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 翌日、朝早くに家を出た。昭二と顔を合わせたくなかった。

 最低限、朝食の用意だけはしておいた。


 まだどのお店も開いていないので、とりあえず職場の近くにある図書館に入った。

 適当な文庫本に手を伸ばして席についたが、どうにも落ち着いていられなくて、本を本棚に戻した。

 目についたのは「離婚Q&A」という本だった。

 私は食い入るようにその本を読んだ。

 慰謝料は、婚姻関係を破綻させる原因を作った者に対し請求する事ができるらしい。という事は、昭二にも、相手の女にも請求できるという事だ。

 私と昭二の間と全く同じような判例が載っていて参考になった。

 ただ、相手の女が堕胎したいと言い出したり、夫が「堕胎させるから」という場合もあるようだ。

 まぁ昭二の場合、子供をあれだけ欲しがっていて、しかも電話で喜んでいたところを見ると、堕胎はないだろう。

 慰謝料と財産分与、そうだ、財産分与。彼は株をやっていた。財産分与は可能な筈だ。

 苦しめられた分を金銭で相殺するなんておかしな話だが、それ以外に相手に苦しみを分からせる方法がないのだから仕方がない。


 その本と似たような本を二冊借り、鞄に入れ、開店と同時にディーバに入った。

 ランチセットの海老とアボガドサラダ丼を頼み、日向の席に座った。

 さっき借りてきた本をまた、読み始めた。

 例え亡くなった人とその相手であっても、不貞行為を行った人間には慰謝料を請求できるらしい。

 幼馴染二人して、配偶者に浮気されるなんて。そう思うと少し可笑しかった。そんなに隙だらけの二人なんだろうか。そんな二人がずっと付き合っていたなんて、何だか。

 丁度ランチタイムに入り、俄かに店内が混み始めた頃、メールが届いた。真吾からだった。

『その後大丈夫か?話なら聞くから。今日の夜、仕事終わったら連絡するから、駅の辺りにいてくれる?』

 やれやれ、心配性な幼馴染を持ったな。目尻に浮かぶ涙は無視して『待ってます』とメールを送り返した。

 画面をロックした液晶に映り込んだ自分の顔が、やけにやつれて見えて、すぐにポケットに仕舞った。


 それから少し気晴らしにと、気に入っている店をぶらぶらと回ってみたものの、何の気晴らしにもならず、結局図書館に戻って借りていた本を読みつつ時間を潰した。

 これ程までに読書が趣味で良かったと思った事はない。

 夜はショッピングセンターのカフェに行き、夕飯を食べた。いい加減離婚の本に飽きて、スマートフォンの小説を読みながらペンネを突いた。

 カフェ内はがやがやしていて、もう少し落ち着いたところに行きたいと思い、ディーバに移動しようとした所で真吾から電話が掛かってきた。

「もしもし」

『今どこにいる?』

「今ショッピングセンターを出て、歩いてるよ」

『俺の家、覚えてる?』

「うん」

『来れる?』

 私は足を止めて暫く考えた。私が不貞行為をしなければいい話だ。

「うん、行くよ」

 そう言って電話を切った。



「どうぞ」

 通されるがままリビングに入るといきなり「顔、酷いな。やつれて」と言われた。

 むっとしがた、「むっとしてた方がいいぐらい、やつれてる」と言われ、肩を落とした。

「で、何で黒だって分かったの?」

 二人分の発泡酒をテーブルに置き、前と同じように二人してラグに座った。

 プルタブを引き、金属がペリっと剥がれる音がした。

「まずは食器棚の散らかり様、ワインのコルク、ワイングラス。極めつけは、香水の匂いがついたベッド」

 真吾は額に手を当て「恵の旦那は馬鹿なのか」と言う。

「指摘した時の動揺の仕方からすると間違いないと思う。それに......」

 私は言葉に詰まった。言おうとすると、のどがぎゅっと締まり、代わりに勝手に涙腺が緩もうとするのだ。何故だ。

「何、どうした?それに?」

 口元が歪み、引き攣る。私は俯いて、勝手にぽたぽたと落ちていく涙を眺めていた。自分の双眸から流れ落ちているはずの涙が、人ごとのように思えてくる。

「恵......」

 真吾は私のすぐ隣に来て、私を抱き寄せた。

 声を出したくても、声にならなかった。声を出したくても、嗚咽にしかならなかった。

 暖かな真吾の手のひらが、私の背骨一本一本を確かめるように、ゆっくりと上下した。

 私は真吾の太腿に凭れるようにして身体を倒し、くぐもった声で言った。

「相手の女は、妊娠したみたいなの」

 そう言い終えた時にはまた溢れ出して止まらなくなった涙が、真吾のデニムを濡らしていく。十数年も嗅ぎ慣れた、彼の匂いがした。

