッとする。
「ねぇ…話、聞いてる?」
「まぁまぁ、病人なんだから……」
彼の暴走を、窓際に立っていた戸張さん(姉)の一言で抑止させる。
「あの……いくら窓際でも、絶対にたばこは吸わないでくださいね?」
言われたのがムッと来たのか、彼女をギラッと睨みつける。
「ハハハッ」と戸張さん(21歳)は笑って受け流した。
そっとポケットに入れていた手を出し、胸の前で腕を組む。
「あの……」
奏雷君。君、まだ何か言いたいことがあるのか?
先ほどからグチグチとうるさい奴だな……。
「文さんがいるのはわかるんですけど……」
振り返って睨みつける。その視線の先から「バナナ買ってきた」と一人の人物が入ってきた。入って来るや否や、奏雷はその場から立ち上がり、その人物を指さす。
「なんで君がいるんだ!累悠地!!」
「えぇ?何急に⁉」
入って来るなり指をさされ、彼女はビックリしている。
「気にしなくていい。いつもの独占欲暴走(イカレ行動)だ。」
「何そのルビ⁉なんでルビに漢字入ってるの⁉」
俺の方向に振り返り、病人であることお構いなしに怒鳴りつけた。
「君……学校とは、雰囲気がほんとに変わるね。別人……?」
「うるさいなぁ、普段は猫被ってんだよ!」
「男なのに猫……」
「うるさいッ!」
再び視線を彼女の顔に戻し、ギリギリと歯ぎしりしている。
俺にまた新しい女がまとわりついたと、強烈な同担拒否を発動しているようだ。
「頼むから静かに……」
俺はボソッと、彼達に聞こえない程度の小声で呟く。
割れた足に、彼の怒鳴り声がビキビキと響き、眠りにつくことなんてできやしない……
「おい。」
右横に立っている戸張さんが、彼らの言い合いを無視しながら話しかけてくる。
「お前の第三試験、明日じゃなかったか?そんなんで……」
どうやら心配してくれているみたいだ。
「大丈夫ですよ……明日には治っています。」
俺はきっぱりと言い切った。もちろん確証なしに言っているわけでは無い……
「ほほぅ……と言うと?」
「貴方に言ったら、きっと面白がって書いてしまうと思うので……今は伏せさせていただきます。」
そう言いながら、俺は左手首をさする。
それを見て何か察したのか、彼女は「はぁ…」と言ったきり、何も話しかけてこなくなった。部屋の窓からそよ風が入り込み、彼女の長く黒々とした髪をたなびかせる。日光を反射して光るはずなのに、まるで光を吸収しているかのように黒く見えた。
そのふんわりとした風は、俺の傷口もそっと包み込んだ。
「じゃぁ君は彼の…」
「何が言いたい…」
バナナを持ちながら、あの二人はまだ討論し合っている。
「だぁ、うるさいんじゃアホんだらぁ!!」
いきなりガラガラッと開いた病室のドアから、患者衣を着た一人の男性が声を荒げて叫んだ。俺は思わず耳をふさぐ。
どうやら隣の部屋で療養していた方みたいだ。
その覇気にやられたのか、言い合っていた二人は声をそろえて「すみませんでした」と頭を下げた。すごいシンクロ率に、思わず噴き出した。この二人はもしかしたら相性がいいのかもしれない……
「あなたの方がうるさいですよー?」
その男性の背後から、殺気を纏った女性の声が聞こえる。男性が慌てて振り返ると、そこには看護士が笑顔を浮かべつつもその中に般若のような狂気を漂わせていた。
「病床に戻りましょうねー?百々目さーん。」
「ヒィッ!」
そしてその人は、そのまま隣の部屋まで引きずられて行ってしまった。
「今の…百々目?」
先ほどの人物を見てか、何か引っかかっているようだ……
「知り合い何ですか?」
「え?あぁ……多分?」
「多分を疑問形にしたら駄目ですよ。」
少し皮肉っぽくそう言うと、それがどこのトリガーに引っかかったのかはわからないが、彼女がハッとした顔で俺の顔を見つめてくる。
「用事が出来てしまった……君への取材は後回しだ!」
そう言うと、入り口付近で顔を見合っていた二人を吹き飛ばし、勢いよくこの部屋から飛び出していった。
「「「なんなんだ?」」」
三人の声がシンクロする。それに驚いた俺たちは、それぞれ顔を見合わせる。
おかしくなり、鼻で笑った。
ググッ……
「――――――ッ、クゥゥ!」
俺はつけていた包帯を外し、ベッドから降りて大きく伸びをしていた。窓から空を見上げ、体中に日光を浴びせる。スッと肺に空気が入ってきて、脳がすっきりする。
「ハァァァ……」
大きく口から息を吐き、怪我していた(と言うか割れていた)右足首を軽くクルクルと回し、膝を折り曲げする。急に動かすと何かと危ないので、座ってからゆっくりと動かした。
「よし…」
右足は、一夜にして問題なく動くようになり、完全に完治したと言えるだろう。それは、素人目にもハッキリとわかるほどだった。
コンコンコンッ
病室のドアがノックされる。まだ朝の四時半だし、来る人物は限られるのだが、それでもその扉から出てきた人物に、俺は驚きを隠せなかった。
身体の至る所を、包帯でグルグル巻きにされた武天御業智である。
「あぁ…君はもう完治したか……」
俺には聞き取りにくい小声で呟いている。最初は合っていたはずの視線が、俺からそれる。ここは個室なので、俺しか入院患者はいない。間違いなく、俺に用があってきたのだろう。そういえばもともと聞こうと思っていたことも、この際だから聞いておこうか。
「話がある。君も俺に用があるんだろ?」
会話の切り出しに詰まっている彼に、少しばかりの助け舟を出す。それに乗っかってか、彼は大きく頷き、俺のベッドの横にあった椅子に座る。
「今回の国選……裏で何かある。」
冷たい顔のまま語り始める。
「俺の父さんは、元々海外侵略を考えていたんだ……俺もそれには賛成している。だが、何故かそれを俺にやらせたいらしい。」
海外侵略……再び戦争を引き起こそうというのだろう。それは今の国王の動きを見ていればなんとなくわかっている。だからこそ、今回で俺が奴をあの座から引き落とさなければいけないと思っているのだ。
「何故それほどに、急かしているのか……それには、この大会の裏について知るほかなかった。しかし、この大会の運営について関りを持っていない武天家では、どうしても情報を入れることが出来なかった……」
ゆっくりと視線をこちらに向けてくる。
「それで、外からいろいろと探っていくうちに、君が怪しくなってきた訳だ。」
つまり彼は……この大会の裏事情は、俺が把握していると思っているのか。
「飛んだ勘違いだ。」
「何だと?」
鉄のようだった顔の、眉毛がピクリと動く。
「俺は確かに、その裏事情の火種にはなっているが……それでもこの裏を仕切っている人物が別にいる。もちろん、ある程度は探りを入れ、把握しているつもりだが……それでも敵に塩を送るつもりはない。」
俺はこいつと仲良くするつもりはない。コイツ経由で天皇家の方に俺が知っている情報がばれたら、俺の生活環境が脅かされ、どうなってしまうかわからない。そんな危険を冒してまで、国家中枢情報を仕入れようとは思わない。
「君とは、協力関係になるつもりはない。」
冷たい瞳で彼を見つめ、俺はわかりやすいような断言をした。
「俺は自分でこの事件を乗り越え、国王になる……君を蹴落としてでも。」
「そうか。」
向けていた視線を正面に戻した彼は、顔の表情を変えずに答えた。
知らぬ間に置いてあったバナナを手に取っていて、それを皮ごと頬張った。
ムシャムシャ……
表情を変えず、何も言わず、皮ごとバナナを食べている。
「俺の、バナナ……」
「むっ…ほれ、ばなななのは?」
「え?」
「ん……確かにそういえば。」
無表情な顔で……こいつは何を言っているのだ?世間知らずなのか?だとしても、何も知らないものをそのまま口に入れようとするか?
「バナナ……見たことあるよな?」
「ある。」
「人がバナナを食べているところ……見たことあるよな?」
「ある。」
再び皮のまま食べ始める。
「じゃぁ、なんでその食べ方するんだよ⁉」
呆れた俺は、早朝であることも忘れ、大声でツッコミを入れた。
「あぁ、皮をむくんだったな。」と、彼が言った頃にはもう既にバナナが消滅していた。コイツもしや……馬鹿とかじゃなく、天然とか言うものじゃないのか?
