私の婚約者はずっと私の言葉に縛り付けられている
「ノアを、解放してあげてください」
私の大切な〝彼女〟にそっくりな容貌をした少女は、真っ直ぐに私を見据え、そう言い放った。私はぐっと涙を堪え――しかし失敗して、ぽろ、と、一筋の涙をこぼした。
「妹さんのこと……ノアはずっと責任を感じてる。ノアのせいじゃないのに。もうやめてあげてください。ノアがかわいそうよ」
どうしてそのことを知っているんだろう。ノアは今まで誰にもそのことを話したりしなかったのに。確かに〝彼女〟――少女の言う妹――に、この目の前の少女は瓜ふたつだけど。それにしたって、めずらしい。
…それだけ、この少女がノアに信頼されているということだろうか。
いいことのはずなのに、素直に喜べないのはきっと、私の心が歪み汚れているせいだろう。
「ノアはずっと貴女に縛られている。もう、ノアは自由になっていいはずなんです」
ああ、その通りだ。少女の訴えを聞きながら、私はノアの姿を思い浮かべた。
透き通るような白銀の短髪に、少し青の混ざった不思議な赤い瞳。その美しさも相俟って、切れ長の目は一見すると冷たい印象を与えるけれど、彼はとても優しい人だ。
私の言葉にずっと縛られて、私のそばから離れないでいてくれるくらいには。
▽
私、フラン=シーウェルと彼、ノア=リーコックは幼馴染で婚約者だ。この婚約は親が決めたものではなく、私達が個人で話し、両親にお願いしたものだった。幸いお互い伯爵家の子供で身分差はなかったため――まあそれだけではなかったのだが――トントン拍子に話は進んだ。
これだけ聞けば、私とノアが相思相愛で婚約をした素敵なカップルのように聞こえるだろう。だが違う。
何故ならこの婚約は、私が幼い頃にしたお願いを裏切ることができないノアの優しさから成立しているものだからだ。
それを説明するに当たって少し話は変わるが、私には昔、双子の妹がいた。三白眼で釣り目気味の、見る人によっては微妙に不細工とも捉えられる容姿の私とは違い、妹――ヒルダは誰が見ても〝可愛らしい〟と言われる愛らしい容姿をしていた。
ヒルダは優しくて明るくてかわいい、私の自慢の妹だった。卑屈で自信のない私を引っ張って日の下に連れ出してくれていたのは、いつもヒルダだった。私の容姿について心無い言葉を吐く男の子から守ってくれたのも唯一の自慢である少し青の混じった母譲りの黒髪を褒めてくれるのも、いつもヒルダだった。ヒルダはいつも、私に希望と光を与えてくれていた。
ノアと出会ったのは五歳のときだった。親同士が昔から仲が良かったらしく、引き合わせられた時期としては遅いくらいだったが、それでも幼かった私は、初めて会ったその少年に目を奪われた。それまで容姿をからかってくるような礼儀のなっていない男の子ばかりを見ていたせいか、その落ち着いた雰囲気にも驚いたし、なによりその美貌に。ノアに出会った瞬間、私は恋に落ちたのだ。
しかしその恋が叶うことはないと思い知ったのはそれからすぐのことだった。となりのヒルダの様子をちらりと見て、絶望した。ヒルダも、目の前の少年に目を奪われていたから。頬を染めて、ぼうっと眼前の美しい少年を見つめている。ヒルダが相手なら叶うはずもない。いや、そうでなくとも目の前の少年は絶対に私になびくことはないだろうし、そしてなにより大切で大好きなヒルダの恋だ。私はそっと芽生えたばかりの恋心に蓋をして、妹の恋を応援することを誓った。
父からノアとの婚約を勧められたのはそれからすぐのことだ。私達二人のどちらか、ノアと婚約を。父の言葉に、私は迷わずヒルダを勧めた。ノアには、ヒルダが相応しいからと。珍しくはっきりと意見を述べた私に父は驚いて、しかしすぐに落ち着いてヒルダに意見を求めた。ヒルダは私の方を気遣わし家に見て、本当にいいのかと、小さく問うてきた。私は笑った。貴族にしては下手くそな、今も苦手な笑顔で、言った。ヒルダが幸せならそれでいいよ、と。
そして残念なことに、私はノアに嫌われていた。ヒルダとの婚約が決まり二度目の対面を私とノアの二人で果たした際、婚約についての賛辞を述べた際、ひどく冷たい視線と言葉を浴びせられた。私はショックで泣きそうになったが、得意ではない笑顔を必死で貼り付けてなんとか耐えた。何か気に触るようなことをしたのか、それとも私の存在が気に入らなかったのか、今でもそれは分からないままだけど、嫌われている、という単純な事実だけは私の頭でもしっかりと理解できた。
