[番外編]ある前日
会議を終えたレクラスは廊下を足早に歩いていたが、ふと足を止めた。
周囲が薄もやに包まれ、みるみる濃度が増していく。
レクラスは心の中で軽くため息をついた。
魔術師協会本部というこの場所で、大胆にも、レクラスに対してこのような術を使う人物は一人しかいない。
「姉上、何用ですか? 」
静かに問うたレクラスの目の前に、グレイヘアを高々と結い上げた小柄な老婆が姿を現した。
「レクラス。いよいよ明日じゃのう。準備は整うておるか? 」
満面の笑みをたたえたレイラは、小首をかしげた。
「はい?」
首をかしげるレクラスに、レイラは目をすがめ、
「もしやそなた、忘れておるのか」
と、低い声で言った。
「何のことです? 」
レクラスは訝しげに眉根を寄せた。
「クレメンスの誕生日じゃ」
レクラスは数ヶ月前に内弟子として引き取った少年の顔を思い出し、ハッとした。
確かにレイラの言うとおり、明日はその少年ーークレメンスの誕生日だった。
「ほんに殿方というのは、まことに気の利かない……」
レイラはわざとらしく大きなため息をつく。
「返す言葉もございません」
レクラスはうつむいた。
「まあよい。大方そんなことじゃろうと思うて、既に妾が手配しておる」
レイラは横目でレクラスをチラリと見ながそう言った。
大抵のことはそつなくこなすレクラスだが、姉のこういった女性的な視点での細やかな心遣いには敵わない。
「忝う存じます」
レクラスは深々と頭げた。
「ほんに、そちゃ、いくつになっても手のかかる子じゃのう」
レイラは、レクラスを様子をみつめながら、小バカにしたように言った。レクラスは微かに眉を動かしたが、何も言わず、目を伏せたまま黙っていた。
レイラはレクラスをしばらくじっと見ていたが、「フン」と鼻を鳴らし、口を開いた。
「プレゼントだけは、そちが用意するのじゃぞ」
「はい」
レクラスは素直に肯く。
その様子を満足そうに見守っていたレイラだったが、突然視線を落とし、袖口で目元をおさた。
「あのような悲惨な目に合うた子じゃ。慈しんでやらねばのう」
と、声を震わせる。
「誠に」
レクラスは深く肯いた。
クレメンスは災害孤児であった。彼の住んでいた村で生き残ったのはクレメンスただ一人。クレメンスは家族や親しい人々を目の前で一気に失ってしまったのだ。大人ですら受け止めるのが難しい惨劇だ。まして10歳の子供には辛すぎる出来事であった。
レイラはしばらく鼻をすすっていたが、スッと顔を上げ、数歩前へ出ると、レクラスの顔を至近距離から見上げた。
「次は忘れるでないぞ」
レイラは上目遣いでレクラス睨み付けながらそう言うと、レクラスが返事をする前にパッと姿を消した。と、同時に、レクラスのまわりを包んでいた霧がパッと晴れた。
レクラスは先ほどまでレイラがいた空間に向かって深々と頭を下げた。