これはもしや、彼の唯一の弱点なのかもしれない。
頭を掻きむしりながら、バナナを食べ終わった彼を呆れた顔で見つめる。
陽が高くなり、部屋からゆっくりと青白さが消える。
部屋の床に移る俺の影が、ゆっくりと伸びていき、まるで悪魔のような形になる。それを見て、寝ている間に見たことを思い出した。
青くなった瞳、纏った瑠璃色のオーラ、シンクロしたかのように手になじんだ剣……この前千葉に行った時の事と、昨日彼と戦っていた時の事……どちらともの記憶が鮮明に脳に刻まれていて、夢と言う形でフラッシュバックした。
それと同時に、姿は見なかったスサノオ様の声も聞こえた。
(ある程度の次元を超えてしまったお前に、残された時間は少ない。)
(次の次元に進むとき、それがお前の運命の分岐点になるはずだ……どちらにしても修羅の道だが、それでも貴様は導かれるだろう………)
(………神の道へ。)
あの方の声が、脳内で再生される。
知らぬ間に一人になった部屋で、自分の影と睨み合う。
「明日……明日何かある気がする。」
予感とか、そういう軽いものではなく……宿命と呼んだ方がふさわしいほど、ずっしりと重たく感じていた。この先の道に存在するいくつもの障害……それらすべてが今の俺を手招いている。
ゆっくりと顔を上げ、目の前にあるものを見つめた。
後ろから差し込む光で、明るくなっていく室内。それと対照的に伸びていく影。その先にある、俺の影で暗く塗られた扉。その中でステンレスの取手だけが、白く光り輝いている。俺はそれを握り、スライドさせる。
「さて、退院させてもらわなきゃいけないな。」
「まさか……また、遠出させれるとは。」
俺は今、とある山奥に来ている。もちろん、都会からかなり離れた秘境中も秘境の山である。と言うのも、国選本部から送られてきた封筒の中には、ここの地図が入った紙が一枚と、片道分の交通費だけが入った交通系電子決済カードが一個入っているだけであった。
なんだか回を重ねるごとに煩雑になっている気がするし……本当に一体何がしたいんだ?今度は新幹線にも乗ることになり、片道四時間以上はかかったぞ。
ただ、今回は連れてこられたわけでは無いので、方向感覚はバッチリだが、やはり山中と言うのは人を惑わせるのが得意みたいで……
「迷った。」
いろいろな遠出用の荷物がいっぱいに詰め込まれたリュックを背負いながら、そこら中に生えている植生を頼りに目的地を捜索する。
「こんな山奥に、国が運営している施設なんてあるのか?」
だんだん不安になってくる……目の前にある木を片端からぶった切り、この山に粋なミステリーサークルを作るのもいいが、こんなところで無駄に体力を浪費するのはもったいない。言うまでもなく、既に無駄な体力を消耗している最中なのだが……
「ここの近くは、生えているものが無茶苦茶なものばかりだな。」
もしこれを意図してやっているのだとしたら、考えたヤツは相当暇だったのだろう。
グチグチブツブツと呟きながら歩みを進めていると、突然景観が開け、広大な高原に出た。今まで山で遭難していたのが夢であったと錯覚してしまうほどに、そこには切りそろえられた芝草が生えていた。
「ここまで、景色が綺麗だと思ったことは無いぞ。」
スッとその場にしゃがみこみ、ゆっくりと仰向けになる。
そよ風がさわさわと芝草を揺らし、俺の気持ちも心地よくなっていく。
「ハァ……疲れたな。」
試験に来ていることなど忘れ、ただただゆったりとした時間を過ごす。
ピキッ
「ガッ、ッァア……」
頭へ予期せぬ衝撃が走る。思わず顔をしかめ、体を起こす。
「ハァハァ……何が⁉」
呼吸が荒くなり、心拍数も上がっていく。ただ座っているだけなのに、脈拍がどんどん上がり、胸が苦しくなる。何が俺をそうさせているのか、まったく見当がつかない。
グラグラし始めた視界で、辺りを見回した。
「アレ……か?」
ドアだけがつけられたような小屋が、ふと視界に入ってくる。
自分を荒げる要素が判明しホッとした俺は、先ほどの突発的に現れた症状がスッと治まった気がした。歩き続け重たくなった体を起こし、原因の小屋へ歩みを寄せた。
コンクリートで出来た壁で四方が囲まれ、屋根は無く、天井をコンクリートで埋めてあるだけであった。外観からでも、これが施設の入り口であるということはわかる。この山ごと彼らの息がかかっているのはわかったので、もしかしたらこの山の中には巨大な施設が存在するのかもしれない。千葉にあった例の地下施設のような。
「入れば……分かることだ。」
キィィイッ
錆びついた軋む音と共に、扉が開かれる。
その先には、段差きつめの階段が無限に続いていた。
「ここから先が見えない……」
試験までの道のりが遠すぎる。
「修羅の道って、こういうことじゃないと思うんだけどなぁ……」
これは、とても面倒くさい。さて、ここで剣の新機能をお披露目だ!
まぁ、披露する相手なんていないのだが……
「来い!」
左手を大きく横に振り、剣を外に出す。俺は出てきた剣を慣れた手つきで掴み、階段の先に剣先を合わせた。
「こういう時は、あれだな。」
剣を握っている右手首を、左手で掴む。態勢を整え、衝撃に備え構える。
「スー、フゥ……」
一息つき、呼吸を整える。剣に意識を集中させ、体中に力を循環させるイメージで……
「伍、」
ドゥンッ
俺の言葉と共に、剣の青い表面に〝伍〟の文字が浮かび上がる。
俺はそのまま続け、
「伍、参。」と唱える。
「さぁ、行こうか……(ほぼ)瞬間移動だ!」
剣と俺の身体にオーラが宿り、剣先から全身に風を纏い始める。
「翔瞬動!」
ヴゥゥゥォオオオンッッ!!
風を切り、一気に無限のような階段を駆け抜ける。と言うかほぼ落下。
ガッズザザザザッッ!!
おおよそ三秒で、端に到着する。
シュゥゥゥウウ……
足の裏から、着地した時の摩擦で湯気が立っている。剣を握ったおかげで、山中で浪費してしまった体力もそこそこ回復できた。
「さすが……普段使いに長けている術だな。」
判明した新たな力……それは、「常印技」を使うことができる力だ。しかも手で刻む必要が無く、口頭で数字を言えばいいだけなのだ。なんと便利なのだろうか……と言うか、神の時代から既に『常印』というシステムがあったのだろうか?
スサノオ様に言って「知らん…何それ…怖…」って言われたらどうしよう。そうなれば、俺が使っていく中で剣が成長したということになるな。
「そうだったら、少し嬉しいかもしれない。」
剣を見つめながら、少しにやける。
トクン…ドクン……ドックンッ!
鼓動が高鳴り、身に覚えのある高揚感が脳に溢れる。
「ここだ。」
目の前に置かれた大きな扉。そこには禁術などで使われるような御札が貼られており、「いかにも」な雰囲気を漂わせている。全面コンクリート造りで、ほぼ真四角の空間。いろいろな施設があるとかではなく、巨大なコンクリート部屋が一つだけ存在している。
先ほど降りてきた階段の角度と距離から、ここが地上からどのあたりで、どこまで続いているかと言うのはおおよその予想がつく。それを踏まえると、この扉の先に何が居るかが全く予想つかない。
間違いなくこの扉の先には生命体が居る。それは前回の経験からなんとなく察している。もしそうだとした時、この閉鎖された施設でいったい何が飼育されているというのだろうか?何か巨大な化け物とかが居るのかもしれない。
「禁獣……」
ふと脳裏に一つの単語がよぎる。
禁獣と言うのは、何人かの人間を犠牲に禁術を使用して呼び出すことができる本物のバケモノである。そんなものが居るのだとしたら、恐ろしいことになるぞ……
剣をギュッと強く握る。
「フゥ……落ち着け………」
ドアノブに左手をかける。ガチャリと音がして、ここの扉は上の物とは違いスムーズに開いていく。そう感じたのは気の問題かもしれないが……。
入った瞬間に攻撃されるかもしれない。そう思った俺は最大の臨戦態勢を整えたまま部屋の中へと足を踏み入れる。扉の先には想像通りの開かれた空間が存在し、奥から半分が真っ暗な闇に包まれていた。その闇の中に、何かが居る……
この試練は恐らく『どれほど正確に……』と言うやつのはずだ。この試験で、多くは幻獣を使った術力操作を判断される。自分の術力を対象の幻獣に流し込み、自分に従属させるのだ。「それができれば合格」と言うのが普通なのだが、どう考えて従属させられる物を用意しているはずがない。
グルルルゥ……
嫌な獣の呼吸音が、部屋の壁に反響する。
俺は背負っていたリュックを部屋の端に置き、体を軽くした。
「スー、ハァ……」
呼吸を整え、攻撃するための構えを取る。気づく前にある程度削っておかなければ。
両腕で握り、構えた剣に力を入れる。全身に瑠璃色のオーラを纏い、視界を青色に塗り替える。完全な戦闘態勢に入った。
グッグゥゥォォオオオオッッ!!