それから五年、私とヒルダとノアの三人で共に過ごした。相変わらずノアには嫌われていたけど、その頃には態度も大分軟化していて、私も大袈裟に傷付くことはなくなっていた。
事件が起きたのは、私達三人が十歳になった年の冬だった。
ノアとヒルダの乗っていた馬車が事故にあった。幸いノアは重傷を負ったものの命に別状はなかった。しかし、ノアと一緒に乗っていたヒルダは――。
報せを聞いて、絶望した。ヒルダがノアを好きだと気づいたときなんかよりも、ずっと深く、絶望した。私は光を失った。可愛くて、明るくて優しい、私の大好きな妹。私の片割れ。私の、光。大切で大好きな妹を、私は失ってしまったのだ。私は塞ぎ込んで、それからしばらく部屋に閉じこもっていた。
そんな私を部屋から連れ出したのは、意外にも、身体中、顔中に包帯やガーゼをつけたノアだった。
「…ノア、どうして…」
「…フランのそばに、いてくれと。ずっと、そばにいて、守ってくれと。最期に、ヒルダに頼まれた」
悲痛な顔でそう告げられたそれに、ああ、と私は息を漏らした。どういう感情で漏らしたものなのか、自分にもわからなかった。ただ淡々と、その事実だけを受け止めていた。
ノアは、ヒルダの最期の頼みを断れずにここにいる。
私を心配して来てくれたわけではないことに若干の落胆はあったし、期待した自分を嘲笑いたくもなったけど、それでもわざわざ大怪我をしているそんな状態で会いに来てくれたことは嬉しかったし、そして何よりも、ノアを手に入れられるという事実に、喜びを感じていた。
ヒルダを心の拠り所にしていた私はその頃、その拠り所をなくしとても不安定な状態だった。だから、言ってしまった。
「…私と、…私のそばに、ずっといてください。すっと、離れないで…くだ、さい」
ノアは少し驚いたような顔をして、しかしすぐにぐ、と口を引き結ぶと、何かを決心したような顔になって、そうして、頷いた。
「ああ、勿論だ。一生、お前のそばで、お前を守ると約束する」
それからは先ほども言ったようにトントン拍子に話が進んだ。元々ヒルダとノアが婚約していたので、私が代わりにノアと婚約することに反対する者は誰もいなかった。むしろ私達が言い出さなければいずれ向こうから提案してきていたかもしれない。
そういうわけで、私の婚約者――ノアは、私の言葉と、ヒルダの最期に放った〝お願い〟に今もずっと縛られ続けている。冒頭で少女が言ったように、この件に関してノアになんの責任もない。ヒルダの最期の頼みだからって、ずっと私のそばにいる必要もない。
…なぜだかノアは、あれからずっと離れずに私のそばにいてくれるけど。
あの日からノアはそれまでが嘘だったみたいに私に優しい。冷たい言葉も表情も態度もなくなって、いつだって私を最優先に考えて行動してくれる。そこまでしなくてもいいよ、って何度も言うのに、「俺がしたいだけだから」と薄く微笑まれてしまっては何も言えない。ノアの美しさは子供の頃から何も変わらず…いや、あれからそれ以上に更に美しく、格好良くなっていった。ノアの婚約者であることで何度他の令嬢方から冷たい目で見られたか分からない。そんな美しいノアに微笑まれて、私はいつも黙って従ってしまうのだ。
私とヒルダの言葉に縛られての行動だとしても、ノアが私のそばにいて、優しくしてくれるのが嬉しかった。
私は初めて会ったときから、ノアが好きだったから。責任でもなんでも良かった。ノアが離れていかないなら、それで。
でも、それももう終わりにしなければいけないようだ。
ヒルダそっくりの顔をしたその少女――確か、名前をシェリルと言ったか――は、ノアの通う学園の同級生だという。普段から仲良くさせてもらっている…と最初に言われた言葉だが、ヒルダのことを知っていたのを見るに、これも本当なのだろう。
しかし彼女の言うことも最もだ。なんの罪も責任もないノアを、これ以上縛り付けていいはずはない。
それに、わざわざこんなことを言いに来たということは、このシェリル嬢が今のノアの好い人なのだろう。それならば、応援しなければ。今まで縛り付けてしまったぶん、応援、を。――。
「いやです」
「…は?」
「嫌です、と、言いました」
