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3.悪意ある天使

 こうして、ずっとイタリア料理一辺倒だったが、しばらくすると欲が出てきた。それにマスティマのコックを目指すなら、レパートリーが多いに越したことはないはずだ。

 あるとき、レオが勉強にと連れて行ってくれた、フレンチ・レストランでの料理を口にして決心がついた。

 レオは驚いていたようだったが、快く紹介状を書いてくれた。

 パリで料理の修業をする手はずを整えてくれたのだ。どうせやるなら、本場で学んだ方がいいというのが彼の意見だった。

 もちろん、その頃まだ十五才。学生だったので、夏休みや冬休みなど長期の休みのときだけだ。その間、レストランの一画を仮住まいとさせてくれるということだった。

 父親が英国人でよかった。父が生きている頃、家の中では三ヶ国語が入り混じって飛び交っていた。父の英語、母のイタリア語、祖母の日本語。ナチュラルなトライリンガル教育だ。

 フランス語はできなかったため、最初は英語と身振り手振りで会話を成立させた。

 新たな先生であるジャンは、シェフでありながらも経営者としても有能な人だった。レストランはパリだけでなく、リヨン、マルセイユ、ニースに四店舗を展開していた。

 くるくると渦を巻く金髪のせいで、本の裏表紙を飾るポートレートは芸術家を思わせた。

 ちなみに彼の書いた料理本はかなりの売れ行きらしい。テレビ番組でもコーナーを持っていて、業界どころか巷でも有名人。そんな彼の料理は、質も伴っていて、上品でいて豊潤なもの。

 分刻みのスケジュール。多忙な人なので毎日教えてもらえるわけじゃない。だけど、パリに戻った際には、朝一番とか閉店直前とか、少しでも時間を割いて様子を見にきてくれた。

 もっぱら指導してくれるのは兄弟子たちだった。

 弟子といっても、いつひとり立ちしてもおかしくない立派な料理人たち。私以外の三人はみんな男で、年上であり、妹分として可愛がってくれた。

 私は人間関係に恵まれていると思う。嫌いとか生理的に受け付けないとかそういう人が回りにいたことがない。

 そんな人は世界の外にいて、私とは関わりを持たない人たちなのだと信じていた。

 だが、十七才の夏休み、世の中そんなに甘くないことを知った。

 私の前に現れたのは、師匠であるジャンの息子のカミーユ。

 二十歳だという彼は、天使のように見えた。長身で、父親譲りの金色の髪は絵画の天使のような巻き髪で、鼻筋は通り、薄青の瞳は大きくてパッチリとしていた。要するに美男子で彼自身もそれを自認していた。

 跡継ぎとして勉強のため、店にやってきたと聞いていたが、私には他の目的でとしか思えなかった。

 始まりは店のウェイトレス。

 兄弟子の一人との仲を引き裂いてしまった。兄弟子は失望の末、店を去ってしまった。

 ひどいことをするとは思ったが、本気ならば仕方がないのかもしれない。そう善意的に考えていたのだが、状況が変わってきた。

 その彼女とも長続きせず、他のウェイトレスにも手を出し、ついには女性客にまで及び始めたのだ。

 私は彼が好きじゃなかった。自慢の髪を梳きながらの調子の良い語り口。父親の財産をちらつかせる言い草。一度に何人も関係を持ち、それをひけらかす節操のなさに至るまで。

 どうしてあんな立派な人の息子がこんな風なんだろう。世の中は理不尽だと思い知らされる。

 とにかくこういう人には関わらないのが一番。そっと遠くから見守ろう。そう決めた矢先のこと。

「ねえ、ミシェルはこんな仕事、本当にやりたいと思ってるわけ?」

 なるべく避けていたのに、ついに火の粉が降りかかった。

「コックは面白いですよ、ロジェさん」

 ファミリーネームで言い返す。ファーストネームで呼び合う仲ではない。今までほとんど話したこともないのに。

 それに料理人の息子なのに、父親の仕事を馬鹿にしているような言い草。胸にもやもやしたものが溜まってくる。

「そうかな。割に合わない仕事じゃない? 朝早くから夜遅くまでなんて。僕の彼女にはそんな仕事はさせたくないね」

 なら、どうして厨房なんかに入ってくるんだろう。私は好きでやってるんですと叫びたくなった。

 だけど、彼は、師匠にしてオーナーの息子。腐ってもなんとやらというやつだ。

 声を上げる代わりに、生ゴミで膨れたビニール袋を手に取った。途端に退く彼の前を抜けて勝手口を目指す。思ったとおり、彼は付いて来なかった。

 これで一安心、こちらが気のない素振りを見せれば、相手にだって伝わるはず。そう思っていたのだが、違った。

 この日以降、カミーユは何かというと私の傍に来て、自分をアピールし始めた。

 お茶をしないか、遊びに行かないか。言葉での誘いも尽きない。

 兄弟子たちも来るからと飲みに誘われたこともあった。それならと行ってみたら、彼しかいなくて、二人で並んで座ったカウンター席で急接近。手を握られたり、肩を抱かれたりした。唇が耳たぶに触れそうな位置での甘い囁き。さらに太腿まで触られた。

 これには驚いてグラスをひっくり返し、中身を彼のズボンにぶちまけてしまった。さすがに気まずくなって、ひとしきり謝った末、店を出た。

 誘いには乗らないことに決めたのは、この一件だけのためではない。閉店後の店でウェイトレスと二人っきり、濃厚な親密さを匂わせる場面に出くわしたのも理由の一つだ。

 事前か事後かどちらとも取れる雰囲気。それも付き合っているはずの人とは別の人だった。

 カミーユという人はどうも、恋人なんてその場にいなければ、フリーと同じ。そんな考えの持ち主のようだ。

 誘い文句は挨拶代わり。断られてもまったく気にする様子がない。

 こちらの都合なんて聞く耳を持たず。奇妙なプライドが耳を塞いでいるのだろうか。自分に関心を示さない女なんてありえないというような。

「ねえ、僕のなにが気にいらないわけ?」

 ある日、とうとうそんなことを尋ねられた。

 一人残って最後の片付けをしているときだ。今日は店を閉めるずっと前に姿を消したのに、また戻ってくるなんて思いもしなかった。

 私は鍋を磨くことに集中する。この心理的拷問のような状況から逃れるには鍋こすり、つまりは現実逃避しかない。

「どうやったら仕事をしやすいか考えたりしないの、君は」

「……どういう意味ですか、それ?」

 私は手を止め、初めて彼へと向く。思わせぶりに目を細めた姿はもう天使とはほど遠い。口元に浮かんでいるのは意地の悪そうな笑みだ。

「別に。頭を使ったら分かることだろ」

 自分になびかない女は愚かだとでも言いたいのだろうか。

 彼の思考回路はまったく分からなかったし、理解したくもなかった。私は小首を傾げただけで返すと、磨いた鍋を棚に戻し、今度は包丁を引っ張り出した。

 刃の様子を翳して曇りを見る。後ろに気配がまだあるので振り返った。

 カミーユは滑稽なほどに慌てて距離をとった。私がキレて、これでブスリとやるとでも思ったんだろうか。大事な調理用の包丁をそんなことで台無しにするわけがないのに。

 これまた自前の砥石を取り出して、刃を砥ぎ始めると、さすがに諦めたらしい。足音が遠ざかっていった。

 ふうと息をつく。料理を学ぶためにここに来たのに、これじゃ集中できない。そうでなくても夏休みの間の短期決戦。ほかの事に気持ちを割いている余裕はない。

 前途は多難だと思わざるを得なかった。

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