俺が覇気を出したからなのか、俺の存在に気付いた奴が大地を揺らすほどの咆哮を放つ。ブルブルと空気が揺れ、体感震度四ほどの揺れを起こす。
「悪いな……もう遅い。」
キュゥゥゥォォオオオッッ!!
剣先を光らせ、青白い閃光を周囲に走らせる。
「須佐之男命直伝……」
ガクッと腰を落とし、勢いよく地面を蹴った。体と剣は青白い軌道を描きながら、闇に潜む物体に向かって一直線に飛んでいく。
ピキッビキビキッ
電流のような細かい炸裂音と共に、光輝いた剣を振るう。
「鏡水一閃。」
刹那の瞬間に、俺はさらに切りやすいように剣を傾け、ズバッと振り切った。
ギュォォォオオオオオッッ!!
切られたバケモノは、大きな悲鳴を上げながらこちらに向かって来る。俺は地面に着地したと同時に、光のある方向へ走った。
ゆっくりとバケモノの姿が露になる。
グルルル……ゥゥォォオオオオッッ!!
そこに居たのは、体中が真っ黒になった巨大な熊だった。全長は普通のクマの五倍ほどで、全身に俺が付けたものとは別の切り傷がつけられ、そこからあふれ出るように墨色の何かを纏っていた。そして、俺が切った個所が知らないうちに治っている。
「嘘だろ⁉」
俺が今使った技は、細胞レベルで死滅し切断する技だ。御業智から受けた『特異天』と同じ性質を持っているため、再生にはもっと時間がかかるはずだが⁉
ブゥォォオンッッ!!
奴の異様なほど大きな手が、俺の身体めがけて飛んでくる。
「んぅ…ぅぉぉお!!」
剣を両手で握ったまま、バットで球を打つように剣を振る。大きなうちわを振ったかのように、その場で大きな突風を起こす。しかし、その風圧だけでは熊の手は防ぎきれず、攻撃をくらってしまう。
「―――ッ!捌、捌、壱、零ッ!!」
吹き飛ばされながら印を叫ぶ。剣がそれに反応し、ギリギリで壁への衝撃を分散させる。
「チッ……クソッ!」
急いで態勢を立て直し、再び剣を握る。するとそこに、黒い糸のようなものが飛んでくる。それが身体に触れると、そこから力……生命力を吸い取り始めた。
「うぅ……コイツ。」
間違いない。こいつは禁獣《禁災厄熊》だ。太古の北陸で大暴れし、『歩く災厄』とも呼ばれたことからこの名前が付いた。動けなくなるまで破壊の限りを尽くし、街一つを軽々と滅ぼすという……漢字を言変えて『さいやくキング』と呼ぶやつもいたが、そんなポップでキャッチ―なものでは決して無い。
決して、無い!
「須佐之男命直伝ッ!漸烈無尽ッ!!」
再び剣に力を入れ、今度はそれで黒い糸を切り刻んだ。そのまま間髪入れずに来た手にも、斬撃を浴びせる。手を切り刻み、そのまま強行突破した俺は、敵の顔を目で睨みつける。今の俺の目標は彼の脳だ。そこにうまく力を流し込み、操作する。
そのためにはこいつの動きを止めなくては。
「ンゥッ!」
歯をグッと食いしばり、足に力を入れる。地面をえぐるほど蹴り上げ、宙で体を旋回させる。今度は剣を右手だけで握り、その先を彼の頭に向ける。
「伍、漆、伍ッ!」
印を叫び、剣にその数字が刻々と刻まれる。
身体の推進量が剣で刺した方向に変わり、剣先からヤツの頭に向かって突進し始める。
「飛天追ッ!!」
ギュンッッ……ドガッ!
顔の近くに到達したときに、剣を先ほどのように持ち替え、切りつけないように叩きつけた。鈍い音と共に熊の顔が震え、重心をよろけさせた。
グゥァァァアアアッッ!!
怒りを露にし、叫び狂う。
すると、奴の足元から大量の墨色の糸が生えてきた。宙を舞っていた俺に向かって、それが一斉に襲い掛かる。スピード的には第二試験で戦った邪神の攻撃と同じ速さだ。
「クッ!」
空中で方向転換し、剣の機動力を重視し片手だけで持つ。
「ウウゥッァァァアアアア!!!」
シュルルル……ジャキッジャキッジャキンッ!
身体を旋回させながら、向かって来る糸を次々に切り伏せていく。
右、左、また右……そして後ろ。
目をグルグルと動かしながら、可能な限りの速度で思考回路を回転させる。
ジャキッ!ジャキジャキッ!ジャキンッ!!
切れども、切れども、黒い糸はどんどんと湧いて出る。その勢いだけで俺の身体はさらに上昇していった。
「ヤバい、天井がッ!」
すぐ背後まで、コンクリートが迫ってくる。これ以上押し返されたら金が震えなくなってしまうぞ!何とかならないのか⁉
その時脳裏に浮かんだのは、一つの技だった。
「零、玖、壱ッ!!」
糸を切りつけながら印を叫ぶ。術力を同時進行で循環させるのはかなりきつい。しかし、この技が成功できればプラスマイナス0にできる!
右腕を縦横無尽に振り回す、しっかりと的確に、周囲に居る奴らを切りつけていく。
「漆、さッ…ぐぅぅッ!!」
ヤバい、押しつぶされそうだ。零印を使うには膨大な術力が必要……しっかりと準備して使わなければエネルギーが暴発してしまう。だとしても、ここを突破できるのはこれぐらいしか……クソッ!頭を使え!!何のために今まで勉強してきたんだ⁉
「―――――ッ!!」
ダメだ、印を叫ぶ暇がない…このままじゃ、壁に押しつぶされてしまう。この糸に身体中を囲まれてしまったら、一瞬にしてミイラにされてしまうぞ!
剣は漆の印を刻まれたまま何も言わなくなっている。あと一つ…あと一言「参」と言えさえすれば、この状況を一気に突破できる。それなのに俺は……
「――――――ックソォォォオオ!!」
キキキキキキンッ!
腕を振って、振って……来る糸を切って、切って、切って………あたり一面に、切った黒い糸くずが大量に舞っている。ハウスダストのようにヒラヒラと……
ジャキンッ!
「⁉」
その宙に舞っていた糸は、突然牙を剥いた。
ズブシャァッ!!
8 希望
ポタ……ポタ………
「…………………う…………うぅ……。」
身体中から血が滴り、地面に赤い水たまりを作る。意識が薄れていく中、赤くなっていた視界の中で見えたのは、地面に転がった剣だった。
身体中から力が抜け、引力によって内臓がずるずると零れ落ちそうになる。
天井に張り付けられた体は、もはや屍と化していた。
「………………。」
喉にも黒い針が刺さり、言葉が出ない。出せるとしても、漏れた吐息程度だ……鼻先から落ちた血の雫が、下の剣に当たる。その一部分だけがじんわりと赤色に染まる。
先ほどまで暴れまわっていた熊は、今は体力を回復するために眠っている。攻撃するならこれほど素晴らしいタイミングは無い……奴の全身は隙だらけで、一撃入れただけで仕留められそうな程である。
瞼が重い……アドレナリンも出なくなり、痛みも感じなくなっていく。多少の自己再生が可能だとしても、すぐに突き刺さった針から吸われてしまう。
これから……どうする?
