貴女の笑顔が見たかったから
「……んっ、……?」
僕は重たい瞼を薄く開いた。視界も頭の中もボヤけていて自分の状況が分からない。体の脱力感も激しくて暫くの間僕はぼんやりと空を眺めていた。
不意に空に影が現れた。どうやら人の顔みたいだが未だに視界がボヤけて誰か分からない。僕は頭の霧が晴れるのをじっと待っていた。
数分くらいたっただろうか。ようやく眠気にも似た頭のモヤは薄れ始め、目もはっきりと見えるように成ってきた。
僕は目に力を込めて、僕を眺める相手の顔を凝視した。
「……綴さん? ……あっ! 綴さん、大丈夫!? 怪我してない!?」
僕は反射的に体を跳ね起こし、綴りさんの両肩に手を置いた。綴さんの顔を見て思い出した。僕達は先程まで狼に襲われていたハズだった。
僕が最後に覚えている光景は、綴さんが狼の群れの中に引き返して来て僕を庇ってくれた所までだ。
それに、体を起こそうとしているハズなのに一向に力が入らない。だが、気を失う前に体中を駆け巡っていた裂くような痛みを今は感じない。
天国やら地獄なんて物は日頃信じない僕ではあったが、この時ばかりは僕達は生きてるのか死んでいるのか判断に迷った。
「……」
「……綴さん?」
綴さんは僕と一度目を合わせてから俯いたままだ。そのせいで前髪が顔に影を作ってしまい、綴さんの表情が分からない。
でも、鼻を啜る音が時折聞こえてくる。
だが、僕の疑問は後ろから聞こえた声によって打ち消された。
「ボウヤ、無茶するのも大概にするんだな。あともう少し俺達が駆け付けるのが遅れてたらどうなってたか分からんぞ?」
聞き覚えのある声に反応し、僕は顔と目線を後ろに向けた。ソコには古い革ジャンを羽織り、色褪せたジーンズに身を包んだ数日前出会った時と全く変わりない姿の万丈さんが居た。
「万丈さん! ──何処に行ってたんですか!? 約束の時間になっても待ち合わせ場所には居ないし、何故か狼なんかが街中に現れるわ襲われるわで大変だったんですよ!? 助けて頂いたみたいですし、それについては感謝してますけど、少しばかり遅すぎです! 本当に死ぬかと思いましたからね!?」
「いや、それについては申し訳ない。コッチも襲撃を受けてたから動きが取れなかった。……で、コッチのお嬢さんは──」
万丈さんの言葉は乾いた破裂音に遮られた。それと同時に僕の左頬がジンジンと痛む。
「……え?」
呆気に取られた僕の口からは腑抜けた声が漏れでた。
「──っ馬鹿! ばかばかばかばかばか、馬鹿ぁ!!」
そして響き渡る綴さんの怒声である。
この時、僕は少しばかりイラッとした。人が文字通り命懸けで助けようと必死になってもがいたのに、その結果が渾身のビンタと罵声はあんまりじゃないだろうか。
流石に僕も眉を潜め、反論せんと綴さんの顔を正面に見据える。だけど、僕の怒りは綴さんの顔を見た瞬間に消え失せた。
顔を真っ赤にして目を吊り上げてはいるが、綴さんの目からは涙がボロボロと零れ落ちており、眉は目と対称的に大きく吊り下がっていた。あまりに興奮し過ぎているのか、体が震えて思うように動けていないようだった。
「なんで、なんでっ!? なんであんなに簡単に死ぬような事するの!? アレで私が喜ぶと思うの!? あんな事されて生き延びて、私がその後幸せに生きれると思う!?」
綴さんは、震えて思うように動かない体に回す力を一言一言の言葉に込めて僕に投げ掛けた。
「本当に、怖かった……。自分が死ぬかもしれないって事もそうだけど、語くんがボロボロになってく姿はもっともっと怖かった……」
ひとしきり怒って怒気が抜けたのか、綴さんは目を手で擦りながら肩を落として泣いていた。
その姿を見てどうすれば良いのか、何を言えば良いのか分からない僕の両手はオロオロと宙を舞い続けている。
助けを求めるように万丈さんへ視線を送ると、ジェスチャーで『抱き締めろ』とでも言っているかのように頻りに円を描くように両手を体の前に動かしている。
茶化すならお帰り願いたい。僕は恨めしい視線を万丈さんに送り、深呼吸を一度して呼吸を整えてから行動を起こした。
僕は自分が出来る精一杯に、優しく、思いを込めて、綴さんの頭を撫でた。
ソレを見た万丈さんは『ひよったな』と言いたそうにため息付く動作をした。
勘弁して欲しい、この場面で泣いてる女の子を抱き締めるなんて重度のナルシスト以外は不可能だ。僕はそんな自信なんか持ち合わせていない。
せめて、せめて少しでも綴さんが落ち着いてくれるように。少しでも気持ちが伝わるように。僕の行動キャパの限界ギリギリがこれなんだ。
「綴さん。いや、あの。……本当にごめん。あの時は正直、頭が真っ白でがむしゃらに動いてたから、深い事は何も考えてなかった……」
綴さんは顔を俯いて、両手を膝の上に乗せたまま黙っている。……今思った事だけど、もし撫でている僕の手を払われていたりしたら心が折れていたかもしれない。払われなくて良かった。
「……ごめんね。本当は悪いのは私なのに。勝手に追いかけて、何も出来ないで怖がって。それで勝手に八つ当たりして……。ごめん、ごめんなさい……」
もう綴さんの体の震えは収まっているようだった。呟くように、吐き出すように僕に謝り続けた。今までの怒りは僕を本当に心配してくれていた反動だったのだ。もし、逆の立場だったなら僕も似たような事をしていたかもしれない。
「もし、今日会う人が変な人だったら。もし、誘拐なんかされたらって考えてたら、我慢できなくて……。付いていくって言ったら絶対に断られるのは分かってたから、それで、勝手に追いかけたの。……ごめんね」
「いや、謝らないで。……心配してくれてありがとう」
「……うん」
良かった。一先ず、全て丸く収まったようだ。僕は内心で胸を撫で下ろしながらホッと一息ついた。
……ところで、綴さんの頭を撫でている僕の右手はどのタイミングで外すべきだろうか。さっき外しておけば良かったのに、タイミングを逃してそのままだ。
そんな不謹慎な事を考えていたら万丈さんが僕に助け船を出してくれた。
「おい、ボウヤ。彼女の髪に触れているのは心地よかろうが、そろそろ外したらどうだ? 見せつけられてるコッチは突如お茶の間で始まったラヴシーンを見てるような居心地の悪さだぞ」
「──っ!!」
もとい、出してくれたのは泥船だった。
「元々は貴方のせいでしょうがぁああああ!!」
僕の絶叫が街に響いた。そのまま僕は万丈さんを追いかけて走り、当の万丈さんは茶化しながら逃げ回っている。
逃げ回る万丈を追いかけながら、視線を綴さんへ向けてみた。緊張が溶けたのか、綴さんは力が抜けたように静かに笑っていた。
あぁ、良かった。やっと笑ってくれた。
僕は万丈さんに心の中で感謝しつつ、一頻り追いかけ回していた。




