優しい人
狼の視線は僕から離れ、地面に座り込んでいる綴さんに向けられていた。その様子から、僕はこれから起こる事を察してしまった。
今度は彼女を襲うつもりだ。
血塗れになって倒れている僕は、既に狩り終えた獲物でしかないのだろう。もはや気にかけるに値しないのだろう。
綴さんは脱力してしまったのか、未だに動けずにいた。狼は新たな獲物に襲い掛かるべく、既に身を低くして力を貯め始めていた。
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叫び声の主を探して奥へと進んだ私を待ち受けていたのは、大きな獣とその獣に襲われている人だった。
獣は倒れている人の上半身のどこかに食らい付いているようだけど、獣の後ろ姿に隠れてしまって正確な位置は分からない。噛まれている人は必死に抵抗しているのだろう。獣の首に手を回してなんとか抑えようとしている。
振り回される度に挙げるうめき声と地面流れる赤い血が辺りに広がっていく。
私は助けに行かなければと頭では考えているのに、足が震えて動けなくなってしまった。人の命が理不尽に食い裂かれる様を見て、声すら挙げられない。
しかし、私は更なる恐怖を味わう羽目になった。
獣が当然動きを止めて襲っていた人に食らい付くのを止めた。そして襲われていた人は力なく地面に倒れ込んだ。
その瞬間、私の身体に今まで感じた事のないような寒気が襲った。倒れた人の顔は此方を向いていないから分からないけど、もうあの人としか思えなかった。
さっきより足の震えが強くなった。もう、いつ倒れてもおかしくはない。
そうして私が立ち尽くしていたら、更に恐ろしい事が起こった。人を襲っていた獣が私の方へゆっくりと振り返ってしまった。
振り返った獣はなんと狼だった。日本では絶滅したはずなのに何でこんな町の真ん中に居るのか。そんな事が頭を過ったがそれも直ぐに考えていられなくなった。
狼に襲われて倒れている人が苦し気に私の方へ顔を向けた。少し距離は有るけど、見間違うはずもなかった。
血に塗れて倒れていたのは、図書室でいつも一緒に過ごしていた大切な友達。語くんだった。
まさかとは思っていたけど、衝撃的な友人の姿を見てしまった私の心と身体はもう限界だった。
足の力が完全に抜けて、もう立ち上がる事すら出来ない。身体中が痺れてしまって、もうどうにもならない。
脱力した私に更なる恐怖が迫っていた。
あの語くんを血塗れにした狼が私を見つめている。私はこの後に自分を襲う出来事を想像してしまい、もう恐怖に震える事しか出来なかった。
私は無意識に語くんの方へ視線を向けた。私に何か言っているようだった。
話している内容は簡単に想像出来る。私に『早く逃げて』と一生懸命叫んでいるのだろう。
その様子を見た私の心は何故か少しだけ穏やかになった。
あぁ、こんな時まで他人の心配するんだなぁ。
自分はあんな事になってるのに、いっつも自分のコトより他人の事を心配して。
本当に、良い人だね……。
気が付いたら狼はもう私に向かって走り出そうと身構えていた。相変わらず怖くて身体は震えてるままだし、動く事も出来ない。
本当に怖くて怖くて仕方ない。涙は勝手に流れてくるし、情けない気持ちでいっぱいだ。
でも、最後に少しだけ嬉しい事を見つけた。
私の友達は、……私が好きになった男の子は。
本当に素敵な良い人だった事を実感できた。私にはそれがとても誇らしかった。
そう思えただけでも、良かったのかな。
そう感じた私は、これから自分に襲いかかる出来事を受け入れるべく、好きだった男の子に向けて今出来る精一杯の笑顔を送ってから、静かに目を閉じた。




