でんせつのいきもの
「はぁ……はぁ……だめだ、どう考えても間に合わない」
必死に走りながらふと上を見上げると、すでに空は黄昏時と言われる昼と夜の境目へと突入していた。
どうする……このまま進み続けるか……? この場所は夜も安全なのか?
それならここに留まっても……いや、そんな保障どこにもない。
こんな拓けたところで襲われたら逃げようもないぞ……でもどうする……?
崖底を走り続ける足を緩め、考え込んでいた時だ。
「ふしゅ!」
とげぞうが、突如周囲を警戒しだす。
「ん……? どうしたとげぞう?」
俺は完全にその場に立ち止まり、周囲を警戒してみた。
たった数分の間に辺りはすっかり暗くなってしまい、視界が悪い。
左手には崖が、そして右手には巨大な木の立ち並ぶ太古の森が迫っている。
どう考えても何か来るなら右手の太古の森からだろう。
緊張が高まり、今まで流れていたものとは違う冷たい汗が背中を伝う。
「なんだ……?」
森の方向へ当たりをつけ、じっと見つめていると、巨大な木々の隙間を一瞬光が通った。
……光……? 少し奥の方だったな……なんだ?
蛍にしてはでかかったし……木の隙間だったから、見えたのは一瞬だったけど、今のは結構明るくなかったか?
俺はその場で身を低くすると、足元の草むらになんとか体を沈めた。
崖沿いの道には膝くらいの草が生い茂っており、寝転がれば何とか隠れることができる。
今まで太古の森の生き物に正面からであったことがないため、対応の仕方が分からない。
アクティブなのか、ノンアクなのかの判断もつかないし、この道まで今まで出てこなかった理由もいまいち分かっていない。
せいぜい狭くて出てこれなかったのかな? くらいだ。
出来ることなら、このまましばらく身をかがめてやり過ごそう。
ここで襲われてしまったら、逃げ場は太古の森しかない。
太古の森だけはだめだ。今までも密林など危険な森を探索してきたが、この森は違う。明らかに空気が違う。
わかりやすく例えるなら、密林がヤンキーのたまり場なら、太古の森はヤクザの事務所といったところだろうか。
……うまく例えられなかったので忘れてほしい。
とにかく、一度だけ踏み込んだこの森の生き物の雰囲気から、さらに、2週間にも及ぶサバイバル生活で培われた第六感から、この森がヤバいということだけはわかる。この森にだけは、足を踏み入れたくない。
身をかがめたまま数分が立っただろうか。
大丈夫か……? やっぱ太古の森からは出てこないのか……それなら安心してこの道を通って上層まで戻れる。
夜の広葉樹の森も危険だけど、ここほどじゃないだろうし、なんとか拠点までもどれないこともないだろ。
そう思い、立ち上がろうとした時だ。
前方右手側の巨大な木の隙間が、ぼんやりと明るくなった。何かの光源が近くにあるようだ。
……なんだ……? さっきと同じ白っぽい光だ。
蛍光灯とか、LEDライトで照らしたような……火なんかのオレンジの光じゃない……。
木々を照らす光は、まるで間接照明のように柔らかい光となって巨木の隙間から漏れ出している。
この太古の森の縁に生えている巨木は、木々の隙間が広いところでも1メートルほどの間隔しかなく、相当狭い。
だからこそ、この道へと生き物が出てこないんだと思っているのだが……。
しゃがみこんだまま光の洩れる隙間を見つめていると、光がだんだん強くなっていく。
そして、木々の隙間から尖った棒が飛び出してきた。
ん……?
いや、棒ではない。よく見ると先が尖っており、棒自体も螺旋状のねじれた筋が入っている。
……なにかの……角?
