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8.小爺(シャオイェ)

 日本に来てから一年半あまりが経った。

 合羽師匠曰く、客に出しても恥ずかしくない料理を作れるまでになっていた。

 前に私が口にしていたこと、いろいろな国の料理を学びたいとの言葉を師匠は覚えてくれていた。

 世界の三大料理といえば、フランス、トルコ、中国料理。トルコには伝手はないが、中国料理なら一押しの人物がいると彼は言った。

「弟子を取るのはやめたと聞いたんだが」

 紹介状は書いてやれるが、保障はできないとのことだった。

 そんなことは直接会って、直談判すれば良いだけのこと。すぐさま中国へ渡ることを決意した。だけど、その前にやるべきことをやらなきゃならない。

 私はイタリアへと舞い戻った。


 ブルーノさんを説得するのは困難を極めた。

 日本へ行くと言ったとき以上だ。過激なチャイニーズ・マフィアの血生臭い話まで出てきた。

 この上、彼が渋い顔をすると分かっている話題を振らなければならない。

 それは日本や中国まで足を伸ばす本当の理由。マスティマのコックを目指しているのだと告げることだった。

 情報を集めて入り方を調べて欲しい、あなたにしか頼めないことなんですと。

 当然ながら、ブルーノさんからは拒否された。

「それじゃあ、別の人にお願いするしかないですね」

 私としては、ソニアに頼るつもりだったのだが、ブルーノさんはまったく違うふうに捉えたようだ。

 別のマフィアにでもコックとして入り、その伝手でマスティマに接触するとでも思ったらしい。私の筋金入りの頑固さは彼もよく知っている。

「君を他の連中に任せるわけにはいかんよ」

 溜め息混じりに呟いて、彼は部下に命じて手配をしてくれた。マスティマにコックを求める動きが出たら、すぐに知らせてもらえるように。

 沈黙に沈むブルーノさんに、申し訳ないという気持ちがこみ上げる。彼は純粋に私を気遣ってくれているだけなのに。それでもイタリアにいろという要望に沿うことはできない。

 廊下に出て、閉じた扉の前で詫びと感謝の言葉を口にする。

 そして、私はその足で中国に飛ぶため、空港へと向った。


 合羽師匠は中国語ができない私に気を配ってくれた。

 空港に降りるとすぐ現れたのは、師匠の知り合いだという現地の人。金さんという青年。

 英語ができる彼のお陰で助かった。バスを乗り継ぎ、時にはヒッチハイクめいたことまでやって。中国語が分からない私だけなら、たどり着けなかっただろう。

 目的地は近代的な都市部とは真反対の場所。山奥で、舗装もされていない道路の先にあった。赤い煉瓦の壁に囲まれた平屋建ての大きな館。その中に合羽師匠が紹介状を書いてくれた人物、婁項燕ロウ コウエンさんがいるらしい。

 門から建物まで石を敷いた道は一直線で、その脇に広がる空間はグラウンドのようだった。むき出しの土の地面が広がっている。

 こういうのが中国の庭なんだろうかと不思議に思いながらもガイドの金さんの後に続く。

 館の玄関前で待たされること数分。明らかに私より年下の男の子が出てきて、金さんに一言告げた。表情で良くない返事だと分かる。食い下がろうとしたようだが、少年は首を横に振るだけで、やがて屋敷の奥に消えてしまった。

「項燕さんからの伝言で、あなたと会うつもりはない。弟子も取る気はないとのことです」

 金さんはすまなそうに言ったが、そんなことは覚悟済みだ。

 弟子として受け入れてくれるまで粘るつもりだった。金さんを付き合わせるわけにはいかないと言うと彼は驚いたようだった。

「可能性はゼロだと言ってましたよ」

 諦めた方が良いと遠回りに諭す。だけど、ここで帰ったら、合羽師匠の紹介状もブルーノさんへの説得も無駄になってしまう。それに、なにより私自身が納得できない。

「婁項燕さんの弟子になりたいです」という中国語を読み方と共にメモに書いてもらい、彼には帰ってもらった。


 ここからは根性の見せ所とばかりに、玄関の前で座り込む。

 これはいわゆるハンストだ。御飯も寝袋も持っていないのだから。

 出入りする人に向って金さんが書いてくれたメモを読み上げる。皆怪訝そうな顔をして通り過ぎていくだけだ。

 それにしても十代と思しき年若い男の子ばかり。アジア人が若く見られがちだということは知っているが、そういうことじゃないみたいだ。かといって皆家族って訳でもないようだし。

 一様に頭は丸刈りで、朱よりはオレンジに近いような色の綿の衣服を身に着けている。たて襟の上着に裾を絞ったズボン姿。何かの制服だろうかという疑問は翌朝、答えが出た。

 すきっ腹を抱えて眠りに付いた私を起したのが、玄関を出入りする大勢の人の足音。大きなグラウンドのような庭の意味を知る。縦横に整列した人数はおよそ五十人。

 最後に玄関から響いたのは軽い足音。出てきたのは、白髪で私よりも小さい小柄な老人。なんと彼は裸足だった。

 掛け軸に描かれた仙人みたいだ。白い眉毛は長く、髪を後ろでひっつめている。大きい瞳は力強くて年齢を感じさせない。一目で只者ではないと分かる。

 そして、目に付いたのは紺色のカンフー着の腰紐に斜めにくくりつけられた二本の棒だ。彼の身長を超えている。

 子供たちの前に立ち、太極拳のような動きを始める。すると、彼らは一斉に真似を始めた。

 この人こそが婁項燕さんだということを聞いたのは、彼の娘さんからだった。

 運のいいことに彼女と項燕さんは英語が話せた。昔、世界一の中国料理家と讃えられた彼。娘である彼女もまた、あちこちの国を付き人として訪れたと知ったのはずっと後のこと。

 彼女は屋敷の食堂に私を招き入れ、食事を取ったら帰れと諭した。父は弟子を取る気はないと念押しされた。

 それでも諦めることはできなかった。

 やがてやってきた項燕さんに頼み込む。彼は不愉快さを隠さず、無礼だと私を腰紐に差していた棒で叩いた。

 確かに、弟子は取らないと聞かされていたのに何度も頼むなんて普通じゃないと思う。でも、私だってここまで来て、ただで帰ることなんてできない。

 庭にいた少年たちの朝御飯を用意し始めた項燕さんの後ろ姿を見て、さらに思いは強くなる。合羽師匠は間違っていなかった。確かに彼は素晴らしい料理人に違いない。

 調理の早さは今まで見てきた人を遥かに超えている。彼用だろう、台所に組んだ足場を移動する様はダイナミックでありながら、繊細さを兼ね備えていた。まるで舞踏でも見ているようだ。

 一度に何人分もの量を作るのだって、マスティマという組織に入るなら必要な技術。

 私は再び項燕さんに頭を下げた。彼はほとほと呆れ果てたらしい。とうとう、ある条件をクリアしたなら、考えてもいいと口にした。

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