1.あの夜
十年前の夜、父と私はマフィアの抗争に巻き込まれた。
父は小さな料理店の経営者にして唯一人のコック。そして、当時の私は、ようやく自分でおさげ髪を満足に結えるようになったばかり。若干十才の少女でしかなかった。
その夜は、貸切りの予約客がいて、私も顔見知りの人だった。
ウェイトレスの真似事を始めていた私は、大好きな父の手伝いをしたくて、無理を言って店に入り込んだ。
それがあんなことになろうとは……。
飛び交う銃弾。男達の怒鳴り声。弾けるガラス。テーブルは押し倒され、椅子も床に転がった。
何が起こったのか分からず、茫然と立ちつくしていた。私を守るために父は被弾した。
混乱した状況から私と父を救ってくれたのは黒いコートの人たち。
それが闇組織マスティマだと知ったのは後になってのことだった。彼らは襲撃者を倒し、狙われていた人物を助け出した。
それがレストランの常連客だったブルーノさん。祖父の代から店に来ていたというこの人は、父とも親しかった。
「やあミシェル、元気かね」
こんな風に、子供の私にも気さくに話しかけてくれる、優しいおじさん。
黒い髪に黒い口ひげを生やし、お洒落にスーツを着こなしている。小物使いもさりげなく、シックだが存在感のある指輪をいつも身に着けていた。トレードマークのハットにステッキは見るたびに違うもの。
いつもスーツ姿の二人の男と一緒に店にやってきた。
そんな彼がイタリアでも指折りのマフィア、マロッチーニ・ファミリーのボスであることなんて知らなかった。
まだ十才だった私。知識なんてほんの狭い周りのことのみ。
父が撃たれた時もできたのは泣くことだけ。非力な子供でしかなかった。
父の店で襲撃を受けた夜のことは鮮明に覚えている。守られた私だけが無事だった。ブルーノさんやその部下達も銃弾を受け、同じ病院に運び込まれた。
鳴り響く救急車のサイレン、慌しく処置をする医師や看護師達。病院の匂いや手術室の場所だって忘れていない。
父の手術は成功して、次の日の昼には意識を取り戻した。山は越えましたとの医師の言葉だったが、母は看病のために病院に泊まりこんだ。私は家に帰ったが、学校が終わるとすぐ祖母と共に見舞いに行った。
父の容態が急変したのは三日後のこと。
その時の記憶は、はっきりとしない。病院にいて、父のベッドに駆けつけたはずなのに。
悪い夢を見て、目覚めるとそれが何だったかを忘れてしまった時のようだ。
最初に気付いたのは祖母だった。なんの変哲もなく訪れた朝。ベッドから起きだして朝食をとり、いつもどおり学校に行こうとした私を引き止めたのが彼女だった。今日は葬儀の日だからとの言葉を私は唖然として聞いていた。
棺に移される前、病院での最後の面会で繋がった前日までと今。静かに横たわる父の姿を目にすると、涙が溢れて止まらなかった。
父を失ってしまったという悲しさで押しつぶされそうになりながらも、私は自分の無力さを感じていた。同時に私のせいなのだという思いも募った。
私をかばって父は倒れた。一人だったら、裏口からうまく逃げ出せていたかもしれない。私が店にいなければ、死なずにすんだかもしれないのだ。
誰もそれを口にはしなかったけれど、その考えに至れないほど私は幼くもなかった。
憔悴した母の顔。いつもは、はつらつとして明るい人なのに。私を気遣って笑顔を見せて話しかけてくる。子供ながらに苦しかった。
変わらず接してくれる祖母にも心の内を話すことができなかった。
祖母が責めたのはブルーノさんだった。葬儀にやってきた代理人の参列も許さなかった。
ブルーノさん自身はその時、まだ入院中だった。銃弾摘出のための手術が必要だったのだ。
術後一ヵ月、退院した彼は、すぐにうちにやってきた。杖をつき、部下に支えられながら。
だが、祖母は玄関先で箒片手に追い返した。周りが慌てるほどの辛らつな態度だった。
マフィアだろうとなんだろうと祖母には無関係。祖父の友人でもあり、古くからの知り合いである彼に容赦はなかった。
それでもブルーノさんは何度も家にやってきた。父の死の責任を取ろうと、私の後見人を名乗り出た。
祖母は良い顔をしなかったが、私は彼の申し出に甘えた。家にいて、彼女や母と顔をあわせていると辛かった。
父の死で、ぽっかりと心に開いた穴。それは彼女達にしても同じだったと思う。その時の私は自分のことだけで精一杯で、なにもできなかったけれど。
逃げるように屋敷にやって来る私に、ブルーノさんは優しかった。
事件のことは一切触れることはせず、毎回私が喜びそうなお菓子を用意して待っていてくれた。
マスティマの話はブルーノさんの前ではご法度だった。言葉を重ねるたび、空気が重くなっていくのを感じた。詳しく尋ねる事なんてできなかった。
こういう雰囲気になるのは、関わるなとの無言の圧力だ。マフィアや麻薬等の話も同じ。とたんにブルーノさんの声はずっしりとした石のようになった。
それは子供の私には、どんな言葉よりも雄弁なもの。
それでもマスティマへの思いは、ともし火のように、細くなることがあっても消えることはなかった。
彼らがいなければ、私もまた死んでいただろう。父にも短いが三日間という時間をくれた。その間に交わした会話の数々は今でも心に残っている。
今の私があるのもマスティマが来たからこそだ。あの夜の無力で脅えた私とは正反対の存在。
彼らに近付きたいとは思いながらも、どうやったら関われるのか、分からずにいた。父を亡くして間もない心は沈みがちで、持ち前のきかん気も影を潜めていた。
慰めだったのは、ブルーノさんの屋敷の庭で、飼われているラッテという名のクリーム色のマスティフ犬と遊ぶことだった。余談ではあるが、このラッテは後にネーロとカフェラッテの母親となる犬だ。
がっしりとしていて頼りがいがあるのに、他ならぬ母性を感じさせる、この優しい生き物に私は救われた。
ブルーノさんが留守のときも庭に入れてもらい、ラッテと過した。
ラッテは有能な番犬の一頭だった。
人に懐かせることに対して苦言を呈する部下もいたが、ブルーノさんは「あの子のしたいように」と許してくれた。
最初、受け入れてはくれなかった他の犬たちから、身を張って守ってくれたのもラッテだった。
彼女は私の守護者だった。膝を抱えて座り込む私の傍にいつもいた。二つの後ろ姿は、まるで二頭の犬のようだとブルーノさんは柔らかく笑ったものだ。
彼女の落ち着いた息遣いや穏やかに打つ心臓の音、私の頬を舐める柔らかい舌と愛情深い黒い瞳が大好きだった。
何時間でも辛抱強く付き合ってくれた。言葉など超えた理解がそこにあったように思う。
犬舎の中で寄り添ったまま眠ってしまい、そのまま夜を迎えて、行方不明になったと心配されたこともあった。
服を涎だらけにされたり、泥まみれになったり、母に眉を寄せらたことも一度や二度ではない。だけど、この時、私の支えだったのはこのラッテだったとはっきりと言える。
私は癒やされ、次第に父と共に失くした物を取り戻そうとしていた。
そんなときだった。自分の進むべき道を知るきっかけが訪れたのは。
それは自然でありつつも劇的な出会いだった。
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