第6話 蒼の悪鬼
この物語のもう一つの舞台━━蒼鬼と紅鬼が共存し、閻魔王が統括する地獄界には、遥か昔の平安京の時代に生まれた、人間界と地獄界を繋ぐ魔界の扉━━鬼門があった。
平安京の都に聳え立ち、鬼の魂を鎮めていた門━━日本の「羅城門」に準えて、鬼たちが名付けた、人の”生“を司る鬼門の名は。
━━『羅生門』
燦々と陽の光が降り注ぎ、豊かに自然や生き物が育み、繁栄していく人間界に対して、鬼たちの棲む地獄界は絶望に満ちていた。
異形の姿で生み落とされ、罪の苦みに塗れた亡者の血肉を糧とし、決して陽の当たらない地の底で、漫然とした永遠の刻を生きていくだけの世界。
鬼にとっては、陽の元━━すなわち「日本」は、見果てぬ夢の理想郷として映っていた。
《ナゼ俺タチハ暗イ地獄ノ底デシカ生キラレナインダ》
《ナゼ強イ俺タチガコンナニモ醜イ姿ヲシテイルンダ》
《ナゼ人間共ハ欲ヲ満タシ罪ヲ犯シ過チヲ続ケルンダ》
鬼たちは理想郷を支配しながらも、堕落し罪を重ねていく人間たちを妬み、嫌い、蔑み、地獄に堕ちた亡者たちに残虐の限りを尽くし、心を鎮めるしかなかった。
そんな地獄界にはいつの頃からか、「堕落した日本は鬼が侵略し、人間の代わりに鬼が統治すべき」という邪な思想が生まれていった。
そして千年前、その思想は遂に野望へと変わる。
全ての人は地獄界へ、全ての鬼は人間界へ。
地獄と日本を入れ替える━━『天地逆転』
その狂気の野望は、この千年近くの永い刻の中で、幾度となく鬼たちを羅生門の開門へと駆り立てた。
五度の失敗を受けた前回の羅生門の開門、六度目となる日本侵攻は、明暦三年、西暦一六五七年。
羅生門を通った紅鬼たちは、帝の本拠である京都を攻めると共に、将軍の本拠である江戸城にも迫ったものの、百地幻斎をはじめとする日本が誇る六人の剣士━━『六歌戦』によって『天地逆転』の野望は打ち砕かれ、紅の『羅生門』は一時の封印を余儀なくされていた。
そして時は流れ、西暦一七二八年、地獄━━。
今度は蒼鬼たちが地の底で雄叫びを上げ、日本で畏怖される口伝はまたもや現実の恐怖となる。
『人間界と地獄界を繋ぐ門、開かれし時、蒼の悪鬼、紅の邪鬼ども、地獄の底より目覚めたり━━』
七十年の刻を超え、再び人間界に羅生門の扉が開く。
⋯⋯だが。
今回は侵略する鬼の側にも異変が起きていた━━━━
*************************
━━━━地獄に連なり重なる八大地獄の三番目。
衆合地獄。
一人の亡者が鬼たちの目を逃れて、この衆合地獄を延々と彷徨い歩いていた。
亡者は歩き疲れた果てに、とある見晴らしの良い丘に辿り着いた。
其処から見下ろす景色の中に、背丈の高い無数の草に囲まれた、一本の大木があった。
もたれ掛かり休むことの出来る場を見つけたと思った亡者は、ふらふらとその大木に近づいていく。
しかしそれは只の大木や草ではなかった。
草と見えたのは全てが刃。
そして大木の枝の一本一本そして葉の一枚一枚が、まるで刀のように針のように鋭く尖っている。
⋯⋯“刀葉林”。
この刃にまみれた大木は地獄ではそう呼ばれていた。
「⋯⋯ようこそ。⋯⋯刀葉林へ」
その悍ましき大木の頂上には、刃の枝々に守られるようにして、蒼のきらびやかな髪飾りを付け、蒼白の巫女の衣装を纏った、一人の美しい女性が座っていた。
(⋯⋯天女様だ)
