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 現実は現実として受け入れなければならない。

 電車に乗って自宅に戻ると、休日出勤の昭二はもう家にいなかった。

 少しほっとしたような気分になるのは、なぜなのだろう。

 昨日、途中で投げ出した夕飯の支度がそのままになっていた。打ち付けたフライパンを元に戻し、漬け込んでいた肉はそのまま冷蔵庫に仕舞った。

 保温のままになっている米を保存容器に入れ、室温まで冷ます。

「よし」

 声に出して、一度水道で手を洗った。

 傍に置いてあるハンドクリームを塗りながら、メモ帳とボールペンを探し、ダイニングテーブルに座る。

 ハンドクリームの油っぽさが消えるのを待ち、ボールペンを手にする。いつだったか「ペンの持ち方を直しなさい」と真吾に言われたまま、まだおかしな持ち方で字を書いているので、公の場に出ると恥かしい。

 まずは、子供が早く欲しいのか、いつでもいいのか。

 早く欲しいのなら、不妊治療をするつもりはあるのかどうか。

 協力は惜しまないのか、自分は協力しないつもりなのか。

 自分の機能検査は受けないのか。

 少しベージュがかったメモ帳に、ボールペンの黒が滑る。

 順を追って書き出し、読み返した。うん、これでいいと思う。

 少しでも納得いかないところがあれば、とことんまで話し合うべきだと思うし、あまりに意見の相違があるのなら......夫婦関係を解消せざるを得ない。

 私だっていつしか子供は欲しいと思っている。だけど仲違いしながら急いで子供を作ろうとして自分を追い込むなんて、辛い。そこで子供が出来たとしても、昭二との夫婦関係はきっと円満にはならないだろうと思う。

 休日出勤という事もあり、今日は早く帰ってくるだろうと思い、昨日作る筈だった豚肉の味噌漬け焼きを作る手順を頭の中で追った。


 夕闇が迫ってきても、まだ昭二は帰ってこなかった。十一月の日没は早い。もう少し待ってみようと、本棚から文庫本を持ってきて読み始めた。

 それから数十分と経たない間に、昭二から電話が掛かってきた。

「もしもし」

『あ、俺。今日、上司と呑みに行くから遅くなるわ。夕飯いらないし』

 私は読んでいた文庫本のページをくしゃりと握った。

「分かった。気を付けて」

 今日は私が一方的に通話を切った。

 昨日私が家を出て行った事を意にも介していない様子の昭二が、憎らしかった。

 日曜なのだから、私が既に夕飯の用意をしている事ぐらい分かっている筈なのに、こうしてぎりぎりに連絡を入れて来る事が腹立たしかった。

 何より、今日は不妊治療の事で話がしたかったのに、それが出来なくなった事が不満だった。

 平日はまた、午前様の毎日だ。来週まで話はお預けだ。

 一人分の豚肉の味噌漬焼きを作り、残りは冷凍した。

 それにしても、上司と飲みに行くなんて珍しい。彼は「上司」「部下」という関係が苦手で、会社の飲み会から帰ると「行かなきゃ良かった」と私に怒りをぶつける事が常だった。  嫁がプチ家出した事を上司に相談でもするんだろうか。そう考えるとざまあ見ろという気分にもなる。


 私は昭二に振り向いて欲しいのだろうか? 突き放して欲しいのだろうか? 自分の中に答えがあるはずなのに、何となく見当がついているくせに、混乱する頭の中が整理しきれなかった。


 風呂から上がり、テーブルに置いたままだった文庫本の、くしゃっと折れたページを手で少しずつ伸ばし、本棚に仕舞う。

 この怒りの感情が、ストレートに昭二にぶつけられたら楽なのに。彼の前では萎縮してしまう。

 家庭の主導権は昭二が握っていて、私は何も意見出来ないのだ。自分を殺して生活しているのだ。結婚する前は、こんな事無かったのに。きちんと愛せていたはずなのに。


 寝る前に、睡眠剤を飲むか迷い、実験的に飲まずにベッドに入った。

 暫く携帯小説を読んでいたが、一向に眠気は襲ってこず、結局睡眠薬を飲んで再度ベッドに入った。

 昨日、睡眠剤が無くても眠れたのは、やはりあの手の温もりの存在が大きかったのだと痛感した。真吾の事を考えながら、深い眠りに落ちて行った。



「昨日は遅かったの?」

 今日もまた無言で新聞を掴み、ダイニングに座った昭二に声を掛けた。

「遅くても早くても、お前は熟睡してんだから関係ないだろ」

 吐き捨てるように言ったその言葉の意味が良く理解できなかった。彼を不機嫌にする要素は、そこには何もないはずだ。

「話したい事があったんだけど、次の土日にする」

「また不妊治療の事?」

 片側の眉を上げながらこちらを見遣ったその顔が、人を小馬鹿にした様な笑いを含んでいて、胸の中に苛立ちの渦が巻いた。

「そう。方針を考えなきゃって」

「あ、そう」

 新聞に目を落として株価を見ていた。「おぉ、いいな」と声に出している。

 私はウンザリして彼から目を離し、食器を片づけた。

「じゃぁ先に行くから」

「あぁ」

 顔を上げないままで答える彼からは、愛情の一欠けらも感じられなかった。私は昭二の家政婦じゃない。そんな思いが胸につのった。



 そう言えば最近、昭二は新聞で株価の変動を気にするようになった。

 毎日の残業と休日出勤、自宅は借り上げ社宅で殆ど家賃を払っていないような状況で、彼の口座にはどんどんとお金がたまっている。

 株にでも手を出しているんだろうか。そんな予感がする。

 家計の分担は何となく決まっているが、残ったお金に関してはお互い自由にしている。

 それにしても、大きなお金を動かす「株」に手を出すのだとすれば、少しは相談があってもいいのではないかと思う。


 真吾には、私から連絡を取る事は無かった。立場上、やはりいけないような気がしたからだ。

 水曜日に『大丈夫か?』とメールを貰ったが、それが不妊治療に関する話し合いの結果についてだろうと思い『まだ話し合ってない』と返信した。

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