俺は、俺自身に問いかける。
どうするもこうするもない……ただ………。
いままでの努力が全て、泡のように吹き飛ばされる。そんなイメージが脳内によぎり、胸がざわつく……今までの全て………過去が走馬灯のように駆け巡る。
今振り返ると、本当に長かった……術力が無かった俺は、「頭脳だけで上り詰めてやる」と誓い、いろいろな文献や戦術を学んだ。心理学もある程度習得したし、化学もそれなりに学習してきた……しかし、最終予選でそれを粉々にされた。そこに現れたのが……あの剣だったんだ。
「これは奇跡だ」と、「運命が俺に王になれ」と、そう言っているような気がして、物語の主人公になったような気分になった。でも、待ち受けていたのは歯が立たないほどの試練だらけで……
「もう慣れた」と身体を奮い起こしていたのにも、ついに限界がきてしまった。
疲れた。
少しだけ………少しだけでいいから、俺を眠らせてくれ………。
重たくなっていく瞼が、ゆっくりと視界を覆っていく。瞼の裏に、今までの辛かった事、楽しかったこと、悲しかったこと……映画のフィルムのようにそこに投影される。
意識がどんどん浮かび上がり、スッとした浮遊感に襲われる。
これが、魂の帰化……
暗かった視界に、ゆっくりと光が射す。その光は優しく体を包み込み、そのまま上の方角に俺の魂を引っ張っていく。
(待てよ。)
誰かの声が聞こえる……グイッと足が引っ張られる感覚。思わず顔を下に向け、瞼を開く。そこには、血だらけになったもう一人の自分がいた。
(待てって……本当にこのまま逝くつもりか⁉)
何を言っているんだ?だって、もうすることは無いだろう?
それに、俺が向かう先には理想郷が……
(やめておけ……このまま死んで、天に還れると思っているのか⁉)
握っていたところが、知らぬ間に足首から太ももに変わっていた。じわじわと、俺が近づいてくる。そして俺を、下へと引きずりこもうとしてくる。
やめろ、やめてくれ!
俺は俺の顔が見られなくなり、上へと視線を変える。
するとそこには、光を放つ神様……ではなく、鬼が居た。般若の面をかぶった鬼が、にんまりとこちらを見つめ、俺を引っ張り上げていく。
なんだ……なんなんだ⁉
ゆっくりと、上の鬼が俺に偽物の白い腕を差し出してくる。「これに捕まって私の世界に来い」と俺を誘惑する。
(神と誓っておいて、それを裏切るんだ……そんな人間を天が認めるわけがない!)
裏切った?俺が、何時⁉
(裏切ったじゃないか!お前は剣を頼ろうとせず、印を使って切り抜けようとしたじゃないか‼)
それのどこが裏切りだというのだ⁉実際、あの状況で何もできなかっただろう‼
下にしがみつく自分に蹴りを入れる。
もはや楽になれるなら、天国だろうが地獄だろうがどっちだって良い。
(違う、そっちは地獄じゃない!奈落だぞ⁉)
何だっていいと、言っているじゃないか!
(馬鹿か君は!今までの努力を全て無駄にして、死んだミヤの事も裏切って……)
彼の、俺を握る腕がだんだんと強くなってくる。
(それで死ねるか!死んで許されるか⁉)
その言葉が、妙に胸を刺激する。痛い……苦しい………
それでも俺は手を、気づかぬうちに白い手の方へ伸ばしていた。あと数センチ……
(死ぬな!逝くな!!生きて償え、馬鹿野郎!!!)
グンッ
勢いよく下に引っ張られる。鬼の顔がどんどん遠くなっていく……全身に少しずつ痛みが戻り、全身に電流のような衝撃が走る。体中から血が合があふれ出し、俺を引き留めた俺と同じ姿になる。
ヒュゥゥォオオオオ……
どんどん下に吸い込まれて行き、視界が青色に代わっていく。
いや、沈んでいるのではなく、浮力を持って背中から浮いているのだ。グングンと視界が明るくなっていき、体と周りの摩擦から泡が発生する。
ゴプッゴポポッ
口と鼻から一気に酸素があふれ出てくる。胸がだんだんと苦しくなっていく……
さっき、俺を引き留めたアイツ……あれは俺の本心だった。
あきらめきれなかった俺の本音が、沈んでいく魂を引き戻したのだ……
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
勢いが次第に強くなり、魚雷のような速さになる。脳は冴えわたり、視界は透き通り、体中の痛みは少しずつ引いていった……
日光が背中に当たり、下に影を落とす。
その影には、何故か先ほどの鬼の姿が映った。そしてその鬼は、被っていた般若の面を外す。その面の中には……
「……………ぅぅ………ぅぅぉぉお……おおおお」
身体中が震え、刺さっていた針が抜けていく。咆哮を放ち、血管を浮き立たせる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
叫びながら俺はゆっくりと目を開く。視界は青く澄んでいて、目に瑠璃色の閃光が走る。
ピキピキ……バチチッ!
針が全て抜け、体が自由になった俺は、地面へと落下し大きくコンクリートを変形させながら着地する。ゆっくりと顔を上げると、青く光る剣が目の前に浮いていた。
パシッ!
ヴゥゥォォオオオオッッ!
剣を掴んだ瞬間に、体中の傷が消え、全身に瑠璃色のオーラを纏う。
「フゥゥゥゥ、ハァァァ……」
ゆっくりと呼吸を整え、剣を構える。
剣先は………
グルルルル……ギュゥゥォオオオオオッッ!!
あの完全回復熊野郎だ。
「さ…ぁ……行……くぞ!」
ヒュルルルルルッ
剣を振り回し、地面に滴り落ちていた俺の血をかき集め、それで赤い針を何本か生成する。回旋を止めた剣を、左腰に構え、居合の態勢に入る……
熊は荒れ狂ったかのように、俺の方に向かって来る……
「須佐之男命直伝……」
剣に意識を集中させ、少し赤くなった剣は発光を始める。
いつものように意識が研ぎ澄まされ、視界が一本の線に集中された。
ヒュゥゥゥゥウウルルルル……
作り出した赤い針を、自分を中心に円の軌道を描かせる。風切り音を立てながら、軌道運動が早くなり、やがて自分を護るバリアのようになる。
だんだん熊が近くなり、その影で俺の全身が覆われる。
俺は、握っていた剣を、左手からゆっくりと引き抜いた。
キィィィィイイイイイッ!
「血烈……次元漸ッ!」
引き抜かれた剣が俺の血で赤く光り、それが俺の後方にも弾ける。
ギュィィイイイイイイイイッ!!
威力が高くなるにつれて、暗かった周囲が明るく照らされていく。今気付いたのだが、部屋の至る所に監視カメラが仕掛けられていて、奴らはそこからこの戦闘を観戦していたのだろう。そのカメラも、俺の光でレンズが弾け飛んだ。
俺が立っている場所も、次第に俺の放つエネルギーに耐えられなくなり、赤、橙、青の順に変わっていき、一気に気化していく。
俺の身体は、高エネルギーのおかげでやや地面から浮いている。なのに、何故か足を踏ん張ることができているのだ。空間に立っているということなのだろうか?
イイイイイイイイイイイーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ
剣先が、振る軌道の頂点に達する。
周囲の気圧がどんどん下がり、気流が上昇していく。剣からは絶えず赤色の閃光がはしる。これほどまで全力で剣を振るっていても、体のどこにも支障が出てこないし、慣れてしまったことに恐怖を覚えてしまう。
「ぅぅぉぉおおおおお……」
腕が自然と力んでいき、威力がどんどん上がってくる……
「おおおおおおおおおおおおおおおお」
向かってきている熊も、負けじと巨大な手で押し返してくる。それでも、鋼鉄の様だった奴の皮膚も、力が増す度に肉の柔らかさに戻ってくる……
肉を割く感覚が、剣から伝わってくる……
ブチブチブチッ!!
筋肉が裂け、骨が砕け、皮膚と脂肪を気化させていく。
強烈な光の点滅と共に、強烈な爆破が発生し、巨大な破裂音が発生する。
ドウウウウゥゥゥン……
重低音が響き、衝撃が炸裂する。空気を震撼させ、鼓膜が震える……軽い脳震盪が起きるが、それでも意識をしっかりと保てている。
爆発によって、目の前にあった熊の手が血しぶきを上げることなくはじけ飛ぶ。
周囲に気化した血液が飛び、咽るようなにおいが充満する。
「クッ…ウォッ!」
ズザザァァーーーッッ
奴の腕を葬った俺は、そのまま動きを止めずに地面を蹴った。今度は両手で剣を握り、しっかりと目標を定め、剣に力を込めた。
「鏡水一閃!」
剣が光り、体が目標の奴の足首に引き寄せられる。
ヒュンッ……キキィィインッ!!
触れた場所が、カッターで紙を切り裂くように裂け、光の放つ衝撃によって切れた部分を中心にして炸裂させる。
ギャァォォオオオッッ!!
悲痛な咆哮を放ち、地面を揺らしながら倒れ伏す。
「コイツの身体蘇生は早い……今のうちに!」
ダッ!
