2.魔法の国
庭に流れてきた刺激的で芳醇な香り。これはニンニクと唐辛子。源はきっとアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノだ。
夕食前だった私のお腹が何よりも正直に反応する。その音に傍にいたラッテが驚いたほどだ。
お腹を押さえながら、そろりと地面から立ち上がる。
父も家でよく作ってくれたっけ。そのペペロンチーノの匂いによく似ている。私は引きつけられるように匂いの流れてくる窓に寄っていった。
窓の向こうには白衣の背の高い男の人。コックの姿だ。ブルーノさんより年配そうだが、その背筋はピンと伸びている。痩せ型で灰色の薄い頭髪。細い眉は神経質そうに見える。
彼は窓の外に私の顔を見つけると、微笑んだ。
「お嬢ちゃん、お腹すいてんだろう。入っておいで」
そう声をかけてくる。
これがブルーノさんの家の料理人、レオ・デ・サンティスとの出会いだった。
レオの料理は父のものとは、まったく異なっていた。
まとまりがあって優しい父の味に対し、おおらかでエネルギーを感じさせるもの。
それは、何かにつけ彼の料理を味わうようになった私の実感だった。同時に興味がわいた。
父とは違う白衣姿。料理をする彼の背中を見るたびに、うずうずと高揚した気分になった。
父の死後、墓場のように感じていた厨房は、春を迎えたように息吹に満ちた。これこそ魔法の国だ。またここに戻ってこられようとは。
間もなく十三歳になろうとした頃、私はレオに料理を教えて欲しいと申し込んだ。
私にはおそらく他に才能はない。だけど、料理人としてなら、きっとやっていける。腕を磨けばマスティマのコックにだってなれるかもしれない。そう確信めいた思い込みが私を衝き動かしたのだ。
あの夜の事件で、ブルーノさんは脊椎を痛め、やがて車椅子に頼ることになった。そんな生活を少しでも豊かにしようと部下が捜してきたのが、レオだった。
ブルーノさんより七才年上のレオは、ホテルの料理長を退職して間もなかった。何人もの後輩を一人前に育てた実績は伊達ではなかった。
中学校の放課後、駆けつける私を決して子ども扱いしない。彼の信条は、厨房に立てば男も女も若いも老いもないというものだった。
最初は掃除や皿洗いに始まり、下ごしらえと徐々にやることがランクアップしていった。
間違ったことをすればマシンガンのようにノンストップで咎められる。弁解の暇なんてない。私はカカシのように突っ立ち、嵐の過ぎ去るのを待つだけだ。
だが、彼の求めに応じることができると、これまた盛大に褒めてくれるのだ。
「お前は天才だな、ミシェル」
私の頭をわしわしとかき混ぜる。三つ編みに結った髪が一気にボサボサになってしまう。
上機嫌に笑い声を上げるレオは、この時ばかりは印象がまるで違う。一見、偏屈な頑固親父のように見えるのに。
飴と鞭は使いよう。まさにその言葉を実践しているような人だった。
レオ以上に私を後押ししてくれたのは、厨房を訪れる、一人の客だった。
「お腹すいたー。なんかなーい?」
そう言って、駆け込んできて、行き倒れのようにテーブルに突っ伏す。
私の姿を見つけて、顔を輝かせるこの子はソニア。ブルーノさんの孫娘だ。
最近近所に越してきたという彼女は、毎日のように祖父の家を訪れた。彼女曰く母親の料理よりもレオの料理の方が美味しいからだそうだ。
Tシャツにデニム地のオーバーオールという服装。短く刈られた栗色の髪のせいで、男の子と間違えられることも多いらしい。
ややつり目な瞳とちっともじっとはしていない様子は、イタズラ好きの子猫のようだ。
平均の身長より低く、私より一回り小さい体は、彼女の炎のような気質を覆うには頼りないように見えた。
いつも喧嘩に勝って、誰それを泣かせたと得意げに語っていた。しかもその名前からして、みんな男の子。
彼女の体には生傷が絶えず、服が破れていることもしばしばだった。
「みんな弱っちーもん。敵じゃないよ」
ぱっぱと服をはたきながら、あっけらかんと笑う。頬の絆創膏は勲章みたいなものだ。
私より一つ年下、一人っ子だという彼女は私を姉妹のようだと慕ってくれた。
レオに料理を習い始めて、最初に作った料理を味わってくれたのも彼女だった。
オーダーはミラノ風リゾット。
スプーンが口に入るまでドキドキだったが、ソニアは目を丸くして言った。
「爺にも食べさせてあげないと。私だけ食べたら、きっと怒られるよ」
そう言いながらもスプーンは止まる様子を見せない。一気に食べ上げてしまう。
何よりもの賛辞。あまりの嬉しさに彼女を抱きしめた。
この日から、ソニアは私の試験官になった。
彼女の言葉は率直で、ごまかしがなかった。レオも認める味覚の持ち主で、決して中途半端なことは口にしない。不味いときは不味いとはっきりと言われたし、一口目の表情を見たら分かる。へつらっての二口目なんて決してない。
それでも、美味しいときにはこちらが舞い上がってしまうほど褒めてくれるのだ。
天井を見上げての感嘆の声。「ほっぺが落ちそう」とか「美味しくて死んじゃいそう」とか。
飛び切りの笑顔で料理を頬張る彼女を見るのが、私の一番の原動力となった。
人に喜んでもらえる物を作りたい。当時のことを振り返ってみると、料理人の原点ともいえるその思いは、この頃培われていたように思う。
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