大江戸リフレを演出した斎藤道三の子孫
江戸幕府旗本の次男坊・三宅勘四郎が突然、父直昌から呼ばれたのは元禄13年2月20日の深夜であった。
「すぐさま袴を付け支度をせよ。そちの養子先が決まった」
「…父上、よもや末期養子ですか」
「ああ、養子先はそちも存じ寄りの小普請組の松波甚左衛門どのの家でなあ。甚左どのが急に亡くなられたのよ」
この頃、旗本が急死して子供もないときには絶家となる定めである。小普請の松波甚左衛門はわずか25歳、日頃から病身だとは聞いていたが勘四郎もあまり会ったことはない。甚左衛門の妻は三宅の出身ではあるが、この人にもあまり会ったことはない。ただ、父から「松波家から内々にいざというときの養子の話はあるがなあ」とは聞いてはいる。
(しかし、どうも急だな)
勘四郎もあまり乗り気ではなかった。「厄介」とも言われる部屋住みの身分から、ようやく開放されるのは嬉しいといえば嬉しいが、しかし養子先が小普請とは面白く無い話ではある。
まあ行くよりしかたがないので、慌てて袴を着、麹町七丁目の松波甚左衛門の宅まで勘四郎は出向くこととなった。
江戸城の裏門、半蔵門から近い三宅坂の屋敷を出ると、麹町七丁目まではそう遠くはない。周囲は漆黒の闇である。大手門の方であれば奈良茶飯の屋台も出ていようが、半蔵門からこの夜中に出入りするものもない。町人地ではないから夜鳴きそばも居ない。父と勘四郎、供の者はトボトボと夜道を歩んだ。
「松波殿というと、旗本と入っても三河以来ではなく新参ではございませぬか」
「不服か?勘四郎よ。そちの養子先は散々探したのだぞ」
「いや別に不服ではござらぬ、ただ家風が違うのではないかと思いまして」
三宅家は三河以来の名門であった。先祖は三河の国衆(小大名)で、1559年(永禄9年)に徳川家に仕え、以後微禄とはいえ譜代の名門として連綿し、本家は三河田原藩主になっている。
「まあ、ご本家も手元不如意でな。ご本家の寺社奉行の三宅備前殿も、三河田原の家中の知行を減らされているような状況なのじゃぞ?まあそちも急な話で不服ではあろうが、松波家も新参とはいえ、元は美濃国主の家柄じゃよ」
「それは存じておりますが…斎藤道三公の次男・斎藤雅楽頭政綱殿の流れで、小田原北条が滅んだ時に権現様に仕えた家でしょう」
「よく知っておるなあ」
「暇ですから、竹橋の勘定の役所で系図を見せてもらいましてね」
「では、そちもまんざらでもないではないか」
「部屋住みでは妻も来ませんからね」
「そりゃ道理じゃの」
そうこうしているうちに、麹町七丁目の松波の屋敷についた。
「三宅三郎左衛門直昌、三宅勘四郎様でございますな。」と門前に佇んでいる男が丁重に挨拶をした。
(つづく)