極楽門
男がひとり極楽門の前に立っている。
門は男の背丈のより少し大きいほどで、 そのくたびれ具合がどれほどの年月を佇んできたか物語っていた。雨風に叩かれ剥がされ見るも無残な木の支柱はまるで老婆の枯れた腕みたくよれていて汚らしく、僅かに残る「極楽門」の文字が金の漆を纏ってわずかに建築物としての尊厳を保っていた。まるで羞恥心そのものであった。この門がどうして建てられたかは知られていない。そもそもとして、建てられている場所にも問題がある。そこは人の住む場所であるのかと疑うほどの寂れた村で何もない、強いて言うならばその寂れ具合が見世物であるほどの所から、さらにそこから手つかずの自然を打ち倒しながら山道を進み、あと一歩間違えれば渓流へと真っ逆さまに落ちるであろう崖っぷちの行き止まりに建っている。門をひと跨ぎでもすれば濁流に呑まれ、あれよあれよと魚の餌に違いない。
男が何故そのような辺鄙な地のまるでゴミ捨て山の主のような門を見つけられたのだろう。それには男の生い立ちについて話さなければならない。
男が物心ついた時から既に世間は彼の敵であった。成す事すべてが気味悪がられ、友人のひとりもできず、ますます深まる他者からの蔑みの哀れみにも似た見下した扱い。男は幼心にして死ぬまで自分は異端者扱いされ忌み嫌われる人生を歩むのだろうと覚悟した。人というものは理解できぬものを当然のように排除する。誠に正しい。しかし、その事実に気が付くのは排除された側の人間ばかりであり、その秘密は人から人へと渡り歩くことはまず有り得ない。男も辛抱強い方であった。人格が容姿が言動が全て理解されない孤独感と幸いな星の元に生まれた者に対しての嫉妬を何十年も己の中で飼い殺し遂に表に出すことはなかった。苦しく希望のない生の道を歩み続けることはいかなる死に様よりも惨いものであり、渇き切った心は潤いに飢え痩せ細り、まるで生きる屍のようだった。
そんな男がどうして今まで生きることを諦めなかったか。それは男の心の支えは夢のようなる大逆転、これまでの鬱憤すべてを帳消しにする程の番狂わせが起きることを本気で信じていた。この劣悪な環境は試練であり、耐えに耐え抜いた先に救いがあるに違いないと男は信じて疑わず毎日を呪いながら生きた。酒も博打もせず、どこぞの神を祈り瞑想祈祷に時間と金を惜しまず遥か昔の聖人君子の生き様を真似た。
男が悟りを開く真似事を始め数年が経ったころである。男は未だ神に救われてはいなかったが初めて友人と呼べる存在ができていた。出会いこそ遅かったにしろ男にとって気の許せる信頼できる人間というものは男にとってようやく人生の楽しさというものの片鱗を見せてくれていた。 まだまだ人生捨てたものじゃない、と。男は心で人間讃美歌を歌い、なんとも楽しそうに性善説を読みふけってはしきりに頷いていた。哀しく阿呆である。男の友人というものは男が信仰していた新興宗教の信者のひとりで云うならば同じ穴の狢であった。卑屈で頭が悪く根っからの日陰者というものが彼らの共通点であり、互いに互いを見下して少しでも優越感に浸りたいが故の浅はかな友情であった。化けの皮はすぐに剥がれた。ドブのようなゴミ溜さながらの底辺層でも争いは起きるもので、また階級というものも常につきまとう。そして、やはり勝者と敗者も生まれる。男はどこまでいっても敗者であった。人生に勝敗などなくいかに自分を信じることができるかこそが他者からの侵食に応えうるものなのだが男はどこまでいってもそれがわからなかった。
愚か者の行き着く先はわかりやすい。男も漏れることなく人生の放棄、自決を選ぼうとした。まったく、これまで歯を食い縛って生きてきた非難轟々の時間はまるで何のためであったのか、死ぬならばさっさと死んでしまえばいいものの男はまた中途半端に死んで行く。男はこの期に及んでも意気地がなく死んだ先を考え心地よく死ねる場所を根気良く探していた。
「この門をくぐり抜け死せる者は極楽浄土の門をくぐったも同然である」
この謳い文句こそが極楽門。 男が飛びつかぬわけがなかった。
詳しく調べるうちにこの門の正体が掴めてきた。その昔は地元の山に住むと云われている土地神を祀るためのものだったという。どうか死後、極楽に案内くださいますようにと冥土への玄関口として建てたのが始まりであった。この門をくぐり土地神に道案内をしてもらえば前途不明なあの世の道も迷うことないだろう、ということだった。しかし、時代とともに信者の数も減り、手入れはされずただ雨風の好きな様にされるようになってしまって幾年。今では地元の人間ですら極楽門の存在を知らない者もいるという。それでも男は極楽への案内人を信じてすがる様に門の元へと向かった。
そして話は冒頭に戻る。いざ門を前にしたところでやはり心揺れ動くところがこの男。 悩みに悩み、意を決したつもりがすぐ揺れる。男は寂れた門を前にし、座りこんでしまった。
山は静かなり、眼下に見える渓流が来いよ来いよと騒ぎたてど木々は黙するだけで石は忍び、土は抑え、静かにそこにいるだけだった。しかし、男は段々と川の声に耳を傾けていった。川は騒ぎ囃したて男を踊らせる。男はのせられるように立ち上がり、覚束ない足取りで門へ足を踏み入れた。門は小さいもので腰を屈めなければくぐれない。男は慎重に中腰になり首だけそおうと門から出してみた。あっと言う間には落としてくれない高さの下では怒涛の波紋が唸り声を上げて待ち構えていた。男は心底から恐怖した。この土壇場においても男は何も背負えず自分の死に様すら決められないということを見事証明した。そして、男には人よりずいぶん多く持ち合わせて生まれたモノがある。 不運だ。
死の恐怖に竦んだ足は震えを加速させ、腰を砕けさせた。体勢を崩しそうになるところをなんとか門の縁を掴み体勢を整えようとするが、長い年月を打たれた門にそのような強度はもはや残っていなかった。木が引きちぎれる嫌な音とともに、門は渓流へと重力に身を任せながら傾いていった。男は必死に地面にしがみついたが門の重さに押されて、引き連られるように崖を真っ逆さまに落ちていった。門と男、抱き合うようにして川面へ落ちる。ついに男はなにもかも中途半端に終わった。水面に打ち付けられた衝撃で男は事切れ、門の重さによって川底へと沈んでいった。
男が切り拓いた道に人影が見える。体格から察するに若い女のようだった。女は滑るようにして険しい山道を登る。まるで地に足がついてないかの如くの動きであった。女はそれから迷うことなく極楽門の建っていた場所へと辿り着いた。いや、その跡地を通り過ぎて崖っぷちから渓流へと身を投げた。女は頭から真っ逆さまに落ちて行くが顔に焦りの様子もなく無表情に風を受ける。そして落下、しかし派手に落ちた割に何故か不思議と水飛沫は上がらず女は平然と水中を自在に動き極楽門に掴まれたままの男の元へ一直線に向かった。女は男と門の周りを何度か周遊すると男の頭へ近寄った。女の手が男の首へと伸び、優しく何度か撫でると男の頭が胴から離れ、切断面からは大量の血が吹き出しそこらに霧散した。赤く濁った水中で女はそれを大事そうに抱えるとゆっくりと上昇し、川を飛び出し雲の中へと消えて行った。