虹色蝶と音楽会
それは暑い夏のことでした。
夏休みのある日、マイちゃんは家から少し離れたところにある雑木林で蝶を捕っていました。
雑木林の中は、耳が痛くなるほどにセミの鳴き声が響いていますが、木々が日の光を和らげてくれるので、外よりもずっと涼しいです。ときおり優しい風が汗ばんだ体を撫でていきます。
せわしいセミの音が一瞬止むと、どこかで小川の流れる音も聞こえてくるのです。
マイちゃんは蝶が大好きでした。
アゲハ蝶にモンシロチョウ、ミドリシジ。それぞれの蝶が美しい羽を羽ばたかせて、花の周りを飛び回っています。
一度虫取に出かけると、いつも虫籠を蝶で一杯にして家に帰ります。でも、1日その蝶たちを眺めると、ちゃんと逃がしてあげます。
やっぱり蝶が一番綺麗なのは、花の周りを飛んでいる時だと、マイちゃんは知っているのです。
その日もいつものように、虫籠にはたくさんの蝶が入っていました。
もうすぐ日が暮れ始めるので、これで最後にしようと飛んできた蝶を虫取り網で捕まえます。逃げださないように慎重に網の中に手を入れて、捕まえた蝶を取り出すと、その蝶は今まで見たこともない羽を持っていました。
それは、虹色の羽をした蝶でした。なんと、その羽は見る度に、色が変わるのです。
こんな蝶はどんな図鑑でも見たことがありません。噂で聞いたことさえありません。
マイちゃんはこの蝶をよく見てみようと思い、急いで虫籠の蓋を開けて、今まで中に入っていた蝶をすべて逃がして、この虹色の蝶だけを篭の中に入れました。こんな蝶を捕まえたのだから、他の蝶を逃がしてもちっとも惜しくありませんでした。
篭の中を飛び回る蝶は、やはり羽ばたく度に羽の色が変わっていきました。赤かと思ったら青くなり、青は黄色に、黄色は緑にと、その色を変えていきます。
「ひょっとしたら、私は新種の蝶を発見したのかもしれないわ」
マイちゃんは思わず、篭を持って小躍りをしてしまいました。
すると、鼻の上に雫が落ちてきました。
「え?」
空を見上げると、いつの間にか大きな雨雲がマイちゃんの頭上に広がってるではありませんか。その間にもポトリポトリと雫は落ちてきて、マイちゃんが雨だと気付いた時には、ポロポロポロポロと、たくさんの雨が空から降ってきていました。
雨は、あっという間に激しい大雨になりました。
「天気予報では、今日は1日中晴れだったのに……」
マイちゃんは篭の中の蝶が濡れてしまわないよう、気をつけながら走りました。
すると、眼の前に大きな屋根の付いたベンチが現れました。
「あんな所にベンチなんてあったかしら?」
マイちゃんは不思議に思いましたが、今はそれどころではありません。とにかくこの雨をしのぐため、迷わずベンチの中へ飛び込みました。
マイちゃんの体はすっかりずぶ濡れです。靴の中もグショグショで、あんまり気持ちが悪いので、靴と靴下を脱ぎました。
強い雨音が屋根から聞こえてきます。
幸い夏の雨だったので、寒くはありませんでしたが、マイちゃんはなんだか悲しい気持ちになってきました。
だから、また篭の中の虹色の蝶を眺めることにしました。この蝶を見ていると、幸せな気分になってきて、いつ止むか解らない雨の下にいても、ちっとも待つのが辛くありませんでした。
そうやって、しばらく蝶を眺めていると、ベンチの中にずぶ濡れの猫が入ってきました。
猫はプルンプルンと体を震わせて雨を振り払うと、ヒョコリと2本足で立ち上がり、ベンチの端っこに腰掛けました。
そしてマイちゃんを見つめて、
「こんにちは」
と、挨拶をしました。
「あ……、こんにちは」
マイちゃんも、つられて挨拶をしました。
「あの、失礼ですが、何か食べ物はお持ちではございませんか? 長旅ですっかりお腹が空いてしまって……」
猫は申し訳なさそうに言いました。