そう推理した直後、その角の持ち主が姿を見せた。
角と思しき物が伸び続け、ある長さまで来ると、その真下から真っ白な口がニュッと現れた。
そしてその口はどんどん伸び続ける。長い。
……ユニ……コーン……。
角の持ち主の顔がすべて出切る頃、俺はその正体を見て茫然としていた。
伸び続けた口は、所謂馬面という奴だ。
ゆっくりと歩いていたのだろう。いまだに全身は出ていないが、その姿は明らかに馬。
そして、最初にみた長い角はその馬面の額から伸びていた。
そう、お伽噺でおなじみのユニコーンが、俺の目の前をゆっくりと歩いていた。
「ブルルルルル……」
ユニコーンは時折体を震わせ、鼻ラッパを鳴らしながら俺の前を横切っていく。
その真っ白な体はどこか神々しく、先ほどから見えていた淡い光はこのユニコーンが発しているらしい。
ぼんやりと周囲が照らされており、神々しさに拍車をかけている。
……すげぇ……綺麗だ……。野生の生き物なのに汚れなんて一切見られない。
見てるだけで気持ちが満たされてくる……神聖ってこういうことなんだろうか。
俺の心はユニコーンに奪われてしまっていた。
目からは自然と涙が溢れている。
当のユニコーンは、ようやく木々の隙間から全身を出し、悠然と草むらを歩いている。そして立ち止まり首を下げると回廊の草を食みだした。
その姿は完全に馬そのものなのだが、どこか行動一つとっても気品が感じられる。
ユニコーンは、そんな俺の感動など知ったことかと草を食み続けていたが、突然動きを止めると俺の方へ振り返った。
……やばっ! 見つかったか!?
俺はその動きを見て我に返ると、地面に這うようにさらに体勢を低くした。
見つかっていたのならばすでに手遅れなのだが、無駄だと思いながらも隠れたがるのは人間の性というやつだろうか。
地べたに這いながらもユニコーンの様子が気になり、草陰からこっそりと様子を伺ってみた。
どうやらユニコーンは俺に気付いたわけではないらしい。こちらの方向を見てはいるが、明らかに視線は俺を通り越し、後方をじっと見据えている。
……なんだ……? 後ろになんかあるのか?
後ろの様子が気になりちらりと伺ってみるが、特別変わったところはない。暗い道が続いているだけだ。
ユニコーンはじっとその暗闇を見つめ続けている。
耳だけはせわしなく動き回り、明らかに周囲を警戒しているのが見て取れた。
「ふしゅ……」
突如、とげぞうがフードの中で小さく針を立てた。小さく小さく。できれば音は立てたくないが、俺になんとか伝えたい。
そういうメッセージが籠っているような、小さな音だった。
……なんだ……? なにが起こってる? みんな何に警戒しているんだ?
周囲は特別変わったことは起こっていない。
シンと静まり返った回廊を、風が通り抜けていくだけだ。
……いや……静かすぎないか? さっきまで虫の鳴き声もしていたはずだ。いつの間にか風が草を撫でる音しか聞こえない……。
さわさわと、草の音だけが聞こえていた。
――グルアァァァァァァァァ!!!!!!!!
静寂は突如として破られる。
突如として鳴り響いたその巨大な咆哮に、俺はビクリと体を縮こまらせるしかできなかった。
あまりにも唐突すぎ、そしてあまりにも恐ろしすぎた。空気が震え、草木が揺れるほど巨大な音だった。
――ピシュ
その低くて巨大な鳴き声に委縮していた俺の隣を、何かが通過した。
「な……なんだ!? 今何かが横を……」
わけもわからず草むらから顔を出すと、ユニコーンはいまだに草むらに立っていた。
一瞬驚いたかのような体勢をとったまま、固まっている。
……なにしてんだ……? 様子を伺っている……?
俺が不思議に思い、怪訝な顔でユニコーンの姿を見ていた時だ。
――ドサッ。
「ひっ!」
ユニコーンの首が、落ちた。
すぐそこに立っていたユニコーンの首が、ずるりとズレ、地面へと落下したのだ。
一拍置いて、首からは大量の血を噴き出し、純白だった全身を真っ赤に染めながら、ユニコーンの体は力なく倒れた。
……何!? 何が起きたんだ!? なんでユニコーンの首が突然落ちた!? 何かが抜けてったあれのせい!?
