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 パスタと紅茶のセットを注文し、テーブル席についた。私は先程買ったばかりの本を取り出し、目次をさっと眺めた。

 これなら、昭二も読んでくれるかもしれない。「不妊症に対する男性の関わり」という項目が目を引いた。女性向けの本ならでは、な記載だ。

 昨日、婦人科を受診するまでの間、長い事基礎体温をつけていた。毎朝起きたらすぐに体温を測り、記録する。生理が来れば生理日を記録。

 婦人科で行われる検査は、まぁ、気持ちのいい物ばかりではなかった。

 不妊症ではまず女性に負荷がかかるんだなぁと、そう思ったが、子供が産める「女性」性に生まれて来た事に後悔はしていない。


 隣に座った男性が「煙草吸ってもいいですか?」と話しかけてきた。

 私は本に目を落としたまま周辺視野にちらつく彼に「どうぞ」と言った後に、気づいた。この店は全席禁煙だ。

「あの、ここ禁煙......」

 隣に座る笑顔の男性を見て、目を疑った。心臓が痛い程に震えた。

 そこにいたのは紛れもない、私のかつての恋人、幼馴染、堺真吾だったからだ。

「何でこんなとこにいるの......」

 私は恥ずかしげも無く双眸を彼にじっと向けたままだった。心臓は早鐘を打つが如く、喉から飛び出さんばかりだ。

「さっき本屋で恵が隣のレジにいたから、尾行してきた」

「いや、そうじゃなくてさ」

 何でここに、この駅に、真吾がいるんだ。

「俺、この駅が最寄駅だから」

 彼はサンドウィッチを片手にひと口齧ってから「職場もね」と言った。

「奥さんの......事故の後、実家には戻ったんじゃないの?」

「だって仕事場が横浜なんだから、戻る筈ないだろ」

 それもそうか。それにしたってこんなところで会うなんて。真吾から外した視線のやり場に困った。聞きたい事は沢山ある。フォークを持つ右手の震えをどうにかしたかった。

「えっと、真吾はよく来るの?このショッピングセンター」

 私は左手で右手を押さえつけて訊く。

「あぁ、週に三回ぐらいはこのカフェで夕飯食って帰ってるな」

 今まで出会わなかった事が奇跡的だとすら思えてきた。私だって週に三度はこのショッピングモールに買い物に来るのだから。

 彼はもぐもぐとサンドウィッチを口に運びながら「二年ぶり、ぐらい?」と訊いた。

「そうだね、真吾の家にちょろっと顔を出した時以来だもんね」

 ふと、スミレ色のワンピースが頭をよぎる。整った顔。涙ぼくろ。

「あの、お葬式行けなくてごめんね、ってこんな時にする話じゃないんだけど」

 彼はふと頬を緩め「いいんだよ、急だったんだから」と言って飲み物の飲んだ。少しコーヒーの香りが鼻を掠めて初めて、それがコーヒーである事が分かる。

「で、恵は何してんの、こんなところで」

 私は夫の帰りが遅く、週に数回は一人で外食している事を話した。彼はぼんやりとした相槌を打つと、テーブルに裏を返して置かれた本に目をやる。

「さっき本屋さんで何の本買ったの?」

 無遠慮なその語り口が、昔のままで、そこにいる人物が紛れもない堺真吾である事に胸を撫で下ろす。

「不妊症の本。まだ確定じゃないんだけど、なかなかできなくて」

 ピンク色のその本をちらりと見せると「おぉ」と言いながら手を伸ばしてきた。

 指と指が触れた。瞬間、電気が走ったような感覚に見舞われた。真吾と触れ合うなんてそれこそ、何年ぶりだ。何を照れているんだ、中学生じゃあるまいし。何の反応も示さない真吾を少し恨めしく思う。

