おってきたもの
「……へ?」
俺の口から間抜けな声が漏れる。
だが、それも仕方ないだろう? たった今俺の隣を猛スピードで駆け抜けた、1トンはありそうなほどの黒い塊が、重力を無視して横にぶっとんだのだ。瞬時に処理しろと言う方が無茶だ。
そのまま牛はゴロゴロと転がり、漸く止まったかと思うと二度と動かなかった。
呆気にとられる俺の、視線の先に居たのは――
両手を広げた剛腕の熊だった。
「グオオオオオォォォォォォ!!!!!」
熊は俺たちの方を向くと、腹の底が震えるほどの巨大な鳴き声を上げた。
あまりの迫力に、思わず尻餅をついたまま後ずさりをしてしまう。
あいつだ、拠点に襲ってきたあの熊だ。
こいつが牛を吹き飛ばしたのか? なんて力だ……!
だが、様子がおかしい。
口からはよだれをぽたぽたと垂らし、喉からは低いうなり声を常に発している。
一番異常なのは……目だ。
目が――無い。
鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにしたその顔と同じく闘志を宿すはずだった目は、腐れ落ちかろうじて神経のような糸でぶら下がっている。
片方は完全に神経まで腐りおちてしまったのだろうか。ただそこに暗闇があった。
「な……!?」
おかしい、一体こいつに何があったんだ?
以前アリと戦っていた時はもちろんのこと、拠点を襲撃に来た時も、しっかりと二つの眼は光を宿していたはずだ。
一体この数日の間に何が……?
さらに、今までうるさいほど森の中に響いていた木々をなぎ倒す音が止んでいる。
今、音のしていた方向にいるのはこいつ。
つまり、俺たちを追っていたのは……こいつだということだ。
「グオオオオオオォォォ!!!」
俺が熊を観察していると、熊は再び巨大な雄叫びを上げ、両手をぶんぶんと振り回し出した。
何をしているんだこいつは……?
熊はむやみやたらに手を振り回しながら俺の方へと近づいてくる。
近くに生えている木に腕が当たっても全く気にせず、その木をなぎ倒しながら迫ってくるのだ。
その巨体から繰り出される剛腕のラッシュは、まるで緑の竜巻だ。
俺はそのあまりの迫力に動くことができなかった。
「フシュ!」
とげぞうがフードの中で威嚇をする。
その音で我に返った時には、すでに熊は目の前まで迫っていた。
……間に合わないっ!!
俺は思わず地面に身をかがめ、丸まりながら目を閉じた。
どうしてこんな行動をとってしまったのかわからない。とっさに出た動きがこれだった。正直下策というしかない動きだった。
暗闇の中ブンブンという、剛腕が風を切る音だけが鳴り響いていた。
恐怖で体が強張る。
だが、いくら待てども、覚悟した衝撃が俺を襲うことは無かった。
恐る恐る目を開き、音のする方向に顔を向けると、熊は俺を通り過ぎてもがむしゃらに腕を振り回しながら前へと進んでいた。
やがて数メートルもその調子で進むと、腕を振り回すのを止めた熊が、鼻をヒクヒクと動かしながら周囲の気配を探り出す。
そしてすぐに俺の方を振り向くと、再び腕を振り回しながら向かってくるではないか。
「うわあああ!」
俺の口から無意識に悲鳴が漏れ、走り出す。
おそらく奴は、俺の匂いを頼りに襲ってきている。
明らかにあの目は見えていない。だからこそ、急にしゃがみこんだ俺の姿を見失ったのだろう。
だが、それでもこんな化け物を相手にするのは無理だ。
5メートルはあろうかという巨体で、さらに腕が丸太よりも太い熊が、がむしゃらに襲ってくるのだ。その威圧感と言ったらすさまじいものだった。恐怖に負けた俺は、パニックになっていた。
そのせいだろうか、俺は大事なことを忘れていた。
すなわち、この熊が、いつから俺たちのことを追ってきていたかということを。
最初に熊の気配を感じたのは、熊の巨大な咆哮が、かすかにしか聞こえないほど離れていた時だったはずだ。
すでに熊はその時に俺たちを発見していたからこそ、一直線に俺たちに向かって進み続け、早足で移動する俺たちに追いついたのだ。
つまり――
熊は、どこまでも俺達を追ってきた。
いくら逃げても、逃げきれない。
まるでブルドーザーのように前方にある障害物を払いのけながら、熊が迫ってきていた。
「も……もう、走れない……」
この森に来てからというもの、俺は自分の体力が以前よりも格段に上がったと思っている。必死に走り回り、何度も死にかけた挙句、それでも走り回っていたのだ。日本に居た頃の俺の体力では確実に耐えられないほどの運動量だ。
確実に俺の体力、スタミナは向上している。
だが、それも先日の病気騒ぎと断食により、体調は万全とはいいがたく、向上したはずの体力は見るも無残に低下していた。
体力が尽き、動きが止まった俺の背後から、バキバキと言う木々を倒す音が迫ってくる。
何だって言うんだ一体。この熊は何故俺をこんなにも執拗に追いかけてくるんだ。
何か恨みでもあるってのか?
