春。今日、はじまりの風が吹いた
私は一人、暗い舞台上に立っていた。
微かな機械音と共に、緞帳がするすると上がっていく。その向こう、客席の灯りと同時にざわめきが消えていく。暗くても見える、数えきれない人影。
静かになった所為だろうか、だんだんと早く高くなっていく自分の心臓の音が聞こえてきそう。
深く息を吸い、一歩踏み出す。
頭上のライトが点く。顔を上げる。真正面から照らされて目がくらみそうになるけれど、その眩しさすら私の中でキラキラと輝きを放ちドキドキへと変わっていく。
スポットライトの中央、舞台の一番華やかな場所。私は口を開き、その最初の台詞を――
「さーかーえっ! あれ、寝てる。もう、部活行くよー?」
聞きなれた声が頭上で自分の名前を呼んでいるのが聞こえて、神谷栄はハッと我に返った。自分が机に突っ伏して居眠りしてしまっていたらしい、と認識して頭を持ち上げようとした瞬間、頭頂部に拳が降ってきて、せっかく持ち上げた頭は机にぶつかってごつんと鈍い音を立てた。
「痛ぁ!」
「部活初回から遅刻する気なのかっつーのよ莫迦。」
冷たく言い放つ幼馴染の声に、栄は額をさすりつつ涙目で相手を睨まずにはいられなかった。
「何すんだよ飛鳥!」
「おー、起きた起きた。目ぇ覚めたでしょ。」
恨みがましい視線をも満面の笑みで受ける、可憐で儚げな美少女。栄の幼馴染であり、隣のクラスの西原飛鳥だ。小動物を思わせる細面な顔に大きめの瞳、小柄で色白、肩にふんわり掛かるつややかな黒髪と、少女マンガのヒロインのような外見。しかし栄にとっては、飛鳥は儚げだなんて言葉とは程遠い存在だった。彼女は、親しくなればなるほど「美少女ヒロイン」という第一印象がどんどん消えていくような性格をしていた。
「ほら行くよ、準備して。だいたい、これから部活行くってのにうたた寝しないでよね。」
笑顔のまま放たれる台詞は外見に似合わず強く、時に毒をはらむ。家が隣同士で物心ついた頃からの幼馴染である栄は飛鳥のそんな所も知り尽くしているので、飛鳥のことを可憐だなんて思ったことはただの一度もない。
「ほーらー、早く早く。」
「はいはい分かった分かった。」
声も高めで女の子らしい。男になら文句さえも可愛く聞こえるんだろうな、なんてチラッと思った。
そんな幼馴染と自分は全く似ていない、と栄は思う。生まれつき色の薄い髪は癖が頑固で、伸ばすとあっちこっち跳ねるのでずっとショートヘアにしている。それと太めの眉の所為でボーイッシュと言われがちだが、特に性格が男前なわけでもない。かといって女の子らしい可愛げがあるわけでもない。太ってもいないが痩せている訳でもなく、顔立ちなどもまあ平凡だと言えた。要するに極めて「普通の子」なのだ。
尤も、栄自身は普通であることに文句はない。隣にいる美少女のような強い「個性」は時にトラブルメーカーともなるのだから。……そんなことを考えつつ、その美少女に急かされながら荷物をまとめていると、背後から声を掛けられた。
「あーちゃん! 栄ちゃんと知り合いだったんだ?」
「志茂ちゃん、飛鳥のこと知ってるの?」
「うん。わたしもあーちゃんも付属中学だから。中一の時からの友達なんだよ。」
にこにこしながら答えた‘志茂ちゃん’こと志茂安芸子は栄の隣の席で、高校入学初日から栄に話しかけてくれた友人だった。長い黒髪は綺麗で真っ直ぐで、ふくよかな笑顔はどこか日本人形を思わせる。
「中学三年間、委員会で同じだったんだよねー。」
飛鳥もにこにこして安芸子と肩を組む。
「栄はね、実はあたしの姉なの。」
「苗字違うのに?」
「誤解招くからやめてってば。ただの幼馴染だよ。ま、姉妹みたいに育ったのは確かだけど。」
飛鳥の自己紹介の定番でもある冗談に、栄はやれやれと肩をすくめた。
「飛鳥、お待たせ。行こっか。」
「おっけー。じゃ、安芸ちゃんまた明日ね。」
笑顔で見送る安芸子に手を振り、二人は並んで歩き出した。
「部室棟ってどう行けばいいの?」
「一階の昇降口から出るのが一番早いかな。」
廊下も階段も、放課後で帰宅したり部活動へと向かったりする生徒たちでごった返していた。二人は人込みを縫うように、喋りながら階段を下りて目的地へと向かう。
「おーい、栄じゃないか! 久し振り!」
突然の大声に名前を呼ばれた栄は、驚いて思わず階段を踏み外すところだった。声の主はと振り向く間もなく、踊り場から伸びてきた手に腕を掴まれた。
「こんなとこでコケたら危ないぞ。」
「華奈先輩が急に呼んだからじゃないですか。」
「そう? ごめんごめん。」
悪びれずに笑いながら、声の主・十条華奈は栄をグイッと引き寄せて踊り場へと引っ張り上げてくれた。同じ段に立っても、女子とは思えない175センチという長身の華奈を前に、栄は完全に見上げる形となる。所属するバスケ部のユニフォームに身を包んだ華奈は、栄と飛鳥にとっては同じ小学校の先輩だ。その頃も地元バスケチームに所属していたはずだが、まだ続けているらしい。
「わあ、お久しぶりです! あたしたちのこと、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん! 飛鳥ちゃんともよく遊んだし、栄はバスケでも一緒だったしね。また一緒にバスケやる?」
その長身と明るさからよく向日葵の花にたとえられる笑顔で、華奈は楽しそうに栄の肩をぽんぽん叩く。自身も所属していた小学生バスケチーム時代の、当時から飛び抜けていた華奈のプレーを懐かしく思い出しながら、栄はちょっと申し訳ない気持ちになって頭を下げた。
「すみません、もう演劇部に入部届け出してしまったので……。」
「だよねー、中学でも演劇だったもんね、栄。あ、もしかして飛鳥ちゃんも一緒?」
「はい。」
うつむく栄の肩を、華奈はばしんとひとつ叩いた。
「そんな顔しないの! バスケ部入ってくれとは言う気なかったから。昼休みとかにまたボールで遊ぼうよ、ね。」
「はい! あ、でも対戦は勘弁してくださいね。」
けらけらと明るく笑う華奈に、栄の頬も緩む。華奈は嬉しそうに何度も頷いた。
「分かった分かった。それより、あんたたちの演劇部の公演も楽しみにしてるからね。観に行くよ。部長たちとはもう会った?」
「あたしは付属中演劇部なので、もちろん知っています。栄はこれからです。」
飛鳥が答えると、華奈はいたずらを考えている子どものようにむふふっと笑った。
「じゃあ、会うの楽しみにしてな。あいつら……部長と副部長は、何て言うか、凄い奴らだから。」
飛鳥も同意を示すようにこくこくと頷く。そして、一人事情が飲み込めていない栄を置き去りに、華奈は部活だからとさっさと姿を消してしまった。
「飛鳥、凄い人ってどういう……」
「そんなことより、あたしたちも遅れちゃう! ほら、行こ!」
唐突に駆け出した飛鳥を追いかけ、栄も駆け出した。一体何が自分を待っているのか……。さっきの居眠りの夢が、正夢になりそうな予感を覚えながら。
高校生活、そして宮ヶ丘女子高校演劇部での日々が、幕を開けた。