その妖艶な美しさに、亡者は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
蒼みがかった不思議な輝きを放つ長い黒髪。
透き通るような白い肌と、しっとりと濡れた赤い唇。
木の下にまで漂ってくる、蕩けるような甘い香り。
⋯⋯それは、まさに絶世の美女だった。
謎の美女は艷やかな微笑みを浮かべながら、木の上からこの亡者を手招きしていた。
「どうかここまで登って来て。登って来れたならば、この妾を好きにしてもよいぞ」
甘い声と優しい微笑み、そして妖艶な誘惑の手の動きを前に、亡者は既に理性を失っていた。
そして大木に鋭い刃が生え茂っていることも忘れて、この刀葉林の大木を登り始めた。
刃の枝と針の葉を乗り越え、最上部まで登るのは容易ではない。
一枝一枝を掴んだり登っていくにつれ、その身体はみるみるうちに深く切り刻まれ、亡者は全身の肉を剃り落とされていった。
枝を掴み損ねて、ずたずたになった掌。
肉や皮が削げ落ち、血がとめどなく流れる傷口。
その削がれた肉の隙間から覗く、骨また骨。
やっと十尺(※約3m)程を登ったとしても、自分の血で滑り、更に激しく体を削られながら、下へとずり落ちていく。
再び登り出しても、今度は刃の枝が身体に刺さり、その場で身動きすらできなくなり、手をばたつかせ藻掻き苦しむ。
それはまさに“地獄絵図”だった。
どれだけの刻を苦しんだだろうか。
全身血まみれになりながら、亡者はやっとのことで木の上まで辿り着いた。
あともう少し手を伸ばせば、木の上で待つ美女の手に触れることができる。
(⋯⋯嗚呼、やっとこの美しい女を我が物にできる)
亡者は木の上の美女へと懸命に手を伸ばした。
しかしほんのすぐ目の前に居た美女は、その伸ばした指の先からふっと消えるように居なくなってしまった。
(⋯⋯そんな! 何処へ消えたんだ!?)
亡者の口から悲痛な声が漏れる。
すると今度は、今しがた苦労して登ってきたばかりの木の下から、悲しそうな溜め息が聞こえてくる。
一体いつの間に移動したのか。
同じ美女が木の下から、また魅惑の微笑みと手招きで亡者を誘っていた。
「どうかここまで下りて来て。下りて来れたならば、この妾を好きにしてもよいぞ」
この甘い声と誘惑の言葉の魔性に、亡者は今しがた血まみれになって懸命に登ってきたことも忘れ、今は美女を求めて木の下に戻る事しか考えられなくなっていた。
そして亡者はまた身体の肉を削られ、全身血まれになりながら、この刃の木を下りていくのだった。
この衆合地獄の刀葉林では、この責め苦が何百年と繰り返され、亡者はまさに永遠と言ってよい程の長さの辛苦を味わい続ける。
この刀葉林の無情の仕置きも、数多ある地獄の恐ろしい刑罰のたった一つにすぎず、地獄界では当たり前の日常の光景だった。
「⋯⋯あーあ、また一人、妾の虜、か」
無数の亡者たちの血を吸い、美しい血の花を咲かせ続ける刀葉林の下で、亡者を誘う美女は恍惚な表情を浮かべながらふと呟いた。
その時、向かいの荒涼とした丘の上から、何者かが大声で叫びながら、この刀葉林へと走り寄ってきた。
またも別な亡者が一人、魔性の香りに誘われ、この受刑の地にやって来たのだろうか。
しかしその人影は亡者ではなかった。
鋭く釣り上がった目。
巨大な口から覗く牙。
蒼一色の奇怪な皮膚。
