第7章
茶碗蒸し事変から、三日。
俺とエルザは、村人たちからの「温かい」監視の目と、タロー爺さんからの「夫婦は助け合うものじゃ」という有り難いお説教のもと、畑の復旧作業に追われていた。
巨大な茶碗蒸しと化した大地は、村人たちが三日三晩かけて完食したが、その下の土は魔力の影響でめちゃくちゃになっていたのだ。
「おい、エルザ。そっちじゃない。その石をどかせと言っている」
「理解不能です。この石の配置は、風水的に見て完璧なエネルギーラインを形成しています。動かすのは悪手です」
「農作業に風水を持ち込むな! いいからどけろ!」
「いやです」
「こんの、クソ魔女が……!」
こんな調子で、俺たちは一日中、くだらないことでいがみ合っていた。
だが、それでも。
ほんの少しだけ、この馬鹿げた日常に慣れ始めていた自分もいた。
太陽の下で汗を流し、どうでもいいことで口喧嘩をし、夜はクタクタになって眠る。
……まあ、悪くない。
これもある種の、スローライフの形、なのかもしれないな。
そんな、気の緩みきったことを考えてしまったのが、運の尽きだった。
平和な午後の空気が、突如として引き裂かれた。
村の真上、空高くに、巨大な魔法陣が二つ、同時に出現する。
一つは、太陽のように眩い光を放つ、神聖な黄金の魔法陣。
もう一つは、全てを飲み込む夜のように、禍々しい紫黒の魔法陣。
光と闇。
二つの対極的な魔力が、空中で激しくぶつかり合い、空気をビリビリと震わせる。
「きゃああああ!」
「な、なんだぁ!?」
畑仕事をしていた村人たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
俺とエルザは、同時にクワを捨て、空を睨み上げた。
この魔力の奔流。見間違えるはずがない。
「追手か……!」
「それも、最悪の組み合わせですね」
黄金の魔法陣から、白銀の鎧に身を包んだ聖騎士が、光の翼を広げて降臨する。
紫黒の魔法陣からは、漆黒の全身鎧をまとった暗黒騎士が、闇のオーラをまとって舞い降りる。
「アルク! その魔女の手から救い出してやるぞ!」
「エルザ様! 魔王様への裏切り、その身をもって償わせてくれる!」
聖騎士カイルと、暗黒騎士ガルム。
俺の元相棒と、エルザの元部下。
よりにもよって、一番面倒な二人が、同時に来やがった!
しかも、様子がおかしい。
二人とも、鎧や剣に、見たこともない古代の呪印が刻まれている。
その呪印から、本来の数倍はあろうかという、異常な魔力が溢れ出していた。
瞳には、もはや理性のかけらもない。
あるのは、歪んだ正義感と、狂信的な忠誠心だけだ。
「……どうやら、問答無用、というわけか」
「ええ。話し合いで解決できる相手ではなさそうです」
俺とエルザは、言葉を交わすまでもない。
互いに背を預け、それぞれの相手を睨みつける。
十七回の戦いで染みついた、絶対的な信頼に基づく戦闘隊形。
たとえ世界中を敵に回しても、背後のこいつだけは、俺の死角を完璧にカバーする。
「聖技!『ジャッジメント・ブレード』!」
「闇奥義!『ヴォイド・クラッシュ』!」
カイルの聖剣が、正義の光となって俺を断罪しにくる。
ガルムの魔槍が、虚無の闇となってエルザを飲み込もうとする。
二方向からの、必殺の一撃。
だが、俺たちの体は、思考よりも速く、最適解を導き出していた。
「「――ッ!」」
俺は、破壊の防御障壁を展開しようとする。
エルザは、時空の断層を創り出そうとする。
二つの異なる防御魔法。
それが、発動する直前で、またしても融合した。
俺たちの周囲に、虹色の光を放つ半透明の球体が出現する。
破壊の概念と、時空の法則が、完璧な比率で編み込まれた、究極の防御結界。
カイルの聖剣は、結界に触れた瞬間、その「正義」という概念そのものを破壊され、ただの光の粒子に分解された。
ガルムの魔槍は、結界に到達する前に、その「座標」という概念を時空から抹消され、どこでもない場所へと消え去った。
「なっ……!?」
「馬鹿な、我らの攻撃が……!」
カイルとガルムが、驚愕に目を見開く。
俺自身、何が起きたのか理解が追いつかない。
なんだ、今の魔法は。俺は、こんな術は知らない。
ちらりと背後のエルザを見ると、彼女もまた、驚きに目を見開いていた。
俺たちが、無意識に、二人で一つの魔法を創り出したというのか。
だが、感心している暇はない。
追手二人は、さらに魔力を高め、村ごと俺たちを吹き飛ばすような、広範囲攻撃の準備を始めた。
「まずい……!」
村人たちが、まだ逃げ遅れている。
守らなければ。この、騒がしくて、馬鹿で、だけど、俺がようやく見つけた居場所を。
その想いが、またしても奇跡を起こした。
俺とエルザの魔力が、再び共鳴する。
さっきの防御結界が、ふわりと拡大し、ノドカ村全体を、巨大なドームのようにすっぽりと覆い尽くしたのだ。
空から降り注ぐ光と闇の豪雨が、ドームに当たって、静かに霧散していく。
村は、完全に守られた。
「……やるぞ、エルザ」
「……ええ」
もう、迷いはない。
俺は右手を、エルザは左手を、同時に追手へと突き出す。
意識せずとも、わかる。次に何をすべきか。
俺の指先に、全てを消し去る破壊の魔力が収束する。
エルザの指先に、全てを捻じ曲げる時空の魔力が凝縮する。
そして、二つの力が一つに合わさり、純粋な「無」の渦となって、カイルとガルムに襲いかかった。
「「ぐわあああああああ!」」
断末魔の悲鳴を残し、二人の姿は光と闇の彼方へと、強制的に転移させられていった。
……静寂が、戻る。
村を覆っていたドームが、光の粒子となって消えていく。
俺とエルザは、ぜぇはぁと肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。
「……やった、のか?」
「ええ……なんとか」
村人たちが、おそるおそる家から顔を出す。
よし、死傷者ゼロ。村の被害も、ほぼない。完璧な勝利だ。
俺が、そう安堵しかけた、その時。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!
村のはるか遠く、地平線の先に見えていたはずの、ノドカ連峰の、一番高い山の山頂が。
綺麗さっぱり、消失しているのが見えた。
どうやら、さっきの攻撃の余波が、あらぬ方向へ飛んで行ったらしい。
「……」
「……」
俺とエルザは、顔を見合わせた。
そして、村人たちの、恐怖と畏敬と、ほんの少しのドン引きが混ざった視線を、一身に浴びる。
ああ、そうか。
俺の求めていたスローライフは、やっぱり、どこにもないんだ。
この女がいる限り。
そして、この女と俺の力が合わさってしまう限り。
それは終わりを告げる鐘の音のように、俺の心に、新たな絶望が鳴り響いていた。