違和感
僕は綴さんと別れて五分程を自転車で走りぬけ、ようやく自宅にたどり着いた。玄関の明かりを見て張り詰めていた気が少し弛む。とはいえ、まだ完全には安心できない。まだ背筋の悪寒が治らない。
自転車を玄関前に停め、自転車の施錠もせずに家の中に入る。
……まだ悪寒が止まらない。
急いで靴を脱ぎ捨て暗い廊下を早足で移動し、居間のドアを開けた。
「おぉ、帰ったな。母さん! 語が帰ったよ、飯にしよう」
居間の隅に置いてある一人用のソファーに腰かけた父さんがテレビのチャンネルを弄りながらそう言った。
「はいはーい。丁度出来たから二人とも取りに来なさい」
母さんが台所から答えた。二人のやり取りを聞いていたら安心してきた。暖房の効いた部屋の温度が心地よい。僕は肺に貯まっていた冷たい空気を吐き出し、暖かい空気をゆっくり吸った。どうやら背中の悪寒も治まったようだ。
「どうした語? 『ただいま』くらいいつも言ってただろ。……どうかしたのか?」
僕が黙っていたからだろう、父さんが僕の顔を見つめている。普段の温和なタレ目が消え失せ、少し鋭い雰囲気に変わった。
「心配無用、いつも通りだから。外が寒かったから少しホッとしただけ」
僕は父さんにそう答えてから手荷物を居間の隅に置いた。それを見て安心したのか父さんはソファーから立ち上がって台所へご飯を取りに行く。僕も続いて台所に入って行った。
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「よし、二人とも父さんに注目」
晩御飯を食べ終えて人心地ついたところで父さんは手をパチンと叩きながら両手を挙げてアピールした。このお父さんの事だ、晩ご飯の後に食べるデザートでも誇らしげに取り出すのだろう。僕は目線だけを父さんに向けた。そこで気がついたが、母さんはとてもご機嫌のようだ。ニコニコと顔から光でも出そうなくらいの笑顔を浮かべている。
はて、今日は結婚記念日か何かだったかな?
父さんは偉く勿体ぶって自分から言おうとしない。僕から聞け、という事なのだろう。どうせ大した事じゃないだろうけど場の雰囲気くらいは読んでおこう。僕は顔をしかめつつ聞いた。
「はいはい、何があったの?」
「語、父さんの本が出たぞ」
「きゃー!お父さんおめでとう!」
母さんは手を力の限りに打っている。ここまで喜んでいるのは僕の高校入学試験の合否結果を聞いた時以来だろうか。いや、そんな事はどうでもいい。父さんは今なんて言った?
「……何? 『父さんの本が出た』って、写真集でも出したの?
「そんなわけないだろ……。ほら、この本知らないか?」
父さんは少しテンションを下げつつソファーの影から一冊の文庫本を取り出した。僕はその本を父さんから受け取りまじまじと見つめる
表紙は赤や青、そして緑の薄く淡い色が滲んだような色をしてあり、他は特に絵が書いてあったり背景が書いている訳でもない。ただ、水彩絵の具の薄い三色が混ざりあっているように配置されているだけであり、そこにタイトルが慎ましく書いてある。
『キミは苦難と祝福の中で産まれた』
僕が本をひっくり返し、裏返しと見ていたら父さんが口に笑みを浮かべながら話し始めた。
「今までずっと暖めていた作品だ。この作品だけはしっかりと時間を掛けて大切に書き上げたいと前から思っていたんだ。えらく遅くなったが、どうにか終わりまで書き上げたんだ。実はもう一週間程前から販売もされている。結構人気らしいぞ。」
「父さん、夜遅くまで毎日ずっと頑張ってたもんね。ようやく、努力が認められたのね……」
母さんは父さんの話しを聞いて感極まってしまったようだ。顔は穏やかに笑ってはいるが目には涙が見える。それを見た父さんも鼻を啜っている。
「母さんには出版が決定した時に話していたんだが、お前には結果が出た後に自信を持って話したかったからな。販売されてから言おうと思ったんだ。で、それが今日というわけだな」
父さんはそう言うと僕が持っていた本をスッと抜き取り、居間の本棚に置いた。てっきり僕にくれるのだと思っていたが、違うようだ。