足で三度地面を蹴り上げ、腕を懸命に伸ばす。身体に力を流し込み、コイツを内側から制御しなければならない……剣の術力を、俺を介して循環させれば……できないこともないはずだ。そのためにはひとまず触れられなければ……
グッと腕の皮膚を、伸ばせる限界の力で伸ばす。
「クッ!」
フサッとしたヤツの毛に触れる……しかし、どちらかと言えばイガイガしているような気がする。何とか頭皮に触れ、そこからコイツの中を探る。
ズンズンと入り込んでいき、コイツの中に深く沈んでいく……
深い…
深い……
闇の中へ………
(暗い…暗い……)
声が、聞こえる。
女性の声だろうか?少なくとも、人間の声ではある。
(冷たい……でも、心地いい………)
何故だろう……これほどどす黒い場所に閉じ込められているはずなのに、すごく嬉しいと思っているようだ。入り込んでいる俺の意識にも、墨色のどす黒い糸がゆっくりと絡みついていく。
俺の意識は剣を持っていないので、当たらないようにうまくかわしていく……
(あぁ……無業様………)
ム……ゴウ………?
何か引っかかる名前だ。しっかりと記憶から引き寄せることは出来ないが、それでもなんとなく引っかかる。その人物がこの禁獣を仕込んだ人間なのだろうか。
それにしてもおかしい。
何故、熊の核に人間の魂が入っているのだ?
人間には人間の魂、熊には熊の魂が入っているはずだ。それは、禁獣であろうが何であろうが、この世界に存在する生きとし生きる生物全てに当てはまる事象だ。それに反しているということは、禁術で何らかの媒体とされているのだろうか?
だとしたら、俺はどうすればいい?
ここにいる人間の魂を、体の外に引き剝がすのか……
それとも、この中に眠る熊の魂を起こし、それを服従させるのか………
両方を実行するには、今の俺では力不足かもしれない。
それに、もしかしたら、どちらか片方だけ行うことで両方解決するというとも………
クソッ!こんなイレギュラーな状況を、適切に判断できるわけがないだろう!
どの幻獣支配に関する参考文献を読んでも、こんな状況になることは記載されていないのだぞ⁉禁獣の資料なんて、ほとんど存在しなかったし……見つけた資料も古代文献だったため、古代文字を解読するのにかなり時間がかかってしまって、大切なところは把握できずじまいなのだ。
禁災厄熊の情報なんて、体の弱点と習性ぐらいしか……
(………………誰?)
何処からか聞こえていた声が、突然間近に迫る。
いきなり横耳で喋られたような驚きに、俺はその声の主から後ずさりする。
振り返っても、ただ暗い空間が広がっているだけで、声の主の姿はどこにも見えない。
姿を……現してくれないか?
聞くかはわからなかったが、それでも聞いてくれると信じ、俺の意志で問いかけた。
ズズズズ……
目の前のどす黒いものが溶けてずり落ち始める……壁にかかったペンキのようにゆっくりドロドロと下に落ちていく。
その中から、絹のような肌を露わにした少女がいた。
年齢は恐らく中学生程度で、髪の毛は日本人特有の黒ではなく、透き通るような真っ白な髪だった……閑静な顔立ちをしており、そこからは表情を読み取りにくかった。
やがて、隠れるように纏っていた墨色の何かは、彼女の秘部だけを隠した状態になった。
(あなた………無業様が言っていた方?)
わざとらしく首を傾げ、俺に質問してくる。
目のやり場に困っていた俺は、彼女の顔をまっすぐに見つめ、こう返した。
ムゴウと言う人物とは面識が無いし、本来ならば君に用はない…と。
(では、間違いなくあなたなのですね。凄野……様?)
再び首を傾ける。
それでも彼女の表情は、変わらず冷たさを保っている……これを見ると、まだ御業智の方が感情を露わにしているような気がする程だ。
(それでは……あなたを、殺させていただきます。)
それ、敬語使う必要あるのか?
(私は、こう作られておりますので。)
まるで、自分は人為的に生成された者であるというような言い方だ。
人造人間とでも言うのだろうか?
(それは、ご想像にお任せします。)
ペコリと、丁寧にお辞儀を下げる。なんなんだ、こいつは……
(私は弐業……)
俺の意志を聞いてか、頭を下げたまま返答する。
そして、今度は顔を上げながらこう続けてきた……
(あなたが、最終予選で塵にした……参業の姉です。)
彼女の冷徹な無表情が不気味に映る。
血の気が一気に引いていく感覚と、体が金縛りにあったように動かなくなる感覚が、ほぼ同時に襲ってきた。まるでメデューサに睨まれたような……まぁ、彼女は妹ではなく姉なのだが。
彼女は足を動かさずに、浮きながら俺のところまで近づいてくる……
そっと俺の顎に触れる手は、氷のように冷たくなっていて、高級なシルクのように柔らかかった。触れられただけで、心地よさが意識を刺激する。
思念だけのはずなのに、しっかりと感じる彼女の肌感は背筋をゾッとさせる……
快楽と言うよりは……恐怖だ。
(私があなたの思念に直接触れる……それがどういうことかわかりますよね?)
彼女の腕が腹部を伝い、胸部に触れる。
ズムッ
俺の表皮から細い指が沈んでいき、その中にあるはずの無い心臓を掴む。
掴まれた感覚なんて知らないはずなのに、明確にそうであると脳が理解している……
グギュゥ…
締め付けられる感覚が脳に伝わり、この意識空間の外にあるはずの身体にも影響が出ているような気がする。苦しい…
ズズズッ…
身体の下から、何かがゆっくりと這いよって来る。
下を見るまでもない。先ほどから周囲を囲っていた黒い糸に決まっている……俺が死にかけた時の間隔に似ている。
(死ぬ準備はよろしいでしょうか?)
完全に圧迫されない程度の強さを保っていた手に、一気に力が加わる……
心臓から一気に血が噴き出る感覚、逆流する感覚が身体中を駆け巡り、細胞が徐々に死滅していく感覚が襲う。
しかしそれは、あくまで思念の情報としてである……
脳の五感と言うのは、全て感覚器官が情報として脳に送られことで『感じる』のだが…いまこれを受けているのは、あくまで俺の脳に情報を送っている思念体……
要するに、
(何を先ほど考えておられるのですか?)
わざわざ言う必要もないであろう。
俺は、彼女の意図する通りの状態であれば動かないはずの右腕で、彼女の首を鷲づかみにする。急な反撃に驚いた彼女は、反射的に俺の心臓を握っていた手を離す。
グググ……
(な……ぜ………動……………)
言うまでもないと、言ったはずだ。
それでも、説明が必要と言うのなら解説してやろう……そもそも相手の意識の中に入る時、何を使って入り込んでくる?それはもちろん術力だ。それに自分の思念を乗せ、思念体にすることで、より相手の意識内での術力操作をしやすくする。
さて…術力操作、思念から脳に送信される情報……
(―――――ッ⁉)
まだまだ勉強が足りないな……お嬢さん。
(………殺しますか?)
先ほどから全く表情を変えていないが、コイツは本当に生きているのだろうか?
まぁ、そちらの方が、都合がいいかもしれないが……
(………何故、迷うのですか?)
こちらの方こそ、なぜ君が疑問に思うのかわからない…理解できないというわけでは無いのだが、それでもおれの解釈できるものではないように感じる。
彼女を不思議な人だと、心の底から思ってしまう。
俺の首を掴む右腕からは、彼女の冷たい肌を感じる……正確には、感じ取るように情報を操作している。
全く生物を触っている感覚がない……さながら、冷たい機械のようだ。
(まるで私がもう死んでいるように見えるから、これを殺す行為であると捉えることができない……そう感じているからではないのでしょうか?)
確かにそれも、間違いなく一つの要素である。
死んでいる者と生きている者の区別は、俺が決めることではない……それはその本人が決めることだ。「我思う、故に我あり」と言うように、この世界の情報を取得して判断し、世界を作り上げるのはそれを経験する本人以外存在しない。本当は存在する人間が、その情報を持っていない自分には「居ない」と決めてしまうように。生きるも死ぬも、決定権は自分にあるはずだ。君が「俺が居る」という情報を消せば、俺はすぐに君の世界から消えるだろうしね……
(何を言っているのか、いまいち理解できません……)
要するに……死にたいなら「殺せ」と言えば良いし、生きたければ「やめろ」と言えば良い。彼女の思考回路からは、その決定権が欠如しているように見えるが、今付け加えてしまっても問題ないであろう。
(そうですか……であれば、)
顔を俺の目線に合うように、顔を少しだけ上にあげる。
(殺してください。)
その言葉からは、何も感情を感じられなかった……
(私はあなたを殺せませんでした。おそらく殺せないままこの戦いは終わるでしょう……しかし、それではあの方を裏切ることになってしまいます。)
あの方……ムゴウと呼んでいた者のことであろう。
(その事実ができた上で生き続けるくらいであれば……死にます。)
忠誠心…と言うには、あまりにも行き過ぎているような気がする。洗脳に近いような思考をしているが、彼女の意志と言うのは無いのだろうか?
