7.カッパちゃん
高校を卒業すれば、時間的な自由は格段に広がる。コックを志すことは母にも祖母にも話して、了解を得ていた。
家を離れると言ったときも、二人は寂しがったが、私の希望を尊重してくれた。
恋人のヴィーノも夢の実現のためなら、行くべきだと賛成してくれた。
料理人としてさまざまな料理を本場で学びたい。そう思った私が次の国に選んだのが日本。
日本は祖母の母国だ。彼女からもたくさんのことを学んだ。言葉はもちろんのこと、習慣、芸術など多岐にわたって。華道、茶道の師範免許を持つ祖母は良いお手本だった。
マスティマに入るなら必要だろうと、彼女の知り合いから空手や柔道も習った。どれも私に合ってるように思えなくて長続きしなかったけど。
日本料理の基礎を教わったのも祖母からだ。
料亭の料理長を勤める人と知り合いとかで、話をつけてくれたのも彼女。
ここまでは実にスムーズ。
だが、ひとつ問題が起こった。
ブルーノさんだ。彼が納得してくれなかった。そんな遠くへ行くなんてとんでもないと大反対された。日本には暴力団というものもあるのだと脅されもした。
だけど、日本は世界で一番治安が良いと聞いている。祖母という存在があったので、身近に感じられる国だ。
「私はもう小さな女の子じゃないんです」
自分の手の届くところにいろと言う彼をそう説得した。
根負けしたのはブルーノさんのほうだった。「頑固な子だね」と彼は諦め交じりの笑みを浮かべていた。
直行の飛行機でも十二時間もかかった。
日本は遠い国だ。
初めて本当に親元を離れての生活。不安はあるけど期待のほうが大きい。
空港からタクシー乗り、たどり着いたのが、料亭きらく。見事な日本庭園を抱える有名どころだ。ここで日本料理を学ぶことになる。
師匠は、合羽鉄三郎という名前の人で、愛想もなければ口数も少ない人だった。年齢五十歳くらい。日本人にしては大柄で、角刈りの頭にげじげじの太い眉が特徴。愛用の下駄を鳴らして調理場を仕切っていた。
料理は教えるものじゃない。自分で見て学び取るものだ。そんな信念の持ち主だった。
私は師匠の後を付いてまわった。やることが早い。私が見ているのを知っているのに、決してゆっくりやってはくれない。
こんなの無理だと口にしたら、そんな根性なしはいらないと言われた。
そんなふうに突っぱねられると、燃える性分だ。それこそ目を皿のようにして、師匠の技を見つめた。
ひと月を迎える頃には、目が慣れてきて細かい部分も分かり始めた。同時に師匠の凄さが身に染みる。体が大きいのに料理は実に細やかで繊細だ。その上、早い。
真似から入ろうとしてみたが、なかなか思うようにいかない。
師匠から時折突っ込みが入る。じっと持っていたら魚が煮えるとか、鈍ら包丁では素材が台無しとか。
一言一言が重い。自分の不器用さが恨めしい。
「まるでワンちゃんね」
仲居さんに言われてしまった。私がいつも師匠の後を付いてまわっているからだ。
早朝の仕込みにも連れて行ってもらった。それは活気ある魚市場。
取引の声が大きく飛び交う。生きの良い海産物の種類の多いこと。さすが島国、寿司の国、日本だ。
薄紅色に輝く魚の美しさに目を奪われていると声をかけられた。
「そいつは良い鯛だ。良い目をしてるねえ、お嬢ちゃん」
頭には捻り鉢巻、板前の格好をしたその人は師匠の知り合いで、「合羽さん」「ヤマ」と呼び合っていた。たまたま連れてきたという息子さんは私と同じ年くらいで、明るくて優しい笑顔の持ち主だった。
師匠が言うには、この「ヤマ」さんは、超一流の寿司職人らしい。
「合羽さんとこなら間違いはねえ」と彼からは頑張れと応援の言葉までもらった。
こんな風に、普段は口数の少ない師匠ではあるが人望は厚い。
上得意のお客さんにも慕われて、時折お呼びがかかる。その時ももちろん離れない。師匠の背中を追いかける。
「カッパちゃん」
顔なじみの古くからの常連さんにそう呼ばれていた。合羽はカッパとも読むかららしい。
「今一番期待している弟子です」と師匠はお客さんに私を紹介してくれた。嬉しさがこみ上げる。そんなふうに思ってくれているなんて知らなかった。
「……で、お前なんて名前だ?」
え? 今さら名前って。ここに来てもう一ヶ月ですよ、師匠。
「そりゃないだろ、カッパちゃん」
私の代わりにお客さんが突っ込んでくれた。
ミシェルですと名前を言っても師匠はぴんと来ないみたいだ。なんでそんな難しい名前なんだと逆に聞かれる。大天使ミカエルにちなんだ名前だと言うと彼は頷いた。
「じゃあ、お前はミカだ」
決定だった。
まさに修行三昧。誰よりも早く厨房に出て、遅くまで残る。学ぶことは山ほどあって、無我夢中だった。新しい知識を得るということは楽しいことだ。
ちょっと前までできなかったことが、少しずつできるようになって。なるほど、そうかと思えることが増えていく。全てには理由があって結果があるのだ。
実家が寿司屋だという師匠は、握りもできた。その技の見事なこと。惚れ惚れする。
これは遊びだからと前置きしていたが、口に入れるとほどけてしまうシャリは、本物の寿司職人と同じレベルのものだと思えた。
私にも握らせてください。そう言うと周りの料理人たちから横槍が入った。
外人の、それも女がやることじゃない。だいたい女は体温が高いし、手に雑菌も多いのだと。
外人だからできない? 女だから無理だ? それに加えて迷信じみた理由。そんなの納得できるわけがない。私たちの間に静かな火花が散る。
「遊びに付き合うか、ミカ」
師匠の一言が火の粉を吹き飛ばした。
私が習ったのは小手返しという握り方。料亭の仕事が終わってから、師匠が教えてくれた。この人には足を向けて寝られない。そんな思いと共に、絶対に報いて見せる、習得してみせると決意が高まった。
手を氷水で冷やしたり、握る力やスピードを変えてみたり。試行錯誤を続けて、ほぼ一年かけて完成させた技に料理人たちは驚きを隠さなかった。あの時は悪かったと詫びてくれた。
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