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回想

 今にも狼の脚が跳ねて走り出してしまう。そうなればどうなってしまうかは明白だ。


僕は空気の抜けるような声で、綴さんに必死に叫んだ。


「綴さん……、逃げてっ!」


そして僕は見てしまった。


涙を流しながら怖がるその表情を、一生懸命な笑顔に変えて僕を見つめる彼女の姿を。そして諦めるように静かに目を閉じる彼女の姿を。


その瞬間、僕の身体に電気が走った。


狼が地面を踏み込み、疾走しようとした瞬間。気が付いたら僕は狼に飛びかかっていた。


しかし、野生で生きる獣の感覚は鋭いようだ。あと僅かで手が掛かる所で跳び跳ねられてしまい、僕は地面に転がった。


「ヴヴガアアアッ!」


素早く反転した狼は今度こそ息の根を止めようと、僕の首を目掛けて食らい付こうと迫ってきた。


だけど、その姿を見ても不思議と恐怖は感じなかった。もはや生きる事も何もかもを度外視して、目の前の獣に対抗する事だけが頭の中を満たしている。


僕が倒れたら次は綴さんの番だ。そう考えたら、もはや怖いと思う事すら消えてしまった。なんとしてでも彼女だけは助けないと。


このまま死んだら。昔感じたあの時と同じ気持ちを、あの頃の無力さを。死んでも残るような悔いがまた一つ残ってしまう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


まだ中学生の頃だった。その頃は僕は柔道部に所属していて、毎日一生懸命に練習をしていた。


でも、いきなりその人はやって来た。


何処かの会社勤めをしている社会人が、練習に参加するようになったのだ。顧問の先生の知り合いで、練習に参加させてもらうようになったらしい。


それだけなら良かった。でも、そうじゃなかった。


その社会人は中学生の僕達に絞め技を乱用して面白そうにいたぶり続けたのだ。


何度も、何度も、首を絞められ。何度も、何度も、気絶させられた。待ったをかけても止めてはくれず、楽しそうに笑いながら僕達、部活生をボロボロにするのだ。


あまりの理不尽さに、僕は激怒した。友達も、後輩も、みんなヤられた。疲れはてて無抵抗になった人を狙って攻めてくる。そんな腐った性根をぶち壊してやりたかった。なんとか皆を助けたかった。


でも、結局は僕にはそんな大それた事はできなかった。絞め落とされて、た叩き起こされ、起きた傍から絞め落とされた。


何度も、何度も。


それから僕は、怖くなってしまい逆らう事を辞めた。


友達が絞められていても、後輩がヤられていても見てみぬ振りをした。逆らえば今度は僕があの地獄を受ける羽目になる。


気絶するだけだから大丈夫? フザケルナ。どんな気分で絞められているのか分かりもしないくせに。


あれは、殺されているのと同じだ。死なないだけで、味わう苦しみは首を締めて殺されるのと同じなのだ。


それを無抵抗に、抗うことも出来ずに何度もやられる気持ちが誰に分かるのか。体験しなければ分かるはずもない。


僕達は中学を卒業して全員柔道を辞めた。続ける人は一人として居なかった。


噂では柔道の先生は別の部活顧問に変えられたらしい。恐らく、あんな人を呼び込んだ責任を取らされたのだろう。


おかげでみんな傷付いた。僕も例外ではなかった。もう、誰かを助けられるなんて思えなかった。自分の事だけで精一杯なのだと思い知らされた。


何より、僕の本性はその程度の人間だと痛感したのが苦しかった。泣いている人を、見殺しにするような人間なのだと……。


部活の後輩が首を絞められながら、泣きそうな顔で僕を見ていたあの顔を今でも忘れられない。


それからだ、僕は自分の事が嫌いになった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


それだけは死んでも耐えれない。あの時の過ちだけは死んでもごめんだ! もはや、可哀想などと甘い事は考えていられない。


狼に追いかけられた時はまだ甘い考えが僕にはあった。『なんとか逃げ切れるのではないか』、『傷付けるなんて可哀想じゃないか』。


普段は虫もろくに殺せないような僕には、とてもじゃないが生き物に暴力を振るう事など考えられなかった。だが、その結果が今の血塗れになった自分の身体だ。そして、次の標的は大事な友達なのだ。今は甘い事を言ってられない。


正直、僕はもう手遅れなのかも分からない。腰まで血でびっしょりと濡れてしまっているし、自分の周りの地面が真っ赤に染まってしまっている。でも、最後くらいは悔いのないように。後悔しない生き方で居たい。


僕は狼の大きく開いた口に自分の右手首で受け止めながら、僕は最後の覚悟を決めた。


しかし、良かった。他の人と比べて何も取り柄のない僕ではあったが、少なくとも人の為に動ける程度の人間性はあったようだ。


もし、生き残れたら。今までより少しは自分の事を好きになれそうだ。


そんな事を考えていた僕だったが、狼と上へ下へと転がりながら暴れている間に意識が薄れていく。


僕は心から願った。せめて、最後くらい大事な人を守れますように、と。

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