再び俺の目の前に姿を現した熊は、俺が動きを止めたのを匂いで察したのだろうか。動きを止めて再び周囲の匂いを嗅ぎ始めた。
どうやら熊は、遠ければある程度の位置を把握でき、近くなり匂いが濃くなると距離感が把握できていないようだ。
おそらく視力を失い、嗅覚だけに頼り始めてから日が浅いためだろうか。
だが、それも徐々に修正されているらしい。
慎重に匂いを嗅ぎながら俺の方向へしっかりと顔を向けてきた。
虚となったその瞳と、視線が交差する。
……なんだあれは?
先ほどは気づかなかったが、熊の目周辺に何かが刺さっている。
毛の中に隠れて気づきにくかったが、明らかに毛と違うものが瞼周辺に数本。一瞬まつ毛かと思ったが、どうも様子が違う。
さらに、ぶら下がっている、腐り果て萎んだ眼球にも同じものが刺さっているように見える。
なんだ……?
一瞬気になるが、そんな余裕は俺には無かった。
狙いを定めた熊が、俺に向かって突進してくる。
今度はむやみやたらに腕を振り回すのではなく、まるで抱き付くかのように両手を広げながら近づいてくるではないか。
すごい勢いで距離を詰めてくる熊。
だが、俺は先ほどとは違い冷静だった。
走り回ったことでいい塩梅に血圧が不安を押し流してくれたのだろうか。
熊から目を離さず、冷静に進行方向からズレる。
「グオオォォォォ!」
熊は、俺のいた場所へと、その両腕の剛腕でストンプした。
俺がさっきまで立っていた地面へ、熊の全体重が乗せられ、大きく陥没する。
すさまじい威力だ。
こんなの食らってしまったら一瞬でひき肉にされてしまうだろう。
……食らったら、な。
俺は熊のななめ後ろからその姿を眺めていた。
ほんの数歩、熊の進行方向からズレただけなのだが、熊はそれを察知することなく俺の元いた場所へとそのまま攻撃をしてきた。
今、俺の目の前には四つん這いになったことでがら空きの、熊の脇腹があった。
……逃げられないなら、戦うしかないだろう!
俺はついさっきまで存在も忘れていた槍を握りしめる。
ずっと手に持っていたはずなのに、恐怖のあまり戦うなんて選択肢が無くなって忘れてしまっていたのだ。
冷静になった今、再び槍の存在を思い出し、自分にも牙があるということの意味を漸く理解した。
俺は、戦える。
「くらえっ!!!」
俺は気合を込め、全体重を乗せて熊の脇腹へと槍を突きだす。
槍はがら空きの脇腹へと吸い込まれていった。
思っていた以上に、感触が無かった。槍はあっさりと熊の体深く突き刺さっていく。
あまりにあっさりと刺さりすぎ、思わず前のめりに体のバランスが崩れてしまうほどだ。
「グガアアアアアアアッ!!!」
熊が苦悶の声を上げる。
どうだ!! これが人間様の力だ!! ちっぽけな人間だって牙さえ持てば――
――ッゴ!
突然世界が、グチャグチャにかき混ぜられた。
凄まじい衝撃で、俺の体が宙を舞う。
一瞬で視界が二転三転したかと思うと、俺は地面を舐めていた。
「ガ……ッ! ガハッ!」
朦朧とする意識の中、必死に状況を把握しようとするが視点が定まらない。
だんだんと鈍い痛みが遅れてやってくることで、意識がはっきりしだす。
そしてようやく、何が起きたのかを思い出せた。
どうやら俺は、吹き飛ばされ、地面をバウンドしたらしい。
槍が突き刺さり、バランスを崩したあの時、熊が苦痛のあまり腕を振り回したのだ。
その結果、肘打ちの形で脇腹周辺にいた俺に、熊の腕が当たった。
当たったのは偶然だった。さらにヒットポイントもズレているその力任せの肘打ちが、俺の体を木葉のように吹き飛ばした。
「肩が……」
意識が鮮明になり、体を起こそうとして異変に気付いた。
左の肩がだらりとぶら下がったままで、腕に力が入らない。
折れてしまったらしい。
それはそうか、あれだけの衝撃で、逆に腕一本で済んだ方が奇跡だ。
俺は上半身を起こすと、茫然としながらだらりと垂れた腕を見つめていた。
ガンガンと金づちで殴られたような鈍い痛みがするが、糸が切れた人形のような腕は現実的ではなく、どこか他人事のような気がする。
調子に乗った結果がこれだ。
なにが戦えるだ。
俺はこんなにか弱くて、愚かなのに。
少し離れていた場所で、がむしゃらに暴れていた熊の動きが止まった。
思わぬ反撃を受けた混乱から回復したようだ。
槍の突き刺さったままの脇腹を気にしながらも、周囲の匂いを嗅ぎ始めた。
そしてゆっくりと、俺の方へ顔を向けた。