声が震えた。私は何を言っているんだろうか。今まで散々ノアを縛り付けて苦しめたんだから、もうノアを解放してあげなければならないのに。それが今、私に出来る精一杯の恩返しだ。それなのに、なんで。
「わたし、は……っ、ノアがすきです、あいしています……ノアが嫌だと言うまで、私はノアを放したくない…っ」
「…っは、ちょっと貴女、何を勝手なことを…!!」
「勝手なことを言っているのはお前だ、シェリル嬢」
聞きなれた、低い声。私はパッと青い顔を上げて、その姿を捉えた。
「ノ、ア…」
「久しぶり、フラン」
柔らかい声が私を呼んだ。久しく見ていなかったその美しい顔が眩しくて、少し目を細めた。
いや、それよりも。聞かれてしまった。今の、汚い本音を、ノアに。聞かれて、
「の、ノア…」
私が青くなっているのと同時に、シェリル嬢もしまったという顔と声でノアの名前を呼んだ。どうしたんだろう、とシェリル嬢を見てノアの様子を伺うと、ゾッとするほど冷たい顔をしたノアがいて、私は少し泣きそうになった。
「気安く名前を呼ぶなと、俺は何度も言ったはずだ、シェリル嬢」
「で、でも…」
「それと敬語を使え。男爵家の娘が伯爵家の俺に対等に話しかけてくるなど無礼にもほどがある。身を弁えろ」
「っ、」
ノアのあまりの気迫と冷酷さにシェリル嬢の肩がすくんだ。あれ、仲良くしていたんじゃないんだろうか。あれは嘘? いやでも、じゃあなんでシェリル嬢はヒルダのことを知っていたんだろう。
ノアの気迫に推されて黙り込んでいたシェリル嬢は、俯きながらドレスの裾を掴み、「どうして…」とぼそぼそと呟き始めた。様子がおかしい。
「どうしてよ……どうして……ノアは……好感度イベさえクリアすれば……はずなのに……だから……きたのに……」
ぶつぶつ、よく分からない単語が聞こえるが、大丈夫だろうか。ノアに本音を聞かれて青くなっていたのも忘れて彼女の心配をする。
「一通り話は聞いていたが……そもそもなぜお前がここにいて、そしてなぜ、ヒルダのことを知っている。俺はお前に話した覚えはない」
奇妙なものを見る目でノアが問うた。シェリル嬢はパッと顔を上げて、答える。
「そう、そうよ! ヒルダよ! 私、ヒルダにそっくりでしょう? 性格も、顔も! ノアが大好きなヒルダに、」
「彼女を愚弄するな!!」
「っ!」
「貴様……俺の大切な婚約者に妙な話を吹き込んでいただけでなく、ヒルダまで愚弄するか。顔は、確かにそうだな、そっくりだ。だが性格も? お前なんかとヒルダを一緒にするな、吐き気がする。ヒルダは不特定多数の男に色目を使ったりしないし、令嬢にマナーを注意されたからと言ってところ構わず泣いたりもしない。礼儀はしっかりとしていて芯の強い女性だ。それに、」
ぐい、と、ノアは私の肩を抱き引き寄せた。
「ヒルダはフランを傷付ける言葉を吐いたりしない」
「ノア…」
ヒルダを褒めるノアを見るのは少しだけ胸が痛かったけど、それでも嬉しかった。ヒルダを素晴らしい女性だと、そう認識してくれているのが何よりも嬉しかった。
しかしシェリル嬢のことは解決していない。ノアに完膚なきまでに否定されたシェリル嬢は、ギッと顔を上げて私を睨んだ。なまじヒルダにそっくりなだけに、彼女に睨まれるのは堪えてしまって、ぐっと胸が締め付けられた。顔を歪めると、チッと頭上から舌打ちが降ってきた。ノアも苛ついているらしい。
「どうしてよ!! ヒルダに似ている私はノアの心を拓けるはずだったのに!!! ノアを縛り付ける嫌な婚約者から解放して、私がノアに愛されて幸せになるはずだったのに!!! どうして、なんでよ!!! 他のどうでもいい攻略対象は上手く行ったのに!!! 私は、私はノアを!!!」
シェリル嬢は意味の分からないことを喚きながら綺麗に整えられていた栗色の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し始めた。その異様なほどの取り乱しぶりに、若干の恐怖すら覚え始めた。
「何を言っているのか分からないが」
そんなシェリル嬢を冷たい目で見据えながら、ノアが静かに口を開いた。
「俺は縛り付けられてなんかいないし、俺が愛しているのはフランただ一人だ。お前など興味もない」
▽
ノアに完膚なきまでに否定されたシェリル嬢は、うちの使用人に連れられて行った。連れて行かれる最後までノアの名前を呼び、愛されるはずなのは自分だと叫んでいたシェリル嬢の姿は狂気以外の何物でもなかった。