「それは、辛いな」

 ぽつりと言って、また私の背中を擦った。

「旦那さんは恵に何か言ってきたの?」

 小さい子供に声を掛けるように、柔らかい調子で訊く真吾が、優しかった。

「何も。これから何か言ってくるのか、隠そうとするのか分からない」

 そうか、と擦る手をトントンと軽く叩く手に替える。

「動きがあったら、怯むなよ。おして参る!だからな」

 私は少し笑おうと顔を歪めたけれど、うまく笑えかなかった。手で涙を拭いながら身体を起こした。

「今日、泊まっていきなよ。俺は明日休みだから全然構わないし、庁舎なら駅からすぐでしょ」

 コクリと頷くと、彼は押入れから先日のハーフパンツとTシャツを持って来た。

「湯船は入れないけど、シャワーなら使えるから」と言って、タオルも手渡してくれた。

 私は言われるがままシャワーを使わせてもらい、部屋着に着替えた。

 入れ替わるように真吾がシャワーを浴び、同じような格好で出てきた。

「もう一杯呑むか」

 そう言って、発泡酒を二本持ち、リビングに戻ってきた。

「相手が認めたら、離婚するの?」

 そう、現実を見なければいけない。泣く事なんていつだって出来る。

「そのつもり。慰謝料ふんだくってね。今日図書館で色々調べた」

 発泡酒をぐっと呑み、真吾を見て笑った。

「凄い行動力だな。じゃぁ相手に認めさせるか、相手が何かを言うのを待つか、だな」

 そうだね、と言ってラグの毛足をいじった。相手の女性を妊娠させているのだ。隠し通す事なんて無理な話だろう。この数日で動きがあるはず、そう考える。

「話変えていいか? 恵に相談がある」

「何?」

 真吾は発泡酒を呑み、一度顔を顰めた後、切り出した。

「バレンタインに、後輩の女の子に告白されたんだ」

「へ?!」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、口を押えた。

「嫁と死別してる事も知ってて、それでも付き合って欲しいって」

 私は視線が定まらなかった。まだ誰の物にもなってほしくなかった。真吾はまだ、私を諦めないでいて欲しかった。

 だけどそれは口にしてはいけない事であって、大人としての対応が求められる。

「う、ん、知ってて告白してくるんじゃ、相当腹を括ってるって事でしょ? いいんじゃない?」

 首を傾げて真吾を見ると、彼の顔は曇っていた。

「その子の事、どう思ってるの?」

「いや、別にどうも思ってない、いい子だと思ってたけど。告白されたらやっぱりちょっとは意識しちゃうでしょうが」

 その割には曇った顔が気になる。

「なら付き合っちゃえばいいんじゃない?」

「そんなもんかな」

「別に結婚するわけじゃないんだからさ」

 さらにその顔を曇らせ、俯いてしまった。

「そんなもんかな、恵の意見って」

「へ?」

「何でもない。そろそろ布団敷くか」


 前回と同じように、二組の布団が敷かれた。前回と同じように横並びで歯磨きをした。

 真吾の左側の布団に入ると、ふかふかの白い布団は、以前よりも少し香水の匂いが薄れていた。時間の経過をうかがわせる。

 付き合っちゃえばいい、そんな風に言ったけれど、真吾が離れていくのが怖かった。

「ねぇ、私の一生のお願いの、二回あるうちの一回を使わせてもらってもいい?」

 電気を消した暗い部屋の中で私は天井に向かってそう言った。

「良かった。俺はもう残り一回だから、使わずに済みそうだな」

 私が布団から右手を出すと、彼は左手を伸ばして握った。暖かさが、身体に伝わる。穏やかな眠気が私を誘う。

 今日は真吾より私の方が、先に眠りについてしまう、そう思った。



 スマートフォンのアラーム音で目が覚めた。

 真吾もその音で目を瞬かせたが、「いいから、寝てて」と言うと、再び眠りへと入って行った。

 私は昨日来ていた服に着替え、歯磨きだけを済ませた。化粧なんて別にいい。

 部屋を出ようとして気づいた。鍵、閉められないや。

 再び和室に戻り「真吾」と声を掛けると「んー」と大きく伸びをして上半身を起こした。

「起こしてごめん、鍵、閉めてくれるかなぁ?」

「あぁ、別に開けっ放しでも良かったのに」

 首の後ろをぼりぼりと掻きながら玄関まで歩き、眠そうな顔で「応援してんからね」と言ってくれた。

 昨日よりは幾分ハリを取り戻した顔で「ありがとう。よく眠れたし、頑張れそう」と言い、「じゃぁ」とドアを閉めた。鍵が掛かる音がした。

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