そして、頭から生えている二本の角。
走り寄る影の正体。
⋯⋯それは亡者ではなく、蒼鬼だった。
《⋯⋯⋯⋯大変デス! 蒼妖鬼様!》
⋯⋯”蒼妖鬼“。
この蒼鬼はこの美女をそう呼んだ。
刀葉林で亡者を惑わしていた妖艶な絶世の美女は、不機嫌そうに髪をかき上げる。
そして走り寄ってきた蒼鬼を、その類稀な美しさとは不釣り合いに鋭くきつく睨みつけた。
美女の目は少し変わっていた。
人間で言う白目の部分が、よく見ると蒼みがかっていて、その瞳も黒や茶では無く銀色だった。
そして髪をかき上げた事で、露わになった美女のその額、髪飾りのすぐ脇には⋯⋯。
⋯⋯二本の角が生えていた。
「⋯⋯っ、もう! 何の用なの? 妾は宴の真っ最中。愉しい遊戯を邪魔しないでよね!》
《ソ、ソレガ、閻魔王様カ゚! 日本人間界ヘノ侵攻ト、紅鬼トノ全面戦争ヲ認メル、詔ヲ出サレマシタ!!》
《⋯⋯っ! な、何ですって?、その話は真なの!? ⋯⋯あ、あり得ない、あり得ないわ、あの閻魔王様がそんな詔を出すなんて!?》━━━━。
━━━━それから程無くして、この刀葉林の妖艶な美女━━蒼妖鬼は、衆合地獄を離れ、地獄の別の場所を優雅に闊歩していた。
日本の何処かの国の姫君のような、煌びやか且つ華やかな蒼を基調とした着物を身に纏い、甘美な魔性の色香をふわふわと漂わせながら、自分よりも遥かに身の丈の高い十数鬼の蒼鬼を後ろに従えている。
蒼鬼たちの容姿はどれも醜い。
それ故に尚更、先頭を歩く蒼妖鬼の美しさが際立っていた。
蒼妖鬼の歩いている場所は、八層に連なる八大地獄の最下層最深部に築城された、地獄の蒼鬼たちの本拠━━蒼鬼城。
それは人間界の城の大きさの数倍はゆうにあるだろう、巨大な蒼い城だった。
蒼妖鬼と従者の蒼鬼たちは、地獄の数と同じ八層ある蒼鬼城内で、七つの階段を昇り八つの長い廊下を通り、そうして最上部の天守閣の大広間の前へと辿り着いた。
《あなたたちは下がりなさい》
蒼妖鬼が従者の蒼鬼たちを退かせ、天守閣の蒼い髑髏の扉の前へと立った。
亡者の泣き声や呻き声のような狂わしい軋みの音色をたてながら、ゆっくりと開いていく扉⋯⋯。
⋯⋯その扉の先、天守閣の大広間には、禍々しくも盛大に無数の亡者の生皮が壁一面に飾られ、その壁際には十鬼程の蒼鬼たちが整列していた。
そして扉の先から伸びている、同じく亡者の生皮を繋げて作られた絨毯の先には、一人の男が城下を見下ろしながら悠然と立っていた。
恐らくこの男が、この邪悪な蒼鬼城の主なのだろう。
周りの蒼鬼たちはこの男に無言で礼を払い、男もまたその礼を当然のように無言で受け止め、神秘的とも言える威圧感と存在感を放っていた。
蒼妖鬼は少し頬を赤くしながら男に近づいていく。
そして城下を眺め続ける背中に向かって、親しげに呼び掛けた。
《ねえねえ、大変ですわ、蒼極鬼様。もうお聞きになって? つい今しがた、閻魔王様が人間界への侵攻と、紅鬼との全面戦争を認める詔を発したそうですわ》
⋯⋯”蒼極鬼“。
そう呼ばれて振り向くこの男も、豪華で煌びやかな蒼を基調とした着物、丈の長い高貴な羽織を身に纏っていた。
首からは真っ白な羽毛でできた長い首巻きをかけており、蒼と白が映えたその立ち姿は、この陰鬱とした地獄とはまるで似つかわしない程の美しさだった。
優雅な佇まいからは知的で冷静な性格が垣間見え、腰まである長い髪を天守閣の風になびかせている。
