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白きエルフに花束を【初版】  作者: 宝島 登&玉城つむぎ
赤の章
8/15

幕間・一方、元の世界では。

                            《1》

 おかしい。どうして、風祭君の足取りがこうもつかめないのか。

 手入れを怠っているせいで、若干残念な手触りになっているボブカットの頭を、カシカシと掻いて推理に沈む。

 地元ではとっくに騒ぎになっており、警察と保護者会が血眼になって探し回っている。『よし、それなら』と野次馬根性もあって、都市伝説の再検証に乗り出す者も出てきた。ボクはというと、彼のいとこなのもあってこうして事件の真相に迫るべく、探査に乗り出したのだが……。妹君は自律神経を病んでしまい、今は面会謝絶だ。故に彼が失踪してから、ボクは町内の新聞をひたすら漁ってみた。

 「ふぅむ。やはり新聞だからか、不確実なうわさは書かれていないな」

 だが強いて言えば、言い伝えなどの風土紹介という側面から、鮮烈に切り込んでいる記事も少なくない。

 「おい、冴悧」

 その呼び声の意味などとうに分かり切っていた。まあとりあえず、カロリーメイトでも(むさぼ)りつつ、左手を高々と上げて返事をしよう。七面倒臭いし。

 「なあ、冴悧、分かってんのかよ。お前、女の子なんだぞ。ソファーの上でヤンキー座りしながらもの食うのやめろよ。学ランは、……まあ、LGBT+が叫ばれる昨今にうるさいことは言わないけどさ。なんか、ホームレスのおっさんが着ていそうなベストを着るのやめろよ。正直ダサいぞ」

 おやおや、木を見て森を見ずとはこのことである。これでも毎日洗濯してあるし、メッシュだから通気性もいいのだ。おまけに黒で統一してあるので、見る人が見ればかっこいいのだが。

 「うーん。ダサいというより、まあ、かっこいいっちゃいいんだが」

 ほう、やっと全体のコーディネートに目を向けてくれたか。やはり彼も見る目があるな――――――。

 「可愛くねえな」

 頭の血管がぶっちり切れました。よし決めた。今日一日、この者にはボクの変人ぶりに一切の手加減を加えずに接してやろう。耳を思いっきりしゃぶってやろうか。それとも、一日中膝枕と腹ソファの刑に処すか。なんか頭がすでに近いしウヴォワーとか池崎が悲鳴を上げているけど、耳美味えな、オイ。

 「ああ、男性用の学ランとはいえ失敬失敬。それで?風紀委員会の報告書は発表されたかい?」

 彼の耳と此の口の間に唾液のつり橋をかけながら、顔面の皮肉を引きつらせてさらっと流す。さすがの池崎君も、お、お前なぁっ。というだらしのないツッコミを禁じえないようだ。やぁ、愉快愉快。おっと、人が幻滅しているというのに面白がるのも性悪すぎるか。日頃から奇特な仕草が多いし、改めなければ。

 「まぁ、お前は言っても聞かないしな。それがな……。見てくれよ、この中をよ」

 マル秘と判の押されたその報告書。それによると……。

 「胸元が引き裂かれた狩衣が電線に引っかかっていただって?池崎君。もしやこの狩衣……」

 「察しの通りだ。やっぱ、何らかの霊的手段に使われた痕跡が見つかったそうだ。ほれ、下の写真見てみろよ」

 その言葉通り報告書の下段には、例の狩衣に『陰陽太極の図』が描かれてあったことを示す写真が載っていた。

 しかも妙な事に、その太極の図に描かれた白黒の丸が、両方とも灰色の太い線でつながっていた。

 「池崎君」

 「何だ?この丸の本来の意味を聴きたいのか」

 「そうなのだ。その意味の如何では、もしかしたら」

 ヤンキー座りから突如として、ヨガにおける猫のポーズを瞬間的にとり、興味津々といった気分で這い寄る。そんなボクを前にすると、彼はいつも調子がくるってしまうのだ。となれば後はこちらのものである。黒い笑いが止まらぬわ。フッハハハハハハフハフハフッ。

 「お前ってホント」

 「奇特な奴だな、って?」

 今度の今度こそ彼も根負けしたようだ。何しろ追っている事件が事件だ。背景に神隠し伝説がある以上戻ってこれるかは何の保証もない。心配はありがたいが、この際はきっちり切り捨てる必要があるともいえる。

