強がりと背中
肉壁が閉じた途端、あの喧しい叫び声が消え周囲に音が戻った。
「え……?」
一瞬、何がなんだかわけがわからなかった。
目の前には、粘筋の壁しかないのだ。
粘筋をズリ降ろされ部屋が寸断されたと理解するのに、数瞬かかった。
理解してからも、そのまま部屋の全ての粘筋が落とされ続けるのかと焦ったが、部屋を分断するだけの粘筋が降ってきた時点で止まっていたのはせめてもの僥倖だろう。
だが――
「これは……詰んだ?」
少しでも状況を認めたくないがためのあえての一言は、傍にいる二人と目が合って絶望の確信へと変わる。
二人の目が動揺を隠しきれず、顔は真っ青に恐怖の色に染まっていた。
「オギャアアアアアア!」
これだ、これがネルが叫んでいた原因だ。
肉壁と反対の通路側。
霧の奥からゆっくりと現れたのは、赤ん坊。
落し児と呼ばれる、肉団子から生まれるあの化物だった。
なんで……こいつが?
まさか、晶の魔石を持っている赤ん坊かと思ったが、どうにも以前見た個体よりも大きさが若干小さいような気がする。
腕女との戦闘に邪魔にならないよう、離れていたのが災いした。後衛職の人間ですら、俺やルルよりも前に居たのだ。
比較的一番近くに居た魔法使いは、恐らく粘筋に押しつぶされてしまった。
肉壁のこちら側にいたのは、戦えないルルと役立たずの俺、そしてラニャ。
よりによって、とげぞうがあっちに居る。
「なんで………」
「私たちを……追って来たんですの」
唐突におとずれた事態に、手が震える。
やっと合流できたっていうのに、また分断されるなんて。しかも、戦える人間が……居ない?
あの叫び声は、こいつを呼んでいた?
色々なことがぐるぐると頭を巡って、考えがまとまらない。
ラニャは何かを知っている風だったが、それを問う時間は無かった。
相変わらず不気味な赤ん坊は、大きな泣き声を上げながら、ドスドスとこちらへと突進してきている。
「まずい!!」
「私が、行きますの」
焦りパニックになりかけていると、ラニャが前に出た。
そうだ、ラニャは今でこそメイドをしているが探索者じゃないか。
俺はホッとしたが、その申し出にルルが不安げに声をかける。
「ラニャ、あなたじゃ……」
「わかっておりますの。でも、ここで耐えなければ、あなた様が死んだら全てが終わりですの」
そう言うと、ラニャが太もものガーターベルトからナイフを取り出した。
メイドとは、此処に必ず武器を仕込んでおくものなんだろうか。
探索者に対する絶大な信頼を持っていた俺は、ラニャが探索者だという事を思い出しそんなどうでもいいことをつい考えてしまった。
「はぁぁぁぁ!! ウォーターアロー!」
……あ。
遅い。
ラニャが全力で駆けるが、マズローに比べると遅い。
それでも俺からしたらかなりの速さなのだが、やはり彼らに比べて見劣りする。
向かいながら水の矢を飛ばすが、赤ん坊にはほとんど効いていないようだ。
パシャパシャと水は弾かれて、ただ赤ん坊の体を濡らすだけ。赤ん坊がキャッキャと手を叩き喜ぶと、何かが爆ぜるようにしてラニャが回避した足元を抉った。
「……ダメ、やっぱりラニャじゃアウラの量が足りないっ」
ルルの顔は真っ青になり、手は震えていた。
やばいやばいやばい。
明らかに戦力が足りない。
ほとんど役立たずが一人と聖職者が一人、レベルの足りない前衛が一人。
ゲームなら完全に詰んでいる。速攻でリセット押すレベルで。
どうする、間に合うか?
一つだけ、望みは薄いがやれることが無いわけではない。だが、あの調子だと――
「キャアアアアア!!」
一瞬だけそんな迷いが頭をよぎったが、それもラニャの悲鳴で掻き消された。
懸命に赤子の攻撃を避けナイフで攻撃を続けていたラニャの腕を、赤子の張り手がかすったらしい。
ほんの少し、ほんとに紙一重でかすっただけ。
「うっ……はぁ、はぁ……」
「アダァァァ」
それだというのに、ラニャの腕はあらぬ方向を向いていた。
赤ん坊は、喜ぶように顔を振り回し涎を振り飛ばす。その涎は酸になっているらしく容赦なくラニャの肌を焼いた。
慌ててルルが何か唱えているが、ここに来るまでとは違い回復に時間がかかる。
赤子の攻撃は続き、折れた腕を気にする間もなく避け続けていたラニャに、時間差でようやく回復魔法らしき光が届いた。
「いつもの瓶は!? なんでそんな悠長な魔法なんだよ!?」
「アレは転生陣で蘇った粘躯者専用の回復技術なの! 回復魔法とは違うのよ!!」
なんてこった。粘躰じゃないラニャには効かないってことか。
ということは、即座の回復もできないから時間稼ぎすらままならない。
いよいよ、絶望的な要素が揃いつつある。
力んでいた腕を見た。
何て細い腕なんだ……。
力が、圧倒的に力が足りない。
一体どうすれば――
ルルは、ずっと考えていた。
何故、ゲンが転生に失敗したのかを。
祖母の研究は、未熟な自分が見ても分かるほど完璧と言える理論で完成されていた。それでも失敗したという事は、何か想定外の要因が含まれていたという事。
情報が、足りていなかったんだろう。
晶の記憶を飲み込んだ今なら、それがなんとなく理解出来た気がした。
だが、これを伝えれば――
躊躇していたが、ラニャの腕があらぬ方向を向き悲鳴を上げる姿を見て、覚悟を決めるしかなかった。
「……ゲン、聞いて?」
「なんだよ!? 今俺は生きるために必死に頭さんに働いていただいているんだけど」
「時間が無いから、ちゃんと聞いて。あなたの左腕は、おそらく魔素を吸い込んでる」
「うん? だからなに?」
「あなたが教会に来た時に、真っ黒になっていた腕、あれに見覚えがあるって言ってるの! あれは暴走時の腕になりかけてた!」
「っ!?」
「あなたの左腕は、転生時に残った肉を失われた左腕に転用しているの。つまり、左腕だけは転生前の肉体……あれと同じ現象が起こってもおかしくないわ」
ゲンの腕をとり、ルルは切羽詰まった顔で見た。
時間は無い、今までのゲンを見る限りあの腕の状態になるまでにそれなりに時間がかかるはずだ。
暴走時の腕、それはゲンが転生する前に山で暴れていた時の事だ。あの時はアウラによる肥大化だったが、今度は多すぎる魔素により魂の膨張が起こり、腕からあふれ出しているのだろう。
「多分、体の中に暴走を抑える神聖魔法の名残があって、それが吸い込んだ魔素の流れを停滞させてるの。その流れを正してやれば、恐らくあなたの転生は完成する」
「出来るのか!?」
「流れの正常化なら多分。ただ、血栓を取り除くように黒化した腕から一気に魔素を流す必要があるし、それをすれば一気に体に魔素が流れ込んで、うまく魔素をコントロールできなければ……体が爆発するわ」
「魔素のコントロール……」
「成功しても、どの程度戦えるか――」
ルルが言い終わる前に、ゲンは既に走り出していた。
ラニャが戦う場所から――反対側へ。
「……ゲン?」
「それで時間稼ぎが出来るなら、何とかなるかもしれない!」
ゲンはすぐに視線を前に向けると、そのまま壁に貼りついた。左腕を壁へと押し付け、腕に力を籠める。
そして、叫んだ。壁の向こうへ、なんとか声を届けるために。
「とげぞう!! マズロー!! ネル!! 俺達はまだ生きてる!!」
必死に腕をねじ込みながら、ゲンはこう考えて居た。
少しでも、向こうに声が伝われば――
きっと向こうでは、王種と激闘を広げてるのかもしれない。だけど、肉壁が降りる前の最後のとげぞうの姿――
すべて落ちてくると思った肉壁は、すぐに止まった。
この悪辣で非道な獄夢で、ただ隔離するという甘い攻撃があるだろうか。あれは、部屋の全てを押しつぶそうとしていたのでは? しかし、それは目の前で止まった。
つまり、あの瞬間全てが終わっていたら?
彼らは、この壁を突き破るために向こうで必死に動いてくれているはずだ。
少なくとも、そこにはとげぞうが居る。
そのためには、こちらからも粘筋を掘り進める必要があった。だが、それにすべてを賭けるという選択肢を取っていいものなのか迷いもあった。
ルルを連れて、逃げるべきなんじゃないのかと。
だが、ルルの話を聞いた今なら、その仮定が崩れたとしても最悪、自分の腕の黒化を同時に行えている。
一石二鳥の、今行える最善の手だった。
「ぐぅぅぅっ!」
ゲンは、今までにないくらい腕に全ての力を込めた。
ただ力を込めるだけでなく、意識して魔素を吸収するように。
周囲の粘筋をすべてを枯らすべく意識を肉壁全体に広げる。すると、腕の周りだけではなく人が立って歩けるほどの広さで粘筋が爛れて行った。
「まだだ! ……もっとだ!」
同時に、あの焼けるような猛烈な痛みが腕を襲う。
あの時は、必死で分からなかったが説明を聞いた今ならわかる。内側から何かが弾けようとしている。そんな痛みだ。
魔素により、内側から魂が膨張し今にも弾けそうなのを感じた。これなら間に合う――
――ッゴ!
「かはっ! ……う」
「ラニャーー!!!」
だが、無情にも聞こえてきたのは背後からの鈍い音と声にならない苦悶の音。
後ろを振り向けば、すぐ近くに吹き飛ばされ横たわるラニャの姿があった。
冷や汗が背中を走る。
微かに動いてるところを見ると、ラニャはまだかろうじて生きているようだった。
「ぐぅぅぅ! とげぞうーー!!」
――ダメか!
もう、限界だ。
もう一度後ろを振り向けば、ラニャの足を赤ん坊が掴みぶら下げている。ラニャは人形のように、脱力していた。
「ラニャ!!」
慌てて痛む腕を引き抜けば、ゲンの腕はかなり黒ずみ、空気に触れれば激痛に襲われた。
ゲンは腕の感覚を確かめるように左手を口元へ近づけると、ルルの元へ駆け寄った。
「ルル!!」
「ゲン。失敗したら、死ぬのよ?」
「心配するな。魔素のコントロールなら慣れてる!」
「慣れてるって……そんなの――」
「任せろ」
二の句を告げさせない迫力が、その背中にあった。
だが、そんなはずはない。
この男は、時々強がりを反射的に叫ぶ。
その癖を、ルルは知識として知っていた。
魔素のコントロールなんて、後衛タイプの魂口も持っていないゲンが慣れているわけがない。そもそも、並の魔術師ですらそんな訓練を行うことなく効率の悪い魔法の使い方をしている者だって多いのだ。
そもそも魔素は、魔素が変質したマナの存在と混同されやすいため余計に感じにくく、相当の時間を体内と向き合わなければその存在すら感じ取れない。
とてもじゃないが、普通に生きていて慣れるようなことはありえなかった。
「俺の生き意地の悪さ、見せてやる。さぁ、やれ!」
「~~っ!! 爆発なんてしたら、許さないんだから!」
だが、もはや他に手は無い。
ルルは、祈るようにゲンにユニコーンの角杖をかざしたのだった。