ゆびわ
「ひっ……!」
その顔は、まるで鬼のようだった。
ただでさえ獰猛だった牙をむき出しにした顔は、さらに唇がめくれ上がり顔中の皮が中央に寄っているのではないかと思えるほど、眉間に皺ができている。
何よりも恐ろしかったのは、眼。
何もうつすはずのないその暗闇からは、真っ赤な血の涙が流れ出ている。
怒りそのものがあふれ出たかのようだった。
熊は何度も匂いを嗅ぎながら、少しずつ近寄ってくる。
今度こそ逃がすつもりはない。
まるでそういわんばかりに、俺の匂いの一挙一動を見逃すまいとしている。
い……嫌だ、来るなっ!!
巨体がじわじわと近づいてくる。
「ご……ごべんなざい! ごべんなざいゆるぢてぐだざい!!」
気が付くと俺は、熊相手に許しを乞うていた。
口の中が切れ、血が充満していたのと、あふれ出る涙と鼻水で碌に声が出ない。
地面に頭を擦りつけ、無様に土下座をしていた。
恐怖に我を忘れ、自分が何をしているかなんて自分でもわかっていなかった。
とにかく恐怖から逃れたい一心で、頭を地面に擦りつけていた。
「だずげで!! いやだ!! だんでもじまずがら!! 」
だが熊は、そんな俺の姿など気に留める様子もなく距離を詰めてくる。
そしてとうとう、俺の目の前まで熊はやってきた。
「い……いやだ……」
股が、暖かい。
へたり込む地面に染みが広がっていった。
熊は匂いでそのことを知ったのだろうか。一瞬嘲笑したような、勝ち誇ったような顔をしたと思うと、その巨大な腕を大きく振りかぶった。
……死を直前にして、不思議と俺は恐怖から解放された。
全身の力が抜け、まるで世界がスローモーションのように見えた。
あぁ、熊の手が振り下ろされる。
人生の最期が我を忘れた挙句の失禁だなんて最低だったな……。
死ぬ瞬間は見たくない。そう思って目を閉じた。
……終わった。
熊の無慈悲な一撃は、俺の頭へと振り下ろされ、俺はミンチに……。
……
…………
「グオオオオオオ!!」
………………なってない?
「ふしゅ!!」
目を開いた俺の前に居たのは、熊ではなく、イガイガだった。
いつの間にか俺のフードから抜け出したとげぞうは、俺の目の前で熊に威嚇を続けている。
不思議なことに、俺に止めを刺そうとしていたはずの熊は数メートル後方へ下がっている。
一体どういうことなんだ。
何が起こったのか理解できないでいる俺の疑問は、次の瞬間氷解する。
「フシュッ!!!」
とげぞうが一際大きく威嚇音を発し、体を大きく震わせた時だった。
――カカカカッ!!
とげぞうの体から勢いよく針が飛び出し、熊の体へと突き刺さる。
……これか。これが俺を助けてくれた、お前の技なのか。
「グオオオオオオォォ!」
だが、熊は針が刺さっても怯むことなく巨大な咆哮を上げた。
……おそらく、痛みはあるのだろう。だが、所詮刺さっても針。奇襲気味に打った最初の一撃は熊を怯ませることに成功したが、来るとわかってて耐えれないものではないようだ。
熊の標的が、俺からとげぞうへと変わる。
戦意を喪失した獲物より、少しでも邪魔をしてくる奴から叩こうというのだろうか。
……いや、ちがう。
熊が……笑っている?