 「分ーったよ!もうこの際だ、洗いざらい話すよ。あの太極の図は、ちょうど時計盤のように見ると解りやすいんだ」

 言い出すより早くマーカーを手に取り、プリンターを手早くセットして太極の図のコピーを持ってきた。

 「ほうほう。つまり、12時方向が上が最も白いが、それを切り取ってみると黒い球が入っているので、白とは言い切れないわけだ」

 こうして十二等分するとよく概念が解る。黒の中に白があり、白の中に黒がある。どこにも一色に染まった面が存在しない。

 「だから逆の場合も同じって訳。そして白は『陽』。つまり、+の意味がある。光とか、得とか、昼とか。まあそんな感じだ。で、黒は『陰』。つまり、-の意味がある。闇とか、損とか、夜とかそういう意味だ」

 「ということは、だ。時計と似たメカニクスであっても、100%陰になることも陽になる事も無いのだな」

 「そう。そして、その絶対性を破壊する要素であるこの球を、灰色というあいまいさでつなぐという事は、ここから何かしらのありうべからざる可能性を引き出そうとしたんじゃないか、ってのが俺の推理なんだ」

 ふうむ。これは事件の重要な手掛かりになりそうだな。やはり、考察の余地があるか……。

 「そういえば、流れで何となく気にしていなかったが、君はボクの捜査に協力しながら証言を隠していたのか」

 反応を聞き逃すまいと、耳を掻っぽじる。うん、素晴らしい量の耳糞が採れた。満足満足。ふうっと人のいない方へ老廃物を吹き飛ばす。

 「……人聞きの悪いこと言うなら話さないぞ?擬人化少女探偵猿子さん」

 池崎君は相当ボクの態度が腹に据えかねたらしく、額に青筋が浮いている。やだなぁ、おっかないなぁ。ボクに淑女の資格がなくとも、そんな顔をしないで欲しいのだが。

 「勘弁してくれ賜え、これでも感情の機微には疎いのだ。か弱い乙女に暴力なんて男を捨てるようなものだぞ?」

 「女性性を捨てたボクガールにゃ言われたくねーッ!実刑判決っ。くすぐりの刑を執行する!覚悟しやがれー!」

 「ウワー!だ、ダメだって、うひゃうひゃうひょー。せっくはらだっー!」

 どうせいつもみたいにうっそぴょーんとか言うくせにっ、とか。じゃあ今からうっそぴょーん!このサルアマーッ!待ちやがれー!とか何とか叫びながら、しばらくどったんばったん騒いで、はしゃぎまわってみた。


                       《2》


 肩で息をついた。全力で走り回ったので疲れるのも当然である。『……お前、やるな』『君こそ』とか、互いを認め合いながらとりあえずボクも謝罪した。先ほどの続きを促すと、やはり神道関連の施設で何かあったらしい。本人は信教の関係で話せないと言ってはいたが、……ニオうな。

 「なるほど。そういえば池崎君、プロファイリングは済んだかい」

 「ははーん。そういうこと。合点!」

 言うなり、ボクの自室に備え付けられたキャビネットから、町内の全体地図を取り出した。主な出来事があった場所に赤丸とメモが記されている。

 「つまり、だ。町内で起こった騒ぎや事案を丸く囲むと、大体半径一キロ半圏内が最も集中している事になる」

 青い蛍光ペンで丸を描きつつ、ロジックを固めていく。吹き渡る涼やかな初夏の風がますますボクの思考を加速させる。やはりこの時期は仕事が進んで快い。

 「突飛な想像でしかないが、加えてこれを参照してくれ賜え」

 池崎君にとっても結末が見えているのか、ニヤニヤしながら地図を覗く。彼のサスペンスドラマ好きは相変わらずだ。だが、ボクに引っ付いていれば少女探偵もののドラマを間近に見ることが出来るのだ、と出会って数分もしない内にで見抜いた辺り、やはり彼はただ者ではない。そんな池崎勉という常識的なようでいてどこかずれた男を目の端でじぃっと見つめながら、また作業に没頭する。

