第2話 伊賀屋敷
━━━━時を同じくして、一七二八年、享保十三年、三月末日。
江戸、某屋敷。戌の刻、九つ半。
折からの小雨に触れた、涼やかで心地良い春の夜の風が、何処からか屋敷の中へと吹き込み、座敷の中央に置かれた燭台の蝋燭の炎を、ゆらゆらと揺らしている。
その小さな灯びに照らされた薄暗い座敷に、今宵の空の半月の光が格子の窓から仄かに差し込んできて、中に纏う闇を少しだけ薄くしていた。
古びた座敷の内装は地味ではあるが、壁も天井も床も相当に長い歴史を感じるもので、上座の後ろには武を祀る神棚が設けられていたり、壁には何本もの刀や様々な武器が掛けてあったりと、それなりの数の門人が通う剣術道場に例えて良い程の、趣と広さがある。
剣術道場ならば、剣の道を志す者の気迫の声と、汗の湯気で満たされていそうなものだが、この座敷はそんな気合の咆哮どころか、何気ない囁きすらも自重してしまうくらいの重々しい緊張感に満ちていた。
座敷の両壁に沿って、数十人の影が並んでいる。
がっちりとした影の形から見て、どうやら男が多いようだが、柔らかな丸みを帯びた影も見てとれた。
まばらだが女性も居るようだった。
そして座敷の中央には一人の若い男が座していた。
身の丈は三尺九寸(※約148cm)足らずだろうか。
下ろした髪の長さは肩過ぎ程まで。
髪の一部は、側頭部でささやかな一つ結びにしている。
無造作に下ろした前髪から覗くその顔は、まだ相当にあどけなさが残っていて、若々しい髪型からして齢十六、七ぐらいに見えた。
”一人前の男“と言うよりは、むしろ“成人前の美しい少年”といったほうが良いかもしれない。
その真剣な瞳は、座敷に差し込む僅かな半月の光に映えて、面と向かった者はきっと誰しもが思わず惹き込まれてしまうくらい、不思議な美しい煌めきを放っていた。
少年は、傍に居並ぶ影たちと比べてもかなり見劣りする小柄な体軀だが、一段高い上座の壇上には、この少年よりも更に一回り身の丈の小さい、隠居服を身に纏った総白髪の一人の翁が、少年と向き合うように座していた。
静寂が支配する中、少年はこの壇上の翁を真っ直ぐに見つめ続けていた。
⋯⋯今から翁が発するだろう言葉を、決して一言一句も聞き漏らしはしない。
そんな凛と熱い気概が、少年の眼差しからはひしひしと伝わってくる。
翁の方は、歳八十はゆうに越えているだろう。
顔全体を刻む深い皺が、崇高な貫禄を醸し出している。
少年とは歳は六十以上も離れているはずで、この時代に於いては相当に長寿である。
上座に座していることからも、全員の視線が翁に向いていることからも、この高齢の翁がこの場に居並ぶ全員の心を掌握している事が見て取れた。
翁は全員をゆっくりと見渡した。
「⋯⋯西より災い来たれり。京都から親書が届いた」
翁の言葉で、静寂は唐突に終わりを迎えた。
「⋯⋯!? 京都からの親書!?」
壁際の誰かの即座の声と共に、その場に居並ぶ全員がそれぞれに驚きの表情を浮かべる。
「⋯⋯羅生門が、想定よりも早く開いた」
そして続けざまの翁の一言によって、凛と張り詰めていた座敷の空気は、あからさまに一変した。
「京都に、鬼が現れた、⋯⋯との知らせじゃ」
⋯⋯鬼。
皆が困惑する中、次に翁の口から出たのは、狂わしい禁忌の言葉だった。
(⋯⋯『人間界と地獄界を繋ぐ門、開かれし時、蒼の悪鬼、紅の邪鬼、地獄の底より目覚めたり━━』)
全員の頭にあの”口伝“が浮かぶ。
それはこの日本に代々言い伝えられてきた、禁忌の“口伝”。
時には父親からの戒めの言葉として、時には母親からの慈愛の子守唄として、幼き頃から誰しもが日々の“生”の中、何処かで耳にしていた、あの”口伝“。
翁の”言葉“の意味を、その場の誰もがすぐに理解した。
そして全員が口々に想いを呟き、狼狽する。
(それは本当の話なのか? 信じられん。前回の羅生門の開門、災厄からまだ七十年しか経っていないぞ?)
