境界の昇降口
綴さんは下駄箱前の昇降口で待ってくれていた。しかし、外を向いていたため、様子を伺い知る事は出来なかった。
僕は下駄箱から靴を取り出して足元に投げ置いた。甲高い落下音が昇降口に響く。
その音で僕が降りてきた事に気付いたのか綴さんが僕の方へ振り向いた。昇降口は薄暗く顔色までは読み取れないが、先程のハプニングによる戸惑いからは立ち直ったようだ。いつもの薄く滲む悪戯好きな笑みが戻っている。
「さっきはごめんね。体は本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。むしろ、こっちこそ申し訳ないよ。ちょっとした悪戯心のつもりが危うく危ない事になる所だった。本当にごめん」
「気にしないで。悪気が無いのは分かってるから。なんせ語君のやる事だからね」
綴さんはそう言うと校門の方向へ振り返り歩き出した。この件はもうお終いという事なのだろう。
僕と綴さんは並んで歩き、校門を出て直ぐにある駐車場で僕の自転車を取ってから帰り始めた。こうして二人で帰るのは図書室で二人になった時の恒例行事となっている。この帰り道で話す内容はいつも本の話ばかりだ。
「でね、最近『ドグラ・マグラ』って本が気になってるんだけどネットで調べたらなんか凄い事書いてて勇気が出ないんだよね」
「あぁ、なんか『読んだ人は精神に支障をきたす』とかそんな不穏なワードが並んでるよね。僕はちょっと気になるけど読むのはまだいいかな」
「そうだよねぇ、流石にそこまで酷い事にはならないとは思うけど怖いよね。あ、あとね最近は神話系とかそのあたりの本を読んでるの。やっぱり創作の資料としても読んどいて損はないかなって」
「僕もたまに読んでるよ。『ギルガメッシュ叙事詩』とか有名所は見てる。昔の人が考えたのに今でも面白いのは凄いと思う」
「だよねだよね! 遥か昔に作られた物語なのに今でも書店に並ぶレベルで愛されるんだからやっぱり凄いよ! 昔はライトノベルとかファンタジー系の小説しか読まなかったけど小説を書き初めてからは昔の人の本を読むのが好きになっちゃってね、読みたい本が有りすぎて寝るのがおしいよ! 神話関係の小説を読み終えたらね、今度は夏目漱石の小説を読破したいんだぁ」
綴さんは目をキラキラさせながら小説の話を興奮気味に話している。本当に本を読むのが好きなのだ。綴さんと話しながら帰ると時間があっと言う間に過ぎてしまう。
学校から大体十分くらい歩いただろうか。綴さんの家の近くまでたどり着いた。学校から近いこの辺りの住宅街は街頭も多くて夜でも明るい。僕は真っ直ぐに進み、綴さんは左に曲がれば家までもう直ぐなのだが、僕も綴さんと一緒に左に曲がる。綴さんは少し困ったように眉の端を下げ、頬を指で掻きながら僕の方を見る。
「いつもごめんね。でも、もう家まで近いから大丈夫だよ」
「いや、気にしないで。むしろ自分が後悔しない為にやってる自己満足のような事だから。万が一だけど、別れた直ぐ後で誘拐なんかされたら僕は死ぬまで後悔しかねないし、そんなのは死んでもごめんだからね。僕は、『あの時にやれば良かった』って後から後悔するのだけは嫌なんだ」
そう、やらずに後悔する事だけはしたくない。
あの時に言えば良かった、聞けば良かった、行けば良かった、すれば良かった。そんな後悔だけはしたくない。少しの行動で胸に残る石ころみたいな心の不快感を確実に消せるならやるに越した事はない。絶対に、もう二度と、そんな馬鹿な後悔だけはしない。
ふと我に帰って綴さんを見ると、少し困った顔をしていた。自分でも自覚出来る程に顔が歪んでいたのだ、綴さんからしたら『触れたらいけない所に触れた』と思ってしまったとしても無理はない。
「あぁ、ごめん。顔が怖かった? 特に地雷を踏まれたとかではないから気にしないでね? ただ、もしあのまま帰って綴さんが誘拐とかされたらって想像したら怒りが込み上げてきただけだから」
「そ、そう? ……ありがとう」
綴さんは小さくそう呟いて少し顔を俯けながら僕とは反対方向に顔を向けた。
どうしたのか聞こうと思い、声を掛けようと思った綴さんの家の前に着いてしまった。
昔ながらの日本家屋という雰囲気ではなく、最近流行りの箱形に近いようなお洒落な家だ。比較的新しいように見えるから僕と知り合う前は別の所に住んでいたのかもしれない。別に聞くような事ではないから僕はそれについて一度も触れた事はないし、触れるつもりもない。
「じ、じゃあ。また明日ね! ありがとね!」
綴さんは家のドアの前まで小走りに動き、ドアを半分開けてからドアの影に入り、体を半分だけ出しながら僕に手を振ってから直ぐに家に入ってしまった。
「んー、なにか見たいテレビでも思いだしたかな?」
いつもはしっかり対面してから挨拶をして家に入っていく彼女にしては不思議な行動だったので僕はそう思った。
なにはともあれ、僕も家に帰ろう。僕は今まで押していた自転車に跨がり、ペダルを漕ぎ始めた。どうやら打ち付けた腰も大した事はなかったようだ。話ながら帰っている間に痛みも薄れている。
僕は綴さんと一緒に曲がったT字路を左に曲がり、自分の家に向かった。
綴さんと話していると感じなかったが、今日の帰り道はやけに背筋をゾワつかせる。確かに最近寒さも厳しくなってきたが、いまのゾワつきは寒さとは違う感覚がする。いつもなら少し寒いくらいの空気が肺を埋め尽くす感覚と冬の清みきった夜空を見上げながら心地好い気分に包まれながら帰宅するのだが、どうやら今日は違うらしい。
そんな謎の感覚に少し戸惑いながら僕は綴さんと別れた住宅街から遠ざかっていく。離れるにつれて街頭の数も徐々に減り、道は暗くなっていく。
僕は暗闇の中を急いで走り抜けた。何か嫌な予感から逃げるように……。