⋯⋯そしてその男の額にも、二本の角があった。
《⋯⋯ああ。閻魔宮に出仕する直前で丁度耳にした》
この蒼鬼城の城主であり、蒼鬼の総大将でもある、蒼極鬼は静かに口を開いた。
この蒼極鬼も蒼妖鬼もその見た目は全く人間と変わらない。
むしろ人間たちよりも、遥かに美しく整った顔をしている。
数少ない違いは、蒼みががった目に銀色の瞳。
そして額の上部に生える二本の角。
それに対して、蒼妖鬼に付き従ってきた蒼鬼や、城を警護している蒼鬼は、まさに人間界の伝承や昔話に出てくるような、いかにも”鬼“の形相だった。
従者の蒼鬼たちの方が恐ろしく見えるが、それはあくまで見た目の恐さであり、外見は強さとは反比例しているのが地獄の鬼たちの世界なのである。
つまりは人間に近い容姿の鬼程、その妖力が高く、また妖力の高低は位の高低でもあるのだ。
その裏には実は、人間界の百地幻斎が鎌足に語った『葬魂の術』が大きく関与していた。
『獄卒』と呼ばれるまだ下級の鬼たちでは、相当な妖力を必要とする『葬魂の術』は使えない。
一定までに妖力を高めた『羅刹』と呼ばれる中級の鬼となって初めて、『葬魂の術』は一度のみ可能となる。
しかし蒼極鬼や蒼妖鬼など、『修羅』と呼ばれる妖力を極限にまで高めた上級の鬼たちは、この『葬魂の術』を何度も使うことができた。
人間の賢き者からは知を。
人間の強き者からは武を。
⋯⋯そして人間の美しき者からは顔と身体を。
この蒼極鬼や蒼妖鬼は、過去の日本侵攻の際に、生来の醜い鬼の顔を捨てて、狙いを定めた魅力的な人間の身体を『葬魂の術』で奪い取り、自身の顔としていた。
魂を奪って永い年月を経ていく事で、その人間の身体は徐々に鬼の身体に馴染んでいく。
その白目は鬼の属性を示す魔性の蒼色に染まり、瞳は妖力の高さの証である銀色に変わり、そして鬼の象徴である角もまた再び生えてくる。
すなわちこの蒼極鬼も蒼妖鬼も、数百年にも渡る相当の年月を、この人間の身体と共に過ごしているのは間違い無かった。
これは鬼“のみ”ぞ知る、地獄の常識だった。
⋯⋯《それにしても今更ながらの詔か。しかも、我々蒼鬼の軍が日本侵略に動き始めたこのような重要な時期に、こんな唐突に。ただただ驚きだな》
《はい。本当に、急すぎる程に。まだ少なくとも五十年程は解けないと思っていた蒼の羅生門、その封印が思いの他早くに解け、喜んでいた矢先だというのに⋯⋯》
《間違い、ということはないのか?》
《念のために閻魔宮にも物見を送って確認させたので、間違いはありませんわ。しかも閻魔宮自体もその詔の直後から封鎖されているらしく、今はもう中には入る事はできません》
《閻魔王様はどうした? 彷徨う亡者たちの審判はどうなるというのだ。閻魔宮も黄泉比良坂も、地獄への行き場を無くした亡者どもで、すぐに溢れかえるぞ》
《それが閻魔王様も詔を発した以降は何の音沙汰も無く、亡者たちの審判がどうなるかは⋯⋯、あと、それに⋯⋯》
《それに? 何だ、まだ何かあるのか》
《七十年前に封印された紅鬼の羅生門本道、蒼雷鬼が密かに偵察に向かった所、⋯⋯何と紅鬼の羅生門本道の封印、既に跡形も無く消えてしまったらしいですわ》