マイちゃんはお昼のサンドイッチが残っているのを思い出し、濡れたリュックからそれを取り出すと、パンをちぎって、猫に差し出しました。
「はい、どうぞ」
「これは親切にどうも」
猫はパンを受け取ると、ペコリとお辞儀をして、パンを食べました。
マイちゃんもついでに残っているサンドイッチを食べました。
パンを食べ終えて一息つくと、猫は大きな屋根に隠れた雨空を見ながら言ったのです。
「それにしても、今日は良い天気ですね」
マイちゃんは驚いて聞き返しました。
「この大雨の、どこが良い天気なの!?」
マイちゃんの反応を見て、猫は不思議そうな顔をしました。
「何を言っているんですか? だからもってこいの天気じゃないですか。ははぁ、あなたは、今日ここで何があるのか、知らないのですね?」
「え? いったい何があるの」
猫はニヤリと笑いました。
「雨の音楽会ですよ」
雨の音楽会? それはいったいどんな音楽会なのか、マイちゃんが尋ねようとした時、ベンチの周りの林がガサガサ揺れたかと思うと、そこからたくさんが動物が現れました。
犬に猫、狐や鹿、なんと熊や猿もいます。そして、セミ、バッタ、カブトムシに蝶といった虫たちまでやってきて、屋根の下へと入ってきました。
マイちゃんはギュウギュウと動物に挟まれて、すっかり身動きが取れません。
「おやおや、人がいるぞ。珍しい」
マイちゃんに気付いた熊が言うと、他の動物たちも珍しそうにジロジロとマイちゃんを見ました。
もうマイちゃんは訳が解りません。
その時です。
「そら、はじまりますよ」
最初にやってきた猫が言いました。
途端に、さっきまでざわついていた動物たちも虫たちも、みんな黙って耳を澄ませました。
ボタバタ ボタバタ ボッ ボッ ポツ
ボッ ボッ バタボタ ポツ ポツ ボタタ
気のせいでしょうか?
ただ屋根に当たるだけだった雨の音が、だんだんリズムを取っているような気がします。
ザザーザ ピチピチ パラパララ
屋根だけではありません。
草木に当たる音も、水溜まりに雫が落ちる音も、雨が降ることで生まれる音いう音がドンドン合わさって、まるで音楽を奏でているように聴こえます。
ゲーココ ゲココ ゲココゲコ
更に、その演奏に合わせて、カエルたちまで合唱を始めました。
ザーザザザンザー パラパララン ボタボタタン チョン
ゲーケロロンロン ピッチョタン パラポロピッ チョン
ボタタンタン シトシトタン
ケロロン ゲロロン ザンザカザー♪
これが雨の音楽会でした。
このベンチは客席で、この音楽会を聴くために、動物や虫が集まってきていたのです。
雨はいろんな物にぶつかって、いろんな音を奏でます。それは、まるでオーケストラのようでした。
マイちゃんもすっかりこの音楽会に感動して、聞き入りました。
雨はいろんな曲を演奏します。優しい曲やゆったりとした曲。はげしい曲に切ない曲。
そして、踊り出したくなるような楽しい曲がはじまると、動物たちは我慢できずに屋根の下から飛び出して、踊り出しました。
マイちゃんが2本足で器用に踊る動物たちに眼を丸くしていると、猫が声をかけてきました。
「あなたも、一緒に踊りましょう」
「うん!」
マイちゃんも勢いよく外に飛び出します。生暖かい雨が、再びマイちゃんの体を濡らします。でも、もうちっとも不快ではありません。
マイちゃんは、ちゃんとダンスを踊ったことがありませんでしたが、動物たちのダンスを見ていると、何故だか体が自然に動きました。
裸足の足から、濡れた草と土の感触が伝わってきます。柔らかい草、少し固い草、水溜まり。踊って足を動かす度に、伝わってくるのは違う感触です。