怒りの表情の中に、笑みが含まれている。
まるで、会いたくて会いたくて仕方なかった親の敵にあったかのような、そんな複雑な表情だ。
俺は恐怖のあまり、熊の顔を凝視し続けたせいで、複雑な表情の変化まで見て取れるようになってしまっていた。
とげぞうは、自分が狙われていると判断した瞬間走り出した。
普通ハリネズミの戦いは待ち一辺倒だ。針を立て丸くなり、細かく跳ねることで相手に針を刺す。
脅威が迫っているときに走り出すなんてありえない。
だが、とげぞうは普通のハリネズミではない。普通のハリネズミの常識なんて当てはまらなかった。
熊から距離を保ちながら、遠くから針を飛ばす。
見事な戦いだった。
熊が匂いでとげぞうの位置を探り当てるよりも早く針を飛ばし、その場からいなくなる。華麗な遠距離からのヒットアンドアウェイ
「……まずい」
一見、見事な戦いを繰り広げているとげぞうだったが、離れてみていた俺の目には、戦車に挑む歩兵にしか見えなかった。
圧倒的に攻撃力が足りない。
さらに最悪なことに、熊の反射速度が上がっていた。
明らかにとげぞうの方向を見定める早さが上がってきている。
近距離での匂いの嗅ぎ分けを、習得してしまったのだ。
だんだんと、熊の攻撃がとげぞうを捕えだす。
とげぞうが針を飛ばそうと立ち止まった瞬間、熊が距離を詰めている。
「きゅ!?」
今のはヤバかった。
タッチの差でとげぞうが居た場所を踏みつぶされる。
……もういい、逃げろとげぞう!
そう思うのだが、体が動かない。声が出ない。
まだ俺の体は恐怖にとらわれていた。
とげぞうが、走りながら俺の方をチラチラと見てくる。
まるで、ボクが囮になるからその間に逃げるんだ! そう言っているかのように。
馬鹿な考えはやめるんだ。お前が逃げてくれ。
そう叫ぼうと口を開くが、声が出ない。
「きゅっ!!」
そして、とげぞうは立ち止まった。
そこは奇しくも、俺が熊に槍を突き立てた場所だった。
とげぞうは、俺の方を見ながら大きく鳴いた。
とげぞうのつぶらな瞳と、俺の情けない視線が交差する。
「や……やめ……」
――轟ッ!!!
とげぞうの立っていた場所を、緑の突風が薙ぎ払う。
土埃が巻き上がり、一瞬視界が遮られた。
「あ……あぁ……」
そして、すぐに視界の晴れたその地面には――
何もなかった。
まるで最初から、そこに何もなかったかのように。
「あぁぁ……ああああああああああああああ!!!!」
何をしているんだ俺は。
無様に命乞いをした挙句失禁して、何をしているんだ!?
立派に戦ったとげぞうを見殺しにして、何をしているんだ!!!
とげぞうが薙ぎ払われた瞬間、俺はキレた。
怒りや悔しさ、悲しみや後悔。様々な感情が入り混じり頭がぐしゃぐしゃになり頭をかきむしりながら奇声を発する。
熊はとげぞうを薙ぎ払ってもなお、追い打ちをかけようとその場に立ち上がり腕を振りかぶっている。
「うわああああああ!!!」
俺はそんな熊に向かって全力で走り、思い切り殴りかかっていた。
もはや何が何だかわからなかった。恐らく俺の顔は醜く歪んでいるだろう。
熊は背中を見せて立ち上がっている。脇腹ががら空きだ。
そう、あの牙の槍が突き刺さったままの脇腹が。
「しいいいいねええええええええ!!!」
――ッゴ!!
思い切り右腕を振りかぶりながら、全体重を乗せて熊の懐に入った俺の拳は――
槍に届くことは無かった。
再び、世界がシェイクされる。
まるで首が取れてしまったかのような衝撃が、俺を襲い、体が地面をバウンドする。
熊のバックハンドブローが、俺に直撃していた。
振りかぶっていた腕を、無理やり俺の迎撃に使ったのだ。
「がああああああ!!」
それでも、俺の動きは止まらなかった。意識を刈り取られる寸前で、神経一本を繋ぎ止め無理やり体を動かす。
この熊と、俺のことを俺は許さない。
とげぞうを殺した熊を、それを見殺しにした俺を、俺は絶対に許さない。
どんな苦痛が襲って来ようと、たとえ死んでも熊に一矢報いることが、俺にとってのとげぞうへの贖罪だった。
だが、そんな思いはボロボロの神経を伝わってくれない。
辛うじて繋がっているだけの神経は、俺の思いを体に伝えてくれず、思うように体が動かない。
力が入らず、ふらふらしながらそれでも俺は熊へと拳を振り上げながら向かう。
熊は、もはや俺のことなど脅威とも感じていないのだろう。
すでにその場に形すら残っていないとげぞうの元へ、俺のことを無視したまま、再び腕を振り上げた。
「おれをおおおおお!! なめんなああああああ!!! 」
ボロボロの体がようやく熊の間合いへとたどり着く。
もはや拳に何の感触も無かった。力が入らない。
根性見せろ!! ここまで来て何を甘えてるんだ!! 動け俺の体!!!