《なに? ⋯⋯封印を途中で解除できるのは閻魔王様の妖力だけだ。とすれば、詔は疑いの余地は無い。⋯⋯しかし、あれ程までに『天地逆転』を否定したり、我々蒼鬼と紅鬼との衝突を禁じていた閻魔王様が、この今になって何故そのような詔を出す? 閻魔宮封鎖の件も合わせ、その全てが解せんな》
《如何致します? 蒼極鬼様。妾たち蒼鬼の軍だけではなく、紅鬼の軍にもこの詔の件は伝わっているかと》
《前回の封印が解けるまで待ち続けた、我々蒼鬼が此度は日本を攻める番だ。それ故に蒼の羅生門の開門から、今に至るまで念入りに策を弄して計画を進めてきた。だが、今もし紅鬼が動きだして京都に攻めこめば、この一月半の間、我々が京都御所周辺に仕掛けてきた策の全てが無に帰してしまうかもしれんな》
《わ、わわわ、そんな事になったらどうしましょう。詔の話を聞いた途端、紅鬼は“これ幸い”と、絶対に妾たちの日本侵攻の邪魔をしてきますわ。⋯⋯ああっ、本当に憎たらしい紅の鬼ども!》
感情的な性格なのだろうか。
蒼妖鬼は両手を腰に当て、その艶やかな口元を苦々しく歪ませた。
一方の蒼極鬼は冷静に状況を分析する。
《まあ待て、蒼妖鬼よ。これは逆を言えば、紅鬼たちを公に殲滅できる良い機会とも言えるぞ》
《⋯⋯あ、そっか、詔があるから、もし邪魔されても紅鬼を遠慮無く”こてんぱん“に叩き潰してもいいのね》
《そうだ。⋯⋯焦らずとも、要は、紅鬼より先に日本を制すれば良いだけだ》
《⋯⋯前回の我々蒼鬼の侵攻失敗から数えて、地上の時間では二百六十年程の刻の流れになる。日本の内乱を突き、京の都に攻め上がったものの、あと一歩の所で撤退を余儀無くされて、羅生門を封印された。あの怒りや憎しみは今でも夢に見る。⋯⋯私にとっては紅鬼だけではない、人間も決して許せぬ存在だ》
《知ってまして? 蒼極鬼様。二百六十年前の侵攻の後、人間も自分たちの堕落を少しは恥じて、あの戦いを因果応報の『応鬼の乱』と呼んでいたのに。それなのに刻を経てみれば、妾たち蒼鬼の事などすっかり忘却の彼方。それどころか戒めの鬼の名前を外して、自分たち人間を誇るように、今では『応人(仁)の乱』などと呼んでいるそう。本当に愚かでふざけた人間どもですわ》
《ああ、そんな愚かな人間にも、憎き紅の鬼にも、此度の侵略こそは必ずや目にものを見せてくれる。紅鬼は必ず羅生門を開門して対抗してくる。紅鬼よりも先に、我々蒼鬼の軍が日本人間界を征服する。そして、永年の怨敵である紅鬼の軍もまとめて蹴散らす。事は急がねばならぬ。⋯⋯そう、日本を攻めるは今!》
《⋯⋯っ! では、ではっ! ついに!?》
掌を重ねながら目をきらきら輝かせる蒼妖鬼に背を向け、蒼極鬼は蒼鬼城の天守閣の高欄へとゆっくり近づいていった。
天守閣の廻縁から見えるのは、蒼鬼が管轄し支配する様々な地獄の光景。
地獄の最下層ながら、上層にある各地獄を見上げるのではなく、逆に見下す事が出来る。
それは奇怪な地獄の亜空間だった。
賽の河原、三途の川、蒼の火の山、刀葉林⋯⋯。
数え切れない程の恐怖も奇怪も全てを呑み込み、地獄各界の管轄地全てが蒼い瘴気によって縮小され、城の眼下にどこまでも広がっていた。
そして早くも詔の噂を聞きつけた、『獄卒』と呼ばれる下級の蒼鬼や、『羅刹』と呼ばれる中級の蒼鬼たちが、様々な狂気の武器を手にして蒼鬼城の周りへと挙って集まっていた。
そんな蒼に染まる地獄の全てと、戦意高揚する屈強な蒼鬼たちを見渡しながら、蒼極鬼はゆっくりと両手を広げて檄を飛ばした。