一瞬の出来事にパニックになる。
たった今までまるで崇拝するかのごとく心を満たしていたものが、突如としてただの肉塊に変わった。
意味が分からない。
ただ起こった現象は分かる。巨大な鳴き声が聞こえたと思うと、何かが猛スピードで俺の横を通り過ぎ、ユニコーンの首を刎ねた。
……やばい! ここに居たら俺も死ぬ!!
慌てて立ち上がろうと足に力を込めるが、
――グルァァァァ!!!!!
再びあの声が、俺の体の動きを止める。
二回目のその声にも、一瞬委縮をしてしまった。
わかっていても心臓を鷲掴みにされたような恐怖が俺を襲い、動きを止めてしまう。
カタカタととげぞうが震えているのが背中越しに伝わってくる。
……くそっ! なんなんだ一体!? 何が来ている!?
震える体を無理やり動かし、咆哮の聞こえる方向を凝視した。
それは、滝のほう。ついさっき駆け抜けてきた道の方向だ。
……あれは何だ……?
すでに日は沈んでしまい青い月がうっすらと周囲を照らしているが、光量が足りず遠くまで見えない。
そんな暗闇へと続く道の奥に、ちらりと何かがみえた。
「赤い……光り? 」
暗闇へと続く先、漆黒の闇の中で何かが煌めいた。
そしてその光はだんだんと大きくなっていく。
「金色……」
さらに金色の小さな光も二つ、赤い光の脇に灯った。
どうやら光は、すごい速さでこちらに近づいてきているようだ。見る見るうちに大きくなっていく。
「フシュ!!!」
背中でとげぞうが突如針を立てた。その音で、茫然としていた俺は我に返る。
……なにをボーっとしてるんだ俺は! やばい! あれは何かヤバいやつだ!
体中の全細胞が叫んでいた。すぐに逃げろと。
それほどまでにすさまじい威圧を感じた。空気が震え、肌がピリピリとする。
俺はすぐに槍を構えると、後ずさりを始めたのだが、完全に背中を見せて走り出すことができない。
なぜかわからないがどうしても目を離せなかった。
いや、目を離すのが怖かったのだ。恐怖というものの塊が、こちらに向かって迫っていた。
……くそっ!! なんだ!? あの光は一体……
全身から嫌な汗が噴き出る。
とにかく壁際までふらふらと移動するのが精いっぱいだった。
赤い光が見え始めてから数十秒、いや、数秒の出来事だったのではないだろうか。
――グルァァァァァァ!!
三度目の咆哮が鳴り響く。
今度こそ委縮しまいと全身に力を入れるが、どうしても体がこわばり、身をすくめてしまった。
さらに咆哮と共に崖底を強風が吹き抜ける。
まるで道の奥から風が津波となって押し出されたような、すさまじい突風に思わず目を閉じた。
そのすさまじい風に、立っていることができずに思わずしゃがみ込み、足元に生えている草にしがみついた。
あまりの強風に呼吸をするのもつらい。
俺は、とげぞうが飛ばされてしまわないように片手でフードを抑え込んだ。
「はぁ……はぁ……」
緊張と息苦しさから息切れを起こしていた。
強風が吹き止むと、呼吸を整えながらゆっくりと目を開く。
「…………は……はは……」
口から乾いた笑い声が漏れ出る。
何もおかしなことなど無い。
ただ、口から出たものがそれだっただけだ。正に無意識という奴だろう。
乾いた笑いをもらす俺の目の前に――そいつがいた。
その牙はこの世のあらゆるものをかみ砕けるのではないのかと思うほど鋭く、その金色の瞳は絶対者としての威厳を振りまいていた。
肌を覆う鱗は吸い込まれるような青色をしており、頭からは折れた枝のようなごつごつとした角と金色の鬣が生えている。
その長い体は蛇のようでもあるが蛇特有の滑りのようなテカリは無く、ごつごつと荒々しい。
「龍……」
西洋ドラゴンではない。東洋の龍がそこにいた。