マイちゃんは楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。なんだか自分が自然の一部になったような気がしました。不思議と、ちっとも疲れません。
マイちゃんは、動物たちと一緒にずっと踊りました。
やがて、ゆっくりと雨は止み、雨雲はどこかへ行ってしまいました。辺りはすっかり暗くなっていて、雨雲の去った夜空には綺麗な月が輝いています。
音楽会は終わったのです。
動物たちも虫たちも、拍手する代わりにそれぞれの方法で大きく鳴くと、来た時と同じように林の中へ消えていきました。
最後には、マイちゃんと猫だけが残りました。
「さて、それじゃあ私も失礼しよう」
そう言って帰ろうとした猫は、ベンチに置かれたままのマイちゃんの虫籠に気が付きました。
「ははぁ、そう言う訳か」
納得したように頷くと、猫は虫籠を手に取りました。
「あなたはこの虹色蝶を捕まえてしまったのですね」
籠の中には相変わらず虹色に変化する羽を持った蝶が飛び回っています。
「この蝶は、本当は決して人に見つかってはいけない蝶なのです。だけど、あの音楽会を見るためにここへ来て、運悪くあなたに使ったしまった。本来は人が観ることのできないはずのあの音楽会を、あなたが観ることができたのは、つまりこの蝶を捕まえたからなのです」
その話を聞いて、マイちゃんはようやく納得しました。
まるで不思議の国に迷い込んだようなさっきまでの出来事は、確かにこの虹色蝶を捕まえてから起こったことでした。
「どうでしょう。この蝶は逃がしてあげてはいただけませんか?」
本当は、マイちゃんはせっかく見付けたのこの美しい蝶を、逃がしたくなんてありませんでした。
でも、あんなに素晴らしい体験ができたのがこの蝶のお陰なら、やっぱりお礼をしないといけないと思いました。
だから、マイちゃんは猫から籠を受け取ると、そっと蓋を開けました。
虹色蝶は籠から出てくると、自由になった喜びを噛み締めるように周りを飛び回ってから、まるで何かを伝えるように水溜まりに波紋を1つ作って、羽の色を変えながら夜空へと消えていきました。
マイちゃんは最後に虹色蝶がしたことがなんなのか気になって、水溜まりの覗いてみました。そこには月が綺麗に映っていました。
その水面の月がまるで掴めそうなぐらいはっきりと映し出されているので、マイちゃんは思わず水溜まりの中へ手を入れてしまいました。すると、その手は月を掴んだのです。
水溜まりから抜き出されたマイちゃんの手には、野球ボールほどの小さな月が輝いていました。
「きっと、逃がしてくれたお礼でしょう。灯りも持たず夜道を歩くのは、危険ですからね。」
確かに、これを持っていれば懐中電灯の代わりになるので、夜の林を抜けられそうです。
「さて、それでは私も失礼します。ごきげんよう」
後ろからそう猫の声が聞こえたので振り返ると、そこにはもう2本足で立つ猫も、大きな屋根の付いたベンチも、ありませんでした。
マイちゃんがベンチに置いておいたリュックと、靴と靴下だけが、眼の前に転がっていました。
小さな月を頼りに林を進みながら、マイちゃんはさっきまでの出来事が、まるで夢だったような気がしました。
でも、今この手には月がある。これがさっきまでのことが夢ではない何よりの証拠。
しかし、無事雑木林を抜け出して、マイちゃんが街灯の灯りに照らされると、手の中の月はまるで魔法が解けてしまったようにサラサラと砂になって飛んでいってしまいました。
あれだけ濡れていた体も、いつのまにかすっかり乾いています。
マイちゃんは不思議の国の夢から覚めたアリスのような気分でした。
それ以来、マイちゃんは夏になるともう一度虹色蝶を見付けようと雑木林へ向かいました。
けれど、あの綺麗な蝶に再び出会うことも、あの大きな屋根の付いたベンチを見付けることも、2度とありませんでした。
おしまい