 彼は本をぺらぺらと捲ると「悩んでんの?」と横目で私をちらりと見遣る。

「悩んでなきゃ買わないでしょうが」

 なるべく深刻な言い回しにならない様に、笑い飛ばした。が、後で後悔した。

「いいよなぁ。俺なんてもう、種しかないからな」

 その言葉に、返す言葉を持ち合わせていなかった。彼はどうあがいても、あのスミレ色のワンピースを着た彼女との間に子供をもうける事は不可能なのだ。

 たった一年、子供が出来ないからと言って、軽はずみに「悩んでる」なんて言うんじゃなかった。耳に髪を掛け、一度深呼吸をする。

「あの、ごめん。それ仕事にも使うからさ。汚したらまずいから」

 そう言って彼からその本を取り返し、手提げ袋に戻した。器に残っているパスタを口にした。

「旦那とは、うまくいってんの?」

 真吾は私の嘘を見抜くのが得意だ。私の顔色や表情で分かる、と言っていた。それは何度も言われた事で、きちんと記憶に残っていた。だからとて久々に会った過去の恋人に「夫とは不仲で」なんて言えない。ぎこちなく取り繕った笑顔を向け「まぁね」と答えた。

 真吾は一口コーヒーをすすったあと、顔をこちらに向け、ひとつ、笑った。

「それ、嘘だろ」

 やはり。

「恵は昔っから、嘘が顔に出るんだよなー。恵が笑う時は、もっと可愛く笑うもんな」

 そう言われ、自分が赤面しているのを感じ、顔を伏せた。彼は「あはは」と軽く笑った。

「そういう正直なところがお前のいい所だし、旦那さんもそういう所に惹かれたんだろ」

 遠い目をしながらコーヒーを飲む彼の横顔に、暫く見入ってしまった。

 何も変わっていない、あの頃と。

 あの頃の真吾がそこにいた。私の手の届く範囲に、手の届かない存在として、そこに座っている。すぐそこに。彼の愛した人は、手の届かない世界へと旅立って行った。

 レシートの様な物を細かく細かく折りながら「どこに行っちゃったかと思えば、こんなに近くにいるんだもんな。幼馴染が」と言って、私の方を向き、あの頃と同じように笑って見せた。

 どうしてそんな風にして、私に笑いかけるの。一気に過去がフラッシュバックしてくるようで、座っているのに眩暈を覚えた。

 すっかり空になったパスタの皿が載ったトレーを持って「あの、そろそろ行くわ」と急いでもいないのに急いでいるふりをして席を立とうとした。

「あ、ちょっと待って」

 呼び止める彼は、鞄からスマートフォンを取り出した。

「連絡先、訊いてもいい?」

 意外な頼みごとに戸惑い、自分のスマートフォンの在処が分からなくなって焦った。

「ちょ、待って、あった」

 鞄の奥底からスマートフォンを取り出し、メールアドレスを教えた。

「そしたら後でメールするから」

「うん、それじゃ」

 そう言い残していそいそと店から出た。



 店を出てからも、彼のあの笑顔が頭に焼き付き離れなかった。

 あの頃のまま、何も変わっていない。奥さんを亡くし、失意のどん底を味わったはずの彼が、あの頃と同じ笑顔で私を迎えてくれている。

 それは嬉しい事ではあったが、無理をさせているのではないかと不安でもあった。


 帰宅をし、誰もいない家の中の電気を一つ一つつけていく。玄関、廊下、ダイニング、リビング。結婚する前からだ、慣れている。

 スマートフォンがメール着信を告げる音を鳴らした。真吾からだった。

『偶然ってあるんだなぁ。会えて凄く嬉しかったです。色々と悩みを抱えてそうだな。顔に出てるよ、うん。バツイチの俺で良ければ話し相手ぐらいならなれるから。何かあったらメールする事。んじゃね』

 その文面が、あまりに心に近すぎて、温度が高すぎて、私は正気でいられなくなり、力の抜けた膝がフローリングへと吸い込まれるようにその場でへたり込んで、涙を流してしまった。

 あの雪の日、彼とのピリオド。他に道はなかったんだろうか。こうして出会ってしまっては、そんなどうしようもない事を考えてしまう。

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