 「この町の神社を、それぞれ線分でつなぐと何故か三角形ができる。その底辺と頂点に垂線を引いた場合、交わる箇所に何があるか」

 そこには、とある小さな墓地の所在が記されていた。大判の地図からではゴマ粒程度にしか見えないほどである、

 「……これは」

 「通称『此方の岸』。数多くの失踪者を出した一大心霊スポットだ」

 ビンゴだ。やはり、調べれば調べるほど証拠はこの伝説を指している。これは訝るまでもなく、風祭君は『神隠しにあった』という事で間違いない。そうと決まれば即行動。いざという時のために用意しておいた米軍式サバイバルセットを引っ張り出してくる。向こうじゃ法令も意味をなさないだろうから、一応武器も用意しておこう。

 「お、おい。何だ、そのゴツい拳銃は。つかそれ、『コルトガバメント』じゃねえか」

 「そう、しかもアメリカのSTI社が生産百年を記念して設計した、2011年モデルだ。ヴァリアント名は『アスカロン・ストライク』。まあ、それより銃刀免許ならもっているから、気にしないでくれよ?あと池崎君、腕っぷしの強い人を一人見繕ってくれ」

 「いいけど、どうやって」

 「これで尻を叩けばいい」

 そういって叩きつけたモノは、今どきの教科書くらいの厚みのある一冊の封筒だった。そこには『金一封』とだけ書かれていた。

 「おぉ、おい。こんなのどこで手に入れたんだよ。まさか変なことに首突っ込んでないよな?」

 「いや?別にそれは貯金して出来たお小遣いだ」

 口あんぐり、目ぽっかりの間抜け面。思わず腹を抱えて笑い転げてしまった。

 黄色いというより若干白みがかった黄色。そう、ひよこ色の声をひっくり返したように滔々と語りだす。そこから生き返った蛙みたいに飛び起きて、池崎君を馬飛びした。

 「君みたいなパンピーには理解しがたいかもしれないけど、投資や国債購入での貯蓄を採用すれば百万なんて訳ないんだよーっ」

 とか何とか言いながら尻を叩いて肩車させる。髪の毛がもはや操縦レバーなのだー。ワハハハ。

 「とゆーわけで。出撃だ、ゲボック一号!システム~?」

 「ハイハイ。おーるぐり~ん」

 「カウントダウン三秒前っ。3,2,1。冴悧、征っきまーす!」

 こうしてボクら私立・盾城興信所の見習いは、県道わきの歩道を突っ走り、武術考古学の大家「冬峰家」が立つ住宅街へ至ったのである。

                        《3》


 冬峰君は風祭君の同級生で、しかも剣術のライバルだった。総合剣術大会で覇を競い合い、『八極の風祭』、『剛剣の冬峰』とまで言われた二人だった。だが、風祭君の失踪以降、冬峰君はいずれの大会にも姿を見せていないという。

 冬峰家の門前に立った。当然ながら学者の中でも俄かにメジャーとなりつつある武術考古学を専門としているだけあって、家は豪邸だった。何度か改築した痕跡があり、敷地もまたその余地を残せるように計算されてあったと思われる。

 たまらず、インターホンを前にして生唾を飲み込む。気分は池崎君も同様らしく、夏場だというのに寒がりのリスよろしく震えあがっていた。

 「押すぞ?」

 「ああ、やってしまえ。彼のことだ、時期は悟っているだろう。勘が良いことで有名だから侮るなよ?」

 簡素な灰色のボタンを押すと、ピンポーンと当たり障りのない呼び出し音が鳴る。がちゃり、がちゃり、と鍵が開いて――――――――――、【そこに羅刹がいた】。

 背筋が凍り付くと同時に、ただならぬ気配に震えあがる。その扉から一人の大人が進み出た。ボクらが羅刹と勘違いしたのは彼だったのだ。

 「君らか。話は聞いているよ。来なさい」

 厳然たる物腰で彼はそう告げた。微塵の隙も感じさせない身のこなしがやたらと目につく。悠然とこちらに歩いてくる。この間にどこから襲いかかられても、彼なら一撃で人を殺せそうだ。

 用心深いのかあちこちに警備システムが強いてあり、閂も簡単に外れるものではなさそうだった。しかも、少し触っただけでかなり大きな音がする。あまり使われていないせいか、その門はホコリまみれだった。つまり、普段は裏の勝手口を使用するのであって、この門は罠だ。それを客にすら言わないとは……。