《勇猛果敢な蒼き鬼たちよ、聞け! 準備段階は終わりだ! 日本京の都に向け真の羅生門本道を解放する刻が遂に来た! 我等蒼の軍の念願であった人間界の征服、本格的な侵攻を二百六十年ぶりに正式に開始する!》
その言葉に、蒼鬼たちから大歓声が巻き起こる。
《皆も既に知っていようが、閻魔王様からの詔が出ている! 憎き紅鬼の軍が羅生門を開き、我々の覇道を邪魔してきたとしても、決して後れを取るな! 羅生門本道を抜けた先、まずは帝が守りし京都を陥落す! その勢いに乗って将軍の座する江戸も襲う! よいか、必ずや紅の鬼どもより先に日本を征服するのだ!》
蒼極鬼の日本侵略の号令と紅鬼への宣戦布告に、城の周りに集結していた蒼鬼の群れからは、「この時を待っていた」とばかりの歓喜の渦が巻き起こった。
その歓喜の叫びの唸りは、まるで見えない大波のように、蒼鬼城内外に重低音で幾重にも木霊していった。
興奮の絶頂を極めた大歓声が止まない中、蒼妖鬼は天守閣の広間へ悠然と戻ってくる蒼極鬼を目で追いながら、何故か不安な表情を浮かべていた。
《⋯⋯あの、蒼極鬼様? 折角の素晴らしい檄に水を差しちゃうかもなんですが、一つだけ心配事が》
《心配事? 何だ?》
《侵略のたび蒼鬼の前に立ちはだかり、多くの蒼鬼を消滅させてきた日本『六歌戦』。此度もまた奴等がしゃしゃり出てきたら如何致しましょう?》
《『六歌戦』か。確かに何時の時代も手強い存在だ。⋯⋯ふふふ、だが案ずることはない。此度は既に手は打ってある。今の『六歌戦』どもが我々を簡単に攻められぬような策を、な》
《⋯⋯え、そうなのですか? で、その策とは一体?》
《羅生門の開門後、密かに日本の”とある者“と手を結んだ。『六歌戦』どもに何か変わった動きや情報があれば、その者から必ず連絡がある。⋯⋯更に、だ。その者の協力により、既に江戸領内にも何鬼かの羅刹を送り込み、江戸侵略の準備として日本の東で暗躍させている。此度の計画に抜かりは無い》
《⋯⋯わぁ! 『六歌戦』への対策ばかりか、京都と共に江戸にまで先手を? 流石は蒼極鬼様! 地獄で一番の切れ者と噂されるだけのことはありますわ!》
蒼妖鬼はまた再び目を輝かせながら、美しい顔を仄かに紅潮させる。
《あ、でも、その日本の協力者って一体誰かしら?》
《そう焦らずとも自ずと今にわかる。京都は『六歌戦』の動きさえ掴めることができれは問題は無い。⋯⋯とは言え、事は慎重に運ばねばならん。本格侵攻、総攻撃の前に『六歌戦』以外の今の人間界の剣士の力がどれ程のものか、正確に知っておくのも悪くはない⋯⋯いや、むしろ必定か。⋯⋯よし、蒼炎鬼、蒼炎鬼はいるか!》
《⋯⋯はっ、ここに》
天守閣の壁や天井を照らしていた無数の蒼い灯火。
その灯火一つ一つの中から火種が舞い上がり、空を漂う。
無数の火種はやがて一つの塊となるように集まっていき、蒼極鬼の前にひらりと舞い降りると共に、一気に蒼い大炎と化した。
そしてその大炎の中からぼんやりと浮き出るように、蒼い焔を全身に纏う異様な鬼の影が姿を現した。
異国風の服に、炎のように逆立った髪。
蒼みががった目には、はち切れんばかりの邪悪さに満ちた銀の眼。
そして広げた両手の掌には、左右それぞれに蒼く燻る炎の塊を乗せていた。
異様な出で立ちではあるが、焔の中に浮かぶ顔や身体は、蒼極鬼と蒼妖鬼同様に人間と何ら変わらない。