(出現が早い、早すぎる、少なくともまだ五十年から百年の間は日本は安泰だと思っていたが)
(くそっ、何という事だ。孫の代ではなく、まさか我々の代で、羅生門の出現の報を聞く事になるとは)
誰もが一様に困惑し、顔には危機感や焦燥感が滲んでいた。
⋯⋯ただ一人を除いては。
周囲が騒然とする中、翁と向かい合っていた少年が、神妙な面持ちで初めてその口を開く。
「あの⋯⋯、羅生門って何ですか? そして“鬼”とは、昔話や伝説でよく耳にする、あの”鬼“のことですか?」
その声は少年ではなく。
⋯⋯少女であった。
⋯⋯いつしか小雨は本降りになっていた。
「⋯⋯⋯⋯というわけじゃよ。前回の厄災、鬼の侵略から早七十年になる。だが、まだ七十年。あの時に鎮めたはずの鬼どもが、思っていたよりも早く、また此度も挙って京都に現れ出した。儂が永年、心の何処かで危惧していた”まさか“が、本当に起きてしまったのじゃ」
熱い想いが空回りし、翁から改めて事の起こりや禁忌の説明を受けるに至った少年⋯⋯もとい、少女は、肩を窄めて一人縮こまっていた。
「⋯⋯日本が西の都である京都を中心に、かつて何度か鬼から侵略を受けた話、聞いた事はあります。確か江戸も前回戦火に見舞われたとか。全て作り話かと思っていましたが、真のことだったのですね、大事な話の腰を折ってしまい、申しわけありません⋯⋯」
恥ずかしそうに謝る少女を、翁は何一つ咎めずに微笑んだ。
「なに、そなたはこの四年ばかりの記憶しか無い事は、皆が知っておる。それに誰よりも若い。気にするでない。あの恐ろしい口伝をろくに知らなくても当然じゃよ、ほっほっほ」
「⋯⋯で、鬼は今、どのような災厄を京都に?」
「この親書によると、鬼が通る羅生門は京都の至る所に頻繁に出現し、刀や斧などを手にした鬼どもが夜な夜な跋扈。既に何度か帝の御所内にも出現したようじゃ。幸い大事は無かったようじゃが、帝の御命も何度か狙われたらしいの」
翁の「帝の御命」の言葉で、全員の中でまた大きなざわつきが起きた。
此処は京都から遠く離れた江戸。
京都朝廷との繋がりは薄いと思われるこの屋敷内においても、帝の威光は相当に浸透していることが垣間見えた。
胸に何か熱いものが湧き上がったのだろうか。
壁際で一人の男が立ち上がり、困惑混じりの声で翁に問いかけた。
「百十数年前、京都の公家たちを抑えるために制定された禁中並公家諸法度。その法に縛られた京都や朝廷は、未だに徳川政権や我々江戸者に、良い感情は抱いてはいないと聞きます。⋯⋯いや、むしろ敵対している、と言って良いはず。その親書は我々江戸の者へ、鬼の出現や帝の危難を知らせてきただけなのですか? そしてそれは何故に!?」
翁は一つ大きく息を吐き、再び全員の顔を見渡した。
そして親書の核心を口にした。
「援軍を請うてきておる」
「⋯⋯っ! 我々が京都への援軍に?」
座敷が再びざわめく中、座していた少女が興奮で身を乗り出し、床に片膝をつける。
翁はそんな情熱的な少女を一瞥した後、核心の続きを語りだした。
「京都に鬼が出し時は江戸が、江戸に鬼が出し時は京都が。前回の鬼の鎮圧の後、次にもしもの事態が起こった際は、互いに援軍要請を出す取決めになっておるのじゃ。⋯⋯とは言え、この取り決め自体が当時の互いの体裁を取り繕うためだけのもの。互いの確執は思っている以上に深い。恐らくは心から救いを求める要請ではあるまい。後々のためにも、取り決めを遵守する儀礼の形を守っただけで、京都の公家たちは我ら江戸者には何一つ期待はしておらんじゃろう」
「⋯⋯⋯⋯」