 コイツ、デキるな。

 広めのリビングに通され、オレンジピールの紅茶を頂く。爽やかな香りを口に含んで、ようやく落ち着けた。

 「――――――それで」

 静かに、岩を崖の縁に転がすように、冬峰家の長がつぶやく。紅茶を口に含み、のどを潤してから一言。

 「息子を危険にさらすというなら、相応の対価があるのだろうな?小僧共」

 「失敬」

 「ハァ?この期に及んで何の言い訳を――――――」

 「私は女です」

 「ぶはっ」

 冬峰は紅茶を盛大に吹いた。思いっきりボクの顔面にかかる。

 「失礼なっ!婦女に対してその態度、その仕打ちっ。もう結構です。このことはうちの筋からパワハラとして扱わせていただきます。翌月の三ノ辺新聞を楽しみにすることですねっ」

 「ちょ、ちょっと待ってほしい!誤解なんだ、君が女性だとは知らなくて」

 「おや。あなたは、男性と女性の扱いを差別なさるのですね?」

 「ぐぅっ。そ、それは。おい、言っている事が反対じゃないかっ」

 「いーいえ。異性に対してのデリカシーと、男女の扱いを差別することは同義ではありません。それに今の時点で図星を衝かれたような反応をするなら、あなたのお里が知れます」

 「ひ、卑怯だぞ!鎌をかけるなんて!」

 「池崎君、帰ろう。ここのことをすっぱ抜けば五万円にはなるだろうから――――――」

 「分かった!済まない、きちんと謝罪もするっ。十万、いや、二十万は出すから」

 僕は立ち上がって、彼を満面の笑みで見つめた。

 「ひ、ひい」

 射殺すように、じっくり、じいっと、穴が開くまで見つめた。

 「金でもみ消すなんて。最っ低」

 そういって懐から、前金用に用意してあった五十万を叩きつけた。

 「ま、待って、待ってくれ」

 「なんですか、鬱陶しい。あと足にしがみつかないでもらえます?セクハラとして訴えますよ?」

 「ひ、ひいっ。違う、違うんだ。な、何でもするから許してくれっ。ただそれだけなんだ。頼、ぐぇっ」

 彼は蛙が轢死したかのようなうめき声をあげたかと思うと、冷や汗をだらだら書きながら硬直してしまった。見上げると、薄暗い玄関前の廊下の陰に紛れるように、冬峰劫が父親の前に仁王立ちしていた。さらに彼は木刀を父親の背中に突き立てて、彼に昆虫の標本じみた滑稽な格好を強いていた。

 「私は。彼らが『礼也を連れ戻しに行こう』と誘いに来ると確信していた。故に、この時が来ることを心待ちにしていたのだ。よくも私の人生に関わる重大事に口を出してくれたな?」

 「こ、劫君。彼も凝りている事だし、……その辺にしてくれ賜え。心臓に悪すぎる」

 ボクの制止を聴いてか聴かずか、彼はやっと父親を開放した。液体窒素じみた空気を身にまとい、父親の前にしゃがみこんだ。そしてそのおとがいに手を掛けて、自分の顔が見えるように上向ける。

 「彼らも今のように言ってくれた。何か父上も言う事があるのでは?」

 その時の彼の顔が、ボクにとってはとてつもなく印象的だった。彼は、雪崩の精霊のような表情を顔に貼り付けて、暗に凄んでいた。彼も昔はこんな顔はしなかったのだろう。変わり果てた息子の人格と、己の非常識をこの期に及んで自覚したのか、冬峰家の長はあらゆるネガティブな感情によって表情を七変した。それは、まさに賽の目が瞬く間に移ろうかの様だった。

 「――――――もう、好きにすればいいさ」

 立ち上がり、それだけを言い残して、冬峰さんは肩を落としてリビングへ消えていった。

                        《4》                     

 迎えた当日。ボクは、携帯食料入りのサバイバルセットとアーミーナイフ、そして軽量拳銃アスカロン・ストライクを用意して、待ち合わせ場所の『此方の岸』へ向かっていた。

 物々しい荷物を持って行ってもばれないように、早朝には家を後にしていた。母も父も二人で興信所の実務と経営を行っているので、今は家にいない。これからのホームシックを考えると、ある意味憂鬱ともいえた。二人はボクのような変わり者でも、惜しみない愛情を注いでくれたからだ。そんなダウナーな気分を引きずりながら、エド・シーランの『キャッスル・オン・ザ・ヒル』を口ずさむ。