先ほどより首を強く締める。
ググギ……
冷たく、生々しい感覚。気道はキリキリと音を立てながら、徐々に狭くなっていく。
恐らくこんなことでは死なない。もっと感覚の中心を叩かなければ意味がないだろう。
(どうしたのですか?何故、手が止まったのです?)
表情を変えずに問いかけてくる。
人を殺すのは、この世の中では別にためらうことではない。
「敵であれば、殺すのは自然…」というのが、この社会の常識なのだから……。
それでも俺は……彼女を殺せない。
(殺せない?先ほどまでと言っていることが異なっていますよ?)
これはよく意見がブレる…それは、指摘されなくてもわかっていることだ。
情緒はよく不安定になるし、言っていることを貫けない……
いや、それが俺の欠点であることなど、今の状況に関係ないであろう。君こそ話を変えるのは良くないぞ?
(一人で何を言っているのですか?)
グッ
再び胸を締め付ける感覚。
彼女の降ろしていた手が、再び俺の心臓を掴む。
彼女の全く動く気配の無かった口角が、わずかに上がる。
(本当に…あなた、隙しかありませんね。)
グギュゥ……
細々とした小さなあの身体で、いったいどこからこの力を出しているのだ?
今度は、下からじわじわではなく背中から俺を一気に包み込むように黒いものが包み込む。彼女のにやけた顔を見たのを最後に、視界が真っ暗になっていく。
身体中から何かがあふれ出てくる感覚……邪神と戦った時の記憶が、自動的にフラッシュバックし始めた。感覚的には、あの時、俺が理性を失っていった感覚と似ている。
今度は彼女の腕を掴んでいた俺の手が、離されることになる。
(さぁ、私に全てを……)
よこせ……と?
俺は、離した右手を握り、力を込めた。
甚だしい……先ほどから、君は何か勘違いをしているぞ?
(勘違い?あなたが言えることなのですか?)
いや、君は最初から……俺を見た時から、何か勘違いをしている。
(何が、言いたいのですか?)
俺は、一度も「凄野尊本人である」とは、言っていないぞ?
(………………え?)
俺が何者であると、心得ているのか?
おとなしくしているのが限界に達した俺は、一気に力を解放する。周りの闇を一気に光で包み込み、一度まっさらになる。そして、瞬間的に俺の目を中心とした衝撃波が走り、辺りを一斉に瑠璃色の世界へと変貌させる。上も下も、何処を見ても一面が俺の色に染め上げられる。それを目の当たりにした彼女は、鉄のような顔を少しぐらつかせた。
俺の偽物の心臓を掴んでいた手を握り、ゆっくりと身体から離す。
「俺は、王だぞ?」
意志や思念などではなく、明確に口を動かして喋る。
少しだけ口角が上がった。
「悪いね……お嬢さん。」
あちらの方は、彼に任せればいいであろう。
俺は、突如景色が一変した禁獣の意識内を漂っている……歩くための地面は無いため、掌で空間を掻き分けるように進んでいく。
彼こそが、おれの言動を不確定にし、情緒を不安定にしている張本人だ。
彼の存在は、薄々気づいていた程度の認知で、直接対面したことは無い。先ほど俺が死にかけていた時に現れた〝俺の本音〟とは、全くの別モノだ。
彼女を見た時から、否が応でも気づかれるのは悟っていた。なので、気づかれる前に俺は彼を置いてきたのだ。そんなことをいつできるようになったのかと?それは……
ウウゥゥ……
遠くから、何か地鳴りのような音が聞こえるようになってきた……どうやら、俺が目的にしていたものであろう。
俺は、音がする方に耳を傾けながら進んでいった。
そう言えば、先ほど何かを考えている途中だったが……まぁ、俺が忘れるくらいならたいしたことではないであろう。そんなことを考えながら進んでいたら、目的の物が視界に入ってきた。
ウウウウウ……
ぐっすりと熟睡中みたいだが、ここからでは何も確認できない。なぜなら……
その原因であるそれに触れる。それはうねうねと蠢きながら、対象の核をぴったりと密閉するように包み込んでいた。まるで繭のように……
その正体は触れてすぐにわかった。この熊から何度も溢れ出ており、変幻自在だったあの墨色の糸であろう。これには少し見覚えがあった……俺が御業智との戦いのときに、天叢雲剣で限界を超えた斬撃を放った時、裂けた空間からあふれ出てきたモノと似ている。
対象を包むそれを右手で掴み、顔の近くまで持っていきじっくりと観察する。
質感は、糸と言うよりは何かゼリー状のものである。弾力はさほどなく、輪ゴムよりは少し柔らかく、イトミミズよりはしっかりしている。匂いは無く、集合体から離した瞬間に動きを止めている。わざわざ術力を操作して五感を敏感にさせることは無かっただろうか……
まぁ、いいか。
俺の仮説が正しければ、こんなものは研究しない方がいいだろうし……
ズムッ
俺は持っていたものを掴んだまま、蠢いているソレに腕を突っ込んだ。
一瞬のヒヤッとした感覚の後に、禁忌に触れたかのような悪寒が背筋を伝う……そして、「背後に何か恐ろしいものが居るのではないか?」と言う恐怖感が、俺へさらなる追い打ちをかける。
しかし、まぁ……子供だましだな。
俺は突っ込んだ右腕を左手で掴み、意識下で力をグッと入れた。
剣の術力を循環させ、俺の思念に青色のオーラを纏わせる。
ブブブブッッ
対象を囲むソレは、動きをさらに荒げ、蠢きを加速させる。
その動きは周囲に振動を発生させ、空間をグラグラと揺らしている。その振動は、外に居る俺の身体にも若干伝わっている………つまり、この意識内は外にもある程度干渉しているということだ。傷から出てきたアレは、ここに溢れていたものが出て言ったのだろうか?そうだとしたら、ここは完全に次元が歪んでしまっている。
俺は、より一層力を籠める。
意識内をより高速度、高純度で循環させることで徐々に力が上がっていく。感覚がつかめれば、そこからは簡単であった。
ギュゥィィイイッッ!
歯車が高速で回転しているときのような音が鳴り、周囲に火花をバチバチと散らす。実際に出ているわけでは無いと思うが、俺にはそう見える。
少しずつ……本当に少しずつだが、周りを囲む墨色の物は俺が流した術力によって死滅していった。周囲に巨大な渦が巻き、囂々(ごうごう)と周囲を荒ぶらせる。
もっとも、俺に影響は無いのだが……
ドックンッ!
来た!