私はぼんやりとシェリル嬢の去った扉を見つめ、シェリル嬢に言われたことを考えていた。
先ほど「嫌だ」と断った提案。
もう、ノアを解放してほしい、という提案。
彼女自身に若干――かなりの問題はあったものの、最初に私に言った言葉に間違いはなかった。
もう、ノアを解放しなけれはならない。
「ねえ、ノア」
「…どうした?」
「……」
少し、黙り込む。本当は言いたくない。ノアと、離れたくない。他の人と幸せになってほしくない。
でも、もう良かった。だってさっき、ノアが愛していると、大切だと言ってくれた。それがシェリル嬢を諭すための睦言だったとしても、それでもいい。もう十分だ。
「もう、私のそばにいなくてもいいよ」
「…は、」
「縛り付けてごめんね。…婚約も、解消……する、から、…もう、っ、じゆう、に…」
最後まで言えずに、代わりに嗚咽が漏れた。ああ、かっこわるい。きっとヒルダならちゃんと言えたんだろうな。
固まってしまったノアを目の前に、私はボロボロと涙を流して嗚咽を漏らす。最後に見せるのがこんな姿だなんて、本当に格好がつかない。最後くらい、ちゃんと笑ってみせたかった。
グズグズとなく私に、ノアの硬い声が降りかかる。
「…俺から離れるのか」
「…え?」
「俺から逃げるのか、俺の前からいなくなるのか、さっきの放したくないって言葉は嘘だったのか、俺をっ、裏切るのか!?」
「の、ノア、」
「許さないぞ!! やっとっ、やっと手に入れたのに!!」
こんなに取り乱したノアの姿を見るのは初めてで、私は狼狽した。どうしよう、どうすれば。ノアがどうしてこんなに怒っているのか、さっぱり分からない。
おろおろとする私を見て、ノアはぐっと奥歯を噛み締め、そうして、今度はひどく弱々しい声を出した。
「お前が俺を愛してなくたって構わないんだ……ヒルダのことを利用したのはすまないと思ってる……でも、ずっと、ずっと好きだったんだ……出会ったときから、ずっと」
「…え、」
…なにか、とんでもないことを聞いた気がする。
「わ、私はずっとノアのことが好きで……私のことを好きじゃないのはノアの方じゃ、」
「…は? なに、言って」
「だ、だって」
ノアは出会ったときからずっと、私に冷たかった。だから私はノアに嫌われたと思っていたのに、ノアは出会ったときから私のことが好きだったという。
意味がわからなくて、ノアに問うと、サッと顔を青くして、それからしまったとばかりに片手で顔を覆った。
「ちが……いや違わないが、その、あれはただの八つ当たりだ」
「八つ当たり…?」
「フランとヒルダ、どちらかを婚約者にすると言われたとき、俺はお前になってほしいと思った」
「え」
「だが俺がどちらかを選ぶ前に、お前がヒルダを勧めたと聞いて……その、勝手ですまないが、お前が俺を選ばなかったことに苛立っしまって……本当にすまないと思っている」
告げられた事実に呆然とした。ノアは、私のことを嫌っていなかった…?
「いや、それとは別に、お前こそだ。俺のことが好きだったならどうしてヒルダを…」
「え、あ、いや、えっと。…その」
「なんだ」
「ヒルダも、ノアのことが好き、みたいだったから。ヒルダに私が敵うわけないし、ヒルダの恋が叶うなら私も幸せだった、から…」
「…ヒルダが? 俺を?」
「え? 気付いてなかったの?」
驚いた。とっくに気づいているものだと思っていた。ノアは怪訝そうな顔で考え込んでいる。
「だが、あいつは俺の恋を応援してくれていたようだが」
「え!?」
「素直になれない俺をよく後押ししてくれていた。段々と態度が改善されていったのも、ヒルダのお陰だ。死ぬ間際にだって…」
その時のことを思い出したのか、ふ、と暗い表情になるノア。しかしすぐに首を振って振り切ると、私の手を取った。
「ともかくだ、フラン。俺はお前の言葉に縛られているわけでも、大人しくヒルダの頼みを聞いてやっているわけでもない。俺は俺の意志で、お前のそばでお前を守ると決めた」
「……」
「婚約解消なんて言わないでくれ。これからもお前のそばにいたい。…駄目か」
そんな顔はずるい。
懇願するようなその弱々しい顔にぐっと心臓を掴まれた私は、小さくこくりと頷いた。
そうして、今度は縛り付けるためじゃなく、心からの願いとして言おう。
「ずっと、私のそばで、私から離れないで。ずっと一緒にいてください」