 「よう、見送りに来たぜ」

 なじみ深い歌声に気づいたのか、通りの角から池崎君がひょっこり顔を出した。

 「来てくれたのか。君の心意気には常々頭が上がらないよ」

 ボクは少し恐縮して、正直な気持ちを池崎君に告げた。すると彼は途端に照れてしまい、バツが悪そうに俯いた。その様子はまるで女の子のようで、人のことなど言えないのではないか、とのツッコミを抑えるのに要らぬ苦労をした。やれやれ。

 「仲睦まじい事だな。まるでアベックのようだ」

 何者かが背後で、要らぬ苦労がさらに無駄になるような茶々を入れた。あまりのいいように流石の僕も劫君へ踵を返し、片手を腰に当てながら呆れかえる。

 「冬峰君。ボクには好きな人はまだいないけど、別の好きになれると確信している人がいるんだ。くだらない冗談はよそで飛ばしてくれ」

 劫君は道化の様におどけて、肩をすくめて見せた。大ぶりなジェスチャーをした所為で、背中に背負っていたツヴァイハンダーが大きな金属音を立てた。

 「おや、それは失礼。どうも私はふざけ過ぎたようだ」

 「その態度で反省しているかどうかは怪しいけどな」

 「はははっ!それは違いない。――――――――着いたぞ、ここが此方の岸だ」

 思わず、短い悲鳴が飛び出てしまった。何故なら十二坪ほどの敷地に無数の卒塔婆と墓が群れていたのだ。皮膚の下をウジ虫が張っているみたいだ。なぜか胃の奥からすっぱいものが上がってきた。かすかに吐き気がする。少しの間、落ち着く時間が欲しいと申し出ると、劫君が水筒を渡してくれた。かなりつらいので、ありがたく厚意に甘えることにする。

 「えっと、渡世歌の歌詞はどうする?一応文献のコピー持ってきたけど」

 「さすが、池崎君。用意が良いね。まあ、普通に漢詩でいいと思う」

 「そうだな。剣舞は私がやるから、君はこれを歌ってくれ」

 着々と準備は進み、そして別れの時がやってきた。

 「なあ、二人とも。俺は傍から見ていて、冬峰さんに対して強く当たりすぎたかもしれないと思うけど、あれでよかったのか?」

 ボクは劫君と顔を見合わせて、おかしそうに笑った。彼も同様に苦笑している。

 「あれぐらい強く言わないともし万が一噂になった時に、その、示しがつかないだろう?」

 「ボクはたんにムカついたからきつめに言い募ったけど、……やっぱり言い過ぎたかもしれない」

 なんとも情けない回答だが、かえって池崎君は安心したようだ。ようやく彼も、胸のわだかまりが消えた様で、晴れやかな面持ちでボクたちの前途を祝福してくれた。


 「絶対に、生きて帰って来いよ?死んだら承知しないからな」 


 「解っているって。――――――じゃあ、行ってくる」


 そして、儀式が始まった。劫君が背中のクレイモアを抜剣し、かまいたちの如く舞踏する。その勢いを煽るように『彼』を想いながら呻吟した。


 〽

益深尋祠主 請随聴貴聲

巡氤居白累 蓋世網将貫

在米関為導 猶厳道體薨 

三祈九跪顧 以呪禁昏盟 

我啜生鮮血 亘腥彼岸伺

俄望還現孺 被示浄文云

現横童可喰 猶希坼我身

亨膺世賽瀬 豈捧贄愃恩



 大剣がうなりを上げて荒れ狂う。斬る、払う、薙ぐ、受ける、搦め崩し、落とし、突く。激しく、より苛烈に剣舞のボルテージが上がっていく。そして、グルーヴが最高潮に達した。


 「千代にわたり、我が身に責を結ぶことを誓わんとす」


 その誓いに応えるかのように、風が、吹いた。

 一天俄かにかき曇り、湿度が急激に上昇した。風はますます強くなり、ボクらを押し包む。

 「冴悧ッ!」

 振り返ってはならないと、そう決めたのに。最後に池崎君の顔を見たボクは―――――――。




 いったいどんな顔をしていたのだろう。それは誰も知らない秘密である。





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