第二場 薫風。いままでと、これからと。
一年生の入部からほどなくして、高校最初の中間試験が近付いてきた。この学校では定期試験の一週間前から試験準備期間となり、勉強に集中するためとして一切の部活動が出来なくなる。入部後から試験前までの間に活動日は数回しかなく、大したことは出来ないと嘆く生徒は多かった。
演劇部も、その短期間では発声やストレッチなどの基礎練習を行っていた。中学校で経験していた栄や飛鳥にとっては難なくこなせることではあるが、疎かにしていいものではないことも充分に分かっている。それでも新しいこと……公演に向けての準備が楽しみになるのは、他の部員たちと同じだ。
そんな定期試験前、最後の活動の日。この日もわいわいと、どこかのんびりと基礎練習を行う中、不意に部室のドアが叩かれた。
「あれ、今日みんな揃ってるのに。誰?」
一年生たちも首を傾げる。そんな反応が満足なのか、部長はふふふっと嬉しそうに笑ってドアの向こうへ声をかけた。
「どうぞ、入って入って!」
「あーけーてー! 両手一杯なの!」
たまたまドアの一番近くにいた栄が駆け寄り、引き戸を開ける。ドアの向こうには、両手で大きな紙の束を抱えた小柄な女子生徒がいた。彼女は栄にペコリと会釈をすると、勝手知ったる様子で手近な机に持っていたものをどさりと置いた。
「お疲れさま! よかったわ、間に合って。」
「全力で急いだもん。あー、肩凝った。」
「ありがとう。ごめんね、全部任せちゃって。」
大きく伸びをする彼女の背を、雪穂が労うようにぽんぽんと叩く。見れば彼女は二年生で、部長だけでなく先輩は全員顔見知りらしい。状況が分かっていない部員たちを代表するように、京花が声を掛けた。
「文芸部員の笑実ちゃんが、どうして演劇部に?」
「おっと、言ってなかったっけ?」
やっと気付いた様子の雪穂が部員たちへ振り返る。
「言われてないし、一年生がみんな誰それ状態なんだけど。」
「ごっめん、忘れてた。」
雪穂は軽い調子で笑い、ぱちんとウインク。紙束を持ってきた少女を部員たちの前に押し出し、紹介してくれた。
「そういえばみんな初対面だったね。こちらは今私と同じクラスの岩淵笑実。中学の頃からの友達で、今度の七月公演の台本を書いてもらったの。」
「初めまして、岩淵です。」
笑実と名乗る先輩は丁寧に頭を下げる。笑うとふっくりした頬にえくぼが浮かぶ、優しそうな大人びた笑顔。
「素敵な面々に、有望そうな後輩達ね、雪ちゃん。私、脚本を書いたのは今回が初めてだから、とっても楽しみなの。」
部室をぐるりと見回して、彼女の眼鏡の奥で大輪の向日葵のような笑顔が咲く。特別美人というタイプではないが、明るい笑顔に愛嬌がある素敵な人だ。笑実は持ってきた紙束を改めて手に取り、まわりの部員たち一人一人に手渡していく。
「七月公演の台本。よろしくね。」
栄も、飛鳥も、順に笑実の手から台本を受け取った。こんな薄い紙でも、束になり冊子になると重みがある。妙な緊張感とわくわくは、公演を急に意識したからだろう。
「えいきゅうのつばさ?」
「永久の翼だ。」
表紙のタイトルを声に出して言った七波に、月香が即座にツッコミを入れる。月香は今回、演出係として脚本担当の笑実と一緒に台本を作ってきたとのことだった。台本を開いてみると、最初のページには役名の一覧。キャストの人数はきっちり部員と同じ十一人だ。
つまり、先輩も一年生も全員出演するということか。
それに気付いたのは当然栄だけではないようで、新入生のひとりがひえーっと小さく悲鳴を上げる。部員たちがそれぞれ喋りながら台本を開いている中、雪穂部長がぱしんと手を打った。
「台本も出来上がった事だし、今週中に役の希望出してテスト明け第一回にオーディションしよう。」