翁のあまりにも淡々とした言葉、そして立ちはだかる現実の障壁の大きさに、肩を空かされたのか。
「私が行きます」と名乗りを上げそうだった少女の熱を帯びた動きが、ぴたりと止まった。
「⋯⋯ましてや、位の低い伊賀者、”忍“には、な」
⋯⋯忍。
この座敷は伊賀忍軍の作戦会議の場だった。
徳川家に仕え、江戸城を警護する役目を担う、御庭番衆。
その前の御頭が、今上座に座する翁━━百地幻斎、その人だった。
壁際に居並ぶ人影は全て、幻斎配下の伊賀の忍たち。
座敷の灯火に照らされた人影は皆、忍刀や大鉈や鉤爪など、物々しい武器を身につけている。
中忍以上の役や位を持つ選ばれた者だけが、この鬼との戦いや京都への対応を協議する、百地の屋敷での重要な会議の場に召集されていたのだ。
「⋯⋯京都朝廷側から見れば、もし我々の援軍に何らかの不手際があれば、今後の反抗や交渉の口撃の良いきっかけにもなろう? むしろ儂はそういう裏があると見ておる」
翁⋯⋯百地幻斎と少女が改めて目を合わせる。
「なるほど、ある意味、京都が仕掛けた罠、ですか」
「日本を守る事に関しては、帝や京都の公家たちの意思と相通じるものはある。⋯⋯が、我々にとっては京都よりも江戸。時の帝よりも主である将軍様。この江戸領内にも既に鬼が密かに入り込んでいるかもしれぬ中、江戸城の守備を万全に固める事こそが、我ら伊賀の御庭番にとっての日本防衛の第一義。それに大切な伊賀の同胞たちを、羅生門が開いた京都の死地の最前線に送るのは、全くもって望む所では無い」
「⋯⋯いくら帝からの要請とはいえ、利よりも害の方が多いこの援軍、⋯⋯断るのですか?」
「問題はそこじゃ。帝からの直々の援軍の要請、無下にはできぬ。日本と徳川の安寧のためには京都の死守も大事じゃ。⋯⋯そこで将軍様や老中殿、そして御頭や儂ら上忍も交えた幕閣重鎮たちとの先じての会議の結果、伊賀の忍のうち手練れ何人かのみを、先発隊と称して帝の元へ、京都へ派遣することに相成った」
「こちらもあくまで体裁を、ということですね」
「ふふふ。そうじゃ。表向きはな、まず体制を整えた後に改めて援軍の本隊を送る、と称するのじゃ。もちろん今は後発隊の派遣など考えてはおらぬ。考えるのは京都内に渦巻く様々な不審を先に削いでからでも遅くはない」
「いかにも策士、百地翁様らしい。とりあえずの援軍。その実は、密かに朝廷や公家たちの内情を探り、もしその中で徳川の未来に仇なす者や動きがあれば⋯⋯」
少女は薄っすらと微笑んだ。
そして親指を使って、腰の脇差の忍刀を少しだけ抜くと、またすぐに親指を返し、刃を鞘へと納めた。
カチン━━⋯⋯。
納刀の鈍い音と共に、少女は再び笑みを浮かべる。
「危難の種は今の内に排除する。鬼との戦いの最中に紛れて、隙あらば斬り捨ててしまう事も構わない⋯⋯、とでも言いたいのでしょう?」
「ふふふ、流石じゃ。察しが良いのう、鎌足よ。我ら伊賀の御庭番の中でも一、二を争う手練れであり、そして儂の考えを誰よりも理解している、最も信のおける者よ」
公儀御庭番伊賀組の重鎮にして、前の御頭でもある、百地幻斎。
その幻斎に鎌足と呼ばれた、謎めいた忍の少女。
二人はもう一度互いに顔を見合わせると、にやりと笑みを重ねた。
そしてすぐに表情を引き締め直した幻斎は、この作戦会議の核心を告げた。
「鎌足よ」
「⋯⋯はっ」
「そなたに此度の大役を任せたい。帝と京都御所の護衛、そして敵方の探索。伊賀の先発隊の就任を命じる」
何時しか本降りとなっていた雨は、西の空から暗雲を呼び寄せ、突如として大きな雷鳴を轟かせた━━━━。