俺は、なった鼓動の音を聴き逃さなかった。そのタイミングを待ち望んでいた俺は、右手首を掴んでいた左手もその中に突っ込み、一気に力を流し込む。
ドクンッドクンッ
鼓動が少しずつ安定してくる。
それに反し、鼓動を放つ核を中心とした周囲は、そこから放たれる高エネルギーによって光に包まれていた。囲っていた闇は一気に消滅し、欠片も残らなかった。
ドッドッドッ
鼓動が早くなるにつれ、周囲のエネルギーがどんどん上がっていく。
俺の思念体を通した視界がグラグラと揺れ始め、勢いに外へ押し飛ばされそうになる。
クッ……これがコイツ本来の力なのだろう。
俺は鼓動が安定したところを見計らい、両手に力を入れるのを止めてその場から離した。
サァァァアア……
辺り一面が瑠璃色だったこの空間が、本来あるべき姿へと一気に戻っていく……。
その景色に、俺は息を呑んだ。
禁獣の心の中なので、もっと物騒な感じだと思っていたが……これは、
そよそよと吹く風の感触が顔を包み、服の間をすり抜けていく。地面にある芝生が俺の足をくすぐり、芝がそよ風で揺れながら心地よい音を奏でている。見上げた所には雲一つない澄んだ青空が広がっていて、下も見える限り一面が心地よい草原になっていた。目線の先には驚くほどまっすぐな水平線が見える……地球のように球体になっていないからであろう。
美しい。
ただただ澄んでいるその景色は、俺の語彙力を無残に押しつぶした。
「ありがとう。」
背後から何者かの声が聞こえる。
眩しい日の光のようなものに目を細めながら、声が聞こえる方へと振り返った。そこには体育座りをして、下を俯いている一人の少女が居た。
光反射してきれいに映る長めの茶髪と、頭の上にくっついている耳(?)が印象的で、まるでファンタジーに出てくる『獣人』や『亜人』に似た容姿をしている。尻尾が生えているかまでは確認できないが、先ほどの白痴女とは違い、しっかりと服を着ている。
「私を起こしたの……あなた?」
ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめた。彼女の瞳は人間とは少し違い、瞳孔が縦に入っている。ギラリと光るように睨みつけてくる……獲物を補足する目とは少し違った印象を持つが、それでも俺の動向を伺っていることに変わりない。
俺の目的は、彼女の覚醒と従属契約……
駄目だ。人型に見えるからか、彼女を従属できる気がしない。
そもそも、彼女を彼女と呼んでいる時点で駄目だ。
だから……俺は、少し迷ってから彼女に手を伸ばした。
「俺と……」
明確に口を動かしながら、言葉を喋る。
「契約……する?」
「え⁉」
まさか、彼女から話を持ち上げるとは思わなかった。
「私……大昔に大暴れして、それからは黄泉に封印されていたの。」
彼女は俺と目線を外し、自分について語り始めた。俺はそれを立ったまま聞く……
「でも……私、元々は普通の人間で、普通に暮らしていただけなの……」
「じゃぁ、どうして?」
こちらからそれを聞くのは失礼であると分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。聞いたことも見たこともない事象に、俺の好奇心が踊り始めた。
「人柱……って、知ってる?」
「それはもちろん。」
神や禍に対して、人間を供物にすることであろう。
「私は、飢饉の供物として人柱にされたのよ……普通に暮らしていたら、突然村の偉い人がやって来て『俺たちのために死ね』って言われたの。」
おかしな奴等だ……人間が一人犠牲になったところで、自然災害が収まるわけがないというのに。災害は、別に人の命を奪うことを目的にしているわけでは無いのだから。
「でも……皮肉なことに、死んだのは私を供物にしようとした人たちだったのよ。もちろん、私の家族を含め皆殺し……それが私の罪。」
彼女は右手を眺めながら、表情に影を落とす。人差し指に親指の腹をこすりながら、全ての指を折り曲げている。
「生きようと願ってしまった、私の罪……。」
今度は手首に血管を浮き立たせながら、強く拳を握った。
再び顔が見えない角度になる。それでも、今彼女がどんな表情をしているかわかる。
俺は、寄り添うようにして彼女の横に座った。それを見た彼女は、驚いた顔で俺に顔を向けた。俺もその顔に目線を合わせる。
「要するに、起きたくなかったんだな。」
その言葉を聞いてか、彼女はすぐに目を逸らした。
「自分が起きることで、再び『自分が何人もの知人を殺した現実』を突き付けられてしまうから、それを気にせずにいられる闇の中でじっとしていたかった……それで黄泉を受け入れたのであろう?」
「………。」
「『これ以上誰も殺したくない』とかいう感情は二の次で、『現実逃避』が君を闇に落とさせる一番の要因であろう?」
「…………。」
「逃げたとしても、君は禁獣なのだから逃げ切れるはずがない。寿命が無いわけだし、並の者では君を殺すなんてできないだろう?」
「………………じゃぁ、何?」
「何とは?」
「じゃぁ、私はどうすればいいの?」
「簡単だ。『奴らは死んで当然』と唾を吐き、のうのうと生きてゆけばいい。」
「それが出来たら……」
「なに、これからはできるさ。」
俺は再び右腕を差し出す。今度は、しっかりと彼女の目線の先に合うように。
「どういう……こと?」
「まぁ、騙されたと思って。」
「騙されるのは嫌なんだけど?」
「そういうことじゃ……」
俺の手を見つめるだけで、全く動こうとしない。
ピキンッ
頭に何かが走る。思わず左腕を頭に当てたが、その痛みはほんの一瞬だけだった。
向こうで何かあったのだろうか?
多分、おそらく……時間がない!
「君は……普通に生きたくないのか⁉」
しびれを切らした俺は、彼女に少し荒げた声で問いかける。
「俺の知識が正しければ、君は元に戻れる!」
まぁ、「完全に」とは断言できないが……それでも、今の社会でなら人間として日常生活を送れるであろう。
「本当?」
鋭い眼差しで、俺の顔と右手を交互に睨みつける。
「オレ、ウソ、イワナイ。」
無論、人生を通してというわけでは……あぁ!いちいち説明なんてめんどくさい!
「いいから早く。俺の手を取るのか、取らないのか⁉」
「なんでそんなに急かすの?」
彼女は疑問に満ちた顔で、首を横に傾けた。
「時間が無いって、なんで?あなたの術力はそんなにもあるのに……」
「今は別の問題が……うッ⁉」
ズキズキッと頭を刺すような感覚が襲う。奴は……いったい何をしたんだ⁉
気付くと足がズリズリと吸い寄せられていた。外に居る、俺の本体の方へ……
一歩、また一歩と後退りする俺を見た彼女は、少し躊躇いながらも俺の手を掴んで引っ張られないようにした。
「大丈夫?」
「手……握ったね?」
「え?」
俺は逆に、握られた手をこちらに引き込んだ。そして、左手で彼女の額に手を当てる。
「少しズルいかもしれないが、これで交渉成立だな。」
「ひぇぁ⁉」
「契約転鎖:青!」
ジャラララ……ガシッ
俺から放たれた青い鎖が、彼女を包みガッチリと固定した。
俺は両手を離し、出した鎖をグッと引っ張り、彼女の鎖の位置を心臓部に固定する。
ロックがかかった音と共に、意識空間がぐらつく。その中で彼女は、胸を押さえながら苦しそうに悶えていた。その痛みが、鎖を通して俺にも伝わってくる…
「ガッ!胸が……」
「暴れない方がいい。その痛みは靴擦れと同じだ、時間がたてば形に添った巻き付き方になって、痛く感じなくなる。それに、俺が取り付けた契約は、対象に対する自由度が一番高いものだし……きっと大丈夫だ。」
ズキズキと痛む胸を押さえながら、彼女の気持ちをなだめる。
彼女の覚醒、そして契約が完了した……あとは戻るだけだ。
「ズルいぞ!」
瞳を濡らしながら、俺に怒声を向ける。
「私の良心を利用して、私の意志をすべて無視して!!」
「じゃぁ、何で俺を気遣ったんだ?」
「え?」
「契約の『青』は、お互いの意志が了承していないと繋ぐことは出来ない…」
俺は胸部から出ている青色の鎖を手に取り、彼女に見せつける。
「俺たちは、両想いらしいぞ?」
「―――ッ⁉」
彼女はそれを聞き、顔をリンゴのように真っ赤に染め上げた。
この場所に、もう用は無い。俺は先ほどから感じていた引力に身を預け、宙を浮きながら後退していく。
「続きは面と向かって。それでは……」
彼女に挨拶(捨て台詞)を投げた俺は、俺の身体がある方向に吸寄せられていく。
無限に広がる草原を、ゆっくり眺めながら……
フッ
何かを通り抜けた時、何者かと視線が合う。
「「初めまして」」
カチッ
スイッチが切り替わるような音…視界が一度点滅し、気づくと俺の手には白い手がくっついていた。
(貴方を逃がしません!ここで駄目なら、外で!)
彼女が無表情ながらも気迫を感じる顔で、こちらを睨みつける。
なるほど。奴はこういう形で丸め込んだわけか……面倒な手土産を抱えてしまったな。
俺は彼女を振り落とすことなく、そのまま外に向かう。
引力は近づくになって強くなり、目を細めたくなるほど空間摩擦を感じる。目の前からだんだんと景色が消え、白い光の世界に包み込まれていく。
光の空間に突入すると、次第に体の意識を感じ取り始め、少しずつ感覚意識がぐらついてくる。俺は、意識を戻すために目を閉じた。
俺の意識をグッと集中させ、指先から順々に感覚を取り戻していく。一気に戻そうとして失敗し、体が一生動かなくなる例もあるので、ここは慎重に……ぶっつけ本番で命に係わるだなんて、本当に「クソくらえ」と吐き捨てたい程だ。
シュルルル……
途中からは服を着るような感覚で、すんなりと意識が身体に馴染んでいく。
ドクンッ!