この蒼炎鬼もまたかなりの妖力を持つ、上級の鬼『修羅』と思われた。
《先程から話は聞いてましたよ、蒼極鬼様》
《蒼炎鬼よ。御前も知っていようが、今回の詔が出される一月半前から、本格侵攻に先駆けた偵察に、獄卒たちを散発的に京都及びその近辺に送り込んできた。⋯⋯そして、その蒼鬼たち全ての消息が途絶えている》
《それで、次は『修羅』のこの俺の出番というわけか》
《送ったのは下級の獄卒ばかりとは言え、その獄卒たちを斃した者がもし『六歌戦』以外であれば由々しき事態だ。来たるべき本格侵攻の前をして、京都を警備する人間たちの力がどれ程のものか、注意すべき剣士はいるのか、一度それを正確に把握しておく必要がある》
《探る手だては?》
《京都御所の強い人間⋯⋯武官の誰か、⋯⋯そうだな、本格侵攻前の邪魔者の廃除も兼ねて、警護兵を率いる責任者あたりが相応しいだろう。その人間の力を試せ》
《武官⋯⋯、警護責任者⋯⋯、何だ、公家か》
《まあ、刀を握る武官の長とはいえ、所詮はただの人間、ただの公家の青瓢箪。御前にとっては遊び相手にもならないかもしれんがな。⋯⋯その人間が都合良く一人になった所を、何鬼かの羅刹たちと共に襲ってみろ。そしてその力を報告せよ》
《わざわざ日本に出向くなれば、名高い『六歌戦』の誰かと戦ってみたかった所ですが、是非も無し。その役目、畏まりました。ですが私めの操るこの地獄の蒼き炎、加減を知りませぬ故、もし京都の町が総攻撃の前に全て燃え尽きても文句は無し、という事で⋯⋯》
左の掌から右の掌へ、右の掌から左の掌へ。
蒼炎鬼は邪な蒼い炎をお手玉のように弄びながら、蒼極鬼に問いかけた。
《もちろんだ、好きなだけ暴れてこい、蒼炎鬼よ》
蒼極鬼の返事を受けた蒼炎鬼は、愉しそうに狂気と自信に満ちた不気味な微笑みを浮かべた。
そして両の掌の炎を更に激しく滾らせ、その炎で再び全身を包むと、天井まで燃え上がる程の勢いとなった蒼い炎の渦の中に、呑み込まれるように消えていった。
蒼炎鬼の火種の燻ぶりが消えた後、天守閣の高欄から、眼下に広がる地獄界を改めて俯瞰する蒼極鬼は、今だかつてない程の至上の高揚感の中にあった。
(《天も地も、既に、我が手中に在り⋯⋯》)
《蒼極鬼様、嬉しそう⋯⋯、もうすぐ、もうすぐ、永年の夢が全て叶いますね》
蒼妖鬼が妖しく微笑んだ。
《ふふふ⋯⋯、そう見えるか?》
《ええ⋯⋯、それはもう》
《⋯⋯ふふ、ふふふ、ふははははははははははは⋯⋯》
《⋯⋯ほほ、ほほほ、おほほほほほほほほほほほ⋯⋯》
蒼の地獄と蒼鬼の軍を見下ろしながら、顔を見合わせて笑いあう蒼極鬼と蒼妖鬼。
この笑い声の”狂鳴“は、醜い蒼鬼たちの狂喜の喧騒に包まれる蒼鬼城の中で、一際美しい音色を奏でながら、いつまでも妖しく狂わしく響き渡っていた━━━━。
数年前に作成した完成済の物語ですが、空いた時間を見つけて改めて執筆、小説化して投稿してみることにしました。一見わりと固めの文学的作品に見えますが、本編内容は異世界和風バトルを基調としたライトノベルになります。本編開始は10話から。9話までは世界観を伝える目的の序章が続きますが、7話以降も引き継ぎ御一読頂けたら嬉しいです。投稿や執筆の励みになるので、ぜひブックマークや評価、感想等よろしくお願いします!
★1月11日〜12日にかけて序章残り3話投稿予定です




