第6章
宿敵との強制共同生活、初日の朝。
俺は、一睡もできずに夜を明かした。
当たり前だ。一部屋しかない小さな家で、数メートル先には、あのエルザ・ナイトメアがいるのだ。
いくら「夫婦のふり」という協定を結んだとはいえ、こいつが寝ている間に、俺の首を掻き切らない保証はどこにもない。
そんな緊張感の中、眠れるわけがなかった。
「……」
「……」
夜明けの光が部屋に差し込む中、俺とエルザは部屋の両端で、互いに背を向けたまま、気まずい沈黙を続けていた。
腹の虫が、ぐぅ、と情けない音を立てる。
まずい。腹が減った。
スローライフの基本は、まず腹ごしらえからだ。
何か食べ物を見つけなければ。
俺がそう考えて腰を上げた、その時。
「私が、朝食を準備します」
それまで石像のように動かなかったエルザが、すくりと立ち上がって宣言した。
「……お前、料理なんてできるのか?」
俺は思わず、疑いの声を上げる。
この女は、魔族の、それも最強の魔女だ。
人間の食文化など、知っているはずがない。
「問題ありません」
エルザは、自信満々に胸を張る。
その仕草は妙に堂に入っていた。
「昨夜、村長から『調和の基本は食卓から』という助言を頂きました。共同生活の円滑な遂行のため、私が務めを果たしましょう」
あのクソ爺、余計なことを……。
だが、エルザは続ける。
「調理の概念については、すでに分析済みです。食材に熱や圧力を加え、化学変化を促すことで、栄養吸収率と食味を向上させる行為。極めて論理的なプロセスです」
ダメだこいつ。会話が噛み合わない。
俺の不安をよそに、エルザは「まずは食材の確保です」と言いながら、すっと右手を宙に掲げた。
「おい、まさか……」
「『空間接続』」
やめろ、馬鹿!
俺の制止も聞かず、エルザはこともなげに時空魔法を発動させる。
彼女の目の前に、直径30センチほどの、空間の歪みが出現した。
歪みの向こうには、見覚えのある村の鶏小屋が見える。
「卵を一つ、拝借します」
エルザが、歪みの中にゆっくりと手を入れる。
ここまでは良かった。ここまでは。
だが、次の瞬間。
彼女の眉が、わずかにピクリと動いた。
「……魔力の制御が、安定しません。この村の魔力場は、どうも私と相性が悪いようです」
彼女の呟きと同時、目の前の空間の歪みが、ぐわんと不安定に拡大した。
そして、信じられないことが起こる。
鶏小屋から、卵が一つ、また一つと、ひとりでに浮かび上がり、空間の歪みを通って、俺たちの家の中へと侵入し始めたのだ。
「おい、エルザ! どうなってやがる!」
「制御不能です。私の魔法が、この村にある全ての『卵』という概念に干渉しています」
エルザの悲鳴に似た声と共に、事態は加速度的に悪化していく。
家の中を、数十個の卵がフワフワと浮遊し始める。
窓の外を見れば、村中の家々の鶏小屋から、無数の卵が竜巻のように渦を巻きながら、俺たちの家を目指して飛んでくるのが見えた。
「村中の卵が! 卵が集まってくるぞー!」
「うちの朝ごはんがー!」
村人たちの阿鼻叫喚が聞こえる。
「止めろ、エルザ! お前の魔法だろ!」
「無理です。 あなたの魔力がすぐそばにあるせいで、私の魔法が異常増幅されているんです」
なんだと!? 俺のせいだと?
だが、言われてみれば、確かにそうだ。
この女の魔力と、俺の魔力が共鳴し、とんでもない相乗効果を生み出している。
十七回の戦いで、嫌というほど味わった、あの忌々しい現象だ。
こうなったら、仕方ない。
俺が、この暴走を止める!
「『概念破壊』!」
俺は、飛来する無数の卵に向けて、破壊魔法を放った。
被害を最小限に抑えるため、威力は極限まで絞る。
だが、それが過ちだった。
俺の破壊魔法が、エルザの暴走した時空魔法に触れた、その瞬間。
二つの魔法が、完全に融合した。
時空を歪ませる力と、森羅万象を破壊する力。
それが混ざり合った結果、生まれたのは、俺の矮小な想像を遥かに超えた、未知なる大魔法だった。
俺が破壊しようとしたのは「卵」。
エルザが繋げようとしたのは「空間」。
次の瞬間、俺たちの家を中心に、眩い光が迸った。
そして、光が収まった時。
俺たちは、言葉を失った。
家の中を浮遊していた卵は、綺麗に消えている。
だが、窓の外の光景が、一変していた。
さっきまで緑豊かだった畑が、村の広場が、全て、どこまでも続く、広大な「茶碗蒸し」のような、ぷるんぷるんの黄色い大地に変わっていたのだ。
所々から、湯気が立ち上っている。
俺の破壊魔法は、卵を消し去るのではなく、「卵を調理する」という概念に変換され、エルザの時空魔法は、その効果範囲を村全体に拡大してしまったらしい。
村が、巨大な茶碗蒸しになった。
「……」
「……」
俺とエルザは、目の前の非現実的な光景を、ただ呆然と見つめる。
遠くで、村人の一人が、恐る恐る黄色い大地をスプーンですくって、口に運ぶのが見えた。
「……う、うめえ!」
違う、そうじゃない。
俺の理想の、静かで、穏やかなスローライフが。
巨大な茶碗蒸しとなって、湯気を立てている。
俺は、天を仰ぎ、心の底から、腹の底から、ありったけの想いを込めて、絶叫した。
「俺はただスローライフがしたいんだけなんだああああああ!」
俺の魂の叫びは、ぷるぷるの茶碗蒸し大地に虚しくこだまし、そして消えていった。