「……ハッ!」
自分の大きく跳ねあがる鼓動の音で、元の現実に戻ってくる。
「ハァハァ……」
まるで中に潜っている間は心臓が止まっていたかのように呼吸が苦しく、胸をグッと締め付けられる。先ほど彼女との感覚を共有していた時とは比べ物にならないほどの苦痛と、抑えることができない動悸。思わず胸に手を当て、着ている服をギュッと掴む。
「………あ、ヤバッ!」
今ので完全に彼女の存在を忘れていた。俺は慌てて、右手をもう一度禁獣の肌に当てる。
「間に合え!」
俺は、右手の中心点に力を集束させるイメージで力を籠める。周囲に閃光が走り、禁獣の周りを駆け巡る。覚醒させただけで終わるわけもなく、最後の仕上げとして外から術力を流し込み、中の二人を明確に分離させなければならない。そうしなければ、彼女たちはお互いがお互いの存在を打ち消し、消滅してしまう。
「それだけは避けなければ!」
右手が触れている部分を中心に、対象の身体に真二つの切込みができ、そこから青白い光が漏れる。
「クッ、だいぶ剣の術力が……」
左手に持ち手を変えた剣から、感じる力が少しずつ微弱になっていく。無くなっても自動回復されるとは言え、一度に使える量には限りがある。
「でも……何とか足りるはずだ!」
俺は思い切り力を籠め、目を瑠璃色に光らせた。
辺りを震わせ、コンクリートむき出しのこの部屋の壁は、ボロボロと崩壊を始めていた。
対象の巨体は光で完全に包まれ、ゆっくりと分離を始めた。
これで……本選三大選考は、
「終わりだッ!!」
最後の力を振り絞り、両手で持った二つの意識を引きはがした。
光があたりを包みこむ……
「うぅ……」
「………ん?」
「ハァハァ……」
辺りをきょろきょろと見回しながら状況を確認する彼女らを尻目に、俺は完全に力を使い切ってしまい、その場に寝そべっていた。
「もしかして……私、人の姿に?」
「肉体が戻っています……。」
「まぁ……恙無く………」
二人とも現状に驚いているようで、禁獣の子は「自分の身体が人間の時の姿に戻っている(一部不完全)」ことに、弐業と呼ばれる子は「対象の禁獣の身体を奪ってでも俺を殺そうと企んでいるのに、まさか自分の身体が戻って来るなんて」と言うことについて、それぞれが驚愕しているらしい。
どうやら仕組み的には、弐業と呼ばれる彼女の身体を受肉として使い禁獣を召喚。そして、その制御権を彼女にするために禁獣自体の意識を封印していた……と言うところであろうか。
ムゴウ……なんと恐ろしい奴だ。
俺ともう一人の俺の記憶は、体として共有している間はしっかりと記憶も共有しているので、今は彼があの時どんなことをして、彼女がいったいどんなことを喋っていたのか覚えている……アイツ、マジで………。
「殺します。」
「え、なんで⁉」
弐業がシュバッと立ち上がり、俺に向かって飛んでくる。さすがの禁獣ちゃんも、この状況にはツッコマざるをえないみたいだ。
両手で玖、零、壱、壱の印を刻み『虚天光』を放つ準備をしている。俺はそれを見ても体を動かさず、その場に伏したままじっとしていた。
「先ほどまでの威勢は何処に?今のあなたほど惨めな人はいませんね……」
冷たい顔で、俺を侮辱し煽るような台詞を投げてくる。
「そうか……?」
「えぇ。」
「それでは死んでください……」
両腕で放つための筒を作り、宙で体に力を入れている……無駄なのに。
「虚天光」
彼女が術を唱え、両手から光が漏れる。しかし次の瞬間……
ガクッ
「――ッ⁉」
彼女の身体に何者かの重さが伸し掛かったかのようになり、一気にその場の地面へ倒れこんでしまった。だから無駄だと言ったのに。
今彼女の体の中には、今日一日活動できる分だけの最低量の術力しか入っていなかった。しかし、彼女はそれを上回る術力を使用しなければならない技を放とうとした。つまり、車で言うエンスト状態になってしまったわけだ。自分のバイタルを把握して行動するのは常識であろうに……
俺はその場で体を起こし、彼女に肩を貸した。
「もう今日は動けないんだ。諦めろ……」
「………はい。」
「え?なにこれ、どういう状況?」
俺と彼女の関係値に戸惑う禁獣ちゃんは、アワアワしておりその場から動けずにいた。
「ほら、君も早く起きて。外に出るぞ。」
俺が一言問いかけると、彼女の身体が青いオーラを纏い、引っ張られるように体が起き上がった。これが従属と言うものなのだろう。
無論、『青』なので、彼女の意志も反映される。
「おぉ、すごい!勝手に立てた!」
「なんだか君、さっき会った時とテンションが……」
「ありがとう!」
「え……あ、あぁ………」
急に感謝の言葉をかけられると、俺としてもかなり困惑してしまって困る。
いや、まぁ……とりあえずこれで、
「第三試験突破、おめでとうございます!」
「「⁉」」
突如、入り口がある背後から聞こえた声に、俺と禁獣っちは驚き振り返る。するとそこには、黒いタキシードをピシッと着込んだ仮面の男が立って居た。
「いやー、まさかここまできれいに解決されてしまうとは、正直カメラ越しに見ていて驚きましたよぉ……」
俺は其の言葉を聞き、慌てて周りの壁に取り付けてあった監視カメラを見る。しかし、そこにあった物はすべてレンズが破壊され、とても仕えたような状態ではなかった。
「あ、いえいえ。そちらのカメラではなく……」
コツコツと靴底の音を鳴らしながら、俺の方へ近づいてくる。
「コチラですよ。」
彼が指をさした先は、俺の衣服であった。よく見てみると、来ていたシャツの第三ボタンにカメラが取り付けられていた。全くもって気づかなかった。
「貴方……もしや〝ムゴウ〟ですか?」
その質問を聞いた彼は、「あ、いえいえ」と笑って払いのける。
「申し遅れました……」
グイッと俺の顔に仮面を近づける。あと数ミリで仮面をつけていなかったら、危うく禁断の世界に入ってしまいそうな距離だ。
「私は、〝壱業〟と申します。」
壱業……最初に戦ったのが参業で、次に対峙したのは弐業……そして壱業。なるほど、カウントダウンと言うわけか。だとすると、〝ムゴウ〟は『無業』と書くのかもしれないな。
ゼロに近づくためには、次はこの〝壱業〟を倒さなければならないという事か?
「いえいえ、そんなことはありません。」
「なッ⁉」
「おや?どうしました?」
こいつ……今、明らかに俺の心を読んだ。
「えぇ、読めますよ。」
言った傍からである。
「私は読心術が得意でしてね、相手の言いたいこと、考えていることが分かってしまうんですよ。なかなか不便な点はありますけどね。」
勝てない。恐らく、確実に。
「まぁ、そんなことはいいのですよ。」
俺から顔を離し、クルッと身体をターンさせ、背を向ける。
「これであなたには、『本選 最終選考戦』への挑戦権を獲ました。」
右手の人差し指を上に挙げながら、そう彼が告げると、続けてこう問いかけた。
「覚悟は………よろしいですね?」
一気に声のトーンが下がる。顔の仮面が大きく翳り、黒が映える。
俺は右腕を弐業に貸していたので、代わりに左手で拳を握った。少し違和感を覚えながらも、しっかりと胸にある意思を濃縮し固める。
目をそっと閉じ……考えに決着をつけ、瞼を上げる。
「無論だ!」
俺の意志を反映させるかのように、辺りが一瞬だけ瑠璃色に染め上げられる。
「おぉ!その言葉、待っていましたよ!」
パチンッと彼が指をはじくと、一瞬で辺りが元に戻り、崩れかけていた壁も綺麗になった。無論監視カメラも新品のようになり、俺が来た時の光景よりも綺麗になっていた。
彼はいったい何を?
「それでは、この扉をおくぐりください。その先からは……」
ゆっくりと右手で扉を指す。そして、こう続けた。
「覇道でございます。」
「何を、言ってるんだ?」
「?」
俺は彼のその言葉を聞き、少し口角を上げた。
「ここからが、一番楽しいんじゃないか?」
そう言い捨てた俺は、弐業を肩で担ぎ、禁獣を連れながらその扉をくぐる。
そこにある階段の先からは、光を全く感じない。
それでも、一歩…また一歩と、歩みを進めていく。
その先にある何かを待ち遠しく思いながら。
進む先に待ち受ける幾つもの障害
淘汰される弱者
それでも
たとえ〝弱者〟だとしても
強い心持てば〝強者〟になりうる
この時の彼はそれを完全に理解したのだ
ここから先の物語は語りが居ない
それでも時は進んでいく
向かう先が希望であると信じ
時計の針を動かす
―第壱部 完―