「ぇえー!?」
「おー、いいリアクションだ。」
部長はけらけらと笑うが、他の部員たちには笑い事ではない。今日は木曜日なので、今週中なら考える時間はあと二日。また、テストが終わってから初回の活動までに練習時間はほぼないことになる。
「聞いてないよ、そんな急な話!」
京花の半泣き声での抗議は、
「だって言ってなかったもの。」
雪穂の台詞に無残に打ち砕かれた。確かにそうだが、あんまりだ。急に近付いてきた初舞台に焦りざわめく部室の中で、部長を除いて一番動じていない副部長がてきぱきと連絡事項を告げる。
「じゃあ提出は土曜の放課後まで、俺か雪のどっちかに出してくれ。放課後……ホームルーム終わって少しくらいなら待つが、あんまり遅くなったら帰るからな。紙はメモ帳でもルーズリーフでも何でもいい。自分の名前と、第一希望の役名と、ざっと志望理由くらいは書いてもらおうかな。」
栄は手にした台本をぱらぱらとめくり、大まかにストーリーを読んでいく。主に高校を場面とする現代劇だが、「死神」が登場する……所謂ローファンタジーというやつだ。
「キャスト表に書いてある順番は、そのまま登場人物の重要度だと思ってもらって構わないわ。舞台経験ある人は出来れば上の方、重要なキャストにチャレンジしてほしいな。もちろんやる気があれば誰でも構わないし、先輩後輩遠慮は無用よ。」
雪穂がそう言った時、ちょうど部活動の終了時刻を告げるチャイムが鳴った。副部長に追い立てられるようにして三々五々(と言うほどの大人数でもないが)部室を出ていく部員たち。ドアの直前、栄がふと振り向くと、ただ一人部室内に残ったまま少しも動かずにキャスト表を見つめる美園の姿があって、それが何故か妙に気にかかった。
土曜日の夕方。栄は自分の部屋のベッドに寝転んで台本を読み耽っていた。
主人公は高校生の少年・蓮。ある日、彼の前に「死神」を名乗る無感情な少女が現れ、二人が関わり合ううちに次第に惹かれ合っていくという恋愛物語が、この舞台のメインになる。あらすじだけ見れば主人公とヒロインという分かりやすい構図、しかしよくある恋愛小説や漫画の所謂パターンとはまた少し違っている。何せ、物語冒頭の蓮には既に早苗という彼女がいて、前半ヒロインと後半メインヒロインとでも言うべきか、ヒロインが二人いるのだ。それでいて、恋敵のバチバチとかドロドロとかそういうものは無いというのが、ある意味すごい。
その他の登場人物は、主に蓮や早苗の友人たち。それにしてもキャスト数を部員数と揃えるというのは……つまり、新入部員の数が決まってから台本を書いたということになる筈だ。そんな短期間で物語をひとつ書き上げるというのは、栄には想像もできない。
台本を読みながら、栄は昨日先輩に提出した役希望について考えていた。もちろん十一人の登場人物は全員平等に出てくるわけではなく、登場場面の多さや台詞数に差はある。特に多いのは当然ながら主人公の蓮と、もう一人の主役ともいえる後半ヒロイン・トワだ。他にも数人、物語のキーに関わる重要キャラクターがいる。その難度の差から言えば、主人公やヒロインをはじめ重要キャラクターを先輩が占め、大事な台詞も少ない友人役などを一年生がやるというのが妥当な所だろう。場合によっては希望など取らず、執行部の先輩が様子を見て役を振ることだって考えられた。役の人気が偏るのは当たり前だし、希望と本人の適性が必ずしも一致しないことだってある。中学の時の経験からそんなことまで考えてしまうが、今回そこの調整を考えるのは先輩たちだ。入ったばかりの栄が気にすることではない。
栄が今回希望した役は……。
と、枕元に放り出してあった携帯が鳴った。飛鳥だ。
