9.弟子入りの条件
その条件は、項燕さんが放って落ちたみかんを取ってくること。
なんだ、簡単じゃないかと思っていたら、彼は台所の裏口からすたすたと外に出て行ってしまった。後に続いて扉をくぐると、屋敷の裏は山になっていた。斜面の山肌を木々が覆っている。
彼はみかんを無造作に放り投げた。それは傾斜が緩やかな地面に転がった。
楽勝だと笑みをこぼしながら、歩み寄る私の目の前からみかんが消えた。一瞬何が起こったのか分からず、私はみかんのあったはずの空間を凝視するだけだ。
繁みがざわっと揺れる。そこにいたのはサルだった。それも一匹や二匹ではない。周りの木々にいるのはサルの群れだ。その中でひときわ大きく、頭頂部を金色に輝かせているサルが枝の上でみかんを頬張っていた。
「美味いか、悟空」
項燕さんが満足そうにかっかと笑う。
そういうことか。これはみかんを単に持ってくるだけではない。その前にサルとの争奪戦を勝ち抜かなければならないのだ。
項燕さんが私の様子を窺っているのが分かる。きっと諦めることを期待しているのに違いない。そんなに簡単にくじけてたまるもんですか。
「もう一回お願いします」
私はこの難題をクリアすべく、立ち向かうことを決意した。
もちろんうまくはいかなかった。
人間とサルとを比べたら、彼らの方が素早いに決まっている。それにあっちは団体、こっちはひとりだ。
その日は項燕さんに十個も放ってもらったが、みかんに近付くことすらできなかった。
おまけに次からは一日三個までと制限を決められた。
これは長期戦になると覚悟を決めた私を項燕さんの娘さんは気遣ってくれて、寝泊りする部屋と三食を用意してくれた。
着替えは子供たちの服と同じもの。子供用サイズで足りることがちょっぴり悲しい。だけど、袖を通すと自然と気合も高まった。
勝負のとき以外、何をして過そうかと考えた私は、子供たちに混じって項燕さんの動きを真似することにした。
片足立ちでのゆっくりとした動き。難しい。グラグラなの私だけだし。
周りからくすくす笑い声が聞こえる。思ったより妙な動きになってしまっているようだ。
項燕さんがこっちを見る。笑い声がぴたりと止んだ。
たくさんの子供たちが寝泊りしながら学ぶ、この場所は拳法道場だった。
朝、昼、晩と一日計八時間の稽古、その間に教師の資格を持った娘さん管轄の学業の時間が入る。
項燕さんは料理だけでなく、武術の師匠でもあったわけだ。
この人の凄さはすぐに分かった。私よりも小さくて、年もいっているのに人並みはずれて機敏だ。
毎朝、夜が明ける前に起き出して何処に行くかと思えば、向かう先は裏の山。背負った大きな籠を目印に、何度かこっそり付いていってみたものの、あっという間に見失ってしまった。あの人の身軽さは尋常ではない。野生のサルでさえ超えている。
聞いたところによると、滝での禊が日課。天候や季節も問わず、欠かさないという。
弟子達の朝食用に取ってくるさまざまな食材。籠に入っている量が半端ではない。
背丈からの対比からいって、籠が歩いているように見える。かなりの重さになると思うのだが、いつも背筋は伸び、平然としていた。
おまけに常に裸足だ。娘さんによれば、師匠にとって靴はよそ行きの服みたいなもの。怪我なんて無縁で、靴を履いているときは指が広げられなくて窮屈だと不満を漏らしているとのことだ。
子供の頃からの習慣だからと、弟子達には勧めていないようだけど。
項燕さんが伝えている拳法は独特で珍しい流派。
調理器具を模した大型の武器を使って戦うのが最終形態だという。よくよく見ると、長い棒だと思っていた腰紐に差さっていたものは、大きな菜箸だった。
他にも大きな中華包丁や金串、お玉を模したもので型を披露する子供たちもいた。
中でも圧巻だったのは師匠の見本演技で、背よりも大きいのではないかという巨大な中華なべを操っていたことだ。武器にして防具になりえるそれを扱うことは、もっとも難易度が高く、技術が必要らしい。
軽々と扱い、宙を舞っているように見える中華なべを感嘆のこもった瞳で子供たちは見守る。
私もまた見とれてしまったが、物を持って戦うより、私には先になすべきことがある。
まさに小猿より俊敏な動きをする子供たちに学ぶ。彼らは鈍くさい私を笑う。年上だからとか変なプライドは捨てることにした。素早さでは私はランク外なのだから。
垂直な壁さえも何メートルか駆け上がることができたり、地面に刺さった竿の上を渡れたり、投げつけられるボールをことごとく避けることができたり。彼らの身体能力は別格だ。
私は壁にはぶち当たって倒れるだけだし、ボールはどんどん当てられた。これだから、竿の上なんて問題外。大怪我確定だ。もちろん回避した。
体が付いていかない。弟子入りの条件であるみかんは取れる気配もない。
だけど、ここで諦めたら項燕さんの弟子にはなれない。私は、手ぶり身振りで教えてくれる子供たちのアドバイスを無駄にしまいと真剣だった。
どうやったらみかんが取れるのか。
分析を重ねた結果、スタートダッシュが重要だという結論に至った。つまり、サルが手にする前に、私が取っていればいいわけだ。
だけど、スピードがおっつかない。おまけに項燕さんは私の狙いに気付いたのだろう、フェイントを使うようになった。
地面に落ちるまでにみかんを手にすることができなければ、あとはサル達から奪うことになるわけだが、あっちは大勢だ。追いかける私の前を飛び交うみかん。
仲間同士でみかんを投げ合って喜んでいる。私は手を上げて右に左に走り回る。情けなく、タコ踊りでも踊っているような気分だ。
それでも何回も繰り返していると法則性を見出すようになった。みかんを最初に取りに来るサルは決まっている。それが一番素早いサルで、最後にボスである悟空の元に運ばれるのも決まっている。それまでのやり取りは不規則に見えるが、時折パターンがあることに気付いた。
日が経つに連れて、私自身も変わり始めた。
道場にいる子供たちと同じ食事を取り、同じような修行を繰り返す。最初のうちはすぐへばって座り込んでいたが、持続時間が少しずつ延びていく。体も締まり、筋肉が付いてきた。どうも運動だけでなく食事の内容にも秘密があるようだ。
項燕さんの作る料理は、成長期の子供たちのための栄養を考えたものでありながら、高蛋白で脂肪分の低いものを主としている。プロのアスリートが食べるものに近いことに気付いた。
とにかく、私の運動能力も次第に向上し、身軽になった。木に登ることにも慣れ、気分だけはもうおサルさんだ。
みかんに後少しで手が届くまで接近できるようになり、サル達を脅かした。
一度など、右手に掠ることができたのだが、サル達に手痛いしっぺ返しを食らった。噛み付かれ、引っかかれ、おまけに木からも落ちた。
その晩には高熱が出て、寝込むことになった。項燕さんは愚痴を言いながらも薬湯を作ってくれ、飲ませてくれた。その酷い味には驚いたが、翌日の朝には熱が下がり、体も楽になった。
項燕さんの娘さんにまで、いい加減にしたらと諭されたが、二日後には布団から起きだして、朝の修行に参加した。
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