一発でいい、一発を出せる力を。命を燃やしてでも何を犠牲にしてでも動け!!
「燃えろおオオオオ!!」
だが、体はその気持ちに応えることは無かった。
所詮気力だけでどうにかなるのは漫画の世界の話なんだ。
体に裏切られ、目からは涙があふれ出る。
それでも、俺はそのゆるゆるに握られた拳を、体ごと熊へと放った。
抱き付くように倒れこみながら放った俺の拳は、熊の背中に当たりぽふっという力のない音を立てる。
――カッ!
その瞬間だった。熊と拳の接点、その間に挟まれた指輪がまばゆい光を発したかと思うと――周囲は炎に包まれた。
◇
「………あれ?」
気が付くと、俺はヤシの木の街路樹が立ち並ぶ、街の中に立っていた。
道路は広々としており、低いビルが立ち並ぶその町並みは、どこかハリウッド映画かなにかで見たことがあるような景色だ。
見上げた空は綺麗な青色をしており、まるで夏の空のようにカラッとしている。
道路には車が行き交い、今通った黄色いタクシーなど、どこかで見たことある気がするし、道行く人々は、日本人ではなく白人が多い。
「どこだっけここ……?」
記憶があやふやで考えがまとまらない。
「ヘイ! ユーアージャパニーズ? チャイニーズ?」
突然、俺に向かって近づいてきた男が話しかけてきた。
日本人っぽい顔つきをしているが、そうではないらしい。濃い顔をしている。
突然話しかけられた俺が返事をしようと「えーっと・・」とシドロモドロになっていると、
「ジャパニーズだろ! 話しかけて、えー、あー、がきたら日本人だってグランドマザーがいってたからな! 逆にすげぇ勢いで話して来たらチャイニーズだともいってたがな。hahaha! マイアミに来たばっかりか? 観光? ビジネス? ビジネスってこたぁねぇよなその年で!
そ――――――か?」
……マイアミ? 今マイアミっつったか? このおっさん? ここはマイアミなのか?
最後のほうは車の音でよく聞き取れなかったが、どうやらこの男が言うには、ここはマイアミらしい。
男は、返事をせずに考え込む俺のことなど、気にも留めない様子でしゃべり続ける。
「ってことは観光か! マイアミはいいぜ。特にビーチが最高だ! だがビーチで満足してるやつは本当のマイアミをしらねぇ。本当にマイアミを楽しみたいと思うなら俺についてきな。天国へ連れてってやるぜ! お二人様ごあんなーい! あ、お金もってる?」
「あっ! ちょっ!!」
男はネイティブに近い流暢な発音の日本語でマシンガントークをしながら、俺の腕を引っ張るように歩き出してしまった。
俺はわけがわからないまま引きずられるようにして連れていかれ、ふと気が付いたら小型飛行機のシートベルトを締めて離陸していた。
な……なんだかわけがわからん。夢か?
なんだか昔、同じようなことがあったような気がする。デジャヴというやつなのだろうか。
小型の飛行機には、先ほどの男と、通路を挟んだ反対側にもう一人誰かが乗っている。なぜか顔がぼやけてはっきりしない。
この飛行機から見る光景……なんだろ? すげぇ見たことがあるんだよな……ってかこのおっさんも見覚えが……どこで見たっけ?
必死に記憶を探る。
日本じゃない。テレビでもない。もっとごく最近、身近なところで見た気がする。
頭の中を必死に探りながら、視線を自分の膝に向けると、大きな指輪のハマった手があった。
「思い出した!!!! あの夢!!!!」
そうだ、数日前に見た夢の中と同じ光景だ。完全にこの構図だった。
「デニー……」
俺が男の名前をつぶやいた瞬間だった。頭の中で、なにかがカチリとハマった気がした。
「思い出した……これは……俺が遭難した日の出来事……」
前を向き、デニーを見ると、彼は後ろを振り向いてニッっと笑い、サムズアップをした。
「おい! デニー!!」
そうデニーに呼びかけた時だった。指輪が突如大きく光り――爆発した。