怪訝な顔して父さんを見つめていたら、父さんがニヤリと笑いながら言った。
「ふふふ、悪いが読みたいならしっかり自分で買ってもらうぞ。それが作者と読者の絆であり、商売関係だからな」
まったく。父さんはこういう所があるから嫌なんだ。まぁ、別に買うまでもない。文庫本なら本屋に行けば立ち読み出来る。別に買ってもいいけど、父さんの悪戯っ毛のある笑みを見ていたら意地でもお金を落としてあげたくなくなった。
僕はため息を一つついてから居間と廊下の繋がるドアを開けた。開けたドアは手で抑えておき、僕は父さんを見ながらとりあえず言っておく。
「まぁ、面白いかどうかは知らないけどおめでとう先生。この一作で終わらない事を期待してますよ」
僕がそう言うと父さんは自慢気に微笑みつつ母さんの方へ歩いて行く。母さんはまだ嬉し泣きを現在進行形で続けているため、それのアフターケアだろう。それを見届けた僕は居間から出てドアを閉めた。
廊下を出て少し歩き、右にある僕の部屋に入る
部屋に入って直ぐに僕は部屋から入って直ぐ右に設置している勉強机に座った。勉強机の引き出しを開けて中から一冊の雑誌を僕は取り出した。『公募ガイド』という雑誌でこれには色んな公募の募集内容や期間等が掲載されている。僕は付箋を付けてあるページを開いた。
負けてられないなぁ。
僕の本好きは確実に父さんの影響を受けている。毎日沢山の本を読む傍らで小説の執筆を続ける父さんを見て幼い僕は本を読むようになり、中学生に成った時から小説を書くようになった。
あれから時間は掛かったが、ある程度小説を書き慣れた僕は人生で初めて公募に作品を出してみようと思ったのだ。
僕は小説の公募ページを開き期間を確認する。今年の四月末日までか。あまり時間はない。
本当は読みかけの『アンデルセン童話集』を読みたいけど、ちょっと今はそんな気分ではない。
早く完成させて時間を掛けて見直し、自分が自信を持って人に見せられる作品を書き上げよう。
その日僕は夜遅くまで小説の執筆に没頭し、気がついたら眠ってしまった。
その間にも、深夜の暗い闇の中に得たいの知れない何かが広がっていき、世界を覆い尽くしていく。誰にも知られず、けれども自然に滲んでいく。まるで布に染み込み深紅に染めていく血のように。
その時僕は明日起きる事件など知るよしもなかった。
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ピピピピ! ピピピピ!
甲高い電子音が部屋に響き渡る。僕は布団から手を出して目覚まし時計の息の根を止めるべくひっぱたいた。
重たい瞼を無理矢理こじ開ける。午前七時ジャスト。僕は布団から体を起こし、背伸びをゆっくりとした。朝起きて直ぐに跳ね起きたり、思いっきり背伸びをするのは体にすこぶる悪いらしいから少し気を使っている。
布団からモゾモゾと出つつ、タオルケットを首に巻いてマントのように体に纏わせてから部屋を出る。
居間のドアを開けて入るともう父さんも母さんもテーブルの椅子に腰かけて朝食を食べていた。
僕は努めて何事もなかったかのように朝の挨拶を二人にする。
「おはよう」
「……あぁ、おはよう」
「語、おはよう……」
二人とも元気が無いようだ。それもそうだろう。昨日は父さんが小説を出版していた事を打ち明けてくれたが、全く人気が出ず売れなかったのだから。
昨日は帰るなり、父さんがいつになく神妙な面持ちをしていたから何かあったのだろうとは思っていたけど、自信を持って世に送り出した作品がそんな扱いを受けたら流石に気が滅入るだろう。
毎日夜遅くまで小説を執筆していた父さんがまるで悪い病気にでもかかったかのように部屋に閉じ籠っていた原因がようやく分かった。
母さんもそんな父さんを見続けるのが苦しいのだろう。元気が無くなっている。
僕は意識していつも通りにテーブルにつき、テレビを付けてから朝食を食べ始める。テレビの音がすれば多少はこの沈黙も紛れるはずだ。CMが終わり、いつも見ている朝のニュースが始まった。
……しまった。このニュースはタイミングが悪すぎる。
僕は慌てて別のチャンネルにしようとリモコンに手を伸ばすが、父さんに制されてしまった。
「語、悪いが見せてくれ……」
「……うん、分かった」
そのニュースには小説家が出ていた。衛藤作蔵という小説家で、なんでも父さんの古い友人らしい。少し前まではテレビに映るような人ではなかったが、なんでも新しく執筆した小説が人気を博したらしい。
『いやぁ、先生が執筆された小説ですが、凄い人気ですねぇ』
アナウンサーがそう言いつつ件の小説を画面外から取り出した。
『この【キミは苦難と祝福の中で産まれた】という小説ですが、僕も早速読んでみたのですがとても感動しました。父親と母親の出産に関してのお話しなのですが出産した赤ん坊は生まれついて病気を患っており、生後間もなく何度も手術を繰り返す事になるんですね。そして、その赤ん坊を見守る周りの家族や親戚などのドラマが描かれていて読んでいて引き込まれる作品です!』
その小説は文庫本だった。表紙は赤や青、そして緑の薄く淡い色が滲んだような色をしてあり、他は特に絵が書いてあったり背景が書いている訳でもない。ただ、水彩絵の具の薄い三色が混ざりあっているように配置されているだけであり、そこにタイトルが慎ましく書いてある。
作者の衛藤作蔵さんは謙遜しつつも胸をはってインタビューに答えている。
『いやぁ、私もねこの作品には並々ならぬ努力を注いで来ましたからね。自信の一作ですよ』
顔には脂肪がたっぷりと付いていて笑うと肉が深い皺が走り、まるでブルドックのようだ。
『この作品、やはり先生のご経験された事をモデルに執筆されたのですか?』
『ん? あぁ、いや……。あ、そうですね。私の知り合いに聞いた話をモデルにして執筆したのですよ』
『いやぁ、そうでしたか。先生は以前まではホラー小説をメインにして活動されているとお聞きしましたが、今回はそういった経緯があってこの作品を執筆されたのですね』
……。何故なんだろう。酷くイライラする。胸に込み上げるこの気持ちはなんだろう。今まで感じた事のないような怒りが沸き上がってくる。
別に何も怒るべき要素なんて無いのに。
そう思いながらニュースを眺めていたら、突然テレビの電源が切れた。どうやら父さんがリモコンで消したらしい。
父さんの顔を見て僕は驚いた。
顔が耳まで真っ赤になって、眉は限界までつり上がり、普段穏やかな目付きは怒りに満ちている。
父さんは自分を落ち着かせようと必死なようだ。荒い息をなんとか落ち着かせようと深く呼吸をしている。だが、それでもどうにもならなかったようだ。テーブルの椅子から乱暴に立ち上がり、ソファーの前へ移ると倒れるように座り、顔を手で覆った。
その様子を母さんも心配そうに見つめている。
そのまま少しして、父さんが震える声で呟いた。
「……なんでだろうな。友人が成功して嫉妬はすれども怒る必要は無いはずなんだけどな。……何故なんだろうな。父さんはアイツが書いたような話を書きたかったはずなんだけどな。」
顔を覆っている両手の隙間から涙が流れている。何処にもぶつけられない感情の激流が溢れかえっている。
母さんもそんな父さんの姿を見るのが辛くて手を震わせながら俯いている。……きっと泣いているんだろう。
「語、もう時間になるから学校に行く準備をしなさい」
「……うん。」
僕は食べかけの朝食をテーブルに置いたまま、制服に着替え始めた。
二人を置いて家を出るのは忍びないが、仕方ない。
着替えを済ませた僕はカバンを背負った。そして、読む予定の小説と執筆途中の原稿が入った手提げを手に……取ろうとして辞めた。今日はそんな気分じゃない。
廊下を早足で通り、靴を雑に履いて家のドアを開ける。
「……行ってきます」
返事は無かった。
僕は静かにドア閉めて、自転車に跨がりペダルを漕ぎ始めた。
せめて、帰り道に何か元気が出るようか物を買って帰ろう。……僕にはそれくらいしかしてあげられないのだから。