『もしもし、栄? 今何してる?』
「台本読んでたとこ。そっちは?」
『同じよ。ところで栄、あんたいい加減どの役を希望したのか白状しなさいよね。』
うっと言葉に詰まった。
飛鳥とは昨日の昼休みに待ち合わせて、一緒に雪穂先輩のクラスまで希望を出しに行った。その時飛鳥にも、また先輩のクラスの前で会った他の部員にも、希望の役を聞かれたのだが、栄は誰にも何役を希望したか言わなかった。いや、言えなかったのだ。
「……笑わない?」
『笑わないよ。』
恐る恐る言うと、電話の向こうの飛鳥の声が真面目に答える。それでやっと、栄はその役名を口にした。
「蓮。」
主役だ。先輩にもチャレンジしろ、遠慮は無用と言われた事だし、思い切って書いてしまったのだ。やりたい気持ちは本当に大きいし、中学の頃から男役が多かった事もあって男だから難しいとは思わなかった。でも、飛鳥たちに言えなかった。いくら中学でも演劇部だった経験者だとは言っても、先輩を差し置いて主役がやりたいだなんて少し自惚れてるように自分でも思えて、恥ずかしかったから。
「けど、やっぱりちょっと自信ないな。」
『なぁに言ってんのよバーカ。』
溜息ともに吐き出した言葉に、飛鳥はぴしゃりと言った。
『中学で主役やった事だってあったでしょ? 一年生とは言え経験者なのよ、自信持ちなさいって。』
清々しいほどにすっぱりと言ってのける。中学の頃も今回も、飛鳥は栄とは対照的だった。希望の役を聞かれても、恥ずかしがることもなく堂々と答える、そんな奴だ。昨日も、他の部員や栄に聞かれて素直にストーリー前半のヒロインである早苗役を希望したと答えていた。
「どうしてもやりたいんだ。大事な役だし、あらすじ読んでとっても惹かれたの。」
そう堂々と胸を張って、にこやかに答える飛鳥はすごいと栄は思う。
飛鳥も演劇を始めたのは栄と同じ中学校の部活。というか、栄は別の中学校ではあったが飛鳥に引きずられて演劇を始めたと言っても過言ではない。二人とも、お互いの文化祭の舞台はすべて観に行っていた。もしかしたら、こういう事に関しては姉妹よりも近い間柄かも知れない。
「ありがと、飛鳥。」
別々の学校で活動しながら、同じ演劇部として相談したり愚痴を言ったりして、違う場所でも一緒に歩いてきた。その頃から続く飛鳥の励ましは、栄にとってとても大きなものだった。
「飛鳥にそう言われると、ちゃんと自信持たなきゃなって思うよ。」
『保証されると自信持てる、とかじゃなくて?』
「そんなすぐ持てないよ。でも無理矢理にでも自信持ってるって言わなきゃ怒られそうで。」
『こら。』
電話のあっちとこっちで笑い合うと、いつの間にか恥ずかしさやモヤモヤは綺麗に消えていた。
「ありがと。なんか飛鳥って、こういう時姉ちゃんみたいなんだよね。」
『えー、ちびの頃はわたしの方が末っ子役だったんじゃなかったっけ? 妹に世話焼かれるなんて困った奴ね、栄は。……でも、ま、希望通りになるか分かんないけどさ、頑張ろうよ。』
「お互いにな。じゃね、早苗。」
わざとまだ決まってない役名で呼んで、飛鳥が何か言うより前にさっさと電話を切った。ごろりとベッドに寝転ぶと、台本を胸に抱えて目を閉じる。
高校の初舞台まで、あと二ヶ月ほど。はやる気持ちが抑え切れない。まだこの間会ったばかりの部員たち、しかも演劇自体が初めての人もいる中で、栄にとっても慣れないこの宮ヶ丘高校という場所で……何もかもが今までと違う環境では、何が起こるかなんて分からない。ドキドキと、ワクワクと、やっぱり少し怖い気持ちもあるけど、楽しみの方が大きい。不安が晴れれば現金なもので、栄はオーディションも本番も楽しみで仕方がなかった。
その前に定期試験もあるのを忘れないようにしなくては。