堀の底
――ピチョン……ピチョン……
水の垂れる音だけが、耳鳴りと共にかすかに聞こえている。
かなりの水滴が落ちているらしく、当然のようにそこに寝ている少女の体にもその水滴は降り注ぎ続けていた。
「う……うぅ……」
どれだけの時間、寝ていただろうか。
寝返りを打ったルルは、自分の頬が水滴で濡れる感触でようやく目を覚ました。
「――っ。……なに?」
朦朧とする中で無意識に起き上ろうとすると、何故か腹部が痛む。
一瞬何が起こったのか自分の中で考えそして――
「いやっ!! いっ生きて!? 私生きてる!?」
ハッとしたように、自分に起こった出来事を思い出し飛び起きた。
ペタペタと自分の体に触り、自らの無事を確認したところでようやく落ち着気を取り戻すと、少女は周囲を見渡す。
「なにここ……?」
ルルは、ゾッとした。
まだ、思考が上手く働いていないようで反応は鈍いがその部屋の不気味さだけは理解できた。
薄暗く、濃い赤い霧。そしてそれに照らされた周囲は全て粘筋で覆われている。
獄夢の中、その最深部であることは間違いないだろう。
部屋の中は3畳ほどの広さで何もなかった。
ただ、粘筋には床にも壁にも天井にも、人の指ほどの太さの柔らかい肉棒がびっしりと毛のように生えており、先端には小さな唇から意味の分からないが呪詛に似た言葉が漏れる。その上に自らが寝ていたようだ。
「マズロー!!」
部屋の隅に座り込んでいるマズローを見つけ、ルルは駆け寄った。彼は顔を抱え込んだ足に埋めたままこちらを見ようとはしない。
「マズロー! 大丈夫!?」
「……起きたのか」
「無事でよかった。ここは、堀の底? ゲンはどこ?」
「……」
マズローの様子がおかしい。
彼は一切顔を上げようとせず、最初の一言以外喋ろうともしなかった。
「マズロー? どこか怪我を? 今治すから――」
「もう……ダメだ。終わりだ」
「……マズロー?」
その後いくら話しかけても反応をしなくなったマズローの様子をしばらく観察していたが、一向に埒が明かない。
ルルは恐る恐る部屋の外を覗いてみることにした。
(ゲンは、どこかしら。マズローがこうなった原因を知ってるかも)
ルルは自らの頬を打ち立ち上がると、ゲンを探して歩きだした。
少し進めば、トンネルのような通路はすぐに拓けた場所に出た。
ルルのいた場所は横穴のような場所だったらしく、左右には粘筋の断崖絶壁。
そして目の前には血の川が流れ10メートルほど先には再び断崖絶壁が立っている。
まるで、谷底のようだった。
「ここが掘の底……?」
天井は無く、濃い霧が立ち込めどれだけ上があるのかは判断がつかない。
どうやら、あの上から落下して来たのだろう。
じっと見つめながら、どうやって上に登ればいいのかと考えていれば、その霧がゆっくりと動いた。
「か……顔?」
霧の中に突然現れたのは、巨大な男の顔だった。
ルルを睨みつけた顔は、次の瞬間絶壁に突っ張った8本腕を使いルルへと迫ってくるではないか。
まるでカニのようなその巨大な彷獄獣があっという間に迫り、ルルのそばで口を開こうとした瞬間。
「ひっ!」
――ガッ!
ルルはトンネルの後ろから現れた手に口を押えられ、引きずり込まれた。
「ん!! んんー!!」
「静かにしろ! 俺だ!」
暴れながら視界に入った顔は、ゲンの物だった。
ゲンは口に指を当てると、半泣きで頷いたルルを連れてトンネルの奥へと歩いていく。
出る時に気づかなかったが、途中で二手に分かれていたらしい。
「なにしてんだ無謀なやっちゃな。部屋でじっとしてろよ」
「あなたを探してたのよ!」
安堵と共にそう振り返れば、ゲンは何だか奇特な恰好をしていることに気づいた。
ボロボロのパーカーを緑の毛皮で補修し、左腕はむき出しだ。ジーンズは脛の辺りで切りっぱなし、こちらも毛皮で補修してありどれも血でドロドロなのもいつもの通りだ。だが、その上から羽織っている物がおかしい。
「……え? モンスター?」
「黙れアニメ衣装。ただのカモフラージュだよ」
「アニ……ッ!」
その言いぐさはあんまりじゃないだろうか。
そう思って反論しようとしたが、自分が先に失言したこともありグッと堪えた。そもそもそんなことを言っている場合じゃない。
「とにかく、無事でよかった。マズローの様子がおかしいのよ。何があったの?」
「あー、おっさん心折れかかっちゃってたからな。まずいんじゃない? あのままほっといたら彷獄獣になるんじゃないのか?」
「心が……? 何言ってるのよ、マズローの心が折れるわけないわよ」
彼には妻がおり、この獄夢で生まれた子どもまで居る。獄夢を終わらせることを一番望んでいる男の心が折れるわけがない。そう思っていた。
だが、元の部屋に戻ればやはりマズローは先ほどの体勢のままうずくまっているではないか。
「マズロー……何してるのよ! 早く上にいくわよ、立ちなさい!」
「もういい、無理だ……。お前だけでも絶望的なのに、ゲンなんて足手まといを連れてここを抜けられるわけがない」
「そんなこと……」
「死に戻りするにも、お前が死ねば教会の結界だって消える。もう、詰んだんだ」
絶対にこうならないように気を付けてたはずだったのに。そう呟きながら上げたマズローの顔は、涙で濡れていた。
「何寝ぼけてるのよ! 子どもに、青空をみせてあげるんじゃなかったの!? 諦めるなんて早すぎる!」
「じゃあどうしろっていうんだ!! 奇跡でも起きて一度も彷獄獣にも会わず罠にもハマらずに初めての道をこんな最下層から上に登れるってのか!?」
確かに自分とゲンという戦えない二人を連れて獄夢の最深部を抜けるなんて自分でも笑えるくらい無茶がある。
それを理解しているからこそ、ルルは言葉に詰まった。
だが、それでも――
「どけ、ルル。そんなありきたりな言葉で一度折れた男が立ち上がれるわけがねーんだよ」
何も言えなくなったルルを押しのけ、ゲンがマズローの前に立つ。たった今役立たずとまで言われた男が、何を言っても無駄だと思う。だが、ルルにはゲンがこういう時に何かを起こせるんだという謎の信頼があった。
マズローの前に仁王立ちしたゲンが、はっきりと口を開く。
「開けない夜は無い!」
突如声を上げたゲンだったが、続けとルルを見た。
ハッとして彼女はそのあとに続く。
「さ、冷めない夢は無い!」
ルルは、瞬時に理解してしまったのだ。
この言葉こそ、皆を奮い立たせるためにマズローが真剣に考えたもので――
「「お前ら! 朝飯何がいいか考えとけよ!?」」
「やめろおぉぉぉ!!」
マズローは、再び抱えた膝に顔を突っ込んで閉じこもってしまった。
黒歴史は